夏休みの終わりまでに、グリモールド・プレイス十二番地は、少しだけ人の住む家らしくなった。
廊下に積もっていた埃は消えた。
触れた者の指を噛む銀製品や、近づくだけで悪夢を見せる仮面は、番号を振った封印箱へ収められた。
壁から外せないウォルブルガ・ブラックの肖像画には、厚い防音布が三重に掛けられている。
それでも、誰かが玄関で大きな音を立てれば、布越しに怒鳴り声が聞こえた。
クリーチャーの身なりも変わった。
汚れた布切れではなく、ブラック家の紋章が縫われた清潔な衣服を身につけている。
そして何より。
「シリウス様。朝食を召し上がらずに外出することは許されません」
「俺は子供じゃない」
「聖マンゴの治療師より、規則正しい食生活を維持するよう指示を受けております」
「戻ってから食べる」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「昨日は食べただろ」
「昼食のお時間にでございます」
シリウスとクリーチャーが、普通に会話をするようになった。
普通と呼んでよいかは微妙だった。
クリーチャーは、シリウスをブラック家当主として認めた。
忠誠も誓った。
しかし、遠慮を覚えたわけではない。
主人の健康。
食事。
服装。
屋敷の管理。
ブラック家の書類。
すべてに口を出す。
十三年間、正しく仕える主人を失っていた反動もあるのかもしれない。
「ハリー。お前からも何か言ってくれ」
食堂へ入ったハリーへ、シリウスが助けを求めた。
「朝食は食べた方がいいです」
「お前まで」
「回復期なので」
「子供扱いするな」
「聖マンゴを退院したばかりでしょう」
「もう一か月以上経ってる」
「十三年分の衰弱は、一か月では戻りません」
ハリーは席へ着いた。
すでに卵、ベーコン、パンが並んでいる。
ロンはソーセージを山のように積み、ハーマイオニーは朝食を取りながら本を読んでいた。
「食事中に本を読むと目が悪くなるぞ」
シリウスが言う。
「魔法で治療できます」
「そういう問題じゃない」
「では、シリウスも座って食べてください」
ハーマイオニーは本から顔を上げずに答えた。
シリウスが黙る。
「負けてるな」
ロンが言った。
「俺は、この家の当主だぞ」
「僕らには関係ない」
「客だろ」
「ハリーに招待された」
「俺の家だ!」
「正確には」
クリーチャーが口を挟む。
「シリウス様が現在所有し、将来的にはハリー・ポッター様が相続なさる可能性の高いブラック家本邸でございます」
食卓が静まり返った。
「何?」
ハリーとシリウスの声が重なる。
「僕が?」
「こいつが?」
「シリウス様に実子がおられず、正式な遺言を残さずに亡くなられた場合、現在最も優先順位が高い相続候補はハリー・ポッター様でございます」
「何でだ?」
「名付け子を魔法的保護対象として登録したことにより、ブラック家の古い家法における親族同等の権利が発生しております」
シリウスが頭を抱えた。
「また知らない法律が出てきた」
「当主として学習が必要でございます」
「クリーチャー、お前は知っていたのか?」
「当然でございます」
「なぜ教えなかった」
「以前のシリウス様は、クリーチャーの説明を最後までお聞きになりませんでしたので」
反論できないらしい。
「今後は、相続や契約に関することを全部シリウスへ説明して」
ハリーが言う。
「承知いたしました」
「僕を勝手に相続人へしないでください」
「現在の家法上、すでに候補でございます」
「変更する方法は?」
「シリウス様がご結婚され、正当な後継者をもうけられることが最も確実かと」
全員の視線が、シリウスへ向いた。
「なぜ俺を見る」
「頑張ってください」
ハリーが言う。
「何をだ!」
「ブラック家当主として」
「十三歳の子供から結婚を勧められたくない!」
「中身は」
「その話は外で絶対にするな!」
夏休みは、そうして過ぎていった。
分霊箱のロケットを破壊した。
レギュラスの部屋を整理した。
シリウスから、ジェームズとリリーの学生時代の話を聞いた。
近郊にあるブラック家所有の土地で箒にも乗った。
シリウスは、ハリーをクイディッチ選手に戻そうとした。
ハリーは、訓練時間が減るという理由で断り続けた。
最後には、一対一でスニッチを追うだけならと妥協した。
結果。
未来の経験を持つハリーが勝った。
シリウスは、十三歳に負けたことを三日間引きずった。
リーマス・ルーピンとも再会した。
最初の面会では、シリウスとリーマスが互いに謝り続け、話がまったく進まなかった。
「俺がピーターを守人に勧めた」
「僕は君を疑った」
「俺もお前を疑ってた」
「十二年間、真実を確かめなかった」
「俺はアズカバンにいたから仕方ないだろ」
「その前の話だよ」
「二人とも」
ハリーが止めた。
「後悔の量を競わないでください」
二人が同時に黙った。
「昔と同じ関係へ戻る必要はありません」
「ハリー」
リーマスが困ったように笑う。
「私たちは、親友だったんだ」
「ジェームズはいません。ピーターは裏切った。昔と同じ四人には戻れない」
正確な言葉だった。
残酷でもある。
「新しい関係を作ればいい」
シリウスとリーマスが顔を見合わせる。
「こいつ、本当にジェームズの息子か?」
シリウスが言った。
「顔はよく似ているよ」
リーマスが答える。
「中身はリリーに近いのかもしれない」
「僕は僕です」
その後、ハリーは未来の記憶について説明した。
叫びの屋敷。
シリウスの脱獄。
ピーターの正体。
リーマスがホグワーツの教師になること。
守護霊の呪文を教わったこと。
満月の夜、毒狼薬を飲み忘れたこと。
スネイプが狼人間である事実を漏らし、辞職すること。
未来のすべてを話したわけではない。
リーマスの結婚。
息子。
戦争での死。
それらは伏せた。
「私が教師に?」
リーマスは驚いた。
「はい」
「ダンブルドアが、狼人間を学校へ入れるのか?」
「毒狼薬を飲むことを条件に」
「薬は誰が?」
「スネイプ先生です」
シリウスが露骨に顔をしかめた。
「あいつの薬を毎月飲むのか?」
「必要なら飲むよ」
リーマスが答える。
「君よりは信用できる」
「何だと?」
「学生時代、満月の私がいる場所へセブルスを誘い込んだのは誰だった?」
「昔の話だ」
「それで殺されかけたのも?」
「ジェームズが助けた」
「助ければ、原因を作ったことが消えるわけではない」
「二人とも」
ハリーが遮る。
「教師を続けるなら、スネイプ先生との関係を改善してください」
「無理だ」
シリウスが即答した。
「努力してください」
「向こうが先だ」
「子供ですか?」
「俺は被害者でもある」
「スネイプ先生もです」
「どっちの味方だ?」
「今後、授業を受ける生徒の味方です」
リーマスは声を上げて笑った。
九月一日。
ハリーたちはキングズ・クロス駅へ向かった。
プリベット通りには、夏休みの半分以上滞在した。
母の守りを維持するためだ。
残りをグリモールド・プレイスで過ごした。
シリウスは、最後までハリーがダーズリー家へ戻ることに反対していた。
「来年までに、守りをこの家へ移せないか調べる」
「ダンブルドア先生も調査しています」
「あの爺さんだけに任せるな」
「スネイプ先生とクリーチャーにも確認してもらっています」
「俺は?」
「ブラック家の古い資料を読んでください」
「文字が細かい」
「当主の仕事です」
「お前は俺の名付け子だろ。少しは甘やかしてくれ」
「立場が逆では?」
九と四分の三番線。
ホグワーツ特急。
シリウスは、ハリーのトランクを列車へ積み込み、何度も同じことを確認した。
「毎週手紙を書け」
「努力します」
「危険なことがあったら?」
「教師へ相談します」
「誰に?」
「内容によります」
「俺にも連絡しろ」
「必要なら」
「必要かどうかを一人で決めるな」
言葉が詰まる。
ハリーが、周囲へ何度も言ってきたことだった。
一人で決めるな。
役割を分けろ。
助けを求めろ。
「分かりました」
ハリーは答えた。
「危険な事件があれば、シリウスにも連絡します」
「約束だぞ」
「シリウスも」
「何だ?」
「ゴーント家の指輪を見つけても、絶対に触らない」
「分かってる」
「箱を開けない」
「分かってる」
「声が聞こえても従わない」
「分かってる」
「蘇りの石を使おうとしない」
シリウスの返事が一瞬遅れた。
「シリウス」
「分かってる!」
「クリーチャーの指示に従う」
「俺が主人だぞ」
「指輪に関しては、クリーチャーが責任者です」
「いつ決まった?」
「今です」
列車が発車する。
シリウスは、ホームから最後まで手を振っていた。
「嬉しそうだったな」
個室へ戻り、ロンが言った。
「誰が?」
「シリウス」
「そうね」
ハーマイオニーも窓の外を見ている。
「ハリーを学校へ送り出すこと自体が、名付け親らしいと思っているんじゃない?」
「少し過保護だけど」
「あなたには、そのくらいでちょうどいいわ」
「なぜ?」
「自分のことを放っておくから」
「必要な管理はしています」
「夏休みに何回徹夜した?」
「二回」
「五回よ」
「途中で仮眠しました」
「仮眠を睡眠に数えないで」
ハリーは話題を変える。
「ハーマイオニー」
「何?」
「今年、選択科目はいくつ取った?」
「選べるものは全部」
やはり。
「時間割は?」
「学校で受け取るわ」
「授業が重なるだろ」
「調整されているの」
「どうやって?」
ハーマイオニーの目が僅かに泳いだ。
「秘密よ」
「マクゴナガル先生から、何か預かった?」
「どうして知ってるの?」
「未来の記憶」
ロンが菓子を落とした。
「時間を戻す道具か?」
「声を抑えて!」
ハーマイオニーが慌てる。
「誰にも話さないと約束したのに」
「タイムターナーだろ」
「あなたが知っていることと、私が話すことは別よ」
「今年のうちに返した方がいい」
「まだ一度も使っていないわ!」
「使えば疲れる」
「私は管理できる」
「未来では、できてなかった」
ハーマイオニーの顔に怒りが浮かぶ。
「未来の私と、今の私は違う」
「同じ計画を始めてる」
「授業を受けることの何が悪いの?」
「成長期に、時間を増やして課題を詰め込むこと」
「睡眠は確保するわ」
「授業時間を増やせば、課題の量も増える」
「計画を立ててる」
「途中で発狂する」
「発狂しない!」
「占い学でトレローニー先生へ怒鳴って辞める」
「まだ会ってもいない先生よ!」
ロンが二人を交互に見る。
「今年も、学校へ着く前から面倒だな」
「ロンは何科目?」
「普通に選んだ」
「正しい」
「お前に褒められると不安になる」
ハーマイオニーの問題は後で処理する。
今は、タイムターナーを所持していると確認できただけでよい。
「一か月使って、睡眠不足や疲労が出たら見直す」
ハリーが言う。
「あなたが決めることではないわ」
「倒れた時、助けるのは僕らだ」
「倒れない」
「前世でも、そう思っていたはずだ」
「覚えていないでしょう」
「今の君なら言う」
「勝手に決めつけないで!」
議論は平行線。
学校で時間割を確認してから、改めて話すことになった。
列車の旅は平穏だった。
吸魂鬼はいない。
シリウスは脱獄していない。
ピーターもアズカバンの特別独房にいる。
クリーチャーの作ったサンドイッチ。
シリウスが持たせた果物。
列車販売の菓子。
明らかに量が多い。
「全部食べるの?」
ロンが尋ねる。
「残すとクリーチャーが気にする」
「手伝おうか?」
「昼食は食べただろ」
「成長期だから」
「便利な言葉を覚えたな」
午後。
個室の扉が開いた。
くたびれたローブ。
白いものが混ざった髪。
痩せた顔。
穏やかな目。
リーマス・ルーピン。
「ここにいたのか」
「ルーピン先生」
「まだ授業は始まっていないよ」
「今年の教授でしょう」
「ダンブルドアから聞いた?」
「未来で知っていました」
「そうだったね」
リーマスは、空いている席へ腰を下ろした。
「シリウスとは?」
ハリーが尋ねる。
「会ったよ」
「喧嘩しましたか?」
「少し」
「原因は?」
「互いを疑っていたこと。学生時代のこと。セブルスのこと」
「全部ですね」
「そうとも言う」
「解決しました?」
「完全には」
リーマスは正直だった。
「十二年は長い。謝れば以前と同じに戻れるわけではない」
「戻る必要はありません」
「シリウスにも言われた」
「本当に?」
「君から教えられたと」
「なら、少しは成長していますね」
「名付け親への評価が厳しいな」
「危険な行動が多いので」
「君が言うのかい?」
「皆、同じ反応をします」
ロンとハーマイオニーが挨拶する。
「今年はよろしくお願いします」
ハーマイオニーが言った。
「こちらこそ」
「授業内容は?」
「最初の授業前に話してしまうと、面白みがなくなる」
「安全対策は?」
「当然するよ」
「初回から危険な生物を放したりは?」
「前任者の話かな?」
「はい」
「しない」
それだけで、ロックハートより信用できる。
「一年で辞めないでください」
ハリーが言った。
リーマスの表情が少し曇る。
「始まる前から、随分先の話だね」
「前世では辞めました」
「理由も聞いた」
「スネイプ先生が、狼人間であることを生徒へ漏らした」
「セブルスだけを責めないでくれ」
「まだ責めていません」
「顔が責めている」
「なぜ漏らしたのか、本人に確認します」
「私にも責任があった」
「満月の夜に、毒狼薬を飲まなかったこと?」
「正確には、飲む前に外へ出た」
叫びの屋敷。
シリウス。
ピーター。
未来のハリーたち。
事件に気を取られ、リーマスは薬を飲み忘れた。
満月。
変身。
危険。
「今年は忘れないでください」
「もちろんだ」
「スネイプ先生にも毎月確認してもらいます」
「彼には頼みにくい」
「僕が頼みます」
「余計に関係が悪化しないかな」
「すでに悪いので、下がる余地は少ない」
「そういう考え方をするのか」
リーマスは困ったように笑った。
「ハリー」
「はい」
「君は、未来の私について、どこまで知っている?」
「かなり」
「私は戦争で死ぬ?」
個室が静まり返った。
本人から直接聞かれるとは思っていなかった。
「今は答えません」
「やはり、死ぬんだね」
「未来で死なない人はいません」
「言葉を逸らした」
「自分の死を知れば、行動が変わります」
「変えるための未来の知識では?」
「必要な時に伝えます」
リーマスは、長くハリーを見た。
「君の中には、私より年上の人物がいるのかもしれない」
「記憶だけです」
「それでも、私にとってはジェームズの息子だ」
「はい」
「守るべき子供でもある」
「必要な時には頼ります」
「本当に?」
「努力します」
「ダンブルドアと同じ言い方だ」
「やめてください」
リーマスが声を上げて笑った。
夕方。
ホグワーツ特急は駅へ到着した。
馬車の前には、セストラル。
黒い翼。
骨の浮いた身体。
ハリーには、最初の年から見えていた。
前世で多くの死を見た記憶が残っているからだろう。
「馬がいないのに動いてる」
ロンが言う。
「いる」
ハリーが答えた。
「何が?」
「セストラル」
「死を見た者にだけ見える魔法生物ね」
ハーマイオニーが言う。
「ハリーには見えるの?」
「ああ」
「いつ死を見た?」
ロンが尋ねる。
「未来で」
「ああ」
納得が早い。
大広間。
組分け。
食事。
教職員席には、リーマスが座っている。
隣のスネイプは、不機嫌そうな顔をしていた。
二人は視線を合わせない。
ダンブルドアが立ち上がる。
新年度の歓迎。
禁じられた森の管理規則変更。
魔法省の査察に伴う立入禁止区域の再設定。
そして。
「今年度、闇の魔術に対する防衛術を担当するリーマス・ルーピン教授じゃ」
拍手。
リーマスは立ち上がり、短く頭を下げた。
長い自己紹介はない。
「短いな」
ロンが言う。
「普通はこれでいい」
「去年のせいで感覚がおかしくなった」
ダンブルドアの話は続く。
「また、今年度より、魔法生物飼育学をルビウス・ハグリッドが担当する」
大きな拍手。
ハグリッドは、顔を赤くして手を振っている。
魔法生物飼育学。
前世では、最初の授業でヒポグリフを扱った。
ドラコが指示を無視。
バックビークを侮辱。
腕を切られる。
ルシウスが処刑を求める。
今回も起きる可能性が高い。
ハリーはスリザリンの席を見る。
ドラコ・マルフォイ。
クラッブとゴイルに囲まれ、元気そうに話している。
夏休み中に成長した様子はない。
「先に警告しよう」
ハリーが呟く。
「ドラコに?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「ああ」
「聞くかしら」
「聞かなくても、言った事実は残る」
翌朝。
大広間を出るドラコを呼び止めた。
「マルフォイ」
「何だ、ポッター」
「今日の魔法生物飼育学で、ヒポグリフへ近づく時は礼をしろ」
ドラコが眉をひそめる。
「朝から何を言ってる?」
「相手が礼を返すまで近づかない。侮辱しない。後ろから近づかない」
「僕が、そんなことも知らないと?」
「知らないから言っている」
クラッブとゴイルが笑う。
ドラコの顔が赤くなる。
「父上は、世界中の珍しい魔法生物を見たことがある」
「君ではなく、父親の話だろ」
「僕もヒポグリフくらい知っている!」
「なら問題ない」
ハリーは歩き出す。
「待て!」
「何?」
「なぜ急に僕へ教える?」
「怪我をすると面倒だから」
「僕が怪我を?」
「ああ」
「お前が何かするのか?」
「ヒポグリフが」
「僕が獣に傷つけられると?」
「侮辱すれば」
ドラコは鼻で笑った。
「僕はマルフォイだぞ」
「ヒポグリフに家名は通じない」
「黙れ、ポッター」
「警告はした」
本人の選択。
それ以上は無理に止めない。
最初の占い学。
香の煙。
薄暗い教室。
丸い机。
色とりどりのクッション。
シビル・トレローニーは、未来と同じように大きな眼鏡を掛けていた。
「あなたには」
彼女は、ハリーを見つめる。
「大きな影が見えます」
「知っています」
「死の兆し」
「何度も見ました」
「恐ろしい運命が」
「具体的には?」
トレローニーが止まる。
「黒い犬」
「シリウスです」
「何ですって?」
「名付け親が黒い犬へ変身できます」
教室がざわつく。
「それは死神犬、グリムです!」
「前世でも、同じことを言われました」
「前世?」
「気にしないでください」
ロンが机へ顔を伏せ、笑いを堪える。
ハーマイオニーはトレローニーを真剣に観察していた。
占い学を辞めさせるのは、後でよい。
本人が授業の実態を確認した方が、納得しやすい。
問題は、午後の魔法生物飼育学だった。
禁じられた森の外れ。
ハグリッドは、緊張で何度も手を擦り合わせている。
「今日は、すげえ生き物を見せてやる」
森の奥から、複数のヒポグリフが現れる。
鷲の頭と前脚。
馬の胴体。
鋭い嘴。
光る目。
「美しい」
ハーマイオニーが呟く。
ハグリッドは、ヒポグリフへ近づく際の注意を説明した。
礼をする。
相手が返すまで待つ。
目を逸らしすぎない。
侮辱しない。
背後へ回らない。
説明自体は正しい。
最初の実演役として、ハリーが指名された。
「ハリー。やってみろ」
「分かりました」
前へ出る。
バックビーク。
銀灰色の羽。
鋭い橙色の目。
ハリーは深く礼をする。
待つ。
バックビークも、前脚を折って礼を返す。
近づく。
嘴の近くを撫でる。
「よし!」
ハグリッドが嬉しそうに叫ぶ。
背に乗るよう促される。
断ってもよい。
だが、ハグリッドの初授業。
成功例を見せる意味はある。
ハリーは背へ乗る。
バックビークが走る。
翼。
浮上。
校庭の上を一周。
箒とは違う。
生き物の動き。
羽ばたくたびに身体が上下する。
前世では恐怖もあった。
今は余裕がある。
地上へ降りる。
生徒たちから拍手。
「次は、皆でやってみろ」
ハグリッドが言う。
ここから。
未来と同じ流れ。
「最初は一人ずつの方がいい」
ハリーが止めた。
「大丈夫だ。こいつらは、ちゃんと扱えば」
「扱い方を知らない生徒がいます」
ドラコを見る。
「僕を見るな、ポッター」
「朝に説明した」
「必要ない」
ドラコは、黒いヒポグリフへ近づく。
礼。
形だけ。
相手が返す前に、一歩進む。
「待て」
ハリーが言う。
「相手の礼を待て」
「臆病者には時間が必要らしい」
「ドラコ」
ハグリッドも止める。
「下がれ」
「こんな不細工な鳥を恐れると思うのか?」
ヒポグリフの身体が固くなる。
「下がれ!」
ハリーは杖を上げた。
同時。
ヒポグリフの前脚が振るわれる。
ハリーは、ドラコの身体を横へ引く。
杖なし魔法。
完全には避けきれない。
爪がローブと腕を浅く裂く。
「痛い!」
ドラコが地面へ倒れる。
血。
だが、傷は浅い。
前世より軽い。
「動くな」
ハリーはヒポグリフとドラコの間へ障壁を作る。
バックビークたちが興奮している。
ハグリッドが声を掛け、落ち着かせる。
「僕は死ぬ!」
ドラコが叫ぶ。
「死にません」
ハーマイオニーが傷を見る。
「皮膚が切れているだけよ」
「血が出てる!」
「切れたので」
「父上に言う!」
「先にポンフリー先生へ」
ドラコを浮かせる。
医務室へ運ぶ。
その途中も、本人は死ぬ、腕がなくなる、父親が黙っていないと叫び続けた。
「まるで成長してないな」
ロンが呟く。
「警告したのに」
ハーマイオニーが言う。
「本人が選んだ」
ハリーは答えた。
ただし。
ハグリッドにも責任がないわけではない。
初回授業。
ヒポグリフ。
十三歳の生徒。
複数人を同時に近づかせる。
危険な行動をする生徒への物理的な防護がない。
魔法生物に詳しいことと、教師として安全に授業を運営できることは別だった。
夕方。
ハグリッドの小屋。
彼は大きな椅子へ座り、両手で顔を覆っていた。
「終わりだ」
「終わっていません」
ハリーが言う。
「マルフォイが父親へ言う」
「言うでしょう」
「バックビークが処刑される」
「まだ決まっていません」
「俺も教師を辞めさせられる」
「改善するべき点はあります」
ハグリッドが顔を上げる。
「お前まで、俺が悪いって言うのか?」
「責任の一部はあります」
曖昧に慰めても意味はない。
「説明はしました。ドラコも無視した。でも、事故を止める安全策がなかった」
「ヒポグリフは、礼儀を守れば」
「守らない生徒もいます」
「それじゃあ、何も教えられねえ」
「最初は一人ずつ。教師が隣へ立つ。生徒とヒポグリフの間に障壁を準備する。侮辱した時点で離す」
具体的な改善。
「魔法生物の知識だけでは、授業になりません」
ハーマイオニーも言う。
「生徒が失敗することまで考える必要があるわ」
「でもよ」
「バックビークを守るためにも、責任を認めて改善案を出してください」
ハリーが続ける。
「全部ドラコが悪いと言えば、委員会は反省がないと判断します」
「俺が悪いと言えば?」
「ドラコが警告を無視した事実も同時に出す」
「両方?」
「責任は一人だけにあるとは限りません」
ハグリッドは長く黙った。
「分かった」
「それから」
ハリーは小屋の中を見回す。
大きな卵。
動く箱。
何かが鳴いている壺。
「危険な生物を、無許可で飼っていませんね?」
「飼ってねえ」
「本当に?」
「今は」
「今は?」
「飼ってねえって!」
不安が残った。
その日のうちに、ハリーはシリウスへ手紙を書いた。
『ヒポグリフがドラコ・マルフォイを軽く傷つけました。
ルシウスが処刑を求める可能性があります。
魔法生物の処分手続きが、マルフォイ家の圧力だけで決まらないよう確認してください。
可能であれば、ブラック家から独立した専門家と法務担当を用意してください。
費用が必要なら、後で返します。
ハリー』
返事は、翌朝に届いた。
『任せろ。
金は返さなくていい。
ブラック家の金は、名付け親らしいことへ使う。
ルシウスへは、俺から話す。
それより、お前は怪我をしていないだろうな。
シリウス』
早い。
そして、最後は必ずハリーの心配だった。
三日後。
魔法省の調査官がホグワーツへ来た。
危険生物処理委員会。
法務担当。
魔法法執行部の立会人。
ブラック家の代理人。
ルシウス・マルフォイ。
そして。
「遅れてすまない」
シリウス本人まで現れた。
黒いローブ。
ブラック家の紋章。
以前より健康を取り戻した顔。
「シリウス」
ハリーが言う。
「来たんですか?」
「名付け子から、初めて仕事を頼まれたからな」
「代理人だけで十分でした」
「俺がいた方が話が早い」
シリウスとルシウスの視線がぶつかる。
「ブラック」
「マルフォイ」
親戚。
純血名家の当主同士。
友好的な空気は一切ない。
「アズカバンを出たばかりの男が、学校問題へ口を出すのか?」
ルシウスが言う。
「無罪になった男だ」
「十三年間収監された事実は消えない」
「魔法省の失敗も消えない」
シリウスは笑った。
「その失敗を、世間はまだ注目している」
「何が言いたい?」
「名家の圧力で、正式な審査前に魔法生物の処刑が決まったと新聞に出れば、面白いだろうな」
「脅しか?」
「公正な手続きを求めている」
「ブラック家は、半巨人の獣を守るのか?」
「人間を傷つけた生物は、必ず処刑するべきだと?」
「当然だ」
「決闘で人を傷つけた魔法使いも、全員処刑するのか?」
「同列ではない」
「知性があるなら責任を問う。知性が低いなら管理者の責任を問う。どちらにしても、ドラコの行動を無視して獣だけ殺す理由にはならない」
ルシウスの顔が冷える。
「息子を侮辱するな」
「警告を無視して、危険な生物を侮辱した。事実だ」
「十三歳の子供だぞ」
「だから、失敗から学ばせろ」
「君に子育てが分かるのか?」
シリウスの表情が変わる。
「十三年間できなかった」
低い声。
「だから、これから学ぶ」
一瞬。
ルシウスも言葉を失った。
「ハリーが指示を無視して怪我をしたなら、俺は獣を殺す前に、本人へなぜ無視したか聞く」
「名付け子と実子を同じにするな」
「家族だ」
迷いのない言葉。
ハリーは、表情へ出さないようにした。
「審査を始めます」
魔法省の担当者が割って入った。
証言。
ハグリッドの説明。
ハリーの警告。
同級生たちの証言。
ドラコ本人の発言。
ポンフリーの診断。
傷は浅い。
後遺症なし。
バックビークは、ドラコが侮辱するまでは命令に従っていた。
事故後も、ハグリッドの声で落ち着いた。
「ポッター氏」
調査官が尋ねる。
「授業前にも、マルフォイ氏へ警告した?」
「はい」
「なぜ事故を予測できた?」
「危険な行動を取る性格だと知っていたからです」
「それだけ?」
「それ以上は話せません」
未来の記憶を、法的証言へ持ち込む必要はない。
「授業中も止めた?」
「相手が礼を返すまで待つよう言いました」
「マルフォイ氏は?」
「無視しました」
ドラコは不満そうに顔を背ける。
「子供の言葉だ!」
ルシウスが口を挟む。
「生徒が何を言おうと、教師は守る義務がある」
「その点は認めます」
ハリーが答える。
ルシウスが僅かに止まる。
「ハグリッド教授には、授業上の管理責任があります」
「ならば」
「だからといって、バックビークの処刑が必要とは限りません」
「息子を襲った獣だ」
「警告を無視し、故意に刺激した結果です」
「子供へ責任を押しつけるのか?」
「責任は分けられます」
教師。
生徒。
学校。
飼育される魔法生物。
「バックビークを殺すだけでは、次の授業で同じ事故が起きます」
「その獣を授業から除けばよい」
「授業方法の改善は必要です」
「君は、どちらの味方だ?」
「安全な授業と、公正な判断の味方です」
審査は続いた。
最後。
危険生物処理委員会の主任が、結論を読み上げる。
「当該ヒポグリフについて、処刑相当の異常な攻撃性は認められない」
ハグリッドが息を呑む。
「よって、処刑申請は却下する」
「異議を申し立てる!」
ルシウスが声を上げる。
「正式な手続きにより受理します」
「魔法省は、子供より獣を優先するのか?」
「子息の怪我は完治しています」
「傷の問題ではない。マルフォイ家の名誉だ」
「名誉は、危険生物処理委員会の管轄外です」
シリウスが笑いを堪える。
「何がおかしい」
ルシウスが睨む。
「いや」
シリウスは口元を押さえた。
「マルフォイ家の名誉が、ヒポグリフより傷つきやすいとは知らなかった」
「貴様」
「シリウス」
ハリーが呼ぶ。
「分かってる」
シリウスは黙った。
「ただし」
主任が続ける。
「安全対策が改善されるまで、ホグワーツでの授業使用を停止する」
「バックビークは?」
ハグリッドが尋ねる。
「学校内の飼育区域で管理する。再審査後、授業使用を判断する」
「処刑されねえ?」
「されない」
ハグリッドの目に涙が浮かぶ。
「よかったな、バックビーク!」
抱きつこうとして、嘴に小突かれた。
「嫌がっています」
ハーマイオニーが言う。
審査終了後。
ルシウスはドラコを連れ、先に去ろうとした。
扉の前で、ハリーを振り返る。
「君は、マルフォイ家を敵に回すつもりか?」
「日記をジニー・ウィーズリーへ渡そうとした時点で、友好的な関係ではないでしょう」
室内が静まり返る。
ルシウスの顔から血の気が引いた。
今回、実行されなかった未来。
ハリーが先に日記を回収したため、証拠はない。
「何の話だ」
「将来、しようとしていたことです」
「妄想か?」
「そういうことにしておきましょう」
追及する必要はない。
ハリーがどこまで知っているのか。
その不安だけで十分だった。
ルシウスは何も答えず、扉を閉めた。
ハグリッドは、何度もシリウスへ礼を言った。
「金は返す」
「いらない」
「でもよ」
「ブラック家の金だ。こういう時に使う」
「俺なんかのために」
「ハリーが助けたいと言った」
シリウスが答える。
「それで十分だ」
「シリウス」
ハリーが呼ぶ。
「ありがとうございます」
「もっと褒めていいぞ」
「調子に乗らないでください」
「お前は本当に可愛げがないな」
その日の夕方。
シリウスはホグワーツへ一泊することになった。
廊下。
最悪の相手と遭遇する。
「ブラック」
スネイプ。
「スニベラス」
シリウス。
ハリーは頭を抱えた。
「その呼び方をやめろ」
「昔からの呼び方だ」
「大人でしょう」
ハリーが言う。
「こいつが先にブラックと言った」
「名前です」
スネイプの目が細くなる。
「学校へ何をしに来た」
「ハリーに頼まれて、役に立ちにな」
「珍しい」
「喧嘩を売ってるのか?」
「事実を述べただけだ」
「二人とも」
リーマスが廊下の奥から現れた。
「生徒が見ている」
周囲には、数人の生徒。
元アズカバン囚人。
元死喰い人。
事情を知らない者にも、空気が悪いことだけは伝わる。
「ちょうどいい」
ハリーは三人を見る。
「話があります」
「嫌な予感がする」
シリウスが言う。
「正しいです」
空き教室。
防音。
施錠。
ハリーはシリウスへ向き直った。
「ゴーント家の調査は?」
「明日から始める」
「クリーチャーと?」
「ああ」
「指輪には強い呪いがあります」
「聞いた」
「触れた場合、死ぬ可能性が高い」
「分かってる」
「箱も開けない」
「分かってる」
「声が聞こえても」
「何度目だ!」
スネイプが二人を睨む。
「何の指輪だ」
「ヴォルデモートの分霊箱です」
室内が静まる。
「なぜ私に報告がない」
「今、しています」
「発見前に話せ」
「場所はシリウスへ伝えました」
「ブラックに?」
「問題か?」
シリウスが睨む。
「大問題だ」
「俺は、古い純血家の魔法に詳しい」
「学生時代、勉強していた記憶がない」
「お前より成績はよかった」
「魔法薬以外で?」
「二人とも」
リーマスが止める。
「スネイプ先生にも協力をお願いします」
ハリーが続けた。
「呪いの解析。封印。破壊後の確認」
「校長は?」
「発見後に伝えます」
スネイプの眉が上がる。
「なぜだ」
「指輪の石が、死者を呼ぶ力を持つからです」
リーマスの表情が変わる。
シリウスは黙る。
「死者を?」
スネイプが尋ねた。
「蘇りの石です」
今度は、スネイプも完全に動きを止めた。
リリー。
その名を出す必要はない。
「ダンブルドア先生は、未来でその石に触れて呪いを受けます」
「なぜ?」
「妹に会えると思ったから」
スネイプは何も言わない。
「だから発見するまで、正確な場所を教えません」
「私にも教えるべきではなかったな」
スネイプが低く言う。
正直な反応だった。
「先生は触らないでください」
「当然だ」
「リリーに会えるとしても?」
スネイプの顔が凍る。
シリウスも、笑わなかった。
長い沈黙。
「……触らん」
スネイプは答えた。
「約束してください」
「約束する」
これでよい。
本人が誘惑の存在を理解した上で、言葉にする。
「発見後、全員で破壊します」
ハリーが言う。
「一人では近づかない」
「お前もだ」
シリウスが返す。
「はい」
「約束しろ」
「約束します」
一つ目の仕事。
ヒポグリフの処刑は回避した。
二つ目。
ゴーント家の指輪。
今度は、未来でダンブルドアを死へ追いやった分霊箱を、先に潰す。
今年は。
シリウスに働いてもらう年だった。