校長室から闇の魔力が広がった。
その事実を確認した瞬間、ハリーは地下牢へ向かって走り出した。
足跡の地図では、スネイプは研究室にいる。
ダンブルドアの名前も、まだ校長室から動いていない。
ローブの裾を翻し、階段を二段飛ばしで下りる。
途中で動く階段が横へずれた。
「今はやめてくれ」
ハリーは手すりを蹴り、反対側の踊り場へ飛び移った。
十一歳の頃より身体は成長している。
それでも、かつての身体と比べれば足は短い。
普通に走っていては間に合わない。
人目のない廊下へ入ったところで、妖精の移動魔法を使う。
目的地は地下牢。
空間が歪む。
視界が暗転する。
次の瞬間、ハリーはスネイプの研究室前へ現れた。
扉へ手を掛けるより早く、内側から開く。
スネイプが杖を構えて立っていた。
「今の魔力を感じましたか?」
「感じたから出てきた」
「日記です」
「断定するな」
「他に心当たりが?」
「ない」
「では日記です」
スネイプは反論しなかった。
二人で校長室へ向かう。
階段を上る間に、マクゴナガルも合流した。
「何が起きたのです?」
「校長室から闇の魔力が出ました」
「アルバスは?」
「地図上では中にいます」
「返事は?」
「まだ確認していません」
校長室へ続く廊下へ入る。
石像の前には、ダンブルドアの守護霊である不死鳥が浮かんでいた。
銀色の姿。
嘴に、短い伝言を宿している。
『入って構わん。危険はない』
ハリーは眉をひそめた。
「本人が危険はないと言う時ほど、信用できないんですが」
「同感だ」
スネイプが言う。
「校長に対して、二人とも何という態度です」
マクゴナガルが注意した。
だが、彼女も杖を抜いている。
石像へ合言葉を告げ、螺旋階段を上る。
校長室の扉を開く。
最初に目へ入ったのは、床へ広がった黒い染みだった。
液体ではない。
焦げ跡でもない。
影だけが床へ焼きついたような痕跡。
中央には、ダンブルドアが立っている。
杖を構えたまま、机の上にある封印箱を見下ろしていた。
箱は閉じている。
銀色の封印も維持されている。
室内の銀器が一斉に煙を吐き、フォークスが止まり木の上で羽根を逆立てていた。
「危険はないと?」
ハリーが尋ねる。
「今は、という意味じゃ」
「今は、を省略しないでください」
「急いで伝言を送ったのでの」
スネイプは床の黒い痕跡へ近づいた。
杖先で調べる。
「魂の魔法だ」
「日記が封印を破った?」
「破ってはおらん」
ダンブルドアが答える。
「ワシが会話を終え、日記を箱へ戻そうとした時、頁から魔力が漏れた」
「会話をしたのですか?」
ハリーの声が低くなる。
「期限までは調査を行うという話じゃった」
「会話の前後には、スネイプ先生が立ち会う約束でしたよね」
ダンブルドアがスネイプを見る。
スネイプの顔は冷え切っている。
「私は呼ばれていない」
「ほんの短い確認のつもりじゃった」
「それを約束違反と言います」
マクゴナガルが厳しく言う。
「アルバス。何を確認したのです?」
「トムが日記を作った時期についてじゃ」
「答えた?」
ハリーが尋ねる。
「曖昧にの」
「その後、何が起きたんです?」
「日記へ戻そうとした記憶が、一瞬抜け落ちた」
室内が静まり返る。
「抜け落ちた?」
「気づいた時には、日記が机の上に開かれておった。頁から黒い影が伸び、床へ触れていた」
「精神へ入られたのか?」
スネイプが問う。
「完全には」
「完全ではない、では答えにならん」
「記憶を奪われた形跡はない。思考へ異物が残っている感覚もない」
「あなた自身の判断ですか?」
ハリーが尋ねる。
「そうじゃ」
「それが信用できないから、第三者の確認を約束したんでしょう」
ダンブルドアは返答しない。
「スネイプ先生」
「分かっている」
スネイプがダンブルドアへ杖を向ける。
開心術。
通常なら、校長へ無断で行えば大問題だ。
今回はダンブルドアも抵抗しなかった。
数秒。
スネイプの表情が僅かに変わる。
魔法を止める。
「表層の記憶に、不自然な欠落がある」
「どこです?」
「日記が開いてから、魔力が噴き出すまでだ」
「埋められた偽記憶は?」
「見当たらない」
「深層は?」
「校長の精神へ無理に入れば、こちらが弾かれる」
「もう一度やればよい」
ダンブルドアが言う。
「今度は抵抗を弱めよう」
「最初からそうしろ」
スネイプが吐き捨てる。
二度目の確認。
今度は長かった。
マクゴナガルは封印箱へ杖を向け、ハリーはダンブルドア本人を警戒する。
もし日記に操られているなら、校長の力はクィレルとは比較にならない。
正面から戦えば、今のハリーでは勝てない。
妖精魔法で距離を取り、スネイプとマクゴナガルが時間を稼ぎ、日記を破壊する。
そこまで考えたところで、スネイプが魔法を止めた。
「何も残っていない」
「本当に?」
「少なくとも、私が確認できる範囲ではな」
「では、今の魔力は?」
床の染みを見る。
スネイプが答える前に、ダンブルドアが口を開いた。
「トムが、箱の外へ自分の一部を定着させようとしたのじゃろう」
「実体化の準備?」
「小さな足場を作ろうとした可能性がある」
前世では、日記はジニーから生命力を吸い取り、徐々に実体を得た。
今回は吸収する相手がいない。
封印箱の中へ閉じ込められている。
そのため、別の方法を試した。
ダンブルドアとの会話。
僅かな精神的接触。
そこから魔力を抜き出し、影として外へ定着させようとした。
「だから破壊しろと言ったんです」
ハリーは封印箱を見る。
「今すぐバジリスクの牙を借りてください」
「すでに魔法省へ依頼しておる」
「いつ届く?」
「バジリスクの移送が完了した後じゃ」
「なぜ今すぐ持ってこないんです?」
「毒牙は、それ自体が危険物じゃ。安全処理と登録が必要になる」
「書類ですか」
「書類じゃ」
ハリーは額を押さえた。
魔法省を利用すると決めた以上、手続きは避けられない。
「悪霊の炎なら」
「校内では使わせん」
「では、学校の外へ日記を持ち出す」
「移送中に封印が破られる危険がある」
「ここに置いても、もう漏れています」
黒い染みを指す。
ダンブルドアはしばらく黙った。
「封印を追加する」
スネイプが言った。
「私の研究室へ移す。校長室よりも、闇の魔法を封じる設備が整っている」
「ワシが管理を」
「あなたは管理に失敗した」
スネイプは容赦がない。
ダンブルドアの眉が僅かに下がる。
「耳が痛いの」
「耳で済んでいるうちに渡してください」
ハリーも言う。
マクゴナガルが頷いた。
「私も、今回はセブルスに預けるべきだと思います」
三対一。
ダンブルドアは、ようやく受け入れた。
「分かった」
封印箱がスネイプへ渡される。
スネイプは箱を布で包み、さらに三重の封印を掛けた。
「以後、私と校長、マクゴナガルの三名が揃わない限り開けない」
「僕も入れてください」
「必要ない」
「トムの性格を最も知っています」
「だから近づけん」
「十二歳の生徒を守ろうという判断なら、今さら遅いですよ」
「黙れ」
「日記を破壊する時には呼んでください」
「検討する」
「約束を」
「しない」
スネイプは箱を持って出ていった。
日記の問題は、ひとまず封じ直した。
完全な解決ではない。
それでも、ダンブルドア一人に任せる状態よりはましだった。
「先生」
ハリーはダンブルドアを見る。
「なぜ一人で開けたんです?」
「トムが、他の者の前では話せないことがあると言ったからじゃ」
「それを信じた?」
「信じたわけではない」
「では、なぜ?」
「何を話そうとするのか、確かめたかった」
「一人で?」
「ワシなら対処できると思った」
「それです」
「何がじゃ?」
「何でも自分でできるから、自分一人でやろうとする」
前世と同じ。
分霊箱探しも。
死の呪いも。
スネイプとの計画も。
ダンブルドアは必要な情報を自分の中へ抱え込み、最後に他人へ役割だけを渡す。
「僕が前に言ったこと、聞いていましたか?」
「聞いておったよ」
「理解は?」
「しておるつもりじゃ」
「つもり、では困ります」
ダンブルドアは困ったように笑った。
「厳しいの、ハリー」
「十二歳の生徒に監視される校長よりはましです」
「それは耳が痛い」
「今度から、痛いだけで終わらせないでください」
校長室を出る。
日記の件へ時間を取られたが、予定は止められない。
今日はバジリスクの移送日だった。
前日に眠らせ、魔法省の大型収容箱へ入れた。
だが、あれほど巨大な魔法生物をホグワーツの地下から運び出すには、さらに準備が必要だった。
秘密の部屋へ戻ると、すでに多くの役人が集まっていた。
危険生物処理委員会。
魔法運輸部。
聖マンゴの治療師。
魔法事故惨事部。
魔法法執行部。
書類だけでなく、人間も増えている。
「多いな」
ハリーが呟く。
「バジリスクですよ」
ハーマイオニーが言う。
彼女とロンは、秘密の部屋の入口付近で待機する許可を得ていた。
内部へ入ることは認められていない。
「一部署で動かせる方がおかしいわ」
「元管理職としては、指揮系統が不安になる」
「あなたは参加者じゃなくて、生徒よ」
「蛇語の通訳です」
「それだけでしょう」
「状況による」
「状況によらないの」
マクゴナガルと同じことを言い始めた。
「ハリー・ポッター」
アメリア・ボーンズが近づいてくる。
「昨日の交渉内容を確認したい」
「バジリスクは、人間を餌と認識しています。トム・リドルへの忠誠心も残っている」
「保護区への移送後、職員へ危害を加える可能性は?」
「あります」
「命令で止められるか?」
「僕の命令には、完全には従いません」
「君にもスリザリンの血があるのだろう?」
「僕の中にあるのは、ヴォルデモートの魂の欠片です。血統としての後継者ではありません」
アメリアの目が鋭くなる。
未来の記憶については伝えていないが、ハリーの中に魂の欠片があることは、バジリスク対処に必要な情報として共有された。
「それを、平然と言うのだな」
「慌てても消えませんから」
「除去方法は?」
「検討中です」
「魔法省へ届け出るべき案件では?」
「届け出て、何をするんです?」
「調査だ」
「僕を隔離しますか?」
アメリアは答えなかった。
魔法省の規則に従えば、危険な闇の魔法を宿した未成年者として保護対象になる可能性がある。
保護という名の拘束。
研究。
監視。
今の魔法省へ、自分の身体を預ける気はない。
「現時点では、学校側で対応します」
ダンブルドアが間へ入る。
「ハリーの状態に、他者へ危害を及ぼす兆候はない」
「定期的な報告を求める」
「必要な範囲で」
ハリーが答えた。
アメリアがハリーを見る。
「その言い方は、アルバスに似ているな」
「不本意です」
「ワシも少し傷ついたの」
ダンブルドアが言う。
バジリスクの収容箱は、秘密の部屋から配管を通して運ぶことができない。
狭すぎる。
そのため、魔法省は地下から校庭まで一時的な転送路を作ることにした。
複数の役人が部屋の四隅へ立つ。
床へ巨大な魔法陣を描く。
転送先は、禁じられた森の外れに作られた仮設施設。
そこから大型輸送用の煙突飛行網へ接続し、北部の保護区へ運ぶ。
「煙突に入る大きさではないでしょう」
ロンが水晶越しの映像を見ながら言う。
「物理的な煙突へ入れるわけではありません」
ハーマイオニーが答える。
「拡張された転送空間を通すのよ」
「煙突飛行粉って、何でもありだな」
「妖精の魔法ほどではない」
ハリーが言う。
「お前が言うなよ」
秘密の部屋内部。
眠ったバジリスクの巨体には、何重もの拘束が施されている。
目隠し。
顎を固定する金属具。
毒牙を包む封印。
身体を縮小する魔法は使わない。
魔法生物の一部は、縮小時に内臓や魔力器官へ異常を起こすことがあるためだ。
「転送を開始する!」
責任者の声。
魔法陣が光る。
バジリスクの鱗が、一枚ずつ光へ変わる。
巨大な身体が、尾から徐々に消えていく。
その途中。
バジリスクの頭が僅かに動いた。
目隠しの下で、瞼が開く。
『どこへ連れていく』
蛇語。
眠り薬が切れかけている。
『人のいない場所だ』
ハリーが答える。
『主人は』
『来ない』
『日記を返せ』
『返さない』
バジリスクの身体が拘束の中で捩れる。
役人たちが緊張する。
「何と言っている?」
アメリアが尋ねる。
「日記を返せと」
「拒否した?」
「はい」
「刺激しない方がよいのでは?」
「嘘をついても後で暴れます」
『日記は破壊する』
ハリーは蛇へ告げる。
バジリスクが低く唸る。
『ならば、お前は敵』
『最初から味方ではない』
『同じ匂いがする』
『同じではない』
『魂は嘘をつかない』
言葉が、ハリーの胸へ引っ掛かる。
魂の欠片。
ヴォルデモートとの繋がり。
いつか除去しなければならない。
『眠れ』
ハリーは命じた。
『命令するな、偽物』
バジリスクは従わない。
身体がさらに暴れる。
魔法陣の光が乱れる。
「転送が不安定になる!」
「眠り薬を追加しろ!」
「鱗で弾かれます!」
「口の内側を狙え!」
ハリーは蛇語で続ける。
『ここで暴れれば、お前は殺される』
『恐れぬ』
『生きたいだろ』
沈黙。
バジリスクは人間を餌と考える。
だが、生きる意思はある。
『移送先では餌が出る。誰もお前を命令に使わない。眠っていれば生かされる』
『主人は戻る』
『戻っても、お前のところには来させない』
『お前にはできぬ』
『一度追い払った』
バジリスクの動きが僅かに止まる。
『主人を?』
『クィレルの身体から引き剥がした』
『嘘だ』
『僕から、あいつの匂いがするんだろう。なら、戦ったことも分かるはずだ』
長い舌が空気を探る。
魂の匂い。
魔力の痕跡。
バジリスクが何を感じ取ったかは分からない。
だが、暴れる力が弱まった。
『次に目覚めた時、お前はもっと広い場所にいる』
『人はいるか』
『世話をする者だけだ。食べるな』
『腹が減れば食う』
『食べれば殺される』
『ならば、別の餌を寄越せ』
『交渉成立だ』
バジリスクの身体から力が抜ける。
再び眠り薬が効き始める。
転送魔法が安定する。
巨大な頭が光へ変わり、最後に尾の先が消えた。
秘密の部屋から、バジリスクがいなくなった。
「移送成功!」
役人たちから声が上がる。
水晶には、禁じられた森外れの仮設施設が映っている。
収容箱ごと、バジリスクが出現した。
すぐに次の転送準備へ入る。
「後は任せてよい」
アメリアが言った。
「保護区での管理は魔法省の仕事だ」
「定期報告をください」
「君に?」
「蛇語での追加交渉が必要になるかもしれません」
「学校を通して報告する」
「それで構いません」
頼もしい。
本当に、後を任せられる。
前世のハリーは、自分で秘密の部屋へ入り、自分でバジリスクと戦い、自分で日記を破壊した。
今回は、専門家と役人が数十人。
安全設備。
治療師。
移送計画。
これが本来の形だ。
「何か嬉しそうね」
ハーマイオニーが言う。
「人に仕事を任せられたから」
「自分で怪物と戦わなくて済んだからじゃなくて?」
「それもある」
「最強なのに?」
ロンが尋ねる。
「僕は最強じゃない」
「ヴォルデモートに勝っただろ」
「弱っていたからだ」
「トロールも倒した」
「呪文を連射しただけ」
「マルフォイ邸にも入った」
「ドビーについていった」
「十分おかしいと思う」
ハリーは否定しなかった。
その日の夕方。
魔法省から、バジリスクが無事に保護区へ到着したと報告が届いた。
隔離区画の地下洞窟へ収容。
視線を遮断。
毒牙を封印。
餌として大型の家畜を定期的に与える。
世話をする職員は、鏡面越しに作業する。
生存。
管理完了。
「これで一つ終わったな」
ロンが言う。
「日記が残ってる」
「それは先生たちの仕事だろ」
「そうだけど」
教師へ任せる。
必要なことだ。
だが、つい先ほどダンブルドアは約束を破った。
完全には信用できない。
「スネイプ先生が持ってるなら、大丈夫じゃない?」
ハーマイオニーが言う。
「スネイプ先生は、日記に同情しない」
「なら安心ね」
「ダンブルドア先生が取り返そうとしなければ」
「そこまでしないでしょう」
「そう思いたい」
だが。
ハリーには、日記から漏れた黒い影が気になっていた。
床へ定着しようとした魂の一部。
完全に消えたのか。
スネイプは痕跡を焼き払った。
ダンブルドアの精神にも、異常は見つからなかった。
それでも、一瞬の記憶が抜けている。
その空白で、トムが何をしたのか。
期限まで、あと七日。
ハリーは窓の外を見る。
禁じられた森の上を、魔法省の輸送隊が飛んでいく。
次の仕事は、あの森の中にある。
バジリスクより数は多い。
知性もある。
そして、腹を空かせている。
アクロマンチュラの群れ。
「今度も専門家へ任せよう」
ハリーは呟いた。
前世では、自分とロンが食べられかけた。
今回は、森へ入るつもりはない。
少なくとも。
計画通りに進めば。