ダンブルドアがホグワーツを離れた後も、クィレルは普段通り授業を行った。
怯えた声。
不安そうな仕草。
生徒と目が合えば視線を逸らし、難しい質問には言葉を詰まらせる。
何も知らなければ、到底ヴォルデモートの手先には見えない。
だが、ハリーには分かる。
クィレルは焦っていた。
説明の順序を間違える。
黒板へ同じ言葉を二度書く。
授業中、何度も窓の外を確認する。
ダンブルドアが戻ってこないか警戒している。
放課後。
ハリーは図書室でロンとハーマイオニーに挟まれていた。
「今日、何か変よ」
ハーマイオニーが小声で言う。
「何が?」
「あなたが」
「いつも変だろ」
ロンが言った。
「そういう意味じゃないわ。何度も時計を見てる」
「予定がある」
「何の?」
「訓練」
「毎日してるじゃない」
「今日は少し早く始めたい」
ハーマイオニーが目を細める。
「何か隠してるでしょう」
「いつも隠してるよ」
ロンが言った。
「認めるの?」
「否定しても信じないだろ」
「もちろん」
ハーマイオニーは本を閉じた。
「私たち、友達でしょう?」
「ああ」
「なら、危険なことをする時は話すと約束したわ」
正確には、危険なことをしているなら言ってくれと言われた。
ハリーは約束すると答えた。
誤魔化せない。
だが、二人を連れていくわけにもいかない。
一度目は三人で地下へ向かった。
植物。
空飛ぶ鍵。
魔法使いのチェス。
論理問題。
多くの危険を切り抜けた。
しかし今回は必要ない。
ロンに自分を犠牲にさせる気もない。
ハーマイオニーに炎の中を進ませる気もない。
「今夜、寮から出ないでくれ」
ハリーは言った。
「どうして?」
「危険だから」
「何が起きるの?」
「まだ言えない」
「なら、一緒に行く」
ロンが即答した。
「駄目だ」
「何でだよ」
「僕一人の方が速い」
「またそれか」
トロール事件の時と同じだ。
ロンの顔に不満が浮かぶ。
「僕らじゃ足手まといってことか?」
「今夜に限れば、そうだ」
曖昧に慰めるべきではない。
ヴォルデモートを相手にする。
現時点のロンとハーマイオニーでは、自分の身を守れない。
ハリーが二人を守りながら戦えば、それだけ不利になる。
ロンが顔を赤くする。
「お前は何でも一人でできるもんな」
「ロン」
「杖なし魔法も、難しい呪文も、箒も。僕らに何も教えないで、勝手に決めて――」
「今夜の相手はトロールより危険だ」
ハリーは声を低くした。
「僕でも、絶対に無事で済むとは言えない」
ロンの表情が変わった。
ハーマイオニーも黙る。
「だから残ってくれ。僕が戻らなかった場合は、朝一番にマクゴナガル先生へ伝えてほしい」
「何を伝えるの?」
「クィレル先生が、四階の右側廊下へ向かったと」
ハーマイオニーが息を呑む。
「三つ頭の犬のところ?」
「ああ」
「あの先生が何をするの?」
「犬が守っている物を盗む」
「何を?」
「賢者の石」
ここまで話せば、二人は図書室で調べるだろう。
隠し続ける意味はない。
ハーマイオニーはすぐに理解した。
「ニコラス・フラメルが作ったという石?」
「知ってるのか?」
ロンが尋ねる。
「錬金術の本で読んだわ。金属を金へ変えて、命の水を作ることができる」
「そんな物を、学校に置いてるのか?」
「グリンゴッツから移された」
ハリーが答える。
「どうして知ってる?」
「今は説明できない」
「またかよ」
「だが、クィレルが狙っているのは間違いない」
「スネイプじゃなくて?」
ロンが言った。
前世では、最後までスネイプを疑っていた。
今回は、ハリーが露骨に否定してきたため、疑念は薄い。
「スネイプ先生は石を守ろうとしてる」
「どうして分かるの?」
「脚の怪我は、三つ頭の犬に噛まれたものだ。盗みに入って失敗したんじゃない。クィレルを止めようとして負傷した」
「それも知ってたの?」
「推測だ」
「あなたの推測、当たりすぎるわ」
ハーマイオニーが言う。
「今夜が終わったら、話せる範囲で話す」
「絶対?」
「絶対だ」
生きて戻れたなら。
その言葉は口にしなかった。
ロンはしばらく黙っていた。
「本当に、僕らが行ったら邪魔になる?」
「ああ」
「僕、チェスなら得意だぞ」
思わず、ハリーは笑いそうになった。
「知ってる」
「僕がチェスをやってるところ、そんなに見たか?」
「談話室で何度も」
「でも、今の言い方……」
「ロン」
ハリーは真っ直ぐ親友を見る。
「今回は僕に任せてくれ」
ロンは納得していない顔をしていた。
それでも、最後には頷いた。
「戻ってこいよ」
「ああ」
「約束だからな」
「分かった」
ハーマイオニーはローブの内側から、小さな瓶を取り出した。
「治癒薬よ。軽い火傷や切り傷にしか効かないけど」
「ありがとう」
「使わずに済むようにして」
「努力する」
夜。
足跡の地図の上で、クィレルの名前が動いた。
私室を出る。
階段を上る。
四階へ向かう。
スネイプは地下牢にいる。
マクゴナガルは自室。
ダンブルドアの名は、地図上にない。
まだ学校へ戻っていない。
ハリーは透明マントを被った。
ロンとハーマイオニーは談話室に残っている。
少なくとも、地図上では動いていない。
「我、良からぬことを企む者なり」
悪戯のために使う言葉としては、今夜ほど正確な日はない。
クィレルの名が、四階の右側廊下で止まる。
数分後、扉の向こうへ移動した。
フラッフィーを眠らせたのだろう。
ハリーは談話室を出た。
普通に走る必要はない。
人のいない廊下へ入り、透明マントの下で集中する。
自分は四階の右側廊下にいる。
空間が歪む。
床が消える。
次の瞬間、ハリーは目的の廊下へ立っていた。
目眩。
吐き気。
移動距離が長い分、負担も大きい。
壁へ手をつき、呼吸を整える。
「まだ実用には遠いな」
それでも、歩くより圧倒的に速い。
扉を開ける。
三つの頭を持つ巨大な犬が、床へ伏せていた。
近くには竪琴が置かれ、自動で音楽を奏でている。
クィレルが用意したものだ。
フラッフィーの足元に罠扉がある。
ハリーは近づかない。
床下へ移動する。
地下の空間を思い浮かべる。
一度目に落下した場所。
悪魔の罠が広がる部屋。
妖精の魔法を使う。
移動。
視界が切り替わる。
湿った空気。
植物の匂い。
足元には黒い蔓が広がっている。
悪魔の罠。
前世では三人で落下し、抵抗するほど締めつけられた。
今回は植物の外側へ現れた。
蔓がハリーへ伸びる。
「ルーモス・ソレム」
強い光。
蔓が退く。
次の部屋へ進む。
無数の翼を持つ鍵。
中央には箒。
扉には鍵が掛かっている。
以前は目的の鍵を探し、箒で追いかけた。
必要ない。
扉の向こうに自分がいる。
移動。
魔法使いのチェス盤。
巨大な駒が動き出そうとする。
無視。
移動。
倒されたトロールがいる部屋。
クィレルが通った後だ。
前世では気絶していた。
今回は首が不自然な方向へ曲がっている。
殺されている。
「余裕がないらしいな」
クィレルの変化が分かる。
以前より残忍になっている。
あるいは、ヴォルデモートが直接身体を支配する時間が増えている。
次の部屋には、机と複数の瓶。
炎が出入口を塞いでいる。
スネイプの論理問題。
ハリーは瓶を調べない。
炎の向こうへ移動する。
妖精の魔法が便利すぎる。
飛行技術も、チェスの才能も、論理的思考も必要ない。
防衛設備としては致命的な穴だった。
「ダンブルドアも使えるのか?」
前世。
魔法省へ向かったはずのダンブルドアは、異常な速さで学校へ戻ってきた。
飛行。
煙突飛行粉。
姿現し。
どの方法を使ったとしても、時間が合わない。
校長権限によって、ホグワーツ内でも特殊な移動魔法を使えるのかもしれない。
「それなら最初から学校を出る必要もなかった気がするけど」
考えるのは後だ。
最後の部屋。
扉の向こうから声が聞こえる。
「愚か者め」
高く、冷たい声。
「時間をかけすぎている」
「申し訳ありません、ご主人様」
クィレルの声。
「石は目の前にあるのです。しかし、鏡が……」
「少年が来る」
「ポッターが?」
「感じる。あれは近い」
すでに気づかれている。
額の傷に痛みはない。
だが、魂の繋がりは残っているのかもしれない。
ハリーは透明マントを脱いだ。
隠れたまま先制することもできる。
しかし、ヴォルデモートがハリーの存在を感知しているなら、意味は薄い。
扉を開ける。
広い部屋。
中央に、みぞの鏡。
その前にクィレルが立っている。
紫色のターバンは外されていた。
後頭部に、白い顔が浮かび上がっている。
鼻のない顔。
赤い目。
かつて何度も夢に見た姿。
完全な肉体を得る前の、醜く歪んだヴォルデモート。
「久しぶりだな」
ハリーは言った。
クィレルが振り返る。
ヴォルデモートの目が細くなった。
「久しぶり、だと?」
しまった。
初対面として振る舞うべきだった。
「十年前以来という意味だ」
ハリーは言い直した。
「赤ん坊だった貴様に、記憶があるというのか?」
「悪夢では何度も会っている」
完全な嘘ではない。
ヴォルデモートはハリーを凝視した。
「お前は何者だ?」
「ハリー・ポッター」
「ただの子供ではない」
「あなたも、ただのターバンの飾りではないな」
クィレルの顔が引きつる。
ヴォルデモートは笑った。
乾いた、冷たい声。
「面白い。あの夜、私はお前へ何を残した?」
ハリーは杖を抜く。
「傷と、迷惑な評判だ」
「力も残したのではないか?」
「思い上がるな。僕の力は僕のものだ」
クィレルが杖を構える。
「ご主人様。私が捕らえます」
「殺すな。血を調べる」
ハリーの背筋が冷たくなる。
やはり気づき始めている。
ハリーの血。
母の守り。
ヴォルデモートは前世で、その血を使って肉体を再生した。
その結果、リリーの守りを自分の中へ取り込み、ハリーを生かし続ける鎖になった。
今回も同じことをさせるわけにはいかない。
触れればクィレルの身体は焼ける。
だが、それを見せれば、ハリーの血がヴォルデモートに対して特別な力を持つと確信される。
だから、触れない。
触れさせない。
純粋な魔法だけで倒す。
「エクスペリアームス!」
クィレルが先に杖を振る。
武装解除呪文。
ハリーは杖を動かさない。
身体を半歩ずらす。
赤い光が肩の横を通り過ぎた。
「ステューピファイ!」
ハリーの反撃。
クィレルが盾を張る。
赤光が弾ける。
「インカーセラス!」
縄が床から伸びる。
ハリーは杖なしで切断する。
「コンフリンゴ!」
爆発。
盾で正面から受けず、妖精の魔法で横へ短距離移動する。
直前まで立っていた床が砕けた。
クィレルの目が見開かれる。
「今の魔法は……」
「戦闘中によそ見をするな」
ハリーは杖を振る。
「ディフィンド!」
切断呪文がクィレルのローブを裂く。
皮膚は狙わない。
続けて武装解除。
「エクスペリアームス!」
クィレルの杖が宙へ飛ぶ。
だが、途中で止まった。
見えない力に引かれ、持ち主の手へ戻る。
ヴォルデモートの魔法。
「体を貸せ」
後頭部の顔が命じる。
「しかし、ご主人様――」
「貸せ!」
クィレルの身体が痙攣した。
姿勢が変わる。
怯えた教師の動きではない。
足を開き、杖を低く構える。
赤い目だけが、ハリーを見ている。
「これならどうだ、少年」
声も変わった。
クィレルの口から、ヴォルデモートの声が発せられる。
「アバダ・ケダブラ!」
緑の光。
ハリーは床を蹴る。
十一歳の身体では避けられない速度。
だから、空間を飛ぶ。
死の呪文が背後の壁へ当たる。
石が弾ける。
「やはり、ホグワーツの結界を無視している」
ヴォルデモートが呟く。
「その力をどこで手に入れた?」
「厨房」
「何?」
「教えてやる義理はない」
ハリーは攻撃を再開する。
失神呪文。
切断呪文。
拘束。
目潰し。
足払い。
一つ一つの威力は、全盛期に遠く及ばない。
だが、技術は残っている。
相手の盾を正面から破壊する必要はない。
防御の薄い角度。
次の動作へ移る瞬間。
視界の外。
呼吸。
体重移動。
クィレルの身体は、ヴォルデモートの技術へ追いついていない。
魔力を流すたび、筋肉が悲鳴を上げている。
対してハリーは、十一歳の身体に合わせた戦い方を数か月かけて作り直した。
「ステューピファイ!」
盾。
「ディフィンド!」
回避。
「インカーセラス!」
切断。
ヴォルデモートが防ぎ続ける。
ハリーは攻撃の間隔を少しずつ縮める。
足元。
肩。
杖。
天井。
一見無関係な場所へ呪文を撃つ。
クィレルが後退する。
一歩。
二歩。
三歩。
所定の位置へ入った。
「今だ」
ハリーが杖を下へ向ける。
先ほど天井へ撃った切断呪文によって、石材が緩んでいる。
床へ撃った呪文で亀裂も作った。
「デプリモ!」
足元が陥没する。
クィレルの身体が傾く。
天井から石片が落下する。
ヴォルデモートは上と下を同時に防御しなくてはならない。
ハリーは正面へ杖を向けた。
「ステューピファイ!」
盾が間に合う。
それも想定内。
一発目。
二発目。
三発目。
同じ一点へ連射。
透明な障壁に亀裂が走る。
「小賢しい!」
ヴォルデモートが杖を振る。
黒い炎。
ハリーは移動魔法を使わない。
魔力を温存する。
身を低くして炎の下を潜り、さらに距離を詰める。
「接近すれば、お前の方が不利だ!」
クィレルの左手が伸びる。
触れれば、母の守りが反応する。
それを見せるわけにはいかない。
ハリーは杖なしでクィレルの手首を横へ弾く。
触れていない。
魔力の衝撃だけ。
体勢を崩した相手の脇を通り抜ける。
「遅い」
背後から杖を向ける。
「エクスペリアームス!」
クィレルの杖が飛ぶ。
今度は戻させない。
妖精の魔法で杖を消し、部屋の反対側へ移す。
「貴様!」
「ステューピファイ!」
背中へ直撃。
クィレルが倒れる。
だが、すぐに立ち上がろうとする。
ヴォルデモートが無理やり身体を動かしている。
「肉体の持ち主は、もう限界だぞ」
「この男の命など、どうでもよい」
「そう言うと思った」
前世のハリーは、クィレルを一人の敵としてしか見ていなかった。
だが、後に多くの憑依事件を扱った。
闇払い局長として、宿主と寄生する魂を分離する術式も学んでいる。
通常なら、複数人の術者と準備が必要な高度な魔法。
今のハリーの魔力では完全な形で使えない。
しかし、ヴォルデモートの魂は不安定だ。
クィレルとの結びつきも、正式な契約ではない。
弱った魂が、他人の身体へ強引にしがみついているだけ。
「何をするつもりだ」
ヴォルデモートが初めて警戒を見せる。
ハリーは杖を両手で握った。
前世で使った術式を、簡略化する。
必要なのは、魂を滅ぼすことではない。
分霊箱が存在する限り、それはできない。
クィレルとの繋がりを断ち、霊体を散らす。
再び宿主を得るまで、長い時間が必要になるほど細かく。
「お前は、何者だ」
ヴォルデモートが繰り返す。
「さっき答えた」
魔力を集中する。
「ハリー・ポッターだ」
床に光の線が走る。
クィレルを中心に円が描かれる。
ヴォルデモートが身体を動かそうとする。
ハリーは杖なしで拘束を重ねた。
縄。
空気。
ローブ。
周囲にあるすべてを利用して、肉体を床へ縫い止める。
「離せ!」
「嫌だね」
「私は不死だ!」
「知ってる」
ヴォルデモートの顔が凍った。
「何?」
「だから、今日ここで完全に死ぬとは思っていない」
ハリーは術式を完成させる。
「だが、しばらく大人しくしてもらう」
杖先から白い光が伸びた。
クィレルの身体へ触れる。
後頭部の顔が歪む。
「やめろ!」
「一つ、忠告しておく」
ハリーは静かに言った。
「次に僕と戦う時は、もっとまともな身体を用意しろ」
「貴様は――」
術式が発動する。
絶叫。
クィレルの身体から黒い霧が噴き出した。
人の顔。
蛇のような輪郭。
赤い目。
ヴォルデモートの霊体が、宿主から引き剥がされる。
黒い霧がハリーへ襲いかかった。
触れられる前に、杖を向ける。
「ディスペルソ!」
退散の魔法。
霊体が弾ける。
一つだった黒い影が、無数の細い煙へ分かれた。
煙は悲鳴を上げながら部屋を巡り、壁の隙間や扉の下から逃げていく。
完全には滅びない。
分霊箱が繋ぎ止めている。
だが、再び意思をまとめ、宿主を探せるようになるまでには時間がかかる。
前世よりも、はるかに深い損傷を与えた。
部屋が静まり返る。
クィレルは倒れたまま動かない。
ハリーは近づかず、杖先で状態を確認する。
生きている。
呼吸は弱いが、魂を引き剥がしたことで命までは失っていない。
前世では、ヴォルデモートが身体を離れたことで死亡した。
今回は術式によって結びつきを整理した。
治療が早ければ助かる可能性がある。
「あなたも被害者ではあるからな」
自分の意思でヴォルデモートを探した。
身体を差し出した。
罪がないとは言わない。
それでも、裁判を受ける権利はある。
ハリーはみぞの鏡を見た。
鏡面に、自分の姿が映っている。
その背後。
両親。
シリウス。
リーマス。
フレッド。
死んだ者たちが並んでいるのかもしれない。
ハリーは鏡を見なかった。
視線を床へ落とす。
「僕の望みは知っている」
鏡へ手を伸ばす必要はない。
石を欲しいとも思わない。
使うつもりもない。
だからこそ。
ローブのポケットに、重みが生まれた。
ハリーは目を閉じた。
やはり、石は鏡の中に隠されていた。
手に入れたいが、使いたくはない者。
その条件を満たしたため、鏡が石を渡した。
「これも相変わらずか」
ポケットから赤い石を取り出す。
賢者の石。
今すぐ破壊すべきか迷う。
ニコラス・フラメルと相談する必要がある。
彼と妻の命に関わる。
勝手に壊すわけにはいかない。
ハリーは石を握った。
その時。
足跡の地図がローブの中で熱を持った。
取り出す。
地図を開く。
地下へ向かって、複数の名前が移動している。
セブルス・スネイプ。
ミネルバ・マクゴナガル。
そして。
アルバス・ダンブルドア。
「早いな」
前世も、ダンブルドアは異常な速さで戻ってきた。
魔法省へ到着する前に罠へ気づき、引き返したのだとしても速すぎる。
やはり、何らかの特殊な移動手段がある。
「あとで聞いてみるか」
隠れる必要はない。
クィレルは制圧した。
ヴォルデモートも追い払った。
賢者の石も確保した。
問題は、どう説明するかだった。
未来の記憶をすべて話す気はない。
だが、これまでのように一般向けの本で読んだと言い張るのも無理がある。
十一歳の生徒が教師たちの仕掛けを突破し、ヴォルデモートを宿主から分離した。
本で読んだでは済まない。
扉が開いた。
最初に入ってきたのはスネイプだった。
杖を構え、室内を確認する。
倒れたクィレル。
砕けた床と壁。
みぞの鏡。
そして、賢者の石を持ったハリー。
スネイプの顔から血の気が引いた。
「ポッター」
「こんばんは、先生」
「何をした」
「クィレル先生から、ヴォルデモートを追い出しました」
後から入ってきたマクゴナガルが息を呑む。
ダンブルドアだけは、表情をほとんど変えなかった。
青い目が、ハリーとクィレルを交互に見る。
「トムは、どこへ?」
「散らしました」
「散らした?」
「霊体を細かく分断して、城の外へ追い出しました。死んではいません」
ダンブルドアの目が鋭くなる。
「なぜ、死んでいないと分かるのじゃ?」
核心だった。
ハリーは答えない。
スネイプが近づき、クィレルの状態を調べる。
「生きている」
「医務室へ運んでください」
「お前に命令されるまでもない」
「では早く」
「ポッター!」
「セブルス」
ダンブルドアが静かに制した。
「ミネルバ。クィレルをポピーのもとへ。セブルスも同行しなさい」
「しかし、この子を一人に――」
「ワシが話す」
マクゴナガルは厳しい顔でハリーを見た。
「ポッター。ここを動いてはいけません」
「動きません」
「あなたの言うことは、最近まったく信用できません」
「今度は本当です」
「今度は、という言い方をやめなさい」
マクゴナガルとスネイプが、クィレルを浮かせて部屋を出る。
残ったのはハリーとダンブルドア。
みぞの鏡の前で、二人は向き合った。
「まず」
ダンブルドアが言った。
「石を渡してくれるかのハリー?」
ハリーは賢者の石を差し出す。
「壊す前に、フラメル夫妻へ説明してください」
ダンブルドアの手が止まった。
「壊す?」
「これを残せば、また狙われます。命の水を作るだけの量は残っているはずです。その後のことは、お二人が決めるべきです」
「ニコラスと石について、どこで知ったのじゃ?」
「カエルチョコの裏にすら書いてますよ。」
ダンブルドアは石をローブへしまった。
「では、別の質問をしよう。なぜクィレルが石を狙っていると知っていたのじゃ?」
「監視していました」
「どのように?」
「それは話せません」
「四階の障害を、どのように通過した?」
「秘密です」
「トムの魂を、どのような魔法でクィレルから分離した?」
「以前、似た術式を学びました」
「以前とは?」
ハリーは黙った。
ダンブルドアも急かさない。
長い沈黙。
みぞの鏡の表面で、光が揺れる。
「ハリー」
ダンブルドアの声が柔らかくなる。
「君は、何を恐れているのじゃ?」
自分が恐れているもの。
ヴォルデモート。
仲間の死。
未来の変化。
知識が役に立たなくなること。
そして。
ダンブルドアへすべてを話した結果、再び彼の計画の駒にされること。
「先生が、僕のために試練を用意することです」
ダンブルドアの表情が僅かに変わった。
「どういう意味かの?」
「透明マントを送ったのは先生ですね」
「…どうだったかの?」
「みぞの鏡を、僕が見つけるようにしましたか?」
「……興味深い質問じゃな」
「答えになっていません」
「しかしハリー、君は何故見なかったのかの?」
「見る必要がありませんでした」
「何が映るか、知っていたと?」
「自分の望みくらい知っています」
ハリーはダンブルドアを見る。
「先生は善良な人です」
「これはまた、突然じゃな」
「でも、人を信じることと、人へ試練を与えることを同じだと思っているところがある」
ダンブルドアの笑みが消えた。
「誰かが自分で選び、自分で乗り越えれば、その人の成長になる。先生はそう考える」
「成長には、自ら選ぶことが大切じゃ」
「十一歳の子供に、ヴォルデモートと戦う機会を与えることも?」
沈黙。
ダンブルドアの青い目が、初めて年齢相応の鋭さを見せた。
「君は…」
ゆっくりと口を開く。
「私が今夜の出来事を予想していたと?」
「完全には予想していなかったでしょう。でも、可能性は考えていた」
「だから、鏡に石を隠したのだと?」
「クィレルには取り出せない。僕なら取り出せる」
「君でなくとも、石を見つけたいが使いたくない者なら取り出せる」
「今夜、ここへ来る可能性が最も高かったのは僕です」
ダンブルドアは否定しなかった。
「先生は魔法省からの呼び出しが偽物だと、いつ気づきました?」
「城を出て、しばらくしてからじゃ」
「どうやって、これほど早く戻ったのです?」
ダンブルドアの目が僅かに輝く。
「ワシにも、話したくない秘密はある」
「便利ですね」
二人はしばらく見つめ合った。
敵ではない。
互いに味方であることも理解している。
それでも、すべてを信用してはいない。
「いずれ、お話しします」
ハリーは言った。
「僕が何を知っているのか。なぜ知っているのか」
「今ではだめかの?」
「まだ力が足りません」
「今夜、トムを一人で退けた君が?」
「あれは最弱の状態です」
ダンブルドアの眉が動く。
「最弱、と」
「身体もない。杖もない。他人の肉体を借りている。あれより弱いヴォルデモートはいません」
「まるで、より強い彼を知っているような言い方です」
ハリーは答えない。
また沈黙が落ちる。
「では、一つだけ約束してくれるかねハリー」
ダンブルドアが言った。
「次に同じような危険が迫った時は、一人で戦わないと」
「できません」
「即答じゃの」
「助けを求められる状況なら求めます。でも、今夜のように時間がない場合は動きます」
「十一歳の子供が背負う責任ではないの」
「それを、十一歳の僕がここへ来る可能性を考えていた先生が言いますか?」
ダンブルドアは目を閉じた。
「耳が痛い話じゃな」
「今後は改善してください」
「善処することとしようかの」
ダンブルドアの口元に、僅かに笑みが戻る。
「ところで、ハリー」
「はい」
「先ほど、クィレルとの戦いを記録していたのだが…」
ハリーの身体が固まる。
「記録?」
「石を守るため、最後の部屋には監視の術式が施されておるのじゃよ」
聞いていない。
前世では知らなかった。
「音声も?」
「ええ」
「どこから?」
「君が扉を開ける少し前からです」
ハリーは記憶を辿った。
何を言った。
クィレル。
ヴォルデモート。
戦闘中。
そして最後。
次に僕と戦う時は、もっとまともな身体を用意しろ。
その程度なら問題ない。
さらに前。
「……僕は、余計なことを言いましたか?」
「いくつか興味深い発言があったの」
ダンブルドアの目が楽しそうに輝く。
ハリーは深く息を吐いた。
ヴォルデモートには勝った。
賢者の石も守った。
クィレルも生存している。
前世より、はるかに良い結果だ。
それでも、完全な勝利とは思えなかった。
ヴォルデモートは消滅していない。
分霊箱は残っている。
彼が予定より早くハリーを警戒した以上、今後の行動も変化する。
未来の知識は、さらに信用できなくなるだろう。
そして。
ダンブルドアには、完全に目をつけられた。
「先が思いやられるな」
「何か不安でも?」
「何でもありません」
こうしてクィレルとダンブルドアとの第一戦は幕を閉じた。
◆
翌朝。
ハリーが医務室の寝台で目を覚ますと、ロンとハーマイオニーが両側にいた。
結局、戦闘と移動魔法による疲労で、ダンブルドアとの会話後に倒れたらしい。
「馬鹿!」
目を開けた瞬間、ハーマイオニーに怒鳴られた。
「おはよう」
「一人で行くなんて、本当に馬鹿!」
「行く前に説明した」
「説明すれば危険なことをしていいわけじゃないわ!」
「無事だったから」
「その言い方、嫌い!」
目に涙が溜まっている。
ロンは怒った顔で黙っていた。
「ロン」
「何だよ」
「心配かけた」
「本当だよ」
「悪かった」
「……勝ったのか?」
「ああ」
「クィレル先生に?」
「その後ろにいた奴にも」
「誰だった?」
ハリーは少し迷う。
だが、もう隠せない。
「ヴォルデモート」
ロンの顔から血の気が引く。
ハーマイオニーも息を止めた。
「名前を言っていい」
ハリーは静かに言った。
「名前を恐れると、本人まで大きく見える」
「お前、あの人と戦ったのか?」
「ああ」
「勝った?」
「今回は」
今回は。
その言葉に、二人が気づいたかは分からない。
「でも、終わってない」
ハリーは続ける。
「ヴォルデモートは生きている。また戻ってくる」
「どうして分かるの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
約束した。
今夜が終わったら、話せる範囲で話すと。
「僕は、あいつについて普通の人より多く知っている」
「どうして?」
「それは、まだ言えない」
「ハリー」
「でも、これからは危険が近づいている時には伝える。全部は無理でも、二人が自分で判断できるだけの情報は話す」
ハーマイオニーは納得していない。
ロンも同じだ。
それでも、以前よりは前進している。
「約束?」
「ああ」
「今度こそ、本当でしょうね」
「本当だ」
医務室の扉が開く。
ダンブルドアが入ってきた。
手には菓子の箱。
「お邪魔だったかの?」
「はい」
ハーマイオニーが即答した。
ダンブルドアが目を瞬く。
「これは手厳しい」
「ハリーを一人で危険な場所へ行かせたのは、校長先生ですか?」
「直接行かせたわけではないの」
「止めることはできたでしょう」
ダンブルドアがハリーを見る。
「君のお友達は、非常に聡明ですな」
「そうでしょう」
「話を逸らさないでください」
ハーマイオニーが追及する。
ダンブルドアは椅子へ座った。
長い話になりそうだった。
ハリーは枕へ背を預ける。
ヴォルデモートとの最初の戦いは終わった。
一年目の最大の危機も回避した。
だが、休んでいる暇はない。
来年度。
ドビーがプリベット通りへ来る。
未成年魔法の使用をハリーの仕業に見せかける。
魔法省の記録に違反歴が残る。
それ以上に危険なのが、ルシウス・マルフォイの持つ日記。
トム・リドルが最初に作った分霊箱。
他の分霊箱とは異なり、人を操り、自分の肉体を作ろうとする。
前世で完全復活した禿げたヴォルデモートより、若く、顔も整い、妙に落ち着いていた。
正直なところ、あちらの方が強そうに見えた。
前世を知っているからこそわかる話だが、魂を引き裂く際に綺麗に7等分できるというわけではないのだろう。
恐らく最初の分霊箱に半分くらい魂を持っていかれているのではないかとすら思う。
来年まで待つ必要はない。
夏休み中にマルフォイ邸へ乗り込み、日記を回収する。
そのためには、ドビーの移動についていく方法を完成させなくてはならない。
ハリーは窓の外を見る。
雪に覆われたホグワーツ。
平穏な景色。
嵐の前の静けさ。
「次は日記か」
「何か言いました?」
ロンが尋ねる。
「来年の予定を考えてた」
「まだ一年生も終わってないぞ」
「準備は早い方がいい」
「やっぱり年寄りみたいだな」
ハリーは否定しなかった。
二度目の一年目は、まだ終わっていない。
だが、次の戦いはすでに始まっていた。