未来を知っている。
その言葉だけを聞けば、何事も思い通りに進められるように思える。
いつ、どこで、何が起こるかを知っている。
誰が敵で、誰が味方かも知っている。
危険な事件が起きる前に対処し、失敗を避け、最短の道を選べる。
実際、ハリーも最初はそう考えていた。
だが、ホグワーツへ入学して二か月ほど経った頃には、早くも認識を改め始めていた。
未来を知っていることと、未来を再現できることは違う。
自分が一つ違う行動を取れば、周囲の反応も変わる。
クィディッチチームへ入らなかったことで、グリフィンドールの選手構成は前世と異なった。
マルフォイとの決闘騒ぎを避けたことで、夜中に四階へ行く理由もなくなった。
ネビルが飛行訓練で怪我をしなかったため、医務室で過ごす時間も変わっている。
さらに言えば、ハリー自身の態度が違いすぎた。
一度目の十一歳のハリーは、短気で、無鉄砲で、疑問があれば自分で確かめずにはいられなかった。
今のハリーは、危険性と利益を比較してから動く。
その違いは、周囲との人間関係にも影響していた。
「ハリー、これ見てくれよ」
グリフィンドールの談話室で、ロンが羊皮紙を差し出した。
「変身術の宿題?」
「ああ。マクゴナガル先生が、変身させる物質の重さと難易度の関係について三十センチ書けって」
「昨日からやってなかったか?」
「やってたよ」
「一行しかないけど」
「大事なのは長さじゃなくて内容だろ」
「三十センチと指定されているなら、長さも大事だと思う」
ロンが嫌そうな顔をする。
「ハーマイオニーみたいなこと言うなよ」
少し離れた机で、当のハーマイオニーが分厚い本から顔を上げた。
「私なら、宿題を提出する前日に始めたりしないわ」
「聞いてない」
「聞こえるように話していたでしょう」
「ハリーに言ったんだ」
「でも間違っているのはあなたよ。物質の重さだけじゃなくて、構造の複雑さも――」
「分かったよ!」
ロンが声を上げる。
「何でも知ってて偉いな!」
ハーマイオニーの顔が強張った。
一度目の人生と似た光景だった。
彼女は善意で口を出している。
ロンはそれを見下されたと感じる。
二人とも、相手の受け取り方まで考えられる年齢ではない。
ハリーは羽根ペンを置いた。
「ロン」
「何だよ」
「宿題を手伝ってほしいなら、そう言えばいい」
「別に手伝ってほしいわけじゃ――」
「ハーマイオニー」
「何?」
「内容が正しくても、言い方で聞いてもらえなくなることはある」
「でも、間違っていることをそのままにする方が――」
「今は、ロンが自分でやるところだった」
実際には、ほとんど進んでいなかった。
それでも、ハリーはそう言った。
ハーマイオニーは唇を結ぶ。
「……そう」
本を閉じ、立ち上がる。
肩を張って女子寮へ向かっていった。
ロンはその背中を見て、鼻を鳴らした。
「あいつ、絶対友達いないだろ」
その言葉を聞いた瞬間、ハリーは前世の記憶を思い出した。
ハロウィーン。
浮遊呪文の授業。
ロンの無神経な発言。
女子トイレ。
トロール。
日付を確認する。
十月三十日。
事件は明日だ。
「ロン」
「何?」
「今のは言いすぎだ」
「本当のことだろ」
「本人に聞こえる場所で言う必要はない」
「でも、あいつが先に――」
「先に何かされたら、何を言ってもいいわけじゃない」
ロンは不満そうだった。
十一歳の少年へ、将来の親友を泣かせるなと説明するのは難しい。
まして、その二人が将来結婚すると教えるわけにもいかない。
ハリー自身、一度目の人生では似たようなものだった。
今だから分かる。
ハーマイオニーは、自信があったから他人へ口を出していたのではない。
自信がなかったから、知識によって自分の価値を示そうとしていた。
魔法族の家庭に生まれた生徒たちの中で、何も知らない自分が取り残されないよう必死だったのだ。
しかし、理解できることと、周囲が耐えられることは別だった。
「明日、少し気をつけよう」
ハリーは呟いた。
「何に?」
「何でもない」
未来を維持するなら、翌日の流れにはあまり干渉しない方がいい。
ハーマイオニーとロンが友人になるきっかけは、トロール事件だった。
危険ではある。
だが一度目は、三人とも生き残った。
ハーマイオニーは嘘をついて二人を庇い、そこから関係が変わった。
同じ結果を得るために、ある程度は記憶をなぞる。
もちろん、死なせるつもりはない。
今回はハリーの実力が違う。
危険になれば、すぐに制圧できる。
そう考えていた。
翌朝。
呪文学の授業では、フリットウィックが浮遊呪文を教えた。
生徒たちは二人一組になり、机の上の羽根へ杖を向ける。
ハリーの相手はロンだった。
「発音と動作を合わせて」
「分かってるよ」
「杖を振り回しすぎると隣に当たる」
「ハーマイオニーみたいだな」
「似てきたかもしれない」
ハリーは羽根へ杖を向けた。
わざと二度失敗する。
三度目で、羽根を机から三十センチほど浮かせた。
「成功!」
フリットウィックが嬉しそうに声を上げる。
「グリフィンドールに一点!」
以前なら、ハーマイオニーが最初に成功していた。
今回も、教室の反対側で彼女の羽根が高く浮いている。
「手首の動きはこうよ」
ハーマイオニーが隣のラベンダーへ説明している。
「それから、発音は長音を意識しないと」
善意なのだろう。
だが、ラベンダーの表情は引きつっている。
授業終了後、廊下でロンが大げさに手首を振った。
「発音はこう、手首はこう。あいつ、自分が先生だと思ってるんじゃないか?」
ハーマイオニーが、すぐ後ろを歩いていた。
顔を伏せて足早に通り過ぎる。
ハリーは額を押さえた。
「聞こえてたぞ」
「え?」
「今の、聞かれた」
「別に嘘じゃないだろ」
「そういう問題じゃない」
ロンはようやく気まずそうな顔をした。
「謝った方がいい?」
「そうだな」
「でも、どこに行ったか分からない」
「夕食前には戻るだろう」
前世では戻らなかった。
一日中、女子トイレで泣いていた。
ハリーは追いかけるべきか迷った。
事件を避けるだけなら、今すぐハーマイオニーを探せばいい。
トロールが侵入する前に、談話室へ連れ戻す。
あるいは教師へ場所を伝える。
それで危険はなくなる。
だが、ロンとハーマイオニーの関係は変わらない。
トロール事件がなければ友人になれない、とは限らない。
別の機会はいくらでもあるだろう。
未来を守るために子供を危険へ晒す必要はない。
「やはり探すか」
ハリーが方向を変えた時、廊下の向こうからマクゴナガルが歩いてきた。
「ポッター。次は変身術でしょう。どこへ行くつもりです?」
「忘れ物を取りに」
「授業後にしなさい」
「ですが――」
「時間割を守ることも学生の務めです」
強引に抜けることはできる。
だが、ハーマイオニーが女子トイレにいると説明すれば、なぜ知っているのかと聞かれる。
ハリーは一瞬迷い、教室へ向かった。
授業が終わった時には、夕食の時間が迫っていた。
大広間はハロウィーンの飾りで満たされている。
巨大なカボチャ。
空中を飛ぶ蝙蝠。
色とりどりの菓子。
幽霊たちも普段より騒がしい。
ハリーは席につく前に、グリフィンドールの女子生徒を見回した。
ハーマイオニーはいない。
「まだ戻ってないな」
ロンが言う。
「探しに行こう」
「今から?」
「今からだ」
その時、大広間の扉が勢いよく開いた。
クィレルが駆け込んでくる。
ターバンは少し傾き、顔は青ざめていた。
「ト、トロールが……地下牢に……」
声が途切れる。
クィレルは、その場へ倒れた。
悲鳴。
椅子を引く音。
教師たちが立ち上がる。
ダンブルドアの杖から、鋭い閃光が上がった。
「静かに!」
大広間が鎮まる。
「監督生は生徒を各寮の談話室へ。教師は私と共に地下へ向かいます」
生徒たちが動き始める。
ハリーはロンの腕を掴んだ。
「ハーマイオニーは地下じゃない」
「え?」
「女子トイレにいる」
「どうして知ってるんだ?」
「昼から戻っていない。泣くなら人の少ない場所へ行く。近いのは一階の女子トイレだ」
推測としては通る。
「先に行く」
「待てよ、僕も――」
「ロンは監督生に事情を伝えて、先生を呼んでくれ」
「でも」
「早く!」
ハリーは人の流れを抜けた。
以前はロンと二人で向かった。
今回は一人の方が速い。
廊下を走る。
トロールは地下牢にいると報告された。
だが実際には、すでに上階へ移動している。
クィレルが意図的に侵入させた。
教師を地下へ誘導し、その隙に賢者の石を守る部屋へ向かうためだ。
今すぐクィレルを止めることもできる。
しかし、それよりハーマイオニーの安全が先だった。
廊下の角を曲がる。
悪臭が漂ってきた。
下水。
腐った肉。
汗。
巨大な何かが石床を引きずる音。
トロールは、すでに女子トイレの近くまで来ている。
「予定より早くないか?」
ハリーは杖を抜いた。
一度目の記憶では、もう少し余裕があった。
ロンと二人で移動し、トロールを別の部屋へ閉じ込めようとして、そこが女子トイレだと気づいた。
今回は動きが違う。
自分が授業や人間関係へ干渉した影響か。
あるいは、単に前世の細かな時間を正確に覚えていなかっただけか。
女子トイレから悲鳴が響く。
「ハーマイオニー!」
扉を開ける。
巨大なトロールがいた。
灰色の皮膚。
小さな頭。
太い腕。
手には巨大な棍棒。
洗面台の陰で、ハーマイオニーがうずくまっている。
トロールが棍棒を振り上げた。
ハリーは杖を向ける。
「インペディメンタ!」
障害呪文がトロールの腕へ当たる。
棍棒の動きが鈍る。
完全には止まらない。
ハーマイオニーが横へ転がり、棍棒が床を砕いた。
「こっちだ!」
ハリーが叫ぶ。
トロールが振り返る。
小さな目がハリーを捉えた。
ハリーは、一度目の手順を思い出す。
鼻へ杖を突っ込む。
棍棒を浮かせて頭へ落とす。
十一歳の自分たちでも成功した方法だ。
今回も、それでいい。
余計な実力を見せずに済む。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
棍棒がトロールの手から浮き上がる。
ハリーは位置を調整する。
頭上へ。
落とす。
その瞬間、トロールが腕を振った。
浮いていた棍棒に手が当たる。
軌道が逸れた。
棍棒はトロールの肩へぶつかり、床へ落ちる。
効いていない。
「何でだ」
一度目より、トロールの動きが速い。
前世では偶然が味方した。
棍棒が綺麗に頭へ直撃し、トロールは気絶した。
あれを再現するだけなら簡単だと思っていた。
だが、生き物は同じ動きをしない。
戦闘に台本などない。
トロールがハリーへ突進する。
「ハリー!」
ハーマイオニーが叫んだ。
ハリーは横へ跳ぶ。
短い足がもつれそうになる。
巨体が壁へぶつかり、石が砕ける。
十一歳の身体は遅い。
分かっていたことだ。
だが、実戦になると想像以上に厄介だった。
トロールが腕を振り回す。
ハリーは盾の呪文を放つ。
「プロテゴ!」
透明な障壁へ拳が激突する。
衝撃が腕まで伝わった。
盾が一撃で砕ける。
「ハーマイオニー、出口へ!」
「でも、あなたが!」
「いいから行け!」
ハーマイオニーが立ち上がる。
出口へ走ろうとする。
トロールがそちらへ顔を向けた。
ハリーは杖を振る。
「コンフリンゴ――」
爆破呪文を唱えかけ、止めた。
狭い室内。
崩落の危険。
十一歳の身体で出力を誤れば、ハーマイオニーまで巻き込む。
「ステューピファイ!」
赤い閃光がトロールの胸へ当たる。
巨体が僅かによろめく。
倒れない。
一発では足りない。
「ステューピファイ! ステューピファイ!」
二発。
三発。
トロールが後退する。
だが、まだ動く。
魔法生物は呪文への抵抗力が高い。
一度目のハリーは、子供向けの教科書でしか知らなかった。
今は知っている。
知っているのに、出力を隠そうとして中途半端になった。
「目立たないように、なんて言ってる場合じゃないな」
ハリーは杖を構え直した。
トロールが棍棒を拾う。
ハーマイオニーは出口の手前で転んだ。
棍棒が振り上げられる。
間に合わない。
ハリーの中で、何かが切り替わった。
闇払い局長として何百回も経験した感覚。
守るべき人間がいる。
敵が武器を持っている。
制圧する。
それだけだ。
「ステューピファイ!」
先ほどまでとは比べ物にならない赤光が走った。
一発目がトロールの手首へ当たる。
棍棒が落ちる。
「ステューピファイ!」
二発目が膝へ。
巨体が崩れる。
「ステューピファイ!」
三発目が胸。
「ステューピファイ!」
四発目が肩。
「ステューピファイ!」
五発目が額へ直撃した。
呪文と呪文の間に、ほとんど間隔がない。
赤い閃光が一本の線に見えるほどの連射。
トロールの身体が後方へ吹き飛んだ。
壁へ激突する。
石床へ倒れ、動かなくなった。
静寂。
水道から流れる水の音だけが聞こえる。
ハリーは杖を下ろした。
息が乱れている。
腕が痺れる。
子供の身体で、あの速度と出力は負担が大きかった。
「ハリー……?」
ハーマイオニーが床に座り込んだまま、こちらを見ている。
「怪我は?」
「ない、けど」
「立てる?」
「たぶん」
ハリーは彼女の腕を取り、立ち上がらせた。
その時、廊下から複数の足音が聞こえた。
「ハーマイオニー!」
ロンが飛び込んでくる。
その後ろに、マクゴナガル、スネイプ、クィレルが続いた。
クィレルは倒れたトロールを見て、顔を引きつらせる。
「な、何が……」
マクゴナガルの視線が室内を走る。
砕けた床。
壊れた洗面台。
転がる棍棒。
壁際で気絶しているトロール。
そして、杖を持ったハリー。
「説明していただきましょうか」
低い声だった。
「ポッター。ここで何があったのです?」
ハリーは答えようとした。
だが、先にハーマイオニーが口を開いた。
「私が悪いんです」
前世と同じ言葉。
マクゴナガルが彼女を見る。
「どういう意味です、グレンジャー?」
「私が……トロールを倒せると思って、一人で探しに来ました」
それは明らかな嘘だった。
ハーマイオニーは、午後からずっとトイレにいた。
トロールを探していたわけではない。
「ハリーとロンは、私を止めに来たんです」
ロンが一瞬驚き、すぐに黙った。
ハリーはハーマイオニーの横顔を見る。
危険な目に遭った直後だというのに、二人を庇おうとしている。
一度目と同じ。
いや、少し違う。
今回はロンは戦っていない。
それでも彼女は、ロンまで含めた。
「そうなのですか、ポッター?」
マクゴナガルが尋ねる。
ハリーは一瞬考えた。
嘘へ合わせる必要はない。
「違います」
ハーマイオニーが目を見開く。
「グレンジャーは、トロールを探していません。昼からこのトイレにいました」
「ハリー!」
「僕は彼女が夕食にいないことに気づいて、探しに来ました。ロンには教師を呼ぶよう頼みました」
「でも、それじゃ私が――」
「君が怒られる必要はない」
ハリーはマクゴナガルへ向き直る。
「授業中に彼女が傷つくようなことを言われたのを知っていました。もっと早く探すべきでした」
ロンが顔を伏せる。
「僕が言ったんです」
「ウィーズリー?」
「ハーマイオニーに、友達がいないって。本人が後ろにいるのに気づかなくて」
マクゴナガルは三人を順番に見た。
厳しい表情は変わらない。
だが、声は僅かに柔らかくなった。
「事情は分かりました。しかし、トロールが校内にいると分かった時点で、あなた方は監督生と共に寮へ戻るべきでした」
「先生を呼んでいたら、間に合わなかったかもしれません」
ハリーが言う。
「その判断を生徒だけでするべきではありません」
「はい」
反論はしない。
結果的に助かったから正解だった、とは言えない。
闇払いとしても、民間人が危険へ飛び込むことは推奨しなかった。
「グリフィンドールから五点ずつ減点します」
ロンが肩を落とす。
「ただし」
マクゴナガルが続けた。
「危険に直面した仲間を見捨てなかったこと。そして、ポッターがトロールを制圧したことを評価し、十点ずつ加点します」
結局、三人で十五点増えた。
ロンの表情が明るくなる。
ハーマイオニーはまだ青ざめていた。
スネイプが倒れたトロールへ近づく。
黒いローブの裾から、血が滲んでいた。
右脚を負傷している。
一度目と同じ。
フラッフィーのいる部屋へ向かい、噛まれたのだろう。
ハリーは傷を見て、内心で呟く。
あんな犬に噛まれるとは。
半純血のプリンスの名が泣くぞ、セブルス。
もちろん、口には出さない。
スネイプがトロールの胸元へ杖を向け、状態を確認する。
次に、床や壁へ残った魔力の痕跡を調べた。
眉が僅かに動く。
「これは、浮遊呪文で倒したものではないな」
ハリーは黙った。
前世の方法に合わせたことにするつもりだった。
棍棒を浮かせ、頭へ落とした。
そう説明すれば、十一歳らしい偶然の勝利に見える。
だが、室内には強力な失神呪文の痕跡が残っている。
闇払い時代の癖で、現場へ残る証拠まで考える余裕がなかった。
「ポッター」
スネイプがゆっくりと振り返る。
「お前は何の呪文を使った?」
「失神呪文です」
「一年生の教科書には載っていない」
「一般向けの呪文集で読みました」
「読んだだけで、トロールを気絶させるほどの威力が出せると?」
「一発では効かなかったので、何度か使いました」
「何度だ」
「五回ほど」
スネイプの黒い目が細くなる。
「五発を、ほとんど同時に撃ったような痕跡だ」
マクゴナガルもハリーを見る。
クィレルは青白い顔のまま、壁際に立っていた。
ターバンの奥から、微かな視線を感じる。
ヴォルデモートも聞いている。
まずい。
十一歳の時点で高い戦闘能力を持っていると知られれば、警戒される。
「必死だったので、よく覚えていません」
ハリーは答えた。
スネイプの表情には、明らかな疑念が浮かんでいる。
「都合のよい記憶だな」
「トロールに殺されそうになっていたので」
「セブルス」
マクゴナガルが制した。
「今は生徒たちを休ませることが先です」
スネイプは不満そうに口を閉じた。
ハリーは一瞬だけ彼の脚へ視線を落とす。
スネイプがそれに気づいた。
ローブを引き、傷を隠す。
「何を見ている、ポッター」
「怪我をされているようなので」
「お前には関係ない」
「医務室へ行った方がいいと思います」
「五点減点するぞ」
「心配しただけですが」
「その顔が気に入らん」
今度こそ理不尽だった。
ハリーは口を閉じた。
クィレルが、おどおどした声で言う。
「わ、私が医務室まで、生徒たちを……」
「結構です」
ハリーは即座に答えた。
クィレルの目が一瞬だけ冷たくなる。
「自分たちで戻れます」
今、背中を見せる気はなかった。
トロールを校内へ入れた張本人。
後頭部にはヴォルデモート。
前世では気づいていなかった。
今回は、正体を知っている。
「ウィーズリー、グレンジャー。ポッターと共に談話室へ戻りなさい」
マクゴナガルが言う。
「寄り道は認めません」
「はい、先生」
三人はトイレを出た。
廊下をしばらく歩く。
教師たちの姿が見えなくなったところで、ロンが口を開いた。
「ハーマイオニー」
「何?」
「その……悪かった」
ハーマイオニーは俯いたままだった。
「何が?」
「友達がいないって言ったこと」
「実際、いないもの」
「だからって、言っていいわけじゃなかった」
ハリーは黙って二人の少し後ろを歩いた。
ロンが頭を掻く。
「あと、助けに行くの遅くなって悪かった」
「先生を呼んでくれたでしょう」
「でも、ハリーだけ先に行かせた」
「ハリーが命令したんだもの」
「命令はしてない」
「ほとんど命令だったよ」
ロンが言う。
「お前、時々マクゴナガル先生より怖いぞ」
「気をつける」
ハーマイオニーが小さく笑った。
初めて見る、年相応の笑顔だった。
「ハリーも、ありがとう」
「間に合ってよかった」
「でも、どうして私が女子トイレにいると分かったの?」
当然の疑問だった。
「泣いているところを他人に見られたくないなら、人の少ない場所へ行くと思った。近くに使われていない女子トイレがあると聞いていたから」
「誰に?」
「上級生」
「どの上級生?」
「名前は覚えてない」
苦しい。
ハーマイオニーは納得していない顔をした。
だが、追及はしなかった。
「それにしても、すごかったな」
ロンが興奮した様子で言う。
「あの赤い呪文。何発撃ったんだ?」
「五発」
「ほとんど一発に見えたぞ」
「慌てていたから」
「慌てたら普通は遅くなるんじゃないか?」
「僕は逆みたいだ」
「杖なし魔法もできるし、箒も上手いし、トロールも倒す。お前、本当は一年生じゃないだろ」
ハリーの足が一瞬止まりかけた。
ロンは冗談で言っている。
「何年生に見える?」
「七年生」
「背が足りない」
「そこだけかよ」
三人は談話室へ戻った。
先に帰っていた生徒たちが、一斉にこちらを見る。
トロールを倒した話は、翌朝には学校中へ広がっていた。
ただし、話の内容は伝わるたびに変化した。
ハリーが素手でトロールを殴り倒した。
杖なしで窓から投げ飛ばした。
睨んだだけで気絶させた。
三匹のトロールを同時に相手にした。
最後のものは、そもそもどこから出てきたのか分からない。
ハリーは噂を訂正しようとした。
だが、誰も本当の話を信じなかった。
十一歳の少年が高度な失神呪文を連射したという事実も、十分に信じがたかったからだ。
そして、ハリーが危惧していた通り。
事件の翌日。
朝食を終えて大広間を出たところで、スネイプが待っていた。
「ポッター」
黒いローブが廊下を塞いでいる。
「少し話がある」
声音は静かだった。
静かすぎた。
ハリーは内心でため息をつく。
トロールは倒した。
ハーマイオニーもロンも無事だった。
二人の関係も、おそらく良い方向へ進む。
だが、前世と同じ結果を得るために前世をなぞろうとした結果、余計な疑念を招いた。
組分け帽子の忠告が脳裏をよぎる。
未来を知ることと、未来を支配できることは違う。
「分かりました」
ハリーは答えた。
スネイプの後を追う。
前を歩く黒衣の男は、右脚を僅かに庇っていた。
トロールより厄介な尋問が、始まろうとしていた。