十一月を過ぎる頃、ホグワーツの空気は目に見えて冷たくなった。
朝になれば窓硝子に霜が張り、城を囲む山々は白く染まる。
廊下を歩く生徒たちは厚手のローブへ身を包み、談話室では暖炉の近くを巡って小さな争いが起きるようになった。
そして、ハリーにとって最も重要な変化が一つあった。
「できました、ハリー・ポッター様!」
必要の部屋に、ティビーの歓声が響く。
部屋の中央には、二つの印が置かれていた。
一つはハリーの足元。
もう一つは、十メートルほど離れた壁際。
ハリーは先ほどまで足元の印に立っていた。
今は、壁際にいる。
歩いたわけではない。
走ってもいない。
一瞬前までいた場所から消え、別の場所へ現れた。
屋敷しもべ妖精の移動魔法。
ホグワーツの内部で使用できる、瞬間的な空間移動だった。
「もう一度」
ハリーは息を整えた。
「ハリー・ポッター様。少しお休みになった方がよろしいかと」
「まだできる」
「お顔が白くなっております」
「元からだ」
「さらに白くなっております」
言われてみれば、少し目眩がした。
妖精の移動魔法は便利だが、まだ魔力効率が悪い。
ティビーなら何度繰り返しても平然としている。
ハリーは十メートルを移動しただけで、全力疾走した後のように息が乱れた。
原因は分かっている。
屋敷しもべ妖精は、建物や主人との繋がりを利用して魔法を行使する。
自分の魔力だけで空間を捻じ曲げているわけではない。
ハリーには、その繋がりがない。
ホグワーツの生徒ではある。
城を自分の家だと思ったこともある。
だが、契約によって結びついた妖精たちほど強い関係ではない。
不足している部分を、自分の魔力で無理やり補っている。
「今日はここまでにしましょう」
ティビーが言った。
「倒れてしまわれては、練習ができません」
「正論だな」
ハリーは床へ座った。
ティビーが紅茶を用意する。
カップが何もない空間から現れ、ハリーの手元へ着地した。
それを見れば、まだ技量の差は明らかだった。
「クィレルの様子は?」
紅茶を一口飲んでから尋ねる。
「昨夜は、ご自分のお部屋から出ておられませんでした」
「一昨日は?」
「三階の使われていない教室へ行かれました。その後、スネイプ先生がおいでになり、お二人でお話をしておりました」
「内容は?」
「ティビーは近づいておりません」
「それでいい」
追跡は頼んだが、盗み聞きまでは求めていない。
スネイプとクィレルの会話なら、おおよその内容は想像できる。
スネイプはクィレルを疑っている。
クィレルは怯えた教師を装っている。
互いに牽制しているのだろう。
「それから」
ティビーの耳が僅かに下がった。
「クィレル先生のお部屋から、知らない声が聞こえることがございます」
「どんな声?」
「小さく、冷たい声でございます。クィレル先生を叱っておいでです」
ヴォルデモートだ。
前世よりも表へ出ている。
ハリーがトロールを強力な魔法で倒したこと。
クィレルを露骨に警戒したこと。
その影響で、ヴォルデモートもハリーを注意深く見始めている。
「会話の内容は分かる?」
「ハリー・ポッター様のお名前が聞こえました」
やはり。
「他には?」
「力を確かめろ、と」
ハリーはカップを置いた。
クィレルが授業中に妙な課題を与えてきた理由が分かった。
最近の闇の魔術に対する防衛術では、教科書の内容から外れた実技が増えていた。
呪いへの抵抗。
恐怖に対する反応。
不意打ちへの対応。
一年生には必要のないものばかりだ。
クィレルは教師としてハリーを調べている。
どれほどの魔法を使えるか。
どこまで戦えるか。
トロールを倒したことが偶然だったのか。
「そろそろ隠す意味が薄くなってきたな」
ハリーは呟いた。
すでにマクゴナガルは疑っている。
スネイプも、ハリーが閉心術を使えると知っている。
クィレルとヴォルデモートも、ただの一年生ではないと考えている。
完全に無知な子供を演じる段階は過ぎた。
それでも、すべてを見せるつもりはない。
特に妖精の魔法は、最後まで隠しておく。
ホグワーツ内での瞬間移動。
それを知っていれば、ヴォルデモートは対策する。
知らない力は、切り札になる。
「ティビー。今後、クィレルの部屋へ近づかなくていい」
「監視はよろしいのでございますか?」
「廊下で見かけた時だけ教えてくれればいい。相手も警戒し始めている」
「ティビーは見つかりません」
「僕も、昔はそう思っていた」
優秀な者ほど、自分は見つからないと思う。
その慢心で命を落とした闇払いを、何人も見てきた。
「危険を感じたら逃げる。約束してくれ」
「ハリー・ポッター様のご命令でございますか?」
「お願いだ」
ティビーは胸元で両手を握った。
「必ずお守りいたします」
十二月。
城はクリスマスの装飾で埋め尽くされた。
大広間には巨大な樅の木が並び、廊下には柊と宿り木が飾られる。
休暇中、ロンはホグワーツへ残ることになった。
ハーマイオニーは両親の待つ家へ帰る。
「本当にダーズリー家へ帰らないの?」
荷造りをしながら、ハーマイオニーが尋ねた。
「学校に残る許可が出たから」
「叔父様たちは何も言わなかった?」
「歓迎されたよ」
「帰らないことを?」
「そう」
手紙には、休暇中もホグワーツへ残ってよいかと書いた。
返事は短かった。
『好きにしろ』
ペチュニアの字で、その下に一文だけ付け足されていた。
『食事はきちんと取ること』
以前の人生にはなかった言葉だった。
ハリーはその手紙を捨てず、トランクの底へ入れている。
「休暇中も練習するつもり?」
ハーマイオニーが言う。
「少しは」
「少し?」
「毎日数時間」
「それは少しじゃないわ」
「授業がない分、時間が余る」
ハーマイオニーは呆れた顔をした。
「あなた、もっと子供らしく遊んだ方がいいと思う」
「ロンにも言われた」
「ロンが正しいわ」
「珍しいこともあるな」
「聞こえてるぞ」
隣の寝台からロンが顔を出す。
ハーマイオニーが休暇へ出発した翌日。
ハリーは図書室で、古い校内記録を調べていた。
目的は、みぞの鏡ではない。
足跡の地図だった。
一度目の人生で地図を受け取ったのは三年生。
フレッドとジョージがフィルチの事務室から盗み出し、その後ハリーへ譲った。
しかし、地図そのものはすでに城内にある。
フィルチが没収品として保管している。
地図があれば、クィレルの動向をいつでも確認できる。
ティビーを危険に晒す必要もなくなる。
問題は、フィルチの事務室へどう侵入するかだった。
鍵を開けるだけなら簡単だ。
だが、没収品の戸棚には複数の警戒呪文が掛けられている。
前世でフィルチの事務室へ入った経験はある。
しかし、警戒呪文の正確な構成までは覚えていない。
力任せに解除すれば、フィルチへ知られる。
「透明マントを待つか」
ハリーは結論を出した。
クリスマスの朝。
目を覚ますと、寝台の足元に贈り物が積まれていた。
ロンの母からは、手編みのセーターと菓子。
ハグリッドからは木彫りの笛。
ハーマイオニーからは、杖なし魔法について書かれた本。
内容は初歩的なものだったが、彼女なりにハリーを理解しようとした結果だろう。
そして、一番下に薄い包みがあった。
送り主の名はない。
ハリーは包みを開ける。
銀色の液体を織り上げたような布が、寝台へ流れ落ちた。
透明マント。
父の形見。
何十年も使い続け、最後には子供へ受け継いだ。
再び手元へ戻ってきた。
添えられた紙には、かつてと同じ趣旨の言葉が書かれていた。
父が預けた物であること。
返す時が来たこと。
正しく使うようにという忠告。
ハリーは紙を読み終え、教職員席の方向を意識した。
「正しく、か」
ダンブルドアの言う正しさは、時々かなり危うい。
十一歳の子供へ透明マントを渡し、夜の城を歩かせる。
その結果、みぞの鏡を見つけさせる。
偶然にしては、出来すぎている。
前世では、鏡の前で何度も両親の姿を見た。
離れられなくなった。
ダンブルドアは、ハリーが何を望むかを知った上で、鏡について忠告した。
今回、同じことをする必要はない。
自分の望みは分かっている。
死んだ者を取り戻す。
生きている者を守る。
ヴォルデモートを滅ぼす。
鏡に教えられるまでもなかった。
「何だ、それ?」
起きてきたロンが尋ねる。
「透明マント」
「本物?」
ハリーが頭から被ると、身体が消える。
ロンが寝台から飛び降りた。
「すげえ!」
「声を抑えて」
「誰から?」
「書いてない」
「夜に城を探検できるな!」
「そうだな」
目的は探検ではない。
だが、ロンへ説明する必要もなかった。
その夜。
ロンが寝静まるのを待ち、ハリーはマントを被った。
談話室を出る。
透明マントは、前世と同じように完璧に姿を隠した。
足音までは消えない。
匂いも残る。
ミセス・ノリスには注意が必要だ。
フィルチの巡回位置は、ティビーに確認してある。
事務室の近くに人はいない。
扉の鍵を杖なしで外す。
魔法の痕跡を残さないためだった。
内部へ滑り込む。
狭い部屋。
書類。
鎖。
生徒から没収した悪戯道具。
机の上には、罰則記録が山積みになっている。
父とシリウスの名前が書かれた古い記録もあるはずだが、今は探さない。
目的の戸棚へ近づく。
扉には複数の仕掛けがあった。
開錠への反応。
物品の移動感知。
戸棚そのものを壊した場合の警報。
フィルチ自身は魔法を使えない。
教師の誰かに頼んで設置してもらったのだろう。
「意外に厳重だな」
ハリーは小声で呟く。
解除はしない。
警戒呪文を解けば、その変化を検知される可能性がある。
代わりに、妖精の魔法を使う。
戸棚の中へ入る必要はない。
目的の物が、ハリーの手元にある。
そう定める。
問題は、地図の見た目を正確に思い出すことだった。
古びた羊皮紙。
折り畳まれている。
一見すると何も書かれていない。
フレッドとジョージが、没収品の中から面白そうだと判断した品。
ハリーは目を閉じた。
魔力を伸ばす。
戸棚という境界を越える。
中にある物品の気配を探る。
数十。
百を超えるかもしれない。
その中に、僅かに異質なものがあった。
眠っているが、こちらを見返しているような魔法。
父。
シリウス。
リーマス。
ピーター。
四人の魔力の残滓。
「見つけた」
空気が揺れる。
ハリーの手に、折り畳まれた羊皮紙が現れた。
戸棚の警報は作動していない。
妖精の魔法は、扉を開けていない。
中の物を外へ運び出すという過程すら存在しない。
地図が手元にあるという結果だけを作った。
「本当に反則だな」
ハリーは羊皮紙を開いた。
杖を当てる。
「我、良からぬことを企む者なり」
線が浮かび上がる。
ホグワーツ城。
廊下。
教室。
階段。
そして、無数の名前。
ハリー・ポッター。
アーガス・フィルチ。
ミセス・ノリス。
眠っている生徒たち。
教員の私室。
校長室には、アルバス・ダンブルドア。
地下牢には、セブルス・スネイプ。
そして。
クィレルの私室。
クィリナス・クィレルの名がある。
そのすぐ近くに、もう一つの名前が表示されるかと期待した。
トム・リドル。
ヴォルデモート。
あるいは、何らかの別名。
だが、何もない。
地図はクィレル一人しか認識していなかった。
「魂だけでは表示されないのか」
前世でも、分霊箱が地図へ表示された記憶はない。
ピーターは生きた肉体を持っていたため表示された。
クィレルの後頭部に寄生するヴォルデモートは、独立した人間として認識されないらしい。
それでも十分だった。
クィレルの位置が分かれば、ヴォルデモートの位置も分かる。
ハリーは地図を畳み、ローブへしまった。
事務室を出る。
廊下を進む途中、一つの名前が目に入った。
アルバス・ダンブルドア。
校長室から移動している。
七階の、使われていない教室へ向かっていた。
みぞの鏡が置かれている部屋。
ハリーは足を止めた。
前世のように、鏡へ引き寄せるつもりなのか。
それとも、単に鏡を移動させる準備か。
確かめる必要はない。
近づけば、ダンブルドアに見つかる可能性が高い。
透明マントでも、彼の目を完全に欺けるとは限らない。
ハリーは反対方向へ歩き出した。
「悪いですが、今回は行きませんよ、先生」
思春期の子供ではない。
自分が何を望んでいるかくらい知っている。
そして、その望みを鏡の中で眺め続けるほど暇でもなかった。
翌朝。
地図を開く。
クィレルは朝食へ向かっている。
スネイプも同じ。
ダンブルドアは校長室。
問題なし。
ハリーは地図を閉じた。
これで主導権を取れる。
相手の居場所が分かる。
ダンブルドアが城内にいるかも確認できる。
クィレルが四階へ向かった瞬間に察知できる。
前世のように、事件が起きてから走り回る必要はない。
そう考えていた。
年が明けて数週間後。
闇の魔術に対する防衛術の授業中、クィレルがハリーを指名した。
「ポ、ポッター君。前へ」
「はい」
教室の前に立つ。
クィレルが木箱を開ける。
中から、黒い煙のようなものが現れた。
低級の恐怖霊。
ボガートほど具体的な姿を取らず、相手の不安を刺激する魔法生物。
一年生の授業で扱うものではない。
「こ、これは、攻撃するものではありません。恐怖に耐え、杖を向け続ける訓練です」
生徒たちが不安そうに見ている。
煙がハリーを包む。
冷気。
耳元で囁く声。
死者たち。
守れなかった者たち。
シリウス。
フレッド。
リーマス。
スネイプ。
老いた自分。
そして、赤い目をしたヴォルデモート。
一度目の十一歳なら、耐えられなかったかもしれない。
だが、今のハリーは知っている。
これは本物ではない。
「リディクラス」
まだ習っていない呪文を無意識に使いかけた。
直前で止める。
代わりに、杖なしで煙の魔力構造を掴む。
結び目を解く。
恐怖霊が霧散した。
教室が静まり返る。
クィレルの顔から、怯えた表情が一瞬消えた。
「今のは、何の魔法ですか?」
ハリーが尋ねる。
「き、君が使ったのでは?」
「いいえ。耐えていただけです」
嘘だった。
クィレルにも分かっている。
ただ、証明できない。
「とても興味深い反応でした」
「授業としては、少し危険では?」
「じ、実戦では、恐怖へ耐えることも必要です」
「一年生に実戦を想定させる理由は何でしょう」
クィレルの目が細くなる。
ターバンの奥から、冷たい視線を感じる。
「備えは、早い方がよいでしょう」
「同感です」
ハリーは自分の席へ戻った。
互いに言葉の裏を理解していた。
クィレルは、ハリーの力を確かめている。
ハリーも、それを承知している。
猶予は長くない。
ヴォルデモートは、賢者の石を手に入れる前にハリーを排除する可能性がある。
前世よりも早く、決着をつける必要があるかもしれない。
その日の夜。
足跡の地図を開く。
クィレルは私室にいる。
ダンブルドアは校長室。
スネイプは地下牢。
ハリーは地図を閉じようとした。
その瞬間。
クィレルの名前が動いた。
部屋を出る。
階段を上る。
四階ではない。
梟小屋へ向かっている。
数分後、一羽の梟が城から飛び立った。
誰かへ手紙を送ったらしい。
翌朝。
ダンブルドアの元へ、魔法省から緊急の呼び出しが届いた。
ハリーは教職員席から校長が立ち上がるのを見た。
足跡の地図を膝の上で開く。
アルバス・ダンブルドアの名前が、大広間から玄関へ向かっている。
クィレルは席に座ったまま。
スネイプもいる。
だが、クィレルの右手は小さく震えていた。
前世と同じ。
偽の呼び出し。
ダンブルドアを学校から遠ざけ、賢者の石を奪うための罠。
ただし、時期が早い。
クィディッチの試合もない。
ハグリッドのドラゴン騒動も起きていない。
禁じられた森での罰則もない。
ヴォルデモートは予定を変えた。
ハリーが動き出す前に、石を奪うつもりだ。
ハリーは地図を畳んだ。
「ようやくか」
待つ時間は終わった。
今夜。
ヴォルデモートと再会する。