80歳のハリーポッターが11歳に戻った場合   作:金縛り

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1年目 飛ばない選択

 ホグワーツへ入学して最初の一週間で、ハリーは一つの問題に直面した。

 

 授業が、あまりにも簡単だった。

 

 浮遊呪文。

 

 初歩的な変身術。

 

 魔法薬の基礎。

 

 魔法史。

 

 どれも、かつて学んだ内容である。

 

 忘れていた細部は多少あったが、闇払い局長として現場に立ち続けたハリーにとって、一年生の授業は復習以前のものだった。

 

 だからといって、すべてを完璧にこなすわけにはいかない。

 

 十一歳の少年が、初日から無言呪文を使い、複雑な変身術を成功させれば、間違いなく調査される。

 

 ハリーは意識して失敗した。

 

 呪文学では、羽根を一度目で浮かせず、二度目で成功させる。

 

 変身術では、マッチ棒を完全な針にせず、先端にだけ金属の光沢を出す。

 

 魔法薬では手順通りに作るが、完成度を上げすぎない。

 

 難しかった。

 

 失敗するための加減は、成功するより神経を使う。

 

「ポッター」

 

 地下教室で、スネイプの低い声が響いた。

 

「アスフォデルの根の粉末を、ニガヨモギの煎じ汁へ加えると何になる?」

 

「生ける屍の水薬です」

 

「ベゾアールはどこから採れる?」

 

「山羊の胃です。多くの毒に対する解毒作用があります」

 

「トリカブトとモンクスフードの違いは?」

 

「同じ植物の別名です」

 

 教室が静まり返る。

 

 一度目の人生では答えられなかった質問だ。

 

 今回は教科書を読んだことにして、必要最低限を答えた。

 

「随分と勉強熱心らしいな」

 

「授業で困らないように予習しました」

 

「有名人は、自分が特別扱いされると思っているものだが」

 

「思っていません」

 

「口答えか?」

 

「質問に答えました」

 

 スネイプの目が細くなる。

 

「グリフィンドールから一点減点」

 

 理不尽だった。

 

 だが、妙に懐かしかった。

 

 ハリーは黙って作業へ戻る。

 

 隣にいたロンが小声で言った。

 

「何で減点されたんだ?」

 

「たぶん、呼吸したから」

 

 ロンが吹き出し、さらに一点減点された。

 

 昼間は目立たないように過ごし、夜になると訓練を始める。

 

 最初の目的地は、七階にある必要の部屋だった。

 

 透明マントはまだない。

 

 だが、城の抜け道も、フィルチの巡回経路も覚えている。

 

 動く階段の癖も、どの肖像画が夜更かししているかも知っている。

 

 問題なく七階へ到着する。

 

 何もない壁の前を三度歩く。

 

 誰にも見つからず、魔法の訓練ができる場所が必要だ。

 

 壁に扉が現れた。

 

 中は広い訓練場になっていた。

 

 呪文を受け止める壁。

 

 衝撃を和らげる床。

 

 標的用の人形。

 

 時計。

 

 水差し。

 

 必要な物が過不足なく揃っている。

 

「最初から授業に使えばいいのにな」

 

 ホグワーツの教育方針には、昔から理解できない部分が多い。

 

 ハリーは杖を抜いた。

 

「ステューピファイ」

 

 赤い光が人形へ直撃する。

 

 人形が後方へ吹き飛び、壁に激突した。

 

 威力が強すぎる。

 

 次は半分。

 

 さらに半分。

 

 子供の身体に合わせて、魔力の出力を調整する。

 

 呪文の知識に問題はない。

 

 発動速度も悪くない。

 

 しかし、十数回続けると腕が重くなり、呼吸が乱れた。

 

 筋力。

 

 持久力。

 

 魔力の総量。

 

 すべてが足りない。

 

 特に問題なのは、頭が覚えている動きに身体が追いつかないことだった。

 

 以前なら避けられた攻撃でも、この短い足では間に合わない。

 

 杖を振る角度も、腕の長さに合わせて修正する必要がある。

 

「やることが多いな」

 

 次は杖なし魔法。

 

 机の上に置かれた木片へ手を向ける。

 

 引き寄せる。

 

 木片が僅かに動いた。

 

 もう一度。

 

 今度は手元まで飛んでくる。

 

 自宅での訓練より、明らかに精度が上がっている。

 

 杖を使ったことで、魔力を流す感覚が戻ってきたためだろう。

 

 ただし、ハリーが本当に学びたいものは別にある。

 

 屋敷しもべ妖精の魔法。

 

 魔法使いとは異なる原理で動き、ホグワーツの結界さえ無視する力。

 

 一度目の人生で厨房を訪れたのは、もっと後だった。

 

 だが、場所は知っている。

 

 問題は、十一歳の生徒が夜中に厨房へ現れれば、妖精たちが食事を求めて来たと勘違いすることだった。

 

 そこでハリーは、必要の部屋を利用した。

 

 一度部屋を出る。

 

 壁の前を三度歩く。

 

 屋敷しもべ妖精と、誰にも知られず話せる部屋が必要だ。

 

 新たな扉が現れた。

 

 開けると、小さな居間になっていた。

 

 低い机。

 

 柔らかい椅子。

 

 紅茶と菓子。

 

 そして中央に、一人の屋敷しもべ妖精が立っている。

 

 大きな耳と丸い目。

 

 清潔な布を身につけていた。

 

「お呼びでございますか、ハリー・ポッター様」

 

「僕の名前を知っているのか?」

 

「ホグワーツで働く妖精は、生徒の皆様のお名前を存じております。ハリー・ポッター様は特に有名でございます」

 

「君の名前は?」

 

「ティビーと申します」

 

「ティビー。お願いがある」

 

 妖精は勢いよく頭を下げた。

 

「何なりとお申しつけくださいませ」

 

「屋敷しもべ妖精の魔法を、僕に教えてほしい」

 

 ティビーが固まった。

 

 丸い目が、こぼれ落ちそうなほど見開かれる。

 

「人間の魔法使い様が、妖精の魔法を?」

 

「ああ」

 

「妖精の魔法は、妖精の魔法でございます」

 

「人間には使えない?」

 

「ティビーには分かりません。人間の魔法使い様が学ぼうとなさったという話を、聞いたことがございません」

 

 不可能なのではない。

 

 誰も本気で試していないだけ。

 

 魔法使いは屋敷しもべ妖精を下に見ている。

 

 命令することはあっても、教えを請おうとはしない。

 

「なら、僕が試す」

 

「なぜでございますか?」

 

「杖を失っても、自分と他人を守れるようになりたい」

 

 ハリーは頭を下げた。

 

「教えてほしい、ティビー」

 

 妖精の目から、大粒の涙が溢れた。

 

「ハリー・ポッター様が、ティビーにお願いをなさいました!」

 

「声を抑えて」

 

「申し訳ございません!」

 

 ティビーは両手で口を塞いだ。

 

「教えてくれる?」

 

「ティビーにできることでしたら、何でもいたします!」

 

 訓練は、その日から始まった。

 

 妖精の魔法は、魔法使いの呪文とは根本的に考え方が違った。

 

 魔法使いは、魔力を杖へ流し、呪文によって現象の形を定める。

 

 屋敷しもべ妖精は、結果を先に定める。

 

 カップが机から手元へ移るべきだ。

 

 扉が閉じるべきだ。

 

 自分が別の場所にいるべきだ。

 

 そこへ至る過程は、魔法へ任せる。

 

「カップを浮かせようとは考えないのか?」

 

「考えません。カップがハリー・ポッター様の前にあるべきだと考えます」

 

 ティビーが指を鳴らす。

 

 カップが消え、次の瞬間にはハリーの前へ現れた。

 

「途中の移動は?」

 

「必要ございません」

 

「便利すぎるな」

 

 魔法使いが何百年も研究してきた制約を、妖精は当然のように無視している。

 

 ハリーも試した。

 

 カップが自分の前にあるべきだと考える。

 

 何も起こらない。

 

 力を込める。

 

 カップが僅かに震えた。

 

「今のは?」

 

「魔法使い様の魔法でございます」

 

「違いが分かるのか?」

 

「はい。ハリー・ポッター様は、カップを動かそうとなさいました。妖精は、カップがそこにあると考えます」

 

 言葉では僅かな違いだ。

 

 だが、魔法としては大きく異なる。

 

 長年染みついた思考を変えなくてはならない。

 

 焦る必要はない。

 

 毎晩少しずつ続ける。

 

 杖を使った戦闘訓練。

 

 杖なし魔法。

 

 妖精の魔法。

 

 身体づくり。

 

 睡眠時間は削らない。

 

 成長期の身体に無理をさせれば、将来の魔力や体格に影響が出るかもしれない。

 

 食事も十分に取る。

 

「最近、すごく食べるな」

 

 夕食中、ロンが言った。

 

「運動してるから」

 

「いつ?」

 

「朝と夜」

 

「何の運動?」

 

「走ったり、杖を振ったり」

 

「そんなことして楽しい?」

 

「必要だから」

 

「何に?」

 

 ハリーはパンを口へ入れた。

 

「健康に」

 

「やっぱり年寄りみたいだな」

 

 入学から一か月ほど経った頃、杖なしで軽い物を自由に引き寄せられるようになった。

 

 妖精の魔法は、まだ成功していない。

 

 だが、魔力の消費量は少しずつ減っている。

 

 方向は間違っていなかった。

 

 そして、飛行訓練の日が来た。

 

 グリフィンドールとスリザリンの一年生が、校庭へ並ぶ。

 

 地面には古い箒が置かれている。

 

 マダム・フーチが鋭い目で生徒たちを見回した。

 

「右手を箒の上へ出しなさい。そして、手元へ来るようにはっきり命じるのです!」

 

 ハリーは箒へ手を向けた。

 

「上がれ」

 

 箒が静かに手へ収まる。

 

 勢いよく飛び上がらないよう抑えた。

 

 隣ではロンの箒が地面を転がり、ドラコ・マルフォイの箒はすぐに手へ収まった。

 

 ネビルは青ざめている。

 

 この後に起こることを、ハリーは知っていた。

 

 緊張したネビルが、合図より先に地面を蹴る。

 

 箒が制御不能になり、高く上昇する。

 

 落下して手首を折る。

 

 その後、ドラコが思い出し玉を奪い、ハリーが箒で追う。

 

 マクゴナガルに飛行技術を見出され、クィディッチチームへ入る。

 

 今回は必要ない。

 

 クィディッチは好きだった。

 

 若い頃だけでなく、老いてからも試合を見るのを楽しみにしていた。

 

 だが、自分で参加する時間はない。

 

 練習。

 

 試合。

 

 作戦会議。

 

 その時間を、ヴォルデモートを倒す準備へ使うべきだった。

 

「私の合図があるまで、地面を蹴ってはいけません!」

 

 マダム・フーチが言う。

 

 ネビルの足が震えている。

 

 次の瞬間、彼の箒が浮かび上がった。

 

「ロングボトム!」

 

 マダム・フーチが叫ぶ。

 

 箒は急上昇する。

 

 十メートル。

 

 十五メートル。

 

 ネビルがしがみつく。

 

 手が滑る。

 

 身体が空中へ放り出された。

 

 ハリーは杖へ手を伸ばさなかった。

 

 間に合わない。

 

 右手を上げる。

 

 落下を止めるのではなく、速度を削る。

 

 急停止させれば、首や背骨を傷める。

 

 空気全体で受け止める。

 

 魔力を広く、薄く。

 

 ネビルの落下速度が急激に低下した。

 

 地面へ近づくにつれ、さらにゆっくりになる。

 

 最後は、柔らかな寝台へ置かれたように草の上へ着地した。

 

 沈黙。

 

 マダム・フーチがネビルへ駆け寄る。

 

「ロングボトム! どこか痛みますか?」

 

「い、いいえ」

 

「腕は?」

 

「動きます」

 

「足は?」

 

「大丈夫です」

 

 ネビルが起き上がる。

 

 傷一つない。

 

 周囲の生徒たちが、次々にハリーを見た。

 

「今の、ハリーがやったのか?」

 

 ロンが尋ねる。

 

「手を出したのは僕だ」

 

「杖を使ってないよな?」

 

「出す暇がなかった」

 

 マダム・フーチがこちらを振り返る。

 

「ポッター。今の魔法は?」

 

「落下速度を弱めました」

 

「呪文は?」

 

「唱えていません」

 

「杖なし魔法を、意図して使用したのですか?」

 

「自宅で軽い物を動かす練習はしていました」

 

「軽い物?」

 

 マダム・フーチがネビルを見る。

 

 決して軽いとは言いづらい。

 

「人に使ったのは初めてです」

 

「初めてで、これほど正確に?」

 

「うまくいって良かったです」

 

 誤魔化しきれていない。

 

 だが、ネビルに怪我をさせてまで力を隠すつもりもなかった。

 

「ロングボトムを医務室へ連れていきます。見たところ怪我はありませんが、診察は必要です」

 

 マダム・フーチが生徒たちを見回す。

 

「私が戻るまで、誰も箒へ触れてはいけません!」

 

 ネビルを連れて校舎へ向かう。

 

 地面には、ネビルが落とした思い出し玉が残されていた。

 

 ドラコが拾う。

 

「これ、あいつのだろ」

 

「置いておけ、マルフォイ」

 

 ハリーが言う。

 

「落とした方が悪いんじゃないか?」

 

「拾った物は持ち主へ返す。それだけだ」

 

「取り返してみろよ」

 

 ドラコが箒へ跨がろうとする。

 

 一度目の人生なら、挑発に乗った。

 

 今は、十一歳の子供に何を言われても腹は立たない。

 

「ロン」

 

「何?」

 

「マダム・フーチが戻ったら、マルフォイが思い出し玉を拾ったと伝えてくれ」

 

「分かった」

 

 ハリーはドラコへ背を向けた。

 

「逃げるのか、ポッター!」

 

「箒で追いかけっこをするほど暇じゃない」

 

「飛べないんだろ!」

 

「そう思っていていいよ」

 

 ドラコは顔を赤くし、思い出し玉を投げようとした。

 

 その手から、球が消える。

 

「え?」

 

 透明な球は、ハリーの右手へ収まっていた。

 

 杖なしの引き寄せ。

 

 人間一人の落下を制御することに比べれば、簡単な魔法だった。

 

「返してもらう」

 

「また杖なし魔法かよ」

 

 ロンが呟く。

 

「軽い物だから」

 

「そういう問題じゃないと思う」

 

「ポッター!」

 

 校舎から鋭い声が飛んだ。

 

 ハリーは小さく息を吐く。

 

 ミネルバ・マクゴナガルが、早足でこちらへ向かってくる。

 

 窓から一部始終を見ていたらしい。

 

「私について来なさい」

 

「退学ですか?」

 

「馬鹿なことを言わないでください」

 

「減点でしょうか」

 

「それもまだ決めていません」

 

 一度目と似た流れだった。

 

 しかし、向かった先はクィディッチ主将のいる教室ではなく、無人の変身術教室だった。

 

 扉が閉じられる。

 

「座りなさい」

 

 ハリーは椅子へ座る。

 

 マクゴナガルは腕を組んだ。

 

「ポッター。落下するロングボトムを救ったのは、あなたですね」

 

「はい」

 

「どの呪文を使いましたか?」

 

「呪文は使っていません」

 

「杖なし魔法は、極めて高度な技術です」

 

「知っています」

 

「なぜ知っているのです?」

 

「本で読みました」

 

「読んだだけで使えるものではありません」

 

「練習しました」

 

「一か月で?」

 

「毎日」

 

 マクゴナガルの目が険しくなる。

 

「軽い物を動かす練習をしただけの一年生が、落下する人間を無傷で受け止めたと?」

 

「ネビルを助けなければと思ったら、できました」

 

 偶発魔法に近いものだったと匂わせる。

 

 完全な説明ではないが、教師側も否定しきれない。

 

「そして、その後は思い出し玉を引き寄せました」

 

「それは練習していました」

 

「あなたは自分が、どれほど異常なことをしているか理解していますか?」

 

「目立ちたくはありませんでした」

 

「では、なぜ使ったのです?」

 

「ネビルが落ちたからです」

 

 ハリーは真っ直ぐマクゴナガルを見た。

 

「力を隠すために、友人が怪我をするのを見ているつもりはありません」

 

 マクゴナガルの表情が僅かに変わった。

 

「友人なのですか?」

 

「同じ寮の生徒です。それで十分です」

 

 短い沈黙。

 

 やがて、マクゴナガルが息を吐いた。

 

「あなたの判断は正しい。しかし、今後は教師の監督なしに、安易に杖なし魔法を人へ使用してはいけません」

 

「命の危険がある場合は?」

 

「その場合は例外です」

 

「分かりました」

 

「もう一つあります」

 

 嫌な予感がした。

 

「あなたの飛行能力を確認します」

 

「なぜですか?」

 

「落下するロングボトムの速度と位置を、あなたは正確に判断しました。空間把握能力が非常に高い可能性があります」

 

「魔法と箒は別物では?」

 

「乗ってみれば分かります」

 

「授業で乗ります」

 

「個別に確認します」

 

 回避しようとした方向から、別の道で囲まれた。

 

「先に申し上げておきます」

 

 ハリーは言った。

 

「クィディッチチームには入りません」

 

 マクゴナガルの眉が上がる。

 

「まだ勧誘していません」

 

「勧誘されても断ります」

 

「なぜです?」

 

「他に優先したい勉強があります」

 

「クィディッチも学校生活における貴重な経験です」

 

「それは理解しています。ですが、僕には時間がありません」

 

「十一歳のあなたが、何をそれほど急いでいるのです?」

 

 鋭い質問だった。

 

 答えられない。

 

 クィレルの後頭部にヴォルデモートがいる。

 

 来年は日記がジニーを狙う。

 

 三年目にはピーターが逃げる。

 

 四年目にはヴォルデモートが復活する。

 

 時間があるように見えて、実際にはほとんどない。

 

「自分の魔法を制御したいんです」

 

 ハリーは答えた。

 

「今日のように、偶然成功するだけでは困ります。次も誰かを助けられるようにしたい」

 

「クィディッチは遊びではありません」

 

「先生にとっては、特にそうでしょうね」

 

「どういう意味です?」

 

「グリフィンドールが負けると、とても機嫌が悪くなると上級生から聞きました」

 

 マクゴナガルの口が固く結ばれた。

 

「誰がそのようなことを?」

 

「名前は伏せます」

 

「妙なところで義理堅いのですね」

 

 放課後。

 

 ハリーはマダム・フーチとマクゴナガルの立ち会いで、箒へ乗ることになった。

 

「競技場を一周しなさい」

 

 マダム・フーチが指示する。

 

「安全な速度で構いません」

 

 飛べないふりをすることも考えた。

 

 しかし、二人ともハリーを注意深く見ている。

 

 不自然な失敗は、余計な疑念を招く。

 

 初心者として少し上手い程度に抑える。

 

 ハリーは地面を蹴った。

 

 箒が浮く。

 

 低い高度を保つ。

 

 ゆっくり加速する。

 

 曲がる際は大きく膨らみ、姿勢も少し不安定にする。

 

 半周までは完璧だった。

 

 初心者として、十分に上手い。

 

 だが天才ではない。

 

 そこで横風が吹いた。

 

 身体が反射的に動いた。

 

 箒を僅かに傾け、重心を移し、風を利用して加速する。

 

 ほとんど速度を落とさず、競技場の角を抜けた。

 

 しまった。

 

 地上でマダム・フーチが目を見開いている。

 

 ハリーは急いで速度を落とす。

 

 その減速も滑らかすぎた。

 

 地面へ着地する。

 

 長い沈黙。

 

「初めてですか?」

 

 マダム・フーチが尋ねる。

 

「箒に乗ったのは初めてです」

 

「今の旋回は、初心者にできるものではありません」

 

「風に押されました」

 

「風を利用して加速していました」

 

「偶然です」

 

「その後の減速も?」

 

「運が良かったのだと思います」

 

 苦しい言い訳だった。

 

 マクゴナガルが一歩前へ出る。

 

「ポッター。グリフィンドールのシーカーを――」

 

「お断りします」

 

「最後まで聞きなさい!」

 

「クィディッチチームへの勧誘なら、答えは変わりません」

 

 マクゴナガルの頬が僅かに引きつる。

 

「一年生が寮代表として試合に出るのは、非常に名誉なことです」

 

「分かっています」

 

「最新型の箒を用意することもできます」

 

「必要ありません」

 

「あなたは飛ぶのが嫌いなのですか?」

 

「好きです」

 

「では、なぜ?」

 

 ハリーは箒の柄を撫でた。

 

 一度目の人生で、空を飛ぶことは数少ない純粋な喜びだった。

 

 箒に乗っている間だけは、額の傷も、予言も、ヴォルデモートも忘れられた。

 

 試合に出たいという気持ちが、まったくないわけではない。

 

 しかし、今のハリーには目的がある。

 

「好きだからこそ、今は選びません」

 

「意味が分かりません」

 

「好きなことを優先して、やるべきことが遅れるのは困るという意味です」

 

「十一歳の子供が、自分の楽しみをそこまで我慢する必要があるのですか?」

 

「僕が我慢しなければ、困る人が出るかもしれません」

 

 マクゴナガルがハリーを見つめる。

 

「誰が困るのです?」

 

「まだ分かりません」

 

「では、あなたは何を知っているのです?」

 

 核心に近づかれている。

 

 ハリーは少しだけ笑った。

 

「自分が勉強不足だということです」

 

「ポッター」

 

「先生。僕は試験を受けました。飛べることも確認していただきました。その上で、チームへの参加は辞退します」

 

 言葉遣いは丁寧に。

 

 だが、譲る気がないことは明確に示す。

 

 闇払い局長として、魔法省の上級官僚と何度も交渉してきた。

 

 マクゴナガルが相手でも、引くわけにはいかない。

 

「校則上、参加は義務ではありませんね?」

 

「……ええ」

 

「では、授業へ戻っても?」

 

 マクゴナガルはしばらく黙っていた。

 

 やがて深く息を吐く。

 

「分かりました。今回は諦めましょう」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

 彼女の目が鋭くなる。

 

「あなたの魔法については、今後も注意して見ます」

 

「授業態度には気をつけます」

 

「そういう意味ではありません」

 

「分かっています」

 

 ハリーは箒をマダム・フーチへ返した。

 

 競技場を離れる。

 

 クィディッチチームへの加入は回避した。

 

 その点では計画通りだ。

 

 しかし、マクゴナガルとマダム・フーチには、完全に目をつけられた。

 

 杖なし魔法。

 

 不自然な飛行能力。

 

 授業で見せる妙な落ち着き。

 

 隠しているつもりでも、少しずつ綻びが出ている。

 

「先が思いやられるな」

 

 ハリーは呟いた。

 

 その夜、必要の部屋へ向かう。

 

 ティビーが待っていた。

 

「本日の練習を始めますか、ハリー・ポッター様?」

 

「ああ」

 

 机の上には、一つのカップが置かれている。

 

 ハリーは杖を置いた。

 

 右手も上げない。

 

 目を閉じる。

 

 カップを動かそうとしてはいけない。

 

 引き寄せようとしてもいけない。

 

 カップは、自分の前にある。

 

 そう定める。

 

 数秒間、何も起こらない。

 

 さらに意識を深く沈める。

 

 部屋。

 

 机。

 

 カップ。

 

 自分。

 

 それぞれを別の物として捉えるのではなく、一つの空間として認識する。

 

 小さな音がした。

 

 目を開ける。

 

 カップが消えていた。

 

 そして次の瞬間。

 

 ハリーの目の前で、空気が僅かに歪む。

 

 カップが現れた。

 

 机の端。

 

 最初に置かれていた場所から、およそ三十センチ。

 

 成功と呼ぶには短すぎる。

 

 だが、従来の杖なし魔法とは明らかに違った。

 

 空間を移動したのではない。

 

 一度消え、別の位置へ現れた。

 

 ティビーが両手を叩く。

 

「できました! ハリー・ポッター様が、妖精の魔法をお使いになりました!」

 

 ハリーはカップを見つめた。

 

 小さな一歩。

 

 しかし、確かな一歩だった。

 

「もう一度だ」

 

「お休みにならなくてよろしいのですか?」

 

「あと一回だけ」

 

 ティビーが心配そうに見上げる。

 

「無理はなさらないでくださいませ」

 

「分かってる」

 

 ハリーは再び目を閉じた。

 

 クィレル。

 

 賢者の石。

 

 ヴォルデモート。

 

 時間は動き始めている。

 

 箒に乗って遊んでいる暇はなかった。

 

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