80歳のハリーポッターが11歳に戻った場合   作:金縛り

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3年目
3年目 ブラック家の三人


 グリモールド・プレイス十二番地は、記憶の中と変わらず陰気だった。

 

 薄汚れた外壁。

 

 狭い窓。

 

 隣り合う十一番地と十三番地の間へ、無理やり押し込まれるように現れる建物。

 

 ハリーが住所を思い浮かべると、二つの家が左右へ動き、黒い扉が姿を見せた。

 

「何度見ても気味が悪いな」

 

 隣に立つロンが言った。

 

「マグル避けの魔法だけではないわね」

 

 ハーマイオニーは建物全体を観察している。

 

「空間拡張と、秘密保持の魔法が重なってる。建物そのものが隠れていたみたい」

 

「ブラック家だからな」

 

 ハリーが答えた。

 

「古くて、金があって、性格が悪い一族だ」

 

「シリウスもブラック家でしょう」

 

「本人が一番そう言ってた」

 

 黒い扉を叩く。

 

 ほとんど間を置かず、内側から開いた。

 

「ハリー!」

 

 シリウスが立っていた。

 

 聖マンゴで見た時より、かなり血色がよい。

 

 長かった髪は肩の辺りまで切られ、髭も整えられている。

 

 頬はまだ痩せているが、囚人ではなく、一人の魔法使いに見えるようになっていた。

 

「来たな!」

 

「招待されたので」

 

「もっと子供らしく喜べないのか?」

 

「楽しみにしていました」

 

「顔に出てない」

 

「出しています」

 

「出てないぞ」

 

 シリウスは笑い、ハリーの肩へ手を置いた。

 

 次にロンとハーマイオニーを見る。

 

「ロン・ウィーズリーと、ハーマイオニー・グレンジャーだな」

 

「はい」

 

「よろしくお願いします」

 

「ハリーの友達なら歓迎する。家は広い。使える部屋がどれだけあるかは分からないけどな」

 

 玄関の中は暗かった。

 

 重いカーテン。

 

 黒ずんだ壁紙。

 

 銀製の蛇を模した燭台。

 

 古い純血家の屋敷らしい装飾が並んでいる。

 

「声は抑えてくれ」

 

 シリウスが小声で言った。

 

「母を起こすと面倒だ」

 

「亡くなっているのでは?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

「肖像画が残ってる」

 

「肖像画を起こす?」

 

「見れば分かる」

 

 その直後。

 

 ロンのトランクが傘立てへぶつかった。

 

 大きな金属音。

 

 廊下に掛けられたカーテンが勢いよく開く。

 

 中から、痩せた老女の肖像画が現れた。

 

『穢れた血! 裏切り者! 我が家に何を連れ込んだ!』

 

「これだ」

 

 シリウスが顔をしかめる。

 

『シリウス! 恥知らず! ブラック家の面汚し!』

 

「ただいま、母さん」

 

『出ていけ!』

 

「俺の家だ」

 

『貴様に相続させた覚えはない!』

 

「法律上は俺のものだ」

 

 肖像画がさらに叫ぶ。

 

 ハーマイオニーが耳を塞ぐ。

 

 ロンも顔を引きつらせていた。

 

「消せないの?」

 

「壁に永久貼付呪文が掛かってる」

 

 シリウスとハリーがカーテンを引く。

 

 肖像画の声が小さくなる。

 

「毎日これですか?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

「静かにしてれば起きない」

 

「他の場所へ移せない?」

 

「壁ごと壊すしかない」

 

「壊せば?」

 

「家の魔法構造に繋がってる可能性がある。下手に触ると、何が起きるか分からない」

 

 シリウスは肩をすくめる。

 

「少しずつ調べてるところだ」

 

 以前のシリウスなら、苛立ちのまま壁を破壊していたかもしれない。

 

 今は治療師の指示もあり、危険な魔法へ不用意に触れないようにしているらしい。

 

 よい変化だった。

 

「クリーチャーは?」

 

 ハリーが尋ねる。

 

 シリウスの表情が曇る。

 

「地下か、屋根裏か。俺が呼んでも、すぐには来ない」

 

「主人の命令を無視できるんですか?」

 

「俺を正式な当主と認めたくないらしい」

 

「命令そのものには従うはずです」

 

「従う時も、必ず嫌味をつける」

 

 シリウスは声を張った。

 

「クリーチャー!」

 

 破裂音。

 

 老いた屋敷しもべ妖精が現れる。

 

 白い毛が耳から伸び、身体には汚れた布を巻いている。

 

 背中は曲がり、目は血走っていた。

 

「お呼びでしょうか、薄汚い家出息子のご主人様」

 

「これだ」

 

 シリウスがハリーたちを見る。

 

「聞こえてるぞ、クリーチャー」

 

「クリーチャーは、ご主人様に聞こえるよう申し上げました」

 

「そうかよ」

 

「シリウス」

 

 ハリーが止める。

 

 前世と同じ関係を繰り返してはいけない。

 

 シリウスはクリーチャーを見るたびに、自分が憎んだ家族を思い出す。

 

 クリーチャーはシリウスを見るたびに、敬愛する女主人を裏切った息子を見る。

 

 互いの存在そのものが、過去の傷を刺激する。

 

「クリーチャー」

 

 ハリーは妖精へ向き直った。

 

「僕はハリー・ポッターだ」

 

「存じております」

 

 クリーチャーの大きな目がハリーを見る。

 

「半純血のポッター。ジェームズ・ポッターの息子。ご主人様を、さらに血統の裏切りへ引き込んだ一族」

 

「僕の父とシリウスは友人だった」

 

「存じております」

 

「レギュラス・ブラックについて話をしたい」

 

 クリーチャーの身体が止まった。

 

 それまでの敵意が、一瞬で消える。

 

「レギュラス様?」

 

「ああ」

 

「なぜ、ハリー・ポッターがレギュラス様のお名前を」

 

「彼が死んだ理由を知っている」

 

 空気が変わった。

 

 クリーチャーの目が大きく開く。

 

 シリウスの表情も硬くなる。

 

「ハリー」

 

「中で話しましょう」

 

 応接室へ移る。

 

 黒い革の椅子。

 

 古い暖炉。

 

 壁にはブラック家の者と思われる肖像画。

 

 多くは眠っている。

 

 ロンとハーマイオニーは、ハリーの左右へ座った。

 

 シリウスは向かい側。

 

 クリーチャーは扉の近くに立っている。

 

「座っていい」

 

 ハリーが言う。

 

「屋敷しもべ妖精は、主人の家族と同じ椅子には座りません」

 

「では、別の椅子を」

 

 ハリーは小さな椅子を出す。

 

 クリーチャーは警戒したが、レギュラスの話を聞きたい気持ちが勝ったらしい。

 

 ゆっくり腰を下ろした。

 

「最初に確認する」

 

 シリウスが言う。

 

「お前がレギュラスについて知っているのは、未来の記憶からか?」

 

「ああ」

 

 ロンとハーマイオニーの前なので、隠す必要はない。

 

 クリーチャーだけが意味を理解できず、目を動かした。

 

「ハリーは、未来の記憶を持っている」

 

 シリウスが説明する。

 

「詳しくは後だ。今は、こいつが知っていることを聞く」

 

「レギュラス様の未来?」

 

「彼が亡くなった後に明らかになったことだ」

 

 ハリーは話し始めた。

 

 レギュラス・ブラック。

 

 純血主義の家に生まれ、家族の期待に従い、若くして死喰い人になった。

 

 当初はヴォルデモートを信奉していた。

 

 だが、実際に仕えるうち、その残酷さと狂気に気づいた。

 

「ヴォルデモートは、秘密の場所へ仕掛けを作るため、屋敷しもべ妖精を必要とした」

 

 クリーチャーの身体が震える。

 

「レギュラスは、クリーチャーを貸した」

 

「違います!」

 

 クリーチャーが立ち上がった。

 

「レギュラス様は、クリーチャーに闇の帝王のお役に立つよう命じられただけでございます!」

 

「分かってる」

 

「レギュラス様は、あの方がクリーチャーを殺すなどとは」

 

「分かってる」

 

 ハリーは繰り返した。

 

 ヴォルデモートは、海辺の洞窟へクリーチャーを連れていった。

 

 湖。

 

 小舟。

 

 石の器。

 

 中に満たされた魔法薬。

 

 クリーチャーへすべて飲ませた。

 

 苦しみ。

 

 喉の渇き。

 

 湖の水。

 

 亡者。

 

 そのまま放置して去った。

 

「でも、ヴォルデモートは屋敷しもべ妖精の魔法を理解していなかった」

 

 ハリーは言う。

 

「クリーチャーは、レギュラスの命令で家へ戻った」

 

 クリーチャーの目から涙が落ちる。

 

「レギュラス様が、帰ってこいと」

 

「ああ」

 

「だからクリーチャーは帰りました」

 

「そして、すべて話した」

 

 クリーチャーは何度も頷く。

 

「レギュラス様は変わられました」

 

 震える声。

 

「闇の帝王について、何度もお尋ねになりました。洞窟。石の器。首飾り。クリーチャーは、知っていることをすべて」

 

「レギュラスは、あのロケットがヴォルデモートの弱点だと気づいた」

 

「分霊箱」

 

 ハーマイオニーが小さく言う。

 

 クリーチャーが彼女を見る。

 

「穢れた血が、レギュラス様の話へ口を」

 

「クリーチャー」

 

 シリウスの声が低くなる。

 

「彼女はハリーの友人だ。俺の客でもある」

 

「ですが」

 

「侮辱するな」

 

「シリウス」

 

 今度はハーマイオニーが止めた。

 

「大丈夫よ」

 

「大丈夫ではない」

 

「長年そう教えられてきたのでしょう。今すぐ変われと言っても無理よ」

 

 クリーチャーが戸惑う。

 

 侮辱した相手から庇われたことが理解できないらしい。

 

「話を続ける」

 

 ハリーが言った。

 

「レギュラスは、クリーチャーを連れて洞窟へ戻った」

 

 ヴォルデモートと同じ方法で、湖を渡った。

 

 石の器。

 

 毒薬。

 

 今度はレギュラス自身が飲んだ。

 

 偽物のロケットと、本物を交換した。

 

 偽物の中には手紙を残した。

 

 自分がヴォルデモートの秘密を知ったこと。

 

 いつか誰かが、彼を倒すことを願っていること。

 

「そして、レギュラスはクリーチャーへ本物のロケットを持ち帰り、破壊するよう命じた」

 

「はい」

 

 クリーチャーが泣いている。

 

「レギュラス様は、クリーチャーへ帰れと。ご自分を置いて帰れと」

 

 亡者の手。

 

 暗い湖。

 

 引きずり込まれるレギュラス。

 

 クリーチャーは命令に従うしかなかった。

 

「クリーチャーは帰りました」

 

「一人で」

 

「レギュラス様を置いて」

 

「命令だった」

 

「それでも!」

 

 クリーチャーが自分の頭を椅子へ打ちつけようとする。

 

 ハリーは杖なしで止めた。

 

「自分を傷つけるな」

 

「クリーチャーは、レギュラス様をお救いできませんでした!」

 

「救えなかったんじゃない。命令を守った」

 

「同じです!」

 

「違う」

 

 ハリーは強く言う。

 

「レギュラスは、自分よりロケットの破壊を優先した。クリーチャーを生かした。君が戻らなければ、彼の行動は完全に無駄になった」

 

 クリーチャーがハリーを見る。

 

「君がロケットを持ち帰ったから、僕たちは今日それを破壊できる」

 

「破壊」

 

「ああ」

 

「クリーチャーには、できませんでした」

 

「方法を知らなかったからだ」

 

 クリーチャーは何年も試した。

 

 呪文。

 

 道具。

 

 力。

 

 それでも傷一つつけられなかった。

 

 分霊箱を破壊するには、魂を修復できないほど器を壊す必要がある。

 

 普通の魔法では足りない。

 

「それで」

 

 シリウスの声がかすれていた。

 

「レギュラスは死んだのか?」

 

「ああ」

 

「ヴォルデモートを裏切って?」

 

「ああ」

 

「家族にも、誰にも言わずに?」

 

「クリーチャーは秘密を守るよう命じられた」

 

 シリウスがクリーチャーを見る。

 

 長い沈黙。

 

「なぜ、俺に言わなかった」

 

「レギュラス様は、誰にも話すなと」

 

「俺は兄だ」

 

「レギュラス様の命令は絶対でございます」

 

「死んだ後も?」

 

「死んだ後も」

 

 シリウスは拳を握る。

 

 怒り。

 

 悲しみ。

 

 後悔。

 

「俺は、あいつを臆病者だと思ってた」

 

 家族に従った弟。

 

 ヴォルデモートへ仕えた死喰い人。

 

 兄が家を捨てた後も、母親の期待に応え続けた。

 

「何も知らずに」

 

 シリウスは顔を覆う。

 

「俺は、あいつのことを」

 

「シリウス」

 

 ハリーが言う。

 

「あなたが家を出た時、レギュラスは十五歳くらいだった」

 

「分かってる」

 

「同じ選択を求めるのは無理だ」

 

「分かってる!」

 

 声が大きくなる。

 

 廊下の向こうで、ウォルブルガの肖像画が何か叫び始めた。

 

 誰も動かなかった。

 

「俺は、兄なのに」

 

 シリウスの声が震える。

 

「助けようともしなかった」

 

「あなたも子供だった」

 

「十六だ」

 

「子供です」

 

「家を出て、自分だけ助かった」

 

「自分を守るために必要だった」

 

「レギュラスを置いていった」

 

「彼が助けを求めましたか?」

 

「求めるわけがない。あの家で育ったんだ」

 

「なら、シリウスにも分からなかった」

 

 結果を知っているから、別の行動を考えられる。

 

 前世のハリーと同じ。

 

「全部を自分の責任にしないでください」

 

「またそれか」

 

「ダンブルドアにも言いました」

 

「俺と一緒にするな」

 

「似ていますよ」

 

「どこが」

 

「大切な人を救えなかったことを、全部自分の責任だと思うところ」

 

「最悪だ」

 

 シリウスが顔をしかめる。

 

「よりによって、あの爺さんと」

 

「そこですか」

 

 ロンが小声で呟く。

 

 ハーマイオニーが肘で止めた。

 

「ロケットはどこだ?」

 

 シリウスがクリーチャーへ尋ねる。

 

「クリーチャーの巣にございます」

 

「持ってこい」

 

 クリーチャーは動かなかった。

 

「命令だ」

 

「ご主人様は、ロケットを破壊なさるおつもりで?」

 

「そうだ」

 

「レギュラス様の?」

 

「あいつが命を懸けて持ち帰った物だ。あいつの望みを果たす」

 

 クリーチャーの目が揺れる。

 

「ご主人様は、レギュラス様を裏切り者と」

 

「俺が間違ってた」

 

 シリウスはクリーチャーを見た。

 

 初めて、家の一部ではなく、レギュラスを知る相手として。

 

「俺は何も知らなかった」

 

「シリウス様」

 

 クリーチャーの口から、初めて敬称が出た。

 

 本人も驚いたように口を押さえる。

 

「持ってきてくれ」

 

 今度は命令ではなかった。

 

「レギュラスの仕事を終わらせよう」

 

 クリーチャーが深く頭を下げる。

 

 破裂音。

 

 姿が消える。

 

 数秒後。

 

 再び現れた両手には、重そうな金色のロケットが抱えられていた。

 

 大きなSの文字。

 

 緑色の石。

 

 サラザール・スリザリンの印。

 

 空気が重くなる。

 

 ロケットから、冷たい魔力が広がっている。

 

 ハリーの額の傷が僅かに疼いた。

 

「これです」

 

「触らないで」

 

 ハーマイオニーが即座に言う。

 

「誰も直接触らないで」

 

「分かってる」

 

 ハリーは事前に用意した箱を出す。

 

 スネイプが日記用に作った封印箱を改良したもの。

 

 中には、魔法省からようやく届いたバジリスクの牙が一本収められている。

 

「これがバジリスクの牙?」

 

 シリウスが見る。

 

「触れば死にます」

 

「触らない」

 

「本当に?」

 

「俺を何だと思ってる」

 

「勢いで危険物に触る人」

 

「誰に聞いた?」

 

「未来のあなたから」

 

 シリウスが黙る。

 

「俺は未来で何をした?」

 

「今は話しません」

 

「都合が悪いんだな」

 

「ロケットが先です」

 

 床へ魔法陣を描く。

 

 周囲へ防護結界。

 

 ハリー。

 

 シリウス。

 

 ロン。

 

 ハーマイオニー。

 

 そして、クリーチャー。

 

「ロケットを開ける必要はあるのか?」

 

 シリウスが尋ねる。

 

「開けずに外側から貫けるなら、その方が安全です」

 

「中の魂が抵抗するでしょう」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「日記の時みたいに、姿を現すかもしれない」

 

「だから、先に拘束する」

 

 ハリーは妖精魔法を使う。

 

 ロケットの周囲の空間を固定。

 

 逃げられない。

 

 移動できない。

 

 クリーチャーも手を上げ、屋敷の魔法を重ねる。

 

「この家の中では、クリーチャーの方が強い」

 

 ハリーが言う。

 

「ロケットを固定して」

 

「承知いたしました」

 

 金色の鎖が、床とロケットを繋ぐ。

 

 シリウスが杖を向ける。

 

「俺は?」

 

「ロケットが何か見せても、聞かないこと」

 

「戦力として数えられてない気がする」

 

「精神攻撃への対処です」

 

「それは戦力か?」

 

「重要です」

 

 バジリスクの牙を浮かせる。

 

 ハリーは直接持たない。

 

 妖精魔法で操作する。

 

 ロケットへ近づける。

 

 金色の表面が震えた。

 

 Sの文字が、蛇のように動く。

 

 蓋が開く。

 

 誰も触れていない。

 

 内部には二つの小さな窓。

 

 片方にシリウスの目。

 

 もう片方にクリーチャーの目。

 

 本人たちのものではない。

 

 ロケットが作った幻。

 

『兄さん』

 

 若い声。

 

 レギュラス。

 

 シリウスの身体が固まる。

 

『どうして僕を置いていった?』

 

「聞くな」

 

 ハリーが言う。

 

『兄さんが家を出たから、僕が母さんの期待を背負うことになった』

 

 シリウスの目が揺れる。

 

『僕が死んだのは、兄さんのせいだ』

 

「違う」

 

 ハリーが断言する。

 

『兄さんだけが自由になった』

 

「シリウス、見ないで」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「目を閉じて」

 

 シリウスは動かない。

 

 幻のレギュラスが続ける。

 

『僕を助けてくれなかった』

 

「黙れ」

 

 シリウスが低く言う。

 

『臆病者だと思っていたんだろう?』

 

「黙れ」

 

『本当は、兄さんの方が逃げた』

 

「黙れ!」

 

 シリウスの魔力が膨らむ。

 

 ロケットはそこを狙っている。

 

 怒り。

 

 罪悪感。

 

 絶望。

 

 感情から力を吸う。

 

「シリウス!」

 

 ハリーが叫ぶ。

 

「それはレギュラスじゃない!」

 

「分かってる!」

 

「なら、反応しないで!」

 

「分かってるけど!」

 

 幻は兄弟しか知らないはずの言葉を使っている。

 

 ロケットは、触れた者の心を読む。

 

 シリウスの記憶から、最も傷つく形を作っている。

 

 もう片方の窓。

 

 クリーチャーの目が開く。

 

『お前が私を置いて逃げた』

 

 こちらもレギュラスの声。

 

『命令だからと、自分だけ助かった』

 

「違います」

 

 クリーチャーが震える。

 

『本当に忠実なら、私と共に死んだはずだ』

 

「違います!」

 

『ロケットも破壊できなかった』

 

「クリーチャーは」

 

『お前は失敗した』

 

「違う!」

 

 クリーチャーが自分の頭を掻きむしる。

 

「クリーチャー!」

 

 ハリーが声を張る。

 

「レギュラスは、君に生きて帰れと命じた!」

 

「ですが」

 

「本当に一緒に死んでほしかったなら、帰れとは言わない!」

 

 クリーチャーが止まる。

 

「彼は君を助けた」

 

『嘘だ』

 

「黙れ」

 

 ハリーはロケットへ言う。

 

「君はレギュラスじゃない」

 

『私は、あの少年の最後を知っている』

 

「ヴォルデモートの魂の欠片だ」

 

『彼は恐れていた』

 

「それでも行った」

 

『泣いていた』

 

「それでもロケットを持ち帰らせた」

 

『無駄だった』

 

「今日までな」

 

 ハリーはバジリスクの牙を持ち上げる。

 

「今日、終わらせる」

 

 ロケットの窓に、別の顔が現れる。

 

 若いトム・リドル。

 

 日記の時より冷たい。

 

 人格というより、残留した悪意に近い。

 

『私を壊せば、レギュラスの最後の遺品も消える』

 

 クリーチャーが息を呑む。

 

『彼が命を懸けて守ったものだ』

 

「違う」

 

 今度はシリウスが答えた。

 

 顔を上げる。

 

 目には涙がある。

 

 それでも杖は安定している。

 

「レギュラスが守りたかったのは、お前じゃない」

 

『兄に何が分かる』

 

「分からなかった」

 

 シリウスは認めた。

 

「何も知らなかった。だから、今知った」

 

 ロケットを睨む。

 

「あいつは、お前を壊したかった」

 

『遺品を失うぞ』

 

「レギュラスは物じゃない」

 

 声が強くなる。

 

「こいつの中に残ってる」

 

 クリーチャーを見る。

 

「俺の記憶にもいる。ハリーが教えてくれた事実にも」

 

『後悔しないのか』

 

「するさ」

 

「シリウス?」

 

「一生する」

 

 自分が弟を理解しなかったこと。

 

 助けられなかったこと。

 

 間違った評価をしたこと。

 

「でも、後悔することと、お前を残すことは別だ」

 

 シリウスはハリーを見る。

 

「やれ」

 

「クリーチャー」

 

 ハリーも妖精を見る。

 

 最後の判断は彼にさせるべきだった。

 

「破壊していい?」

 

 クリーチャーは、ロケットを見つめる。

 

 長い年月。

 

 レギュラスの最後の命令。

 

 果たせなかった使命。

 

「レギュラス様は」

 

 声が震える。

 

「これを破壊せよと、お命じになりました」

 

「ああ」

 

「クリーチャーは、今度こそ命令を果たします」

 

 妖精が立ち上がる。

 

 両手をロケットへ向ける。

 

 金色の鎖が、さらに強く締まる。

 

「ハリー・ポッター様」

 

「うん」

 

「お願いいたします」

 

 ハリーは牙を振り下ろした。

 

 バジリスクの毒牙が、ロケットを貫く。

 

 金属が砕ける音。

 

 黒い液体。

 

 絶叫。

 

 トム・リドルの顔が歪む。

 

 緑色の石が割れた。

 

 ロケット全体から黒い煙が噴き出す。

 

 シリウスが盾を張る。

 

 ハーマイオニーとロンも重ねる。

 

 クリーチャーの鎖が、魂の欠片を逃がさない。

 

「もう一度!」

 

 ハリーが牙を引き抜く。

 

 二撃目。

 

 中央を完全に砕く。

 

 黒い煙が炎のように揺れ、消えた。

 

 冷たい魔力がなくなる。

 

 床に残ったのは、壊れた金属片だけ。

 

 分霊箱ではない。

 

 ただの古いロケット。

 

 クリーチャーが、ゆっくり近づく。

 

 金属片を拾おうとする。

 

「毒が残ってる」

 

 ハリーが止める。

 

「洗浄してから」

 

「これは」

 

「レギュラスの遺品として残せる」

 

 分霊箱は破壊した。

 

 器そのものを完全に消す必要はない。

 

 毒を除去し、魂の痕跡がないことを確認すればよい。

 

「レギュラス様」

 

 クリーチャーは床へ膝をついた。

 

 泣き声。

 

 長い年月、果たせなかった命令。

 

 ようやく終わった。

 

 シリウスも隣へ座る。

 

 しばらく迷い、クリーチャーの肩へ手を置いた。

 

 妖精の身体が硬直する。

 

「クリーチャー」

 

「はい」

 

「レギュラスのことを教えてくれ」

 

「シリウス様に?」

 

「ああ」

 

「ご主人様は、レギュラス様を嫌っておられたのでは」

 

「俺が馬鹿だった」

 

「シリウス」

 

「今は反論するな、ハリー」

 

「何も言ってません」

 

「言う顔だった」

 

 シリウスはクリーチャーを見る。

 

「俺が家を出た後のことを、何も知らない」

 

「レギュラス様は」

 

「全部聞かせてくれ」

 

 クリーチャーの目から、また涙が落ちた。

 

「承知いたしました、シリウス様」

 

 シリウスは僅かに笑う。

 

「それと」

 

「はい」

 

「俺は、この家の当主だ」

 

 クリーチャーの表情が硬くなる。

 

「法律上は」

 

「法律上だけじゃない」

 

 シリウスは壊れたロケットを見る。

 

「レギュラスが守ろうとした家を、俺も守る」

 

「ブラック家を?」

 

「家名のためじゃない。ここに残ってるものを、ヴォルデモートへ渡さないためだ」

 

 クリーチャーは黙っている。

 

「俺に仕えろとは言わない」

 

「ご主人様?」

 

「お前は、レギュラスに仕えていた」

 

「今の当主はシリウス様でございます」

 

「嫌いなんだろ」

 

「クリーチャーは」

 

「正直に言っていい」

 

「……嫌っておりました」

 

「過去形か?」

 

「まだ、よく分かりません」

 

 シリウスが笑った。

 

「正直でいい」

 

「しかし、クリーチャーはブラック家の屋敷しもべ妖精でございます」

 

「なら、条件を出す」

 

「条件?」

 

「レギュラスの無念を晴らす」

 

 シリウスはハリーを見る。

 

「残りの分霊箱を全部壊す」

 

「そのためには、クリーチャーの力が必要です」

 

 ハリーが続ける。

 

「妖精の魔法は、人間の防護を越えられる。今回も、ロケットを固定できた」

 

「クリーチャーに、他のロケットを?」

 

「他の分霊箱」

 

 ハーマイオニーが説明する。

 

「ヴォルデモートは、魂をいくつも分けているの」

 

 クリーチャーの顔に嫌悪が浮かぶ。

 

「闇の帝王は、他にも」

 

「ああ」

 

 ハリーは答えた。

 

「日記は壊した。今、ロケットも壊した。まだ残っている」

 

「すべて破壊すれば」

 

「ヴォルデモートを完全に倒せる」

 

 クリーチャーはシリウスを見る。

 

「シリウス様は、レギュラス様のお仕事を」

 

「引き継ぐ」

 

「命を懸けて?」

 

「できれば死なずにやる」

 

 シリウスらしい答えだった。

 

「レギュラスは死んだ。俺まで死んだら、ハリーに怒られる」

 

「怒ります」

 

「ほらな」

 

 クリーチャーは、しばらく俯いていた。

 

 やがて椅子から降り、シリウスの前へ立つ。

 

 深く頭を下げる。

 

「クリーチャーは、条件を申し上げます」

 

「聞こう」

 

「レギュラス様のご命令を、最後まで果たすこと」

 

「ああ」

 

「闇の帝王の魂を、一つ残らず破壊すること」

 

「ああ」

 

「レギュラス様を、臆病者と二度と呼ばないこと」

 

 シリウスの顔が苦く歪む。

 

「約束する」

 

「レギュラス様のお部屋を、勝手に捨てないこと」

 

「分かった」

 

「女主人様の品を、すべて燃やさないこと」

 

「全部は無理だ」

 

「シリウス」

 

 ハリーが言う。

 

「分かったよ。危険物を除いて、相談する」

 

「それならば」

 

 クリーチャーは床へ膝をついた。

 

「クリーチャーは、ブラック家当主シリウス・ブラック様へ忠誠を誓います」

 

 シリウスが息を止める。

 

「レギュラス様の無念を晴らす日まで。そして、その後も、シリウス様がブラック家を守られる限り」

 

 屋敷全体が僅かに揺れた。

 

 古い魔法。

 

 当主と屋敷しもべ妖精の契約が、正式に結び直された。

 

 壁の燭台へ一斉に火が灯る。

 

 薄暗かった応接室が、少し明るくなった。

 

「今のは?」

 

 ロンが周囲を見る。

 

「屋敷がシリウスを正式な当主として認めたのよ」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

 シリウス自身も驚いている。

 

「今まで認められてなかったのか?」

 

「クリーチャーが拒んでいたから、家の魔法も不完全だったのでしょう」

 

「俺の家なのに」

 

「法律と魔法は別です」

 

 クリーチャーが立ち上がる。

 

 先ほどまでの汚れた布が、僅かに形を変えている。

 

 ブラック家の紋章。

 

 古いが、清潔な布。

 

「シリウス様」

 

「何だ?」

 

「お客様を、このような埃だらけの部屋へお通ししたことをお詫び申し上げます」

 

「急に変わりすぎじゃないか?」

 

「クリーチャーは、忠実なしもべでございます」

 

「昨日まで俺を薄汚い家出息子と」

 

「過去の話でございます」

 

「便利だな」

 

「シリウス」

 

 ハリーが言う。

 

「仲良くしてください」

 

「努力する」

 

「クリーチャーも」

 

「承知いたしました」

 

「二人とも、僕へ心配をかけない」

 

「お前は誰の保護者だ?」

 

「今のところ、僕が一番落ち着いているので」

 

 シリウスが何か言おうとする。

 

 クリーチャーも口を開く。

 

 二人とも反論できず、黙った。

 

「さて」

 

 ハリーは壊れたロケットを見る。

 

 二つ目の分霊箱。

 

 破壊済み。

 

「次の仕事です」

 

「まだやるのか?」

 

 シリウスが尋ねる。

 

「夏休みは始まったばかりです」

 

「遊びに来たんじゃなかったのか?」

 

「遊んでいる暇なんてありませんよ」

 

「何をする?」

 

「屋敷の掃除」

 

「仕事じゃないか」

 

「危険な魔法道具を片づける」

 

「もっと仕事だ」

 

「父と母の話を聞く」

 

 シリウスが止まる。

 

「それなら、いくらでも話す」

 

「では、夕食の後に」

 

「クリーチャー」

 

 シリウスが呼ぶ。

 

「食事を用意できるか?」

 

「すでに準備しております」

 

「いつの間に?」

 

「忠実なしもべでございますので」

 

 クリーチャーが姿を消す。

 

 シリウスは、その場所を長く見ていた。

 

「レギュラスのこと」

 

「はい」

 

「ありがとう、ハリー」

 

「僕は知っていることを話しただけです」

 

「それでもだ」

 

 シリウスは壊れたロケットへ視線を落とす。

 

「十三年、俺は何も知らなかった」

 

「これから知ればいい」

 

「ああ」

 

「これからがあります」

 

 法廷でも伝えた言葉。

 

 シリウスが、少し笑った。

 

「お前、本当に十二歳か?」

 

「よく聞かれます」

 

 その夜。

 

 食卓には、クリーチャーが用意した料理が並んだ。

 

 以前のブラック家で出されていたような豪華な料理ではない。

 

 シチュー。

 

 パン。

 

 焼いた肉。

 

 温かい食事。

 

「美味しい」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

 クリーチャーは、彼女を見た。

 

「……お口に合ったのであれば、何よりでございます」

 

「ありがとう、クリーチャー」

 

「礼は不要でございます」

 

「でも、美味しいから」

 

 クリーチャーは何も答えず、厨房へ消えた。

 

 耳が少し赤くなっていた。

 

「今、名前を呼んだな」

 

 ロンが言う。

 

「呼んだわ」

 

「怒らなかった」

 

「少しずつでいいのよ」

 

 シリウスは杯を持ち上げる。

 

「レギュラスに」

 

 全員が見る。

 

「俺の弟に」

 

 ハリーも杯を上げる。

 

「最初にヴォルデモートへ反逆したブラック家の人間へ」

 

「勇気ある魔法使いに」

 

 ハーマイオニーが続ける。

 

「僕たちより先に分霊箱を盗んだ人へ」

 

 ロンが言った。

 

「乾杯」

 

 杯が触れる。

 

 レギュラス・ブラック。

 

 誰にも知られず、洞窟で死んだ少年。

 

 その行動は、今日ようやく意味を結んだ。

 

 ロケットは壊れた。

 

 クリーチャーは使命を果たした。

 

 シリウスは弟の真実を知った。

 

 そして、ブラック家はもう一度、ヴォルデモートと戦う側へ戻った。

 

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