トム・リドルの盾は強かった。
ハリーの失神呪文を正面から受け、僅かに揺れただけで形を保っている。
クィレルの身体を借りていたヴォルデモートとは違う。
肉体の限界に縛られていない。
日記が集めた魔力と、ダンブルドアから吸収した力で作られた仮初めの身体。
十六歳のトム・リドル。
魔法を学んでから、まだ数年。
それでも、才能だけなら当時の教師たちすら驚かせた天才だった。
「ステューピファイ!」
ハリーが連射する。
一発。
二発。
三発。
トムは盾を傾け、呪文を壁へ流す。
正面から威力を受けない。
判断が速い。
「君は、本当に十二歳なのか?」
「よく聞かれる」
「その呪文の速度。戦闘経験。僕の知る上級生にもいない」
「将来、練習すればできるようになる」
「僕の将来を知っているのだろう?」
「ああ」
「教えてくれないか」
「戦闘中に?」
「君は僕を殺すつもりだ。最後に知る権利くらいある」
「ない」
ハリーは床へ杖を向ける。
「デプリモ!」
石床が陥没する。
トムが後ろへ跳ぶ。
着地点。
スネイプの拘束呪文が待っている。
黒い縄。
トムは空中で身体を捻り、切断呪文を放つ。
縄が裂ける。
マクゴナガルが破片を鳥へ変える。
数十羽。
トムの視界を塞ぐ。
「インセンディオ!」
炎。
鳥が焼ける前に、石へ戻る。
炎を遮る壁となる。
ダンブルドアが杖を振る。
金色の鎖が、左右からトムへ迫る。
「あなたまで僕を攻撃するのですか?」
「君を自由にするわけにはいかん」
「僕を救いたかったはずだ!」
「救うことと、罪を見逃すことは違う」
「綺麗事だ!」
トムの魔力が爆発する。
金色の鎖が弾ける。
校長室の窓枠が歪む。
机の残骸が浮かび上がり、四方へ飛ぶ。
「プロテゴ!」
マクゴナガルの盾。
スネイプも別方向を守る。
ハリーは破片を妖精魔法で消す。
別の場所へ移す。
「その魔法」
トムがハリーを見る。
「杖を使っていない」
「見れば分かるだろ」
「ホグワーツでは、姿現しはできないはずだ」
「これは姿現しじゃない」
「何の魔法だ?」
「厨房で習える」
トムの眉が寄る。
「ふざけているのか?」
「本当だ」
屋敷しもべ妖精。
トムにとって、命令する対象。
人間より下だと考える存在。
その魔法が、自分の知らない技術として使われている。
「妖精の魔法か」
トムはすぐに理解した。
やはり頭はいい。
「屋敷しもべ妖精から、魔法使いが学べるはずがない」
「学べないと思っているから、学べないんだ」
「人間の魔法より劣った力だ」
「今のところ、僕の方が便利に使っている」
トムの顔に苛立ちが浮かぶ。
幼い。
完全復活後のヴォルデモートなら、もう少し感情を隠す。
若い。
天才ではある。
だが、まだ経験が足りない。
「場所を変えるぞ!」
ハリーは叫んだ。
「必要の部屋へ誘導します!」
「どうやって?」
マクゴナガルが尋ねる。
「僕が先に移動して、トムを連れていく」
「一人では駄目です!」
「校長室で悪霊の炎を使うよりましです!」
「逃げられたら?」
「逃げません」
トムはハリーを知りたがっている。
未来。
敗北。
自分が何者になるか。
好奇心が強すぎる。
そして、十二歳のハリーに負けることを認められない。
「トム!」
ハリーは日記へ切断呪文を放つ。
トムが即座に身体で庇う。
盾。
反応した。
「日記が本体か」
「貴様」
口調が変わる。
穏やかな優等生の仮面が剥がれた。
「それを壊せば、君も終わる」
「壊せるものなら」
「ついてこい」
ハリーは妖精魔法を使う。
七階。
必要の部屋。
自分はそこにいる。
空間が歪む。
校長室から消える直前、トムが呪文を撃った。
黒い光。
ハリーのローブを掠める。
次の瞬間。
必要の部屋前。
廊下へ現れる。
肩が熱い。
切れている。
毒はない。
治療は後。
ハリーは壁の前を三度歩く。
悪霊の炎を使っても、城へ燃え広がらない部屋。
分霊箱を破壊できる場所。
複数の魔法使いが戦える広さ。
出口を制御できる構造。
扉が現れる。
開く。
内部は巨大な石室だった。
壁。
床。
天井。
すべて黒い石。
中央には円形の広場。
周囲に深い溝。
溝の中には水ではなく、銀色の液体が流れている。
悪霊の炎を封じるための魔法物質。
壁には消火術式。
複数の避難扉。
必要の部屋は、要求へ応えた。
「十分だ」
ハリーは中へ入る。
振り返る。
廊下に、トムが現れた。
移動魔法ではない。
黒い煙となり、ハリーの魔力の道へ強引に入り込んだ。
「追従までできるのか」
「一度見れば、原理くらい分かる」
「真似と理解は違う」
「試してみようか?」
トムが部屋へ入る。
扉が閉まる。
壁へ溶けるように消えた。
閉鎖。
必要の部屋は、内部の決着がつくまで出口を出さない。
ただし、ハリーが望んだ避難手段は残っている。
「ここで君を殺す」
トムが言う。
「僕の未来を奪い、日記を盗み、先生を僕から引き離した」
「先生は君のものじゃない」
「あの人は僕を理解できる唯一の人間だった」
「理解してほしいんじゃない。認めさせたいだけだろ」
「何が違う?」
「相手の意思を尊重するかどうか」
「弱者の意思に、何の価値がある?」
「その考えで失敗する」
「また未来の話か」
「最期まで分からなかった」
トムの表情が冷える。
「僕は、どう死ぬ?」
「自分の呪文が跳ね返る」
「馬鹿な」
「一度目も、最後も」
「僕ほどの魔法使いが、自分の呪文で?」
「杖の忠誠を理解できなかった」
「杖?」
「教えない」
トムが杖を振る。
緑の光。
ハリーは横へ移動。
壁際へ現れる。
続けて赤い呪文。
失神。
盾。
切断。
拘束。
トムの呪文は速い。
無駄が少ない。
教科書の範囲を大きく超えている。
だが。
実戦の癖がない。
一発ごとに、完璧を求める。
相手が避ける位置を読むより、自分の呪文の精度を優先する。
ハリーは何十年も戦った。
正規の闇払い。
死喰い人。
呪物。
魔法生物。
人質事件。
狭い路地。
広い平原。
杖を失った状態。
負傷。
多数対一。
経験の量が違う。
「若いな」
ハリーが言う。
「黙れ!」
トムが黒い蛇を作る。
巨大な蛇。
ハリーへ飛びかかる。
『止まれ』
蛇語。
蛇が空中で動きを止める。
『作り主へ戻れ』
蛇が向きを変える。
トムへ牙を剥く。
「消えろ!」
トムが自分の蛇を破壊する。
「蛇語が使えるのか」
「君の将来の魂が入ってるから」
ハリーは額を指す。
「僕の魂?」
「ああ」
「君の中に?」
「偶然入った」
トムの目が大きくなる。
純粋な驚き。
次に、歓喜。
「僕は魂を七つに?」
「正確には、君自身を含めて八つだ」
「成功したのか」
「失敗した」
「不死になった」
「まともな人間ではなくなった」
「死ぬよりはいい」
「そう思うところが、まだ青い」
「死を恐れない者などいない!」
「恐れることと、魂を裂くことは違う」
「君は老いたふりをしているだけだ」
トムはハリーの身体を見る。
「十二歳の子供が、死を理解したような口を利く」
「八十年以上生きた」
初めて明確に伝えた。
トムが止まる。
「何?」
「僕は未来から戻った」
「時間旅行?」
「記憶だけ」
「だから」
トムが笑い始める。
小さく。
やがて、大きく。
「だから僕の未来を知っている!」
「ああ」
「素晴らしい」
「何が?」
「君の記憶を奪えば、僕は自分の失敗をすべて知ることができる」
予想通り。
警戒ではなく、利用価値を考える。
「未来を変えられる。分霊箱の位置も、安全な作り方も、敵も、裏切り者も」
「記憶を渡すと思うか?」
「奪う」
トムの身体が黒い霧へ変わる。
物理的な距離を無視し、ハリーへ迫る。
日記がジニーへしたこと。
精神へ入り込む。
生命力と記憶を吸う。
「開心術じゃないな」
ハリーは閉心術の壁を作る。
黒い霧が頭へ触れる。
強い圧力。
記憶が引かれる。
ホグワーツ。
戦争。
死者。
家族。
闇払い局。
ヴォルデモートの最期。
「見える」
トムの声が頭の中へ響く。
「僕がいる」
ハリーは表層へ偽の記憶を並べる。
完全復活後のヴォルデモート。
禿げた頭。
鼻のない顔。
蛇のような姿。
「これは」
トムの声が止まる。
「僕?」
「将来の君だ」
「嘘だ」
「現実だ」
「僕の顔が」
「なくなる」
「なぜ鼻がない!」
「知らない」
「こんな姿になるはずがない!」
精神への圧力が乱れた。
ハリーは逆に押し返す。
「見た目を気にするんだな」
「黙れ!」
「安心しろ。見慣れれば、それなりにヴォルデモートらしい」
「僕はトム・リドルだ!」
「その名前を捨てるのも君だ」
トムが精神から離れる。
黒い霧が身体へ戻る。
顔には、明確な動揺。
「ヴォルデモート」
ハリーが言う。
「君が自分で作った名前だ」
「それを、なぜ」
「トム・マーボロ・リドルの文字を並べ替えただけだろ」
トムは杖を握り締める。
「未来の僕は、君へすべてを話したのか?」
「自分から説明した。墓石にまで父親の名前があるのに」
「父親」
「マグルの父親」
最も触れられたくない部分。
「君は純血じゃない。母親が魔女で、父親がマグル」
「黙れ」
「父親を殺す」
「黙れ!」
トムの魔力が爆発する。
黒い火。
普通の炎ではない。
まだ悪霊の炎ではないが、強い呪いを含む。
ハリーは空間を飛ぶ。
背後。
「ステューピファイ!」
直撃。
トムが前へ倒れる。
だが、日記が光り、身体を支える。
生命力が本体から補われる。
「やはり日記を壊さないと終わらない」
ハリーは杖を構え直す。
扉側。
空間が揺れる。
ダンブルドア、スネイプ、マクゴナガルが現れた。
必要の部屋が、ハリーの望んだ援軍を受け入れた。
「遅いですよ」
「君が突然消えたのでの」
ダンブルドアが答える。
「一人で戦わない約束は?」
「連れてくる時間がありませんでした」
「今回は仕方あるまい」
マクゴナガルがハリーの負傷を見る。
「肩を怪我しています」
「掠っただけです」
「後で医務室です」
「生きていれば」
「縁起でもないことを言わないでください!」
トムが四人を見る。
「ずいぶん大勢だ」
「一対一にこだわる必要はない」
ハリーが言う。
「組織で仕事をする」
「僕一人を恐れて?」
「効率の問題だ」
スネイプが先に攻撃する。
「セクタムセンプラ!」
銀色の刃。
トムが盾で受ける。
盾に深い亀裂。
開発途中の呪文か。
未来のスネイプが使ったものより粗いが、威力は十分。
「知らない呪文だ」
トムが興味を示す。
「教える気はない」
マクゴナガルが床を変形させる。
石の腕。
トムの足を掴む。
ダンブルドアの金色の縄。
両腕を拘束。
ハリーが日記へ向かう。
「アクシオ・ダイアリー!」
日記がトムの手から離れる。
途中で止まる。
トムと日記を繋ぐ黒い糸。
ハリーは切断呪文を撃つ。
一本切れる。
トムの右腕が透ける。
「やめろ!」
トムが拘束を破る。
日記を引き戻そうとする。
ダンブルドアがさらに縄を重ねる。
「ハリー!」
「分かっています!」
日記を妖精魔法で移動。
自分の手元ではない。
部屋の中央。
悪霊の炎を使うために作られた円形のくぼみ。
日記が落ちる。
トムが黒い煙となって追う。
スネイプが炎の壁で止める。
「今だ!」
悪霊の炎。
ハリーは一度、深く息を吸った。
今の身体で使うのは初めて。
前世では習得している。
制御方法も知っている。
だが、魔力量が違う。
身体への負担も未知。
「私が使う」
スネイプが言う。
「先生は悪霊の炎を完全に制御できますか?」
「お前よりはましだ」
「僕は前世で何度も使いました」
「今のお前は十二歳だ」
「二人で使います」
ハリーが提案する。
「僕が炎の形を制御する。先生が魔力を供給してください」
「可能なのか?」
「妖精魔法で繋ぎます」
「危険すぎる」
「日記を逃がす方が危険です」
ダンブルドアがトムを押さえながら叫ぶ。
「やりなさい!」
スネイプがハリーの横へ立つ。
二人の杖を交差させる。
「私の魔力を勝手に深くまで引くな」
「必要な分だけです」
「精神へ触れるな」
「触れたくありません」
「貴様」
「始めます!」
魔力の道を繋ぐ。
屋敷しもべ妖精が、建物や主人との繋がりを利用する方法。
今回は、スネイプの杖から流れる魔力を、ハリーの術式へ通す。
黒い炎。
最初は小さい。
蛇。
獅子。
鳥。
炎が意思を持つ形へ変わろうとする。
悪霊の炎は、燃えることを望む。
周囲すべてを食らう。
術者すら。
「形を固定しろ!」
スネイプが叫ぶ。
「分かっています!」
炎を一匹の蛇へまとめる。
大きくしすぎない。
日記だけを狙う。
銀色の溝が、余分な熱を吸収する。
必要の部屋の壁が、炎を外へ出さない。
トムが目を見開く。
「やめろ!」
「嫌だね」
ハリーは炎を放つ。
黒い蛇が日記へ飛びかかる。
トムがダンブルドアの拘束を破る。
自分の身体を盾にする。
炎が胸へ食いつく。
「アアアアアッ!」
悲鳴。
身体が燃える。
だが、日記へ到達しない。
トムは自分の存在を使い、炎を止めている。
「僕は死なない!」
「日記がある限りは」
「僕には未来がある!」
「ない」
ハリーは炎を強める。
「ここで終わりだ」
「僕は世界を手に入れる!」
「学生の段階で?」
「僕は誰より優れている!」
「将来性はある」
ハリーは認める。
魔法の才能。
頭脳。
人を惹きつける外見。
冷酷さ。
野心。
悪い方向への将来性は、恐ろしいほど高い。
「だが、まだ数年しか魔法を使っていない」
「黙れ!」
「戦い方も若い。経験も足りない。妖精の魔法は初見」
炎の蛇が、トムの身体を巻く。
「その程度で、世界を取れると思うな」
トムの顔が崩れる。
皮膚が黒い文字へ変わる。
日記の頁に書かれていたインク。
人間の形を保てなくなる。
「ダンブルドア!」
トムが叫ぶ。
助けを求める声。
先生へ向けた、少年の声。
「僕を見殺しにするのですか!」
ダンブルドアの顔に苦痛が浮かぶ。
だが、杖を下ろさない。
「君は、すでに一人の少女を殺した」
「彼女は、価値のない人間だった!」
「その言葉が、答えじゃ」
ダンブルドアの拘束が強まる。
「ワシが救いたかった少年は、他者の命にも価値があると学べる者じゃった」
「僕は特別だ!」
「誰もが、自分にとっては特別じゃよ」
「僕と凡人を一緒にするな!」
「だから、君は救いを拒んだ」
トムの目が憎悪に染まる。
「ならば、あなたも死ね!」
最後の力。
黒い呪文がダンブルドアへ飛ぶ。
マクゴナガルが盾を張る。
スネイプの魔力供給が一瞬乱れる。
悪霊の炎が膨らむ。
「まずい!」
炎の蛇が分裂する。
獅子。
鳥。
蜘蛛。
複数の形。
制御を失いかけている。
「ハリー!」
「全員、避難扉へ!」
必要の部屋の壁に、複数の扉が現れる。
「お前は?」
スネイプが問う。
「炎を消してから行きます」
「一人で残るな!」
「先生の魔力を切れば、僕しか制御できません!」
「なら私も残る」
「駄目です」
悪霊の炎がスネイプの魔力を辿ろうとしている。
繋がりを残せば、彼まで燃える。
ハリーは魔力の道を切断した。
スネイプが後方へ弾かれる。
「ポッター!」
ダンブルドアがスネイプを支える。
「行ってください!」
マクゴナガルがハリーへ向かおうとする。
ダンブルドアが止めた。
「ハリーを信じるのじゃ!」
「十二歳の生徒を置いていけません!」
「今は彼に任せるしかない!」
悪霊の炎が部屋全体へ広がる。
黒い石の床を舐める。
銀色の溝が光る。
炎を吸収。
それでも足りない。
トムは燃えながら笑っている。
「一緒に死のう、ハリー」
「断る」
「十二歳の身体で、この炎を制御できるものか」
「一人ならな」
ハリーは床へ手を触れる。
必要の部屋。
ホグワーツ。
この城には、何百もの屋敷しもべ妖精がいる。
厨房。
清掃。
維持。
城と繋がっている。
「ティビー!」
名を呼ぶ。
破裂音。
小さな妖精が現れる。
炎を見て、目を見開く。
「ハリー・ポッター様!」
「厨房の妖精たちへ頼んでくれ。城を守るために力を貸してほしい」
「承知いたしました!」
ティビーが消える。
次の瞬間。
部屋の四方へ、屋敷しもべ妖精たちが現れた。
十。
二十。
五十。
さらに増える。
ホグワーツに仕える妖精。
手を繋ぎ、輪を作る。
城との繋がり。
必要の部屋との繋がり。
妖精の魔法。
「炎を、この円の中へ閉じ込める!」
ハリーが指示する。
妖精たちが一斉に指を上げる。
空間が曲がる。
燃え広がろうとする悪霊の炎を、中央へ押し戻す。
物理的に消すのではない。
炎が存在できる場所を狭める。
黒い火が圧縮される。
部屋全体。
半分。
四分の一。
中央の円。
トムと日記だけが残る。
「屋敷しもべ妖精ごときが!」
トムが叫ぶ。
「その見下した相手に負けるんだ」
ハリーは炎の形を再び一匹の蛇へまとめる。
今度は、妖精たちの魔法が支えている。
制御できる。
「終わりだ、トム」
「私はヴォルデモートだ!」
「今はまだ、トム・リドルだ」
「その名で呼ぶな!」
「日記ごと葬ってやる」
炎の蛇が口を開く。
日記へ噛みつく。
黒い表紙が燃える。
頁。
文字。
インク。
すべてが悪霊の炎に飲まれる。
トムの身体へ亀裂が走る。
「やめろ!」
「嫌だね」
「僕は不死だ!」
「一つ目が壊れるだけだ」
「一つ目?」
「まだ残ってる」
ハリーは答える。
「全部見つけて、全部壊す」
トムの顔に、初めて本物の恐怖が浮かぶ。
「どこにあるか知っているのか?」
「知ってる」
「待て!」
「待たない」
「取引をしよう!」
「必要ない」
「他の分霊箱の場所を教える!」
「全部知ってる」
「嘘だ!」
「グリンゴッツ。ブラック家。ホグワーツ。ゴーント家」
一つずつ。
トムの顔が崩れる。
「なぜ」
「未来から来たと言っただろ」
「ならば、僕は」
「もう終わりだ」
日記が完全に燃え上がる。
甲高い絶叫。
トムの身体が黒い灰へ変わる。
「ハリー・ポッター!」
憎悪。
恐怖。
理解できないものへの怒り。
「私は必ず――」
言葉の途中。
日記の最後の頁が灰になった。
トム・リドルの姿が消える。
悪霊の炎だけが残る。
「全員、もう少しです!」
ハリーは妖精たちへ呼びかける。
炎から燃える対象をなくす。
部屋の中央に、耐火性のない物は日記しか置いていない。
床も壁も燃えない。
悪霊の炎は、それでも獲物を求める。
自分自身を食らわせる。
炎の蛇の尾を、頭へ近づける。
輪。
自らを噛む蛇。
悪霊の炎が、自分の魔力を燃やし始める。
黒い火が縮む。
巨大な蛇。
人間ほど。
腕ほど。
指先ほど。
最後に、小さな火花となる。
ティビーが指を鳴らした。
火花が空間の隙間へ閉じ込められる。
消滅。
静寂。
ハリーはその場へ膝をついた。
魔力が空に近い。
頭痛。
吐き気。
肩の傷。
「ハリー・ポッター様!」
ティビーが駆け寄る。
「大丈夫」
「大丈夫ではございません!」
「日記は?」
床。
黒い灰。
燃え残りはない。
分霊箱の気配も消えている。
額の傷。
僅かな繋がりが、一つ切れた感覚。
「壊れた」
ハリーは息を吐いた。
一つ目。
最も自律性が高く、危険だった分霊箱。
完全に破壊した。
避難扉が開く。
ダンブルドアたちが戻ってくる。
マクゴナガルがハリーへ駆け寄った。
「何をしているのです!」
「座っています」
「そういう意味ではありません!」
「日記は壊しました」
「あなたは一人で残った!」
「妖精たちがいました」
「最初は一人だったでしょう!」
「呼ぶ予定でした」
「先に呼びなさい!」
「すみません」
「医務室です。今すぐ!」
マクゴナガルがハリーを立たせようとする。
足に力が入らない。
身体が傾く。
スネイプが腕を掴んだ。
「魔力枯渇だ」
「完全には」
「黙れ」
「まだ意識があります」
「それを魔力が残っている証拠にするな」
ダンブルドアが、日記の灰の前へ立つ。
長い間、黙って見下ろす。
「先生」
ハリーが呼ぶ。
「何じゃ?」
「言いましたよね」
「何を?」
「さっさと破壊しろと」
「……言われたの」
「今年、一番役に立ちませんでしたよ」
マクゴナガルが振り返る。
「ポッター!」
「事実です」
ダンブルドアは怒らなかった。
髭の奥で、苦く笑う。
「返す言葉がない」
「本当に反省してください」
「そのつもりじゃ」
「次から日記や分霊箱と一人で会話しない」
「約束しよう」
「救えなかった相手を、次こそ救えると思って危険を見逃さない」
ダンブルドアの笑みが消える。
「それも、約束しよう」
「情報を一人で抱えない」
「努力しよう」
「約束」
「……約束しよう」
ハリーは頷いた。
「なら、今回はそれで」
「随分と偉そうだな」
スネイプが言う。
「実際、今回の判断は僕の方が正しかったでしょう」
「否定はせん」
「先生が認めた」
「二度と言わん」
ハリーは少し笑う。
その直後、視界が暗くなった。
「ポッター?」
「少し寝ます」
「ここで寝るな!」
意識が途切れる。
最後に見えたのは、慌てる教師たちと、泣きながらハリーを囲む妖精たちだった。
目を覚ました時。
医務室。
予想通り。
ベッドの横にはロンとハーマイオニー。
少し離れた場所にダンブルドア。
「何日?」
ハリーが尋ねる。
「丸一日よ」
ハーマイオニーが答える。
「一日で済んだか」
「済んだ、じゃないわ!」
「日記は?」
「壊れた」
ロンが言う。
「先生たちが何度も確認したって」
「トムは?」
「消えたわ」
ハーマイオニーが続ける。
「魂の魔力も残っていないそうよ」
「なら、成功だ」
「成功しても、倒れたら駄目でしょう!」
「死んでない」
「死にかけることを基準にしないで!」
目に涙が浮かんでいる。
「悪かった」
素直に謝る。
今回は、本当に危険だった。
悪霊の炎の制御。
妖精たちが来なければ、ハリーごと必要の部屋を焼き尽くしていた可能性がある。
「もう一人で戦わないって約束したよな」
ロンが言う。
「最初は先生たちもいた」
「途中で一人になった」
「妖精を呼んだ」
「後からだろ」
「悪かった」
二度目。
言い訳を続けても意味はない。
「次は先に助けを呼ぶ」
「絶対?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「状況が許す限り」
「ハリー」
「絶対と言える状況ばかりじゃない」
「今回だって、先にティビーを呼べたでしょう」
「それはそうだ」
「なら約束して」
「自分一人でなければできないと確認する前に、必ず誰かへ協力を求める」
可能な約束。
ハーマイオニーは少し考え、頷いた。
「それならいいわ」
ダンブルドアが近づいてくる。
「ワシからも、謝らせてほしい」
「僕に?」
「君たち全員にじゃ」
ロンとハーマイオニーを見る。
「日記の危険性を軽く見た。自分ならトムを理解し、制御できると考えた。結果として、君たちと学校全体を危険へ晒した」
校長が、明確に非を認めている。
「珍しいですね」
ハリーが言う。
「もう少し素直に受け取れんかの?」
「受け取っています」
「そうは見えん」
「今後、行動で示してください」
「厳しいの」
「これでも抑えています」
ダンブルドアは苦笑した。
「一つ、君に伝えておかなくてはならん」
「何です?」
「トムがワシから吸い取ったものについてじゃ」
「魔力と感情?」
「それだけではない」
ダンブルドアの顔が真剣になる。
「ワシの記憶の一部を見た可能性がある」
「どの記憶です?」
「すべては分からん。ただ、グリンデルバルド。ニワトコの杖。死の秘宝。それらに関する記憶へ触れた形跡がある」
ハリーは目を閉じた。
日記のトムは消えた。
情報を他の分霊箱へ送る手段も、通常はない。
だが、完全に断定はできない。
黒い影が校長室に定着していた期間。
他の魂の欠片と何らかの共鳴を起こしていた可能性。
「ヴォルデモート本体へ伝わったと思いますか?」
「分からん」
「最悪を想定します」
「そうすべきじゃろう」
ニワトコの杖。
ヴォルデモートが、それを前倒しで探し始める可能性がある。
未来がまた変わる。
「一つ壊したら、別の問題が出るな」
「いつものことだろ」
ロンが言う。
「慣れたくない」
「僕は少し慣れてきた」
「僕は嫌よ」
ハーマイオニーが言う。
ハリーも同意だった。
それでも。
日記は壊した。
ジニーは救われた。
秘密の部屋は開かれたが、誰も犠牲になっていない。
バジリスクは保護区へ移った。
アクロマンチュラの群れも、学校の近くから排除された。
二年目の大きな危機は、ほぼ解決した。
残っているのは。
「シリウスの裁判は?」
ハリーがダンブルドアへ尋ねる。
「来月、ウィゼンガモットの特別法廷が開かれる」
「証拠は?」
「ピーターの杖が見つかった」
「どこに?」
「ウィーズリー家の庭に埋められておった」
十二年間。
ピーターは、必要になれば取り出せる場所へ杖を隠していた。
「深層履歴から、マグル十二名を殺した爆破呪文が確認された」
「秘密の守人の契約は?」
「ゴドリックの谷に残った魔力から、ピーターへ変更された記録を復元できた」
「なら勝てますね」
「証拠としては十分じゃ」
「ファッジが邪魔をしても?」
「アメリアが法廷へ提出する。ワシも証言する」
ハリーは枕へ背を預ける。
今度こそ。
シリウスを正式に救える。
「しっかりしてくださいよ」
「今度こそ、と言いたそうじゃの」
「その通りです」
「肝に銘じよう」
「今年の先生は使い物になりませんでしたから」
「もう一度言うのかの?」
「大切なことなので」
ダンブルドアは深くため息をついた。
ロンが笑う。
ハーマイオニーは呆れている。
日記を巡る戦いは終わった。
若きトム・リドル。
将来有望な天才。
悪い方向へ成長すれば、世界を恐怖へ陥れる魔法使い。
だが今は、まだ十六歳。
数年しか魔法を学んでいない少年だった。
前世の知識。
何十年もの実戦経験。
妖精たちの魔法。
仲間と教師の協力。
それらすべてを使えば、負ける理由はない。
英雄一人で勝つ必要もない。
凡人には、凡人の戦い方がある。
そして。
ハリーはようやく、ダンブルドアにもそれを少し理解させられた気がしていた。