ハリーが自分の秘密を明かしてから、教師たちの態度は少しずつ変化した。
劇的に変わったわけではない。
マクゴナガルは、以前と変わらず宿題の提出期限に厳しかった。
授業中に手を抜けば、鋭い視線が飛んでくる。
廊下を走れば注意されるし、夜間に出歩けば減点すると宣言された。
ハリーの中身が八十歳を超えていると知っても、学生として扱う方針を変えるつもりはないらしい。
むしろ、以前より監視が厳しくなった気さえする。
「あなたは精神的には成人なのでしょう?」
変身術の授業後、マクゴナガルはそう言った。
「はい」
「ならば、十一歳の生徒以上に規則を守ることができますね」
「そういう使い方をしますか」
「当然です」
秘密を明かせば、多少は自由に動きやすくなると考えていた。
見通しが甘かったらしい。
スネイプの態度も、表面上は変わっていない。
「ポッター。グリフィンドールから五点減点」
「今日はまだ何もしていません」
「今から何かする顔をしていた」
「顔だけで減点するのは不当です」
「口答えで、さらに五点」
以前と同じく理不尽だった。
ただし、授業後に誰もいない場所へ呼び出される回数は増えた。
内容は嫌がらせではない。
分霊箱。
魂の魔法。
精神防御。
そして、夏休みに予定しているマルフォイ邸への侵入についてだった。
校長室での話し合いから三日後。
ハリーは地下牢にあるスネイプの研究室へ呼び出されていた。
机の上には、黒い箱が置かれている。
長さは三十センチほど。
表面に銀色の線が複雑な模様を描いている。
「これは?」
「日記を回収した後に収める容器だ」
スネイプが箱の蓋を開ける。
内部は黒い布で覆われていた。
布には、ルーン文字と魔法陣が隙間なく刺繍されている。
「精神干渉、魔力の流出、外部からの呼びかけを抑制する」
「短期間なら、分霊箱を封じられる?」
「理論上はな」
「実際には?」
「分霊箱を入れたことなどない」
「正直ですね」
「お前が求めたのだろう」
スネイプは箱を閉じた。
「日記を手に入れても、直接開くな。文字を書くな。返事をするな。素手で長時間持つことも避けろ」
「分かっています」
「未来で一度影響を受けたからといって、今回も防げるとは限らん」
「未来では僕ではなく、ジニーが操られました」
「ならば、なおさらお前には耐性がない」
正しい指摘だった。
ハリーは日記のリドルと会話したことはある。
だが、それはジニーから十分な生命力を吸収し、秘密の部屋で実体化しかけていた状態だ。
白紙の日記へ文字を書き、長期間会話を続けた経験はない。
閉心術があるからといって、油断はできなかった。
「箱を用意してくださったことには感謝します」
「勘違いするな」
「何を?」
「お前のためではない。分霊箱とやらを、安全に校長へ届けるためだ」
「結果として、僕も安全になります」
「黙れ」
スネイプは次の羊皮紙を机へ広げた。
マルフォイ邸の簡単な見取り図だった。
「屋敷の構造をご存じなのですか?」
「何度か訪れたことがある」
「食事に?」
「お前には関係ない」
旧死喰い人同士の集まりだろう。
未来の記憶では、ヴォルデモート復活後のマルフォイ邸しか詳しく知らない。
邸宅は死喰い人の拠点となり、地下牢には多くの捕虜が収容された。
ハリー自身も捕らえられたことがある。
だが、平時の屋敷へ正面から訪れた経験はない。
「ルシウスの書斎は二階。東側の廊下だ」
スネイプが図面を指す。
「闇の魔術に関する品の多くは、書斎か地下の保管庫にある」
「日記がどちらにあるかは?」
「分からん」
「未来では、ルシウスが書店へ持ってきていました。すぐに取り出せる場所へ置いていた可能性が高い」
「それが書斎とは限らん」
「寝室?」
「ナルシッサが、出所の分からない闇の魔法道具を夫婦の寝室へ置くとは思えん」
「夫より常識がありますね」
スネイプが睨む。
「本人へ言うな」
「言う機会があれば考えます」
「言うな」
作戦は、単純なものになった。
夏休み。
ドビーがプリベット通りへ現れる。
警告を終え、マルフォイ邸へ帰還する瞬間に、ハリーが移動魔法へ追従する。
同じ夜、スネイプは客としてマルフォイ邸を訪れる。
表向きは、ドラコの一年目の成績と、翌年度の指導について話すためだ。
ルシウスとナルシッサの注意を引きつけ、その間にハリーが日記を探す。
何か問題が起きた場合、スネイプが内部から支援する。
「ダンブルドア先生は、作戦へ参加しないのですか?」
「校長がマルフォイ邸の近くへ現れれば、それだけでルシウスは警戒する」
「マクゴナガル先生は?」
「同じだ」
「先生なら警戒されない?」
「私はドラコの教師であり、ルシウスとは以前から面識がある」
「元死喰い人でもある」
室内の空気が冷えた。
「それを、軽々しく口にするな」
「すみません」
ハリーは素直に謝った。
スネイプが未来でどれほど危険な立場にいたかを知っている。
本人にとって、死喰い人だった過去は冗談にできるものではない。
「当日は、これを持て」
スネイプが銀色の硬貨を投げる。
ハリーは受け止めた。
表面には蛇の模様。
裏面には、小さな百合の花が刻まれている。
「連絡用の魔法道具だ。強く握り、私の名前を呼べば、対となる硬貨が熱を持つ」
「声を出せない場合は?」
「魔力を流すだけでも反応する」
「場所は伝わりますか?」
「お前が屋敷内にいることは分かっている。合図があれば、適当な理由をつけて席を外す」
「便利ですね」
「一度しか使えん。使えばルシウスにも魔力の動きを察知される可能性がある」
「緊急時のみ」
「そういうことだ」
スネイプはハリーを真っ直ぐ見る。
「そして、私が到着するまで戦うな」
「相手によります」
「ポッター」
「分霊箱が誰かへ危害を加えようとしている場合、待てません」
「ならば、身を守ることだけを考えろ」
「可能な範囲で」
「その言い方をやめろ」
「約束できないことは約束しません」
スネイプは長い間、ハリーを睨んだ。
「未来の私が、お前をどう評価していたのか理解できんな」
「最終的には、それなりに」
「その話は信用していない」
「息子の名前の話も?」
「二度と口にするな」
「分かりました」
スネイプの顔色が少し悪くなった。
未来の自分の名前を、ハリーが息子につけたという事実は、相当な衝撃だったらしい。
もっとも、ハリーは詳細を説明していない。
今後も説明するつもりはなかった。
それを知ることで、スネイプの選択が変わる可能性がある。
必要な情報ではない。
単なる失言だった。
屋敷しもべ妖精の移動へ追従する訓練も続けられた。
ティビーの移動に合わせ、空間へ開かれる道へ入り込む。
最初は、ほとんど成功しなかった。
ティビーだけが消え、ハリーは元の場所へ残される。
道を捉えても、途中で弾き出される。
一度は、移動先の床から一メートルほど上に現れ、頭から落ちた。
「ハリー・ポッター様!」
ティビーが悲鳴を上げる。
「大丈夫だ」
「頭をお打ちになりました!」
「柔らかい床だった」
必要の部屋が、衝撃を吸収してくれた。
「ティビーが、もっとゆっくり移動いたします!」
「移動速度を変えられるのか?」
「できません」
「では、仕方ない」
「申し訳ございません!」
「ティビーが謝ることじゃない」
妖精の魔法は、魔法使いの呪文とは原理が違う。
移動距離そのものより、場所同士の繋がりが重要になる。
厨房と必要の部屋。
必要の部屋と空き教室。
城内であれば、ハリーにも強い繋がりがある。
ホグワーツを家だと認識しているためだろう。
しかし、プリベット通りとマルフォイ邸の間には、ハリー自身の繋がりがほとんどない。
一度目の人生で捕らえられた記憶はある。
だが、今の時間ではまだ訪れていない場所だ。
未来の記憶だけで、魔法的な繋がりが成立するかは不明だった。
「ドビーとの繋がりを使うしかないな」
ハリーが言う。
「ドビーと?」
「僕は未来で、ドビーの友人だった」
「未来のドビーは、ハリー・ポッター様のお友達なのでございますか?」
「ああ」
命を懸けて、ハリーたちを救った。
その直後に死んだ。
砂浜に墓を作った。
魔法を使わず、自分の手で掘った。
「大切な友人だった」
ティビーの大きな目が、少し潤んだ。
「それなら、ドビーもきっと、ハリー・ポッター様をお助けいたします」
「今のドビーは、僕を助けたいと思っている。でも、主人の命令には逆らえない」
「ドビーは苦しんでおります」
「知ってる」
今回は助ける。
日記を回収するだけではない。
可能なら、ドビーをルシウスから解放する。
ただし、方法が必要だった。
屋敷しもべ妖精の契約解除には、主人から衣服を与えられなければならない。
一度目は、日記へ靴下を仕込み、ルシウスに投げさせた。
同じ方法を使えるとは限らない。
日記を盗み出せば、ルシウスがドビーへ何かを渡す流れそのものが発生しない。
別の機会を作る必要がある。
「まずは日記だ」
すべてを一晩で解決しようとして失敗しては意味がない。
優先順位を間違えない。
危険な分霊箱の回収。
ドビーの解放は、その次。
年度末試験が近づく頃には、城内であればティビーの移動へ安定して追従できるようになった。
必要の部屋から厨房。
厨房から玄関広間。
地下から七階。
長距離になるほど吐き気は強くなるが、移動後に立っていられる。
「本番では、到着した直後に動けるようにしないとな」
「本番でございますか?」
「夏休みだ」
「危険なことをなさるのですか?」
「少しだけ」
ティビーの耳が下がる。
「ハリー・ポッター様の少しは、普通の方の大変危険でございます」
「誰に聞いた?」
「マクゴナガル先生でございます」
教師と妖精の間で情報が共有されている。
「先生がティビーに?」
「ハリー・ポッター様が無理をなさった場合は、すぐにお知らせするようにと」
「監視役を増やらされたのか」
「ハリー・ポッター様をお守りするためでございます」
マクゴナガルらしい。
秘密を明かした結果、自由になるどころか包囲が完成しつつある。
年度末試験は、問題なく終わった。
ハリーは知識を隠しながら、上位に入る程度の点数へ調整した。
完璧な答案を書けば、教師たちがさらに騒ぐ。
間違えすぎれば、マクゴナガルに叱られる。
中間を狙う必要があった。
ハーマイオニーは、当然のように学年首席だった。
「変よ」
成績表を見ながら、ハーマイオニーが言う。
「何が?」
「あなたの実技の点数」
「悪かった?」
「悪くないわ。でも、私より低い」
「ハーマイオニーが上手かったからだ」
「トロールやクィレル先生を倒せるのに?」
「試験と実戦は別だ」
「変身術の試験で、あなたは途中まで完璧だった。最後だけ形を崩したでしょう」
「集中が切れた」
「わざと間違えたように見えたわ」
「気のせいだ」
ハーマイオニーが目を細くする。
未来の記憶については、ロンとハーマイオニーにも一部を明かした。
教師陣へ話した翌日の夜。
必要の部屋へ二人を呼び、ハリーが一度人生を経験していること。
その未来で、ヴォルデモートが復活したこと。
来年度、日記によってジニーが操られる可能性があること。
秘密の部屋にバジリスクがいること。
そこまで説明した。
自分の中に魂の欠片があることは話していない。
二人が今知る必要はない。
「未来のあなたは、試験でわざと点数を落とすような人だったの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「必要なら」
「やっぱり、わざとなのね」
誘導された。
「今のは忘れてくれ」
「忘れないわ」
「だろうな」
ロンは成績表を見ながら、別の意味で落ち込んでいた。
「僕は未来でも試験が苦手だった?」
「安心しろ。変わってない」
「安心できない」
終業式。
寮対抗杯で優勝したのは、レイブンクローだった。
グリフィンドールは二位。
ハリーがクィディッチチームへ参加しなかったことが、成績へ大きく影響した。
ロンは最後まで不満そうだった。
「来年こそチームに入れよ」
「入らない」
「何でだよ。ヴォルデモートを倒したんだろ?」
「追い出しただけだ」
「大きな蛇もいるんだっけ?」
「ああ」
「日記を取れば、大丈夫なんじゃないのか?」
「日記を回収しても、秘密の部屋そのものは残る」
「じゃあ、夏休みに蛇も倒せば?」
「学校の地下にいる蛇を、どうやって夏休みに倒すんだ」
「ハリーなら何とかするだろ」
「僕を何だと思ってる?」
「八十歳を超えた闇払い局長」
説明した弊害が、すでに出ていた。
ホグワーツ特急へ乗る前、ハグリッドが写真帳を渡してくれた。
若い父と母。
二人で笑う写真。
友人たちと並ぶ姿。
ハリーは、しばらく頁をめくることができなかった。
前世でも同じ贈り物を受け取った。
内容を覚えている写真も多い。
それでも、生きて動く両親の姿を見ると胸が痛んだ。
「ありがとう、ハグリッド」
「大事にしてくれよ」
「もちろん」
「夏休みは、ちゃんと休むんだぞ」
「努力する」
ハグリッドが眉をひそめる。
「その言い方、マクゴナガル先生が嫌がってたぞ」
ここでも情報が共有されている。
列車の個室では、夏休み中の確認事項を整理した。
「日記が取れなかった場合」
ハリーが言う。
「ロンは、ウィーズリー家へ持ち込まれる物に注意してくれ」
「本とか?」
「特に中古の教科書。ルシウスが近くにいる時は、ジニーの荷物から目を離さない」
「父さんと母さんには?」
「危険な日記があることは話していい。ルシウスが狙っている可能性も。ただし、分霊箱については言わないでくれ」
「どうして?」
「アーサーさんが魔法省へ報告すれば、ルシウスへ伝わる可能性がある」
「父さんは信用できるぞ」
「アーサーさんを疑っているんじゃない。魔法省を疑っている」
「それなら分かる」
ロンは妙に納得した。
父親の職場について、思うところがあるらしい。
「ハリー」
ハーマイオニーが言う。
「マルフォイ邸へ入ったら、勝手に日記以外の物を調べないこと」
「なぜ?」
「目的を増やすと危険だから」
「その通りだ」
「ドビーを助けようとするのも、今回は我慢して」
考えていたことを見抜かれている。
「顔に出てた?」
「少し」
「分かった。日記を優先する」
「約束して」
「日記を確保するまで、他の目的では動かない」
「確保した後は?」
「状況次第だ」
「ハリー」
「危険なら撤退する」
ハーマイオニーは完全には納得していなかった。
だが、これ以上明確な約束はできない。
キングズ・クロス駅では、ダーズリー家の三人が迎えに来ていた。
一度目の人生では、もっと不機嫌そうに待っていた。
今回は、バーノンが時間通りに到着している。
「荷物を積め」
「はい」
ペチュニアはハリーを見上げた。
「少し背が伸びたわね」
「食事が十分でしたから」
「学校で妙な物ばかり食べていたんじゃないでしょうね」
「普通の食事です」
「カエルや虫は?」
「菓子の形なら」
ペチュニアの顔が引きつった。
「家には持ち込まないで」
「持っていません」
ダドリーがトランクを覗き込む。
「本当にないのか?」
「欲しかったのか?」
「別に」
「来年は普通の菓子を持ってくる」
「魔法のは?」
「危険じゃないものなら」
ダドリーは少し機嫌を直した。
プリベット通りでの夏休みは、以前より穏やかに始まった。
ハリーは庭仕事を手伝った。
ダドリーの夏休みの宿題を見る。
ペチュニアが買い物へ行く時には、荷物を持つ。
バーノンの仕事の話には、深入りしない程度に相槌を打つ。
魔法を使わない限り、ダーズリー家との衝突はほとんど起きなかった。
問題は、ドビーがいつ現れるかだった。
一度目の記憶では、バーノンが重要な商談を行う夜。
メイソン夫妻が夕食へ来る。
ドビーはデザートを浮かせて落とし、ハリーの仕業に見せかける。
日付も覚えている。
だが、未来はすでに変化している。
同じ日に来る保証はない。
ハリーは毎晩、自室へ封印箱と透明マントを用意した。
銀貨は常に首から下げる。
ドビーが突然現れても、すぐ動けるようにする。
七月三十一日。
ハリーの誕生日。
夕食後、ペチュニアが小さなケーキを出した。
名前も飾りもない。
ダドリーの誕生日に使った材料の残りだと言った。
「ありがとうございます」
「余っていたから作っただけよ」
「それでも」
ペチュニアは何も答えなかった。
バーノンは新聞を読みながら、明日の予定を説明した。
「明日は重要な客が来る。絶対に邪魔をするな」
「メイソン夫妻ですね」
「どうして知っている?」
「電話の声が廊下まで聞こえていました」
「聞き耳を立てたんじゃないだろうな」
「聞こえただけです」
「客がいる間は、部屋にいろ」
「分かりました」
「物音を立てるな」
「僕の部屋に誰かが入ってきた場合は?」
「誰が入るんだ」
「念のためです」
バーノンは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
翌日。
午後七時。
メイソン夫妻が到着した。
階下から、バーノンの大げさな笑い声が聞こえる。
ハリーはベッドへ腰掛けて待った。
封印箱。
透明マント。
杖。
連絡用の銀貨。
すべて準備してある。
同じ頃、スネイプもマルフォイ邸へ到着しているはずだ。
事前の打ち合わせでは、午後六時半から夕食。
ルシウスへ酒を勧め、できる限り長く晩餐室へ留めると言っていた。
スネイプが酒を勧める姿は、想像しづらい。
相手を酔わせるためなら、何でもするのだろう。
午後七時十分。
まだ来ない。
七時十五分。
空気に変化はない。
七時二十分。
ハリーは窓の外を見る。
「時間が変わったか」
ドビーが来ない可能性もある。
一年目にヴォルデモートを大きく傷つけた。
その情報がルシウスへ伝わり、日記を早く処分しようと考えた可能性もある。
あるいは、逆に警戒して保管し続けるかもしれない。
七時二十三分。
背後の空気が弾けた。
小さな破裂音。
ハリーは反射的に杖を抜きそうになり、止める。
初対面のふりをする必要がある。
ゆっくり振り返る。
ベッドの上。
大きな緑色の目。
蝙蝠のような耳。
古い枕カバーを身につけた、小さな屋敷しもべ妖精。
ドビー。
一度目の人生で、ハリーを救うために命を落とした友人。
今はまだ、マルフォイ家の奴隷だった。
ハリーは、込み上げる感情を抑える。
「ハリー・ポッター様」
ドビーが深く頭を下げた。
「ドビーは、どうしてもお伝えしなくてはならないことがございます」
「君は?」
「ドビーと申します」
「初めまして、ドビー」
その言葉を聞き、ドビーの目に涙が溜まった。
「ハリー・ポッター様が、ドビーへご挨拶をしてくださいました」
「普通のことだろ」
「ドビーに、そのようにおっしゃる魔法使い様はおりません」
ルシウスの顔が浮かぶ。
腹立たしい。
だが、今は日記が先だ。
「何を伝えに来たの?」
「ハリー・ポッター様は、ホグワーツへお戻りになってはいけません!」
「なぜ?」
「恐ろしいことが起きます」
「どんな?」
「ドビーは、お話しできません」
主人の秘密を漏らそうとした罰として、ドビーが机へ頭を打ちつけようとする。
ハリーは杖なしで枕を移動させた。
ドビーの額が、柔らかな枕へ埋まる。
「自分を傷つけるな」
「しかし、ドビーは悪い妖精でございます!」
「誰かを助けようとしている。悪くない」
「ハリー・ポッター様……」
ドビーが泣き始める。
「声は抑えてくれ。階下に客がいる」
「申し訳ございません!」
「僕はホグワーツへ戻る」
「なりません!」
「友達がいる」
「お友達は、ハリー・ポッター様をお忘れになっております!」
ドビーが机の上を見る。
ロンとハーマイオニーから届いた手紙が、束になって置かれている。
動きが止まった。
「手紙がございます」
「ああ」
「なぜ?」
「二人が送ってくれたから」
今回は、ドビーに手紙を隠されていない。
ティビーを通じ、ホグワーツから飛び立つ梟の動きを把握していた。
手紙が来なければ、すぐに気づく。
「でも、おかしいのでございます」
ドビーが混乱している。
「ドビーは……」
主人の秘密と、自分の行動について話せない。
それでも、計画が崩れていることは理解したらしい。
「手紙があっても、僕はホグワーツへ戻る」
「ドビーが、どうしてもお止めします!」
ドビーが右手を上げる。
階下のデザートを浮かせるつもりだ。
「やめた方がいい」
ハリーが言う。
ドビーの手が止まった。
「何を、でございますか?」
「下のデザートを浮かせて、メイソン夫人へ落とすこと」
ドビーの顔から血の気が引いた。
「なぜ」
「知っているのか?」
ハリーは杖を抜いた。
ドビーには向けない。
首から下げた銀貨へ杖先を当て、魔力を流す。
スネイプへの合図。
予定通り、今から移動するという連絡だ。
「誰へお知らせを?」
「君の家にいる友人へ」
「ドビーの家?」
「マルフォイ邸」
ドビーが後退する。
「なぜ、ハリー・ポッター様がご存じなのでございますか?」
「君がルシウス・マルフォイに仕えていることも知っている」
「お話ししてはなりません!」
「ドビーは話していない。僕が知っていただけだ」
「どうして?」
「長い話になる」
ハリーは透明マントを持ち上げる。
封印箱は縮小し、ローブの内側へ収める。
「今は帰っていい」
「しかし、ハリー・ポッター様がホグワーツへ――」
「戻る。それは変わらない」
「では、ドビーが――」
「魔法を使えば、僕が先に止める」
ドビーが指を鳴らそうとする。
ハリーは警戒する。
攻撃ではない。
移動。
帰還するつもりだ。
「ハリー・ポッター様は、ドビーについてきてはなりません!」
「連れていかなくていい」
ハリーは魔力を集中する。
「僕が勝手についていく」
ドビーの身体が消えた。
同時に、空間へ細い道が開く。
目には見えない。
だが、魔力の流れは捉えられる。
ティビーとの訓練より、道が荒い。
恐怖と焦りで、ドビーの魔法が不安定になっている。
閉じるまで一秒もない。
ハリーは道へ飛び込んだ。
身体が引き伸ばされる。
上下が消える。
胸が押し潰されるような圧力。
城内での追従とは比較にならない。
距離が長い。
場所との繋がりが弱い。
魔法の道が、ハリーを異物として弾き出そうとする。
指先の感覚が消える。
意識が遠のく。
ハリーはドビーの魔力を探した。
未来での記憶。
友人。
貝殻の家。
牢獄からの脱出。
砂浜。
墓。
自由な妖精、ドビー。
繋がりは存在する。
今のドビーが知らなくても、ハリーは知っている。
同じ場所へ行く。
ドビーを追うのではない。
友人と共に帰る。
そう定めた。
空間が反転する。
硬い床。
ハリーは肩から転がり、壁の直前で止まった。
息ができない。
吐き気。
視界が霞む。
それでも意識はある。
「ハリー・ポッター様!」
ドビーの悲鳴が近くで聞こえる。
ハリーは床へ手をつき、身体を起こした。
磨かれた石の床。
銀と緑の装飾。
壁に並ぶ、金髪の魔法使いたちの肖像画。
大きな窓の外には、月明かりに照らされた庭園。
マルフォイ邸。
「成功だ」
「成功ではございません!」
ドビーが両手で頭を抱える。
「ハリー・ポッター様が、恐ろしいご主人様のお屋敷へ来てしまいました!」
「ルシウスはどこ?」
「晩餐室で、スネイプ様とお話ししております」
作戦通り。
スネイプは内部にいる。
「ナルシッサは?」
「ご一緒でございます」
「ドラコは?」
「自室でございます」
「日記は?」
ドビーの身体が激しく震えた。
「ドビーは、お話しできません!」
「場所を聞いているんじゃない」
「しかし」
「黒い表紙の、古い日記が屋敷にあることは知っているね?」
ドビーの耳が下がる。
答えない。
答えられない。
それで十分だった。
「書斎へ行く」
「なりません!」
「止めなくていい。案内もしなくていい」
「見つかれば、ハリー・ポッター様は」
「透明マントがある」
ハリーはマントを被る。
ドビーの目の前から姿が消える。
「ハリー・ポッター様?」
「ここにいる」
「お姿が見えません!」
「声を抑えて」
廊下の向こうから足音が聞こえた。
ハリーは壁際へ寄る。
ドビーは慌てて姿勢を正す。
現れたのはドラコだった。
寝間着の上からローブを羽織っている。
「ドビー」
不機嫌そうに呼ぶ。
「何をしてる?」
「ドビーは……」
ドビーが言葉に詰まる。
ハリーが近くにいると話せば、主人へ不利益を与える。
隠せば、それも主人への反逆になるかもしれない。
「父上が呼んでるぞ」
「ご主人様が?」
「酒を持ってこいって。スネイプ先生が来てる」
ドラコは欠伸をした。
「何で夏休みに先生と会わなきゃいけないんだ」
スネイプはドラコの成績について話す名目で来ている。
本人には迷惑な話だろう。
ドラコが通り過ぎる。
ハリーは後を追わない。
彼の手には何もない。
日記は持っていない。
「ドビー」
ドラコが離れた後、ハリーは小声で言った。
「晩餐室へ行っていい」
「ハリー・ポッター様をお一人にはできません!」
「ルシウスが呼んでいる。逆らえば罰を受ける」
「しかし」
「僕は大丈夫だ」
「大丈夫ではございません!」
「スネイプもいる」
「スネイプ様は、ハリー・ポッター様がここにいらっしゃることを?」
「知ってる」
正確には、到着したことを銀貨で知らせただけだ。
ドビーは迷い、最後には頭を下げた。
「どうか、すぐにお帰りくださいませ」
「努力する」
「そのお言葉は信用してはならないと、ティビーから聞いております!」
妖精同士でも情報が共有されていた。
「ティビーと知り合いなのか?」
「妖精同士の集まりで、お話ししたことがございます」
「今度詳しく聞かせてくれ」
「今度があってはなりません!」
ドビーは泣きそうな顔で廊下を走っていった。
ハリーは周囲を確認する。
スネイプから渡された見取り図を思い出す。
二階。
東側。
ルシウスの書斎。
階段を上る。
透明マントは姿を隠すが、足音までは消さない。
床へ魔力を薄く広げ、靴音を吸収する。
肖像画の前を通る時は、呼吸も抑える。
絵の中の人物には透明マントがどこまで通用するか分からない。
二階の東側。
扉が三つ。
中央の扉には、銀色の蛇を模した取っ手がついている。
書斎だ。
ハリーは杖を向けない。
魔法を使えば、屋敷の防衛術式へ検知される可能性がある。
扉が開いているべきだと定める。
妖精の魔法。
鍵が外れる感触はなかった。
扉という境界が、僅かに曖昧になる。
ハリーはその隙間を押し広げる。
音もなく、扉が開いた。
書斎へ入る。
壁一面の本棚。
大きな机。
銀の燭台。
鍵の掛かった飾り棚。
ルシウスの趣味らしく、装飾は派手だが整理されている。
目的の物は、見える場所にはない。
机の引き出し。
本棚の裏。
飾り棚。
床下。
探す場所は多い。
ハリーは目を閉じる。
日記の見た目は知っている。
黒い表紙。
古い紙。
ヴォルデモートの魂。
同じ魂の欠片が、ハリーの中にもある。
額の傷へ意識を向ける。
僅かな不快感。
城でクィレルと対峙した時ほど強くはない。
それでも、何かが呼応している。
右。
机ではない。
本棚。
さらに奥。
ハリーは壁際へ近づく。
並んでいるのは、純血家系に関する本。
魔法省の法律書。
闇の魔術の歴史。
一冊を引く。
何も起きない。
隣。
その隣。
奥にある銀色の留め具へ触れる。
本棚の一部が、僅かに前へ出た。
隠し扉。
「分かりやすいな」
ルシウスは、自分が秘密を持っていることを見せたがる人物だった。
扉には複数の封印。
スネイプから聞いていた通り、地下の保管庫ほど厳重ではない。
だが、十一歳の生徒が解除できる仕掛けではない。
正面から解除する必要はない。
中にある日記が、封印箱の中へ収まっている。
結果を定める。
魔力を伸ばす。
壁。
扉。
封印。
それらを越え、内側へ触れる。
複数の闇の魔法道具。
呪われた指輪。
血のついた短剣。
人の声で囁く鏡。
その中に、一つだけ異質な存在がある。
物ではない。
眠っている人間に近い。
こちらを見ている。
ハリーが触れた瞬間、額の傷が熱を持った。
「見つけた」
空気が歪む。
ハリーの前へ、一冊の日記が現れた。
黒い表紙。
古びた角。
表紙には、かすれた文字で名前が刻まれている。
T・M・リドル。
日記が開きかける。
ハリーは触れ続けない。
縮小していた封印箱を取り出し、元の大きさへ戻す。
蓋を開ける。
妖精の魔法で日記を内部へ移す。
直接持たない。
日記が箱へ入った瞬間、内部の魔法陣が光った。
銀色の線が絡み合い、日記を包む。
蓋を閉じる。
鍵が自動で掛かる。
額の熱が弱まった。
「回収完了」
予想より順調だった。
すぐに撤退する。
ハリーは扉へ向かった。
その時。
封印箱の内部から、音がした。
紙を擦るような音。
何かが箱の内側を叩いている。
一度。
二度。
三度。
ハリーは立ち止まらない。
返事をしない。
箱を開けない。
スネイプの指示通りだ。
書斎の扉へ手を伸ばす。
廊下から足音が聞こえた。
一人ではない。
硬い靴音。
杖を床へ突く音。
ルシウス。
予定より早く席を立ったらしい。
ハリーは透明マントを被り直す。
箱もマントの内側へ入れる。
扉が開いた。
ルシウス・マルフォイが入ってくる。
長い金髪。
黒いローブ。
右手には、蛇の頭を模した杖。
その後ろに、スネイプがいた。
「わざわざ書斎まで来る必要があるのか、ルシウス」
「君に見せたい物がある」
スネイプの目が、書斎を一瞬だけ走る。
ハリーの姿は見えない。
だが、連絡用の硬貨によって、近くにいることは分かっている。
「ドラコの成績表なら、先ほど見た」
「息子の話ではない」
ルシウスが隠し扉の方へ歩く。
ハリーは壁際へ下がった。
「最近、妙な噂を聞いた」
ルシウスが言う。
「ホグワーツで、闇の帝王が再び現れたと」
「根拠のない噂だ」
「クィレルが重傷を負い、ポッターが医務室へ運ばれた」
「それだけで、闇の帝王へ結びつけるのか?」
「君なら知っているのではないか、セブルス」
ルシウスが隠し扉へ手を伸ばす。
「何を?」
「ポッターが、どれほどの力を持っているのか」
スネイプは無表情だった。
「生意気な一年生だ」
「トロールを倒し、杖なし魔法を使い、クィディッチの選手よりも上手く飛ぶ一年生が?」
「誇張された噂だ」
「ドラコは、実際に見たと言っている」
「お前の息子は、自分が負けた相手を過大評価する癖がある」
「ドラコは負けていない」
「そういうことにしておこう」
ルシウスの口元が歪む。
手が隠し扉の留め具へ触れた。
開く。
封印の内側を確認する。
日記がない。
ルシウスの動きが止まった。
ハリーは銀貨を強く握った。
緊急合図。
スネイプのローブの内側で、対となる硬貨が熱を持ったはずだ。
「どうした?」
スネイプが尋ねる。
「何でもない」
ルシウスの声が低くなる。
隠し扉の中をもう一度確認する。
杖を抜き、探知魔法を使う。
ハリーは息を止めた。
封印箱が魔力を隠している。
透明マントも、探知を妨害する。
だが、完全とは限らない。
ルシウスの杖先が、ゆっくり室内を向く。
ハリーのいる方向へ近づいてくる。
スネイプが動いた。
「ルシウス」
「黙っていろ」
「ドラコが先ほど、妙な物を持って廊下を歩いていた」
ルシウスの杖が止まる。
「妙な物?」
「黒い表紙の本だ」
ハリーは目を見開いた。
完全な嘘。
スネイプが、その場で作った話だ。
「ドラコが?」
「古い日記のように見えた」
「どこへ行った」
「自室の方向だ」
ルシウスの顔色が変わる。
書斎を飛び出す。
スネイプはすぐには追わない。
扉の前で数秒待つ。
「ポッター」
小さな声。
「ここです」
「取ったか?」
「はい」
「出るぞ」
「ルシウスは?」
「息子の部屋を探している間に移動する」
スネイプは廊下へ出る。
ハリーも後に続く。
階段を下りる途中、スネイプは表情を変えずに言った。
「正面玄関は使えん」
「ドビーを探します」
「時間がない」
「では、先生の移動手段は?」
「屋敷の敷地外まで出れば、姿現しが使える」
「僕はまだできません」
「私が連れていく」
「透明マントのまま?」
「お前の姿をルシウスへ見せるよりましだ」
玄関へ向かう廊下。
前方からナルシッサが現れた。
青白い顔。
金髪。
気品のある姿。
「セブルス?」
「ルシウスから、ドラコの部屋へ行くよう頼まれた」
「何かあったの?」
「古い日記を持ち出した可能性があるらしい」
ナルシッサの表情が険しくなる。
「ルシウスが保管していた物を?」
「そのようだ」
「何を考えているの」
夫へ向けた言葉なのか、息子へ向けた言葉なのか分からない。
「私も行くわ」
ナルシッサが階段を上る。
スネイプとハリーは反対方向へ進む。
玄関の近くで、ドビーが待っていた。
ハリーの姿は見えない。
だが、妖精には魔力で分かるらしい。
「ハリー・ポッター様」
小さく呼びかける。
「取った」
「恐ろしい物を?」
「ああ」
「お帰りになるのですか?」
「今日は」
今日は。
ドビーを置いていく。
胸が痛む。
だが、ハーマイオニーと約束した。
日記を優先する。
確保した後も、危険なら撤退する。
今、ドビーを解放しようとすれば、ルシウスと正面から対立する。
準備がない。
ドビーにも罰が及ぶ可能性がある。
「必ず、また来る」
ハリーは小声で言った。
「次は、君を自由にするために」
ドビーの目が見開かれる。
「自由?」
「今は何も言わなくていい」
ドビーが震える。
泣きそうな顔で、何度も頷いた。
「行くぞ」
スネイプが低く言う。
二人は玄関を抜け、庭園へ出た。
屋敷の敷地には、姿現しを妨げる結界がある。
門までの距離は長い。
背後。
屋敷の中から、ルシウスの怒鳴り声が響いた。
「セブルス!」
気づかれた。
「走れ!」
スネイプが言う。
ハリーは透明マントを脱がない。
足音を消す余裕もない。
庭園を駆ける。
十一歳の足は遅い。
スネイプがハリーの腕を掴み、半ば引きずる。
背後の扉が開く。
「止まれ!」
赤い光が飛ぶ。
スネイプが振り返り、盾で弾く。
「何の真似だ、ルシウス!」
「日記を返せ!」
「何の話だ」
「とぼけるな!」
ルシウスが庭園へ出る。
ナルシッサとドラコも後ろにいる。
ドラコは何が起きているのか分からない顔だ。
「私の書斎へ入ったな!」
「お前と共に入った」
「その前だ!」
「私は晩餐室にいた。使用人へ聞けば分かる」
「なら、誰が!」
ルシウスの視線が庭園を走る。
透明マントのハリーは見えない。
「ポッターか」
唐突に、その名前が出た。
ハリーの足が僅かに止まりかける。
「なぜポッターが出てくる」
スネイプが冷たく返す。
「分からん。だが、あの子供なら」
「ホグワーツの一年生が、どうやってお前の屋敷へ入る?」
ルシウスは答えられない。
常識的には不可能だ。
マルフォイ邸は、魔法省にも登録された防護結界を持つ。
外部から姿現しで侵入することはできない。
煙突飛行粉も、許可された接続先しか使えない。
門を通れば、警報が鳴る。
「日記には、何が入っていた?」
スネイプが尋ねた。
ルシウスの顔が硬直する。
「何のことだ」
「それほど必死になる物だ。危険な闇の魔法道具ではないのか?」
「お前には関係ない」
「ならば、魔法省へ相談するか?」
「脅すつもりか、セブルス」
「友人として忠告している。正体の分からない物を、息子のいる屋敷へ置くべきではない」
ナルシッサの視線が、ルシウスへ向く。
冷たい。
「ルシウス」
「後で説明する」
「今、説明して」
夫婦の間に、別の問題が発生した。
スネイプがハリーの腕を引く。
門。
もう少し。
屋敷の結界が薄くなる位置へ到達する。
「掴まれ」
ハリーはスネイプの腕を握る。
背後でルシウスが気づいた。
「待て!」
杖が向けられる。
緑ではない。
拘束呪文。
発動より一瞬早く、スネイプが姿現しを行った。
身体が圧縮される。
妖精の魔法とは違う不快感。
暗闇。
次の瞬間、二人は別の場所へ立っていた。
見覚えのある校長室。
ダンブルドアとマクゴナガルが待っている。
ハリーは透明マントを脱いだ。
封印箱を机の上へ置く。
「取ってきました」
マクゴナガルは、まずハリーの全身を確認した。
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「長距離移動で少し気分が悪い程度です」
「医務室へ行きなさい」
「先に日記を」
「日記は逃げません」
箱の内部で、何かが叩く音がした。
全員の視線が集まる。
一度。
二度。
静かになる。
「これが」
ダンブルドアが机へ近づく。
「トムの日記かの」
「はい」
「開けても?」
「精神防御をしてください。日記は文字を通じて会話し、相手の心へ入り込みます」
ダンブルドアが頷く。
スネイプが追加の防護術式を部屋へ展開する。
マクゴナガルも杖を構えた。
箱の鍵を外す。
蓋を開く。
日記は、何事もなかったように収まっていた。
ダンブルドアが杖で日記を浮かせ、机の上へ置く。
表紙が開く。
白紙。
何も書かれていない。
「どうやって調べるのじゃ?」
「文字を書けば返事をします」
「誰が書く?」
スネイプがハリーを見る。
「僕が」
「駄目だ」
「未来で相手の性格を知っています」
「だからこそ、情報を引き出そうとする」
「僕も、あちらから情報を引き出せます」
「十二歳の生徒に分霊箱と会話をさせるつもりはありません」
マクゴナガルが強く言う。
「では、ダンブルドア先生が?」
「それがよかろう」
ダンブルドアは羽根ペンを手にした。
インクへ浸す。
最初の頁へ、短い文章を書く。
『君は誰かね?』
インクが紙へ吸い込まれる。
文字が消える。
数秒後。
新しい文字が浮かび上がった。
『僕の名は、トム・リドルです』
整った筆跡。
礼儀正しい文章。
未来で見た、若いヴォルデモートの人格。
『あなたは、どなたですか?』
ダンブルドアは答えず、日記を観察した。
「ワシを認識しておらぬようじゃ」
「日記が作られた時点の記憶しかありません」
ハリーが答える。
「一度、クィレルの中にいたヴォルデモートと接触しましたが、情報は共有されていないようです」
分霊箱同士が、自動で記憶を共有するわけではない。
予想通りだった。
ダンブルドアが次の質問を書く。
『君は、なぜこの日記の中にいるのかね?』
返事が浮かぶ。
『質問の意味が分かりません。これは僕の日記です。自分の日記に、自分の記憶があることは不思議でしょうか?』
無害な学生を装っている。
ハリーは日記を見つめた。
向こうは、こちらを知らない。
ハリーは、トム・リドルが何者かを知っている。
どのように人を信用させるか。
どの言葉で弱みに入り込むか。
何を欲しがり、何を恐れているか。
今回は、相手だけが無知だった。
「破壊する前に、情報を引き出せます」
ハリーが言う。
「他の分霊箱の場所。作成方法。秘密の部屋について」
「危険じゃ」
ダンブルドアが答える。
「ですが、機会でもあります」
「トムも同じように考えるじゃろう」
「僕たちから情報を引き出す機会だと?」
「そうじゃ」
日記の文字が、再び浮かび上がる。
『そこに、他にも誰かいるのですか?』
誰も返事をしていない。
それでも、会話を聞いているかのような問いだった。
紙の表面から、魔力が僅かに広がっている。
声。
呼吸。
周囲の気配。
日記は、文字以外の情報も感じ取っている。
スネイプが即座に蓋を閉じた。
箱へ戻す。
封印が再び作動する。
「今夜はここまでだ」
ハリーも反対しなかった。
回収には成功した。
日記はジニーへ渡らない。
秘密の部屋が開かれる未来は、大きく遠ざかった。
それでも、問題は残っている。
日記を破壊する方法。
秘密の部屋にいるバジリスク。
ドビーの解放。
そして、ルシウスがハリーを疑い始めた可能性。
「これで来年度の事件は防げたのでしょうか」
マクゴナガルが尋ねる。
「日記による事件は」
ハリーは答えた。
「ですが、ヴォルデモートが別の手を使う可能性があります」
「日記は独立して動くのではなかったのかの?」
「未来では、そうでした。ただ今回は、ルシウスが日記を失った。彼が他の死喰い人へ相談する可能性がある」
「闇の帝王本人へ報告することはできん」
スネイプが言う。
「今のあいつがどこにいるか、誰も知らない」
「だからこそ、何をするか読めません」
ルシウスが日記を探す。
魔法省へは届けられない。
ダンブルドアへ相談することもない。
スネイプを疑うかもしれない。
あるいは、ハリーを疑う。
未来は、また大きく変わった。
「とりあえず」
ハリーは椅子へ座った。
移動の疲労が一気に出てきた。
「一番危険な分霊箱は回収しました」
「一番危険?」
マクゴナガルが尋ねる。
「最初に作られた物だからかの?」
ダンブルドアが言う。
「おそらく」
ハリーは頷く。
「魂を分割する時、綺麗に七等分されるとは思えません。最初の分霊箱には、後に作られた物より大きな魂が入っている可能性があります」
「推測か?」
スネイプが尋ねる。
「はい。ただ、日記のリドルは他の分霊箱より自律性が高かった。人から生命力を奪い、実体化しかけています」
「完全に実体化した場合は?」
「十六歳のトム・リドルが復活します」
「闇の帝王が二人になるのですか?」
マクゴナガルの顔が険しくなる。
「互いに協力するかは分かりません」
同じヴォルデモートでも、魂が分かれてからの経験が違う。
完全復活したヴォルデモートは、自分以外の存在を認めない。
日記のリドルも同じだろう。
出会えば、協力するより先に主導権争いを始める可能性さえある。
「若くて、顔が整っている分、日記の方が人を騙すのは上手いでしょうね」
ハリーが言う。
「禿げた後より、よほど黒幕らしい」
マクゴナガルが眉をひそめる。
「人の容姿をそのように言うものではありません」
「ヴォルデモートですよ」
「相手が誰であってもです」
「すみません」
ダンブルドアは髭の奥で僅かに笑った。
スネイプは呆れたように目を閉じる。
「ともかく」
ダンブルドアが言う。
「日記はワシとセブルスで調べる。ハリー、君はしばらく休むのじゃ」
「夏休み中に、ドビーを解放する方法も考えたいです」
「休めと言ったばかりじゃが?」
「考えるだけなら寝ながらできます」
「そういうところじゃ」
「何がです?」
「君が自分の幸せを後回しにしておるところじゃよ」
ハリーは答えなかった。
ドビーを置いてきた。
一度目の人生では救えなかった友人。
今もマルフォイ邸で、ルシウスの怒りを受けている可能性がある。
休んでいる場合ではない。
それでも、今すぐ戻ることはできなかった。
準備なしで動けば、ドビーを余計に危険へ追い込む。
「分かりました」
ハリーは立ち上がる。
「今日は休みます」
マクゴナガルが疑わしそうに見る。
「本当に?」
「本当に」
「必要の部屋へ行ったりは?」
「しません」
「杖なし魔法の練習も?」
「今日はしません」
「日記について一人で調べることも?」
「箱はここにあります」
「頭の中で計画を立てるのは?」
「それは禁止できないでしょう」
マクゴナガルがため息をつく。
「医務室へ行きなさい」
「自分の部屋で寝ます」
「医務室です」
「歩けます」
「ポッター」
「分かりました」
スネイプが校長室の扉を開ける。
「私が連れていく」
「先生が?」
「途中で逃げられては困る」
「逃げませんよ」
「信用していない」
二人で校長室を出る。
階段を下りる途中、スネイプが小声で言った。
「よくやった」
ハリーは足を止めた。
「今、褒めました?」
「聞き間違いだ」
「日記を取ってきたことを?」
「二度と言わん」
「ありがとうございます」
「黙れ」
スネイプは先を歩く。
ハリーは少しだけ笑った。
日記は回収した。
ジニーが操られる未来は避けられる。
秘密の部屋編は、始まる前に終わった。
そう言いたいところだった。
だが、未来はすでに原作から外れている。
日記を失ったルシウス。
ヴォルデモートの魂を封じた箱。
まだ解放されていないドビー。
そして、ホグワーツの地下で眠り続けるバジリスク。
一つの危機を消せば、次の危機が別の形で現れる。
二度目の人生は、一度目より簡単ではない。
ただ。
今回は一人ではなかった。
秘密を知る教師がいる。
協力してくれる友人がいる。
未来を変える責任を、すべて自分だけで背負う必要はない。
それを認めるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。