ホグワーツへ入学して最初の一週間で、ハリーは一つの問題に直面した。
授業が、あまりにも簡単だった。
浮遊呪文。
初歩的な変身術。
魔法薬の基礎。
魔法史。
どれも、かつて学んだ内容である。
忘れていた細部は多少あったが、闇払い局長として現場に立ち続けたハリーにとって、一年生の授業は復習以前のものだった。
だからといって、すべてを完璧にこなすわけにはいかない。
十一歳の少年が、初日から無言呪文を使い、複雑な変身術を成功させれば、間違いなく調査される。
ハリーは意識して失敗した。
呪文学では、羽根を一度目で浮かせず、二度目で成功させる。
変身術では、マッチ棒を完全な針にせず、先端にだけ金属の光沢を出す。
魔法薬では手順通りに作るが、完成度を上げすぎない。
難しかった。
失敗するための加減は、成功するより神経を使う。
「ポッター」
地下教室で、スネイプの低い声が響いた。
「アスフォデルの根の粉末を、ニガヨモギの煎じ汁へ加えると何になる?」
「生ける屍の水薬です」
「ベゾアールはどこから採れる?」
「山羊の胃です。多くの毒に対する解毒作用があります」
「トリカブトとモンクスフードの違いは?」
「同じ植物の別名です」
教室が静まり返る。
一度目の人生では答えられなかった質問だ。
今回は教科書を読んだことにして、必要最低限を答えた。
「随分と勉強熱心らしいな」
「授業で困らないように予習しました」
「有名人は、自分が特別扱いされると思っているものだが」
「思っていません」
「口答えか?」
「質問に答えました」
スネイプの目が細くなる。
「グリフィンドールから一点減点」
理不尽だった。
だが、妙に懐かしかった。
ハリーは黙って作業へ戻る。
隣にいたロンが小声で言った。
「何で減点されたんだ?」
「たぶん、呼吸したから」
ロンが吹き出し、さらに一点減点された。
昼間は目立たないように過ごし、夜になると訓練を始める。
最初の目的地は、七階にある必要の部屋だった。
透明マントはまだない。
だが、城の抜け道も、フィルチの巡回経路も覚えている。
動く階段の癖も、どの肖像画が夜更かししているかも知っている。
問題なく七階へ到着する。
何もない壁の前を三度歩く。
誰にも見つからず、魔法の訓練ができる場所が必要だ。
壁に扉が現れた。
中は広い訓練場になっていた。
呪文を受け止める壁。
衝撃を和らげる床。
標的用の人形。
時計。
水差し。
必要な物が過不足なく揃っている。
「最初から授業に使えばいいのにな」
ホグワーツの教育方針には、昔から理解できない部分が多い。
ハリーは杖を抜いた。
「ステューピファイ」
赤い光が人形へ直撃する。
人形が後方へ吹き飛び、壁に激突した。
威力が強すぎる。
次は半分。
さらに半分。
子供の身体に合わせて、魔力の出力を調整する。
呪文の知識に問題はない。
発動速度も悪くない。
しかし、十数回続けると腕が重くなり、呼吸が乱れた。
筋力。
持久力。
魔力の総量。
すべてが足りない。
特に問題なのは、頭が覚えている動きに身体が追いつかないことだった。
以前なら避けられた攻撃でも、この短い足では間に合わない。
杖を振る角度も、腕の長さに合わせて修正する必要がある。
「やることが多いな」
次は杖なし魔法。
机の上に置かれた木片へ手を向ける。
引き寄せる。
木片が僅かに動いた。
もう一度。
今度は手元まで飛んでくる。
自宅での訓練より、明らかに精度が上がっている。
杖を使ったことで、魔力を流す感覚が戻ってきたためだろう。
ただし、ハリーが本当に学びたいものは別にある。
屋敷しもべ妖精の魔法。
魔法使いとは異なる原理で動き、ホグワーツの結界さえ無視する力。
一度目の人生で厨房を訪れたのは、もっと後だった。
だが、場所は知っている。
問題は、十一歳の生徒が夜中に厨房へ現れれば、妖精たちが食事を求めて来たと勘違いすることだった。
そこでハリーは、必要の部屋を利用した。
一度部屋を出る。
壁の前を三度歩く。
屋敷しもべ妖精と、誰にも知られず話せる部屋が必要だ。
新たな扉が現れた。
開けると、小さな居間になっていた。
低い机。
柔らかい椅子。
紅茶と菓子。
そして中央に、一人の屋敷しもべ妖精が立っている。
大きな耳と丸い目。
清潔な布を身につけていた。
「お呼びでございますか、ハリー・ポッター様」
「僕の名前を知っているのか?」
「ホグワーツで働く妖精は、生徒の皆様のお名前を存じております。ハリー・ポッター様は特に有名でございます」
「君の名前は?」
「ティビーと申します」
「ティビー。お願いがある」
妖精は勢いよく頭を下げた。
「何なりとお申しつけくださいませ」
「屋敷しもべ妖精の魔法を、僕に教えてほしい」
ティビーが固まった。
丸い目が、こぼれ落ちそうなほど見開かれる。
「人間の魔法使い様が、妖精の魔法を?」
「ああ」
「妖精の魔法は、妖精の魔法でございます」
「人間には使えない?」
「ティビーには分かりません。人間の魔法使い様が学ぼうとなさったという話を、聞いたことがございません」
不可能なのではない。
誰も本気で試していないだけ。
魔法使いは屋敷しもべ妖精を下に見ている。
命令することはあっても、教えを請おうとはしない。
「なら、僕が試す」
「なぜでございますか?」
「杖を失っても、自分と他人を守れるようになりたい」
ハリーは頭を下げた。
「教えてほしい、ティビー」
妖精の目から、大粒の涙が溢れた。
「ハリー・ポッター様が、ティビーにお願いをなさいました!」
「声を抑えて」
「申し訳ございません!」
ティビーは両手で口を塞いだ。
「教えてくれる?」
「ティビーにできることでしたら、何でもいたします!」
訓練は、その日から始まった。
妖精の魔法は、魔法使いの呪文とは根本的に考え方が違った。
魔法使いは、魔力を杖へ流し、呪文によって現象の形を定める。
屋敷しもべ妖精は、結果を先に定める。
カップが机から手元へ移るべきだ。
扉が閉じるべきだ。
自分が別の場所にいるべきだ。
そこへ至る過程は、魔法へ任せる。
「カップを浮かせようとは考えないのか?」
「考えません。カップがハリー・ポッター様の前にあるべきだと考えます」
ティビーが指を鳴らす。
カップが消え、次の瞬間にはハリーの前へ現れた。
「途中の移動は?」
「必要ございません」
「便利すぎるな」
魔法使いが何百年も研究してきた制約を、妖精は当然のように無視している。
ハリーも試した。
カップが自分の前にあるべきだと考える。
何も起こらない。
力を込める。
カップが僅かに震えた。
「今のは?」
「魔法使い様の魔法でございます」
「違いが分かるのか?」
「はい。ハリー・ポッター様は、カップを動かそうとなさいました。妖精は、カップがそこにあると考えます」
言葉では僅かな違いだ。
だが、魔法としては大きく異なる。
長年染みついた思考を変えなくてはならない。
焦る必要はない。
毎晩少しずつ続ける。
杖を使った戦闘訓練。
杖なし魔法。
妖精の魔法。
身体づくり。
睡眠時間は削らない。
成長期の身体に無理をさせれば、将来の魔力や体格に影響が出るかもしれない。
食事も十分に取る。
「最近、すごく食べるな」
夕食中、ロンが言った。
「運動してるから」
「いつ?」
「朝と夜」
「何の運動?」
「走ったり、杖を振ったり」
「そんなことして楽しい?」
「必要だから」
「何に?」
ハリーはパンを口へ入れた。
「健康に」
「やっぱり年寄りみたいだな」
入学から一か月ほど経った頃、杖なしで軽い物を自由に引き寄せられるようになった。
妖精の魔法は、まだ成功していない。
だが、魔力の消費量は少しずつ減っている。
方向は間違っていなかった。
そして、飛行訓練の日が来た。
グリフィンドールとスリザリンの一年生が、校庭へ並ぶ。
地面には古い箒が置かれている。
マダム・フーチが鋭い目で生徒たちを見回した。
「右手を箒の上へ出しなさい。そして、手元へ来るようにはっきり命じるのです!」
ハリーは箒へ手を向けた。
「上がれ」
箒が静かに手へ収まる。
勢いよく飛び上がらないよう抑えた。
隣ではロンの箒が地面を転がり、ドラコ・マルフォイの箒はすぐに手へ収まった。
ネビルは青ざめている。
この後に起こることを、ハリーは知っていた。
緊張したネビルが、合図より先に地面を蹴る。
箒が制御不能になり、高く上昇する。
落下して手首を折る。
その後、ドラコが思い出し玉を奪い、ハリーが箒で追う。
マクゴナガルに飛行技術を見出され、クィディッチチームへ入る。
今回は必要ない。
クィディッチは好きだった。
若い頃だけでなく、老いてからも試合を見るのを楽しみにしていた。
だが、自分で参加する時間はない。
練習。
試合。
作戦会議。
その時間を、ヴォルデモートを倒す準備へ使うべきだった。
「私の合図があるまで、地面を蹴ってはいけません!」
マダム・フーチが言う。
ネビルの足が震えている。
次の瞬間、彼の箒が浮かび上がった。
「ロングボトム!」
マダム・フーチが叫ぶ。
箒は急上昇する。
十メートル。
十五メートル。
ネビルがしがみつく。
手が滑る。
身体が空中へ放り出された。
ハリーは杖へ手を伸ばさなかった。
間に合わない。
右手を上げる。
落下を止めるのではなく、速度を削る。
急停止させれば、首や背骨を傷める。
空気全体で受け止める。
魔力を広く、薄く。
ネビルの落下速度が急激に低下した。
地面へ近づくにつれ、さらにゆっくりになる。
最後は、柔らかな寝台へ置かれたように草の上へ着地した。
沈黙。
マダム・フーチがネビルへ駆け寄る。
「ロングボトム! どこか痛みますか?」
「い、いいえ」
「腕は?」
「動きます」
「足は?」
「大丈夫です」
ネビルが起き上がる。
傷一つない。
周囲の生徒たちが、次々にハリーを見た。
「今の、ハリーがやったのか?」
ロンが尋ねる。
「手を出したのは僕だ」
「杖を使ってないよな?」
「出す暇がなかった」
マダム・フーチがこちらを振り返る。
「ポッター。今の魔法は?」
「落下速度を弱めました」
「呪文は?」
「唱えていません」
「杖なし魔法を、意図して使用したのですか?」
「自宅で軽い物を動かす練習はしていました」
「軽い物?」
マダム・フーチがネビルを見る。
決して軽いとは言いづらい。
「人に使ったのは初めてです」
「初めてで、これほど正確に?」
「うまくいって良かったです」
誤魔化しきれていない。
だが、ネビルに怪我をさせてまで力を隠すつもりもなかった。
「ロングボトムを医務室へ連れていきます。見たところ怪我はありませんが、診察は必要です」
マダム・フーチが生徒たちを見回す。
「私が戻るまで、誰も箒へ触れてはいけません!」
ネビルを連れて校舎へ向かう。
地面には、ネビルが落とした思い出し玉が残されていた。
ドラコが拾う。
「これ、あいつのだろ」
「置いておけ、マルフォイ」
ハリーが言う。
「落とした方が悪いんじゃないか?」
「拾った物は持ち主へ返す。それだけだ」
「取り返してみろよ」
ドラコが箒へ跨がろうとする。
一度目の人生なら、挑発に乗った。
今は、十一歳の子供に何を言われても腹は立たない。
「ロン」
「何?」
「マダム・フーチが戻ったら、マルフォイが思い出し玉を拾ったと伝えてくれ」
「分かった」
ハリーはドラコへ背を向けた。
「逃げるのか、ポッター!」
「箒で追いかけっこをするほど暇じゃない」
「飛べないんだろ!」
「そう思っていていいよ」
ドラコは顔を赤くし、思い出し玉を投げようとした。
その手から、球が消える。
「え?」
透明な球は、ハリーの右手へ収まっていた。
杖なしの引き寄せ。
人間一人の落下を制御することに比べれば、簡単な魔法だった。
「返してもらう」
「また杖なし魔法かよ」
ロンが呟く。
「軽い物だから」
「そういう問題じゃないと思う」
「ポッター!」
校舎から鋭い声が飛んだ。
ハリーは小さく息を吐く。
ミネルバ・マクゴナガルが、早足でこちらへ向かってくる。
窓から一部始終を見ていたらしい。
「私について来なさい」
「退学ですか?」
「馬鹿なことを言わないでください」
「減点でしょうか」
「それもまだ決めていません」
一度目と似た流れだった。
しかし、向かった先はクィディッチ主将のいる教室ではなく、無人の変身術教室だった。
扉が閉じられる。
「座りなさい」
ハリーは椅子へ座る。
マクゴナガルは腕を組んだ。
「ポッター。落下するロングボトムを救ったのは、あなたですね」
「はい」
「どの呪文を使いましたか?」
「呪文は使っていません」
「杖なし魔法は、極めて高度な技術です」
「知っています」
「なぜ知っているのです?」
「本で読みました」
「読んだだけで使えるものではありません」
「練習しました」
「一か月で?」
「毎日」
マクゴナガルの目が険しくなる。
「軽い物を動かす練習をしただけの一年生が、落下する人間を無傷で受け止めたと?」
「ネビルを助けなければと思ったら、できました」
偶発魔法に近いものだったと匂わせる。
完全な説明ではないが、教師側も否定しきれない。
「そして、その後は思い出し玉を引き寄せました」
「それは練習していました」
「あなたは自分が、どれほど異常なことをしているか理解していますか?」
「目立ちたくはありませんでした」
「では、なぜ使ったのです?」
「ネビルが落ちたからです」
ハリーは真っ直ぐマクゴナガルを見た。
「力を隠すために、友人が怪我をするのを見ているつもりはありません」
マクゴナガルの表情が僅かに変わった。
「友人なのですか?」
「同じ寮の生徒です。それで十分です」
短い沈黙。
やがて、マクゴナガルが息を吐いた。
「あなたの判断は正しい。しかし、今後は教師の監督なしに、安易に杖なし魔法を人へ使用してはいけません」
「命の危険がある場合は?」
「その場合は例外です」
「分かりました」
「もう一つあります」
嫌な予感がした。
「あなたの飛行能力を確認します」
「なぜですか?」
「落下するロングボトムの速度と位置を、あなたは正確に判断しました。空間把握能力が非常に高い可能性があります」
「魔法と箒は別物では?」
「乗ってみれば分かります」
「授業で乗ります」
「個別に確認します」
回避しようとした方向から、別の道で囲まれた。
「先に申し上げておきます」
ハリーは言った。
「クィディッチチームには入りません」
マクゴナガルの眉が上がる。
「まだ勧誘していません」
「勧誘されても断ります」
「なぜです?」
「他に優先したい勉強があります」
「クィディッチも学校生活における貴重な経験です」
「それは理解しています。ですが、僕には時間がありません」
「十一歳のあなたが、何をそれほど急いでいるのです?」
鋭い質問だった。
答えられない。
クィレルの後頭部にヴォルデモートがいる。
来年は日記がジニーを狙う。
三年目にはピーターが逃げる。
四年目にはヴォルデモートが復活する。
時間があるように見えて、実際にはほとんどない。
「自分の魔法を制御したいんです」
ハリーは答えた。
「今日のように、偶然成功するだけでは困ります。次も誰かを助けられるようにしたい」
「クィディッチは遊びではありません」
「先生にとっては、特にそうでしょうね」
「どういう意味です?」
「グリフィンドールが負けると、とても機嫌が悪くなると上級生から聞きました」
マクゴナガルの口が固く結ばれた。
「誰がそのようなことを?」
「名前は伏せます」
「妙なところで義理堅いのですね」
放課後。
ハリーはマダム・フーチとマクゴナガルの立ち会いで、箒へ乗ることになった。
「競技場を一周しなさい」
マダム・フーチが指示する。
「安全な速度で構いません」
飛べないふりをすることも考えた。
しかし、二人ともハリーを注意深く見ている。
不自然な失敗は、余計な疑念を招く。
初心者として少し上手い程度に抑える。
ハリーは地面を蹴った。
箒が浮く。
低い高度を保つ。
ゆっくり加速する。
曲がる際は大きく膨らみ、姿勢も少し不安定にする。
半周までは完璧だった。
初心者として、十分に上手い。
だが天才ではない。
そこで横風が吹いた。
身体が反射的に動いた。
箒を僅かに傾け、重心を移し、風を利用して加速する。
ほとんど速度を落とさず、競技場の角を抜けた。
しまった。
地上でマダム・フーチが目を見開いている。
ハリーは急いで速度を落とす。
その減速も滑らかすぎた。
地面へ着地する。
長い沈黙。
「初めてですか?」
マダム・フーチが尋ねる。
「箒に乗ったのは初めてです」
「今の旋回は、初心者にできるものではありません」
「風に押されました」
「風を利用して加速していました」
「偶然です」
「その後の減速も?」
「運が良かったのだと思います」
苦しい言い訳だった。
マクゴナガルが一歩前へ出る。
「ポッター。グリフィンドールのシーカーを――」
「お断りします」
「最後まで聞きなさい!」
「クィディッチチームへの勧誘なら、答えは変わりません」
マクゴナガルの頬が僅かに引きつる。
「一年生が寮代表として試合に出るのは、非常に名誉なことです」
「分かっています」
「最新型の箒を用意することもできます」
「必要ありません」
「あなたは飛ぶのが嫌いなのですか?」
「好きです」
「では、なぜ?」
ハリーは箒の柄を撫でた。
一度目の人生で、空を飛ぶことは数少ない純粋な喜びだった。
箒に乗っている間だけは、額の傷も、予言も、ヴォルデモートも忘れられた。
試合に出たいという気持ちが、まったくないわけではない。
しかし、今のハリーには目的がある。
「好きだからこそ、今は選びません」
「意味が分かりません」
「好きなことを優先して、やるべきことが遅れるのは困るという意味です」
「十一歳の子供が、自分の楽しみをそこまで我慢する必要があるのですか?」
「僕が我慢しなければ、困る人が出るかもしれません」
マクゴナガルがハリーを見つめる。
「誰が困るのです?」
「まだ分かりません」
「では、あなたは何を知っているのです?」
核心に近づかれている。
ハリーは少しだけ笑った。
「自分が勉強不足だということです」
「ポッター」
「先生。僕は試験を受けました。飛べることも確認していただきました。その上で、チームへの参加は辞退します」
言葉遣いは丁寧に。
だが、譲る気がないことは明確に示す。
闇払い局長として、魔法省の上級官僚と何度も交渉してきた。
マクゴナガルが相手でも、引くわけにはいかない。
「校則上、参加は義務ではありませんね?」
「……ええ」
「では、授業へ戻っても?」
マクゴナガルはしばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。
「分かりました。今回は諦めましょう」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼女の目が鋭くなる。
「あなたの魔法については、今後も注意して見ます」
「授業態度には気をつけます」
「そういう意味ではありません」
「分かっています」
ハリーは箒をマダム・フーチへ返した。
競技場を離れる。
クィディッチチームへの加入は回避した。
その点では計画通りだ。
しかし、マクゴナガルとマダム・フーチには、完全に目をつけられた。
杖なし魔法。
不自然な飛行能力。
授業で見せる妙な落ち着き。
隠しているつもりでも、少しずつ綻びが出ている。
「先が思いやられるな」
ハリーは呟いた。
その夜、必要の部屋へ向かう。
ティビーが待っていた。
「本日の練習を始めますか、ハリー・ポッター様?」
「ああ」
机の上には、一つのカップが置かれている。
ハリーは杖を置いた。
右手も上げない。
目を閉じる。
カップを動かそうとしてはいけない。
引き寄せようとしてもいけない。
カップは、自分の前にある。
そう定める。
数秒間、何も起こらない。
さらに意識を深く沈める。
部屋。
机。
カップ。
自分。
それぞれを別の物として捉えるのではなく、一つの空間として認識する。
小さな音がした。
目を開ける。
カップが消えていた。
そして次の瞬間。
ハリーの目の前で、空気が僅かに歪む。
カップが現れた。
机の端。
最初に置かれていた場所から、およそ三十センチ。
成功と呼ぶには短すぎる。
だが、従来の杖なし魔法とは明らかに違った。
空間を移動したのではない。
一度消え、別の位置へ現れた。
ティビーが両手を叩く。
「できました! ハリー・ポッター様が、妖精の魔法をお使いになりました!」
ハリーはカップを見つめた。
小さな一歩。
しかし、確かな一歩だった。
「もう一度だ」
「お休みにならなくてよろしいのですか?」
「あと一回だけ」
ティビーが心配そうに見上げる。
「無理はなさらないでくださいませ」
「分かってる」
ハリーは再び目を閉じた。
クィレル。
賢者の石。
ヴォルデモート。
時間は動き始めている。
箒に乗って遊んでいる暇はなかった。