80歳のハリーポッターが11歳に戻った場合   作:金縛り

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1年目 夏休み前の仕事

 ハリーが自分の秘密を明かしてから、教師たちの態度は少しずつ変化した。

 

 劇的に変わったわけではない。

 

 マクゴナガルは、以前と変わらず宿題の提出期限に厳しかった。

 

 授業中に手を抜けば、鋭い視線が飛んでくる。

 

 廊下を走れば注意されるし、夜間に出歩けば減点すると宣言された。

 

 ハリーの中身が八十歳を超えていると知っても、学生として扱う方針を変えるつもりはないらしい。

 

 むしろ、以前より監視が厳しくなった気さえする。

 

「あなたは精神的には成人なのでしょう?」

 

 変身術の授業後、マクゴナガルはそう言った。

 

「はい」

 

「ならば、十一歳の生徒以上に規則を守ることができますね」

 

「そういう使い方をしますか」

 

「当然です」

 

 秘密を明かせば、多少は自由に動きやすくなると考えていた。

 

 見通しが甘かったらしい。

 

 スネイプの態度も、表面上は変わっていない。

 

「ポッター。グリフィンドールから五点減点」

 

「今日はまだ何もしていません」

 

「今から何かする顔をしていた」

 

「顔だけで減点するのは不当です」

 

「口答えで、さらに五点」

 

 以前と同じく理不尽だった。

 

 ただし、授業後に誰もいない場所へ呼び出される回数は増えた。

 

 内容は嫌がらせではない。

 

 分霊箱。

 

 魂の魔法。

 

 精神防御。

 

 そして、夏休みに予定しているマルフォイ邸への侵入についてだった。

 

 校長室での話し合いから三日後。

 

 ハリーは地下牢にあるスネイプの研究室へ呼び出されていた。

 

 机の上には、黒い箱が置かれている。

 

 長さは三十センチほど。

 

 表面に銀色の線が複雑な模様を描いている。

 

「これは?」

 

「日記を回収した後に収める容器だ」

 

 スネイプが箱の蓋を開ける。

 

 内部は黒い布で覆われていた。

 

 布には、ルーン文字と魔法陣が隙間なく刺繍されている。

 

「精神干渉、魔力の流出、外部からの呼びかけを抑制する」

 

「短期間なら、分霊箱を封じられる?」

 

「理論上はな」

 

「実際には?」

 

「分霊箱を入れたことなどない」

 

「正直ですね」

 

「お前が求めたのだろう」

 

 スネイプは箱を閉じた。

 

「日記を手に入れても、直接開くな。文字を書くな。返事をするな。素手で長時間持つことも避けろ」

 

「分かっています」

 

「未来で一度影響を受けたからといって、今回も防げるとは限らん」

 

「未来では僕ではなく、ジニーが操られました」

 

「ならば、なおさらお前には耐性がない」

 

 正しい指摘だった。

 

 ハリーは日記のリドルと会話したことはある。

 

 だが、それはジニーから十分な生命力を吸収し、秘密の部屋で実体化しかけていた状態だ。

 

 白紙の日記へ文字を書き、長期間会話を続けた経験はない。

 

 閉心術があるからといって、油断はできなかった。

 

「箱を用意してくださったことには感謝します」

 

「勘違いするな」

 

「何を?」

 

「お前のためではない。分霊箱とやらを、安全に校長へ届けるためだ」

 

「結果として、僕も安全になります」

 

「黙れ」

 

 スネイプは次の羊皮紙を机へ広げた。

 

 マルフォイ邸の簡単な見取り図だった。

 

「屋敷の構造をご存じなのですか?」

 

「何度か訪れたことがある」

 

「食事に?」

 

「お前には関係ない」

 

 旧死喰い人同士の集まりだろう。

 

 未来の記憶では、ヴォルデモート復活後のマルフォイ邸しか詳しく知らない。

 

 邸宅は死喰い人の拠点となり、地下牢には多くの捕虜が収容された。

 

 ハリー自身も捕らえられたことがある。

 

 だが、平時の屋敷へ正面から訪れた経験はない。

 

「ルシウスの書斎は二階。東側の廊下だ」

 

 スネイプが図面を指す。

 

「闇の魔術に関する品の多くは、書斎か地下の保管庫にある」

 

「日記がどちらにあるかは?」

 

「分からん」

 

「未来では、ルシウスが書店へ持ってきていました。すぐに取り出せる場所へ置いていた可能性が高い」

 

「それが書斎とは限らん」

 

「寝室?」

 

「ナルシッサが、出所の分からない闇の魔法道具を夫婦の寝室へ置くとは思えん」

 

「夫より常識がありますね」

 

 スネイプが睨む。

 

「本人へ言うな」

 

「言う機会があれば考えます」

 

「言うな」

 

 作戦は、単純なものになった。

 

 夏休み。

 

 ドビーがプリベット通りへ現れる。

 

 警告を終え、マルフォイ邸へ帰還する瞬間に、ハリーが移動魔法へ追従する。

 

 同じ夜、スネイプは客としてマルフォイ邸を訪れる。

 

 表向きは、ドラコの一年目の成績と、翌年度の指導について話すためだ。

 

 ルシウスとナルシッサの注意を引きつけ、その間にハリーが日記を探す。

 

 何か問題が起きた場合、スネイプが内部から支援する。

 

「ダンブルドア先生は、作戦へ参加しないのですか?」

 

「校長がマルフォイ邸の近くへ現れれば、それだけでルシウスは警戒する」

 

「マクゴナガル先生は?」

 

「同じだ」

 

「先生なら警戒されない?」

 

「私はドラコの教師であり、ルシウスとは以前から面識がある」

 

「元死喰い人でもある」

 

 室内の空気が冷えた。

 

「それを、軽々しく口にするな」

 

「すみません」

 

 ハリーは素直に謝った。

 

 スネイプが未来でどれほど危険な立場にいたかを知っている。

 

 本人にとって、死喰い人だった過去は冗談にできるものではない。

 

「当日は、これを持て」

 

 スネイプが銀色の硬貨を投げる。

 

 ハリーは受け止めた。

 

 表面には蛇の模様。

 

 裏面には、小さな百合の花が刻まれている。

 

「連絡用の魔法道具だ。強く握り、私の名前を呼べば、対となる硬貨が熱を持つ」

 

「声を出せない場合は?」

 

「魔力を流すだけでも反応する」

 

「場所は伝わりますか?」

 

「お前が屋敷内にいることは分かっている。合図があれば、適当な理由をつけて席を外す」

 

「便利ですね」

 

「一度しか使えん。使えばルシウスにも魔力の動きを察知される可能性がある」

 

「緊急時のみ」

 

「そういうことだ」

 

 スネイプはハリーを真っ直ぐ見る。

 

「そして、私が到着するまで戦うな」

 

「相手によります」

 

「ポッター」

 

「分霊箱が誰かへ危害を加えようとしている場合、待てません」

 

「ならば、身を守ることだけを考えろ」

 

「可能な範囲で」

 

「その言い方をやめろ」

 

「約束できないことは約束しません」

 

 スネイプは長い間、ハリーを睨んだ。

 

「未来の私が、お前をどう評価していたのか理解できんな」

 

「最終的には、それなりに」

 

「その話は信用していない」

 

「息子の名前の話も?」

 

「二度と口にするな」

 

「分かりました」

 

 スネイプの顔色が少し悪くなった。

 

 未来の自分の名前を、ハリーが息子につけたという事実は、相当な衝撃だったらしい。

 

 もっとも、ハリーは詳細を説明していない。

 

 今後も説明するつもりはなかった。

 

 それを知ることで、スネイプの選択が変わる可能性がある。

 

 必要な情報ではない。

 

 単なる失言だった。

 

 屋敷しもべ妖精の移動へ追従する訓練も続けられた。

 

 ティビーの移動に合わせ、空間へ開かれる道へ入り込む。

 

 最初は、ほとんど成功しなかった。

 

 ティビーだけが消え、ハリーは元の場所へ残される。

 

 道を捉えても、途中で弾き出される。

 

 一度は、移動先の床から一メートルほど上に現れ、頭から落ちた。

 

「ハリー・ポッター様!」

 

 ティビーが悲鳴を上げる。

 

「大丈夫だ」

 

「頭をお打ちになりました!」

 

「柔らかい床だった」

 

 必要の部屋が、衝撃を吸収してくれた。

 

「ティビーが、もっとゆっくり移動いたします!」

 

「移動速度を変えられるのか?」

 

「できません」

 

「では、仕方ない」

 

「申し訳ございません!」

 

「ティビーが謝ることじゃない」

 

 妖精の魔法は、魔法使いの呪文とは原理が違う。

 

 移動距離そのものより、場所同士の繋がりが重要になる。

 

 厨房と必要の部屋。

 

 必要の部屋と空き教室。

 

 城内であれば、ハリーにも強い繋がりがある。

 

 ホグワーツを家だと認識しているためだろう。

 

 しかし、プリベット通りとマルフォイ邸の間には、ハリー自身の繋がりがほとんどない。

 

 一度目の人生で捕らえられた記憶はある。

 

 だが、今の時間ではまだ訪れていない場所だ。

 

 未来の記憶だけで、魔法的な繋がりが成立するかは不明だった。

 

「ドビーとの繋がりを使うしかないな」

 

 ハリーが言う。

 

「ドビーと?」

 

「僕は未来で、ドビーの友人だった」

 

「未来のドビーは、ハリー・ポッター様のお友達なのでございますか?」

 

「ああ」

 

 命を懸けて、ハリーたちを救った。

 

 その直後に死んだ。

 

 砂浜に墓を作った。

 

 魔法を使わず、自分の手で掘った。

 

「大切な友人だった」

 

 ティビーの大きな目が、少し潤んだ。

 

「それなら、ドビーもきっと、ハリー・ポッター様をお助けいたします」

 

「今のドビーは、僕を助けたいと思っている。でも、主人の命令には逆らえない」

 

「ドビーは苦しんでおります」

 

「知ってる」

 

 今回は助ける。

 

 日記を回収するだけではない。

 

 可能なら、ドビーをルシウスから解放する。

 

 ただし、方法が必要だった。

 

 屋敷しもべ妖精の契約解除には、主人から衣服を与えられなければならない。

 

 一度目は、日記へ靴下を仕込み、ルシウスに投げさせた。

 

 同じ方法を使えるとは限らない。

 

 日記を盗み出せば、ルシウスがドビーへ何かを渡す流れそのものが発生しない。

 

 別の機会を作る必要がある。

 

「まずは日記だ」

 

 すべてを一晩で解決しようとして失敗しては意味がない。

 

 優先順位を間違えない。

 

 危険な分霊箱の回収。

 

 ドビーの解放は、その次。

 

 年度末試験が近づく頃には、城内であればティビーの移動へ安定して追従できるようになった。

 

 必要の部屋から厨房。

 

 厨房から玄関広間。

 

 地下から七階。

 

 長距離になるほど吐き気は強くなるが、移動後に立っていられる。

 

「本番では、到着した直後に動けるようにしないとな」

 

「本番でございますか?」

 

「夏休みだ」

 

「危険なことをなさるのですか?」

 

「少しだけ」

 

 ティビーの耳が下がる。

 

「ハリー・ポッター様の少しは、普通の方の大変危険でございます」

 

「誰に聞いた?」

 

「マクゴナガル先生でございます」

 

 教師と妖精の間で情報が共有されている。

 

「先生がティビーに?」

 

「ハリー・ポッター様が無理をなさった場合は、すぐにお知らせするようにと」

 

「監視役を増やらされたのか」

 

「ハリー・ポッター様をお守りするためでございます」

 

 マクゴナガルらしい。

 

 秘密を明かした結果、自由になるどころか包囲が完成しつつある。

 

 年度末試験は、問題なく終わった。

 

 ハリーは知識を隠しながら、上位に入る程度の点数へ調整した。

 

 完璧な答案を書けば、教師たちがさらに騒ぐ。

 

 間違えすぎれば、マクゴナガルに叱られる。

 

 中間を狙う必要があった。

 

 ハーマイオニーは、当然のように学年首席だった。

 

「変よ」

 

 成績表を見ながら、ハーマイオニーが言う。

 

「何が?」

 

「あなたの実技の点数」

 

「悪かった?」

 

「悪くないわ。でも、私より低い」

 

「ハーマイオニーが上手かったからだ」

 

「トロールやクィレル先生を倒せるのに?」

 

「試験と実戦は別だ」

 

「変身術の試験で、あなたは途中まで完璧だった。最後だけ形を崩したでしょう」

 

「集中が切れた」

 

「わざと間違えたように見えたわ」

 

「気のせいだ」

 

 ハーマイオニーが目を細くする。

 

 未来の記憶については、ロンとハーマイオニーにも一部を明かした。

 

 教師陣へ話した翌日の夜。

 

 必要の部屋へ二人を呼び、ハリーが一度人生を経験していること。

 

 その未来で、ヴォルデモートが復活したこと。

 

 来年度、日記によってジニーが操られる可能性があること。

 

 秘密の部屋にバジリスクがいること。

 

 そこまで説明した。

 

 自分の中に魂の欠片があることは話していない。

 

 二人が今知る必要はない。

 

「未来のあなたは、試験でわざと点数を落とすような人だったの?」

 

 ハーマイオニーが尋ねる。

 

「必要なら」

 

「やっぱり、わざとなのね」

 

 誘導された。

 

「今のは忘れてくれ」

 

「忘れないわ」

 

「だろうな」

 

 ロンは成績表を見ながら、別の意味で落ち込んでいた。

 

「僕は未来でも試験が苦手だった?」

 

「安心しろ。変わってない」

 

「安心できない」

 

 終業式。

 

 寮対抗杯で優勝したのは、レイブンクローだった。

 

 グリフィンドールは二位。

 

 ハリーがクィディッチチームへ参加しなかったことが、成績へ大きく影響した。

 

 ロンは最後まで不満そうだった。

 

「来年こそチームに入れよ」

 

「入らない」

 

「何でだよ。ヴォルデモートを倒したんだろ?」

 

「追い出しただけだ」

 

「大きな蛇もいるんだっけ?」

 

「ああ」

 

「日記を取れば、大丈夫なんじゃないのか?」

 

「日記を回収しても、秘密の部屋そのものは残る」

 

「じゃあ、夏休みに蛇も倒せば?」

 

「学校の地下にいる蛇を、どうやって夏休みに倒すんだ」

 

「ハリーなら何とかするだろ」

 

「僕を何だと思ってる?」

 

「八十歳を超えた闇払い局長」

 

 説明した弊害が、すでに出ていた。

 

 ホグワーツ特急へ乗る前、ハグリッドが写真帳を渡してくれた。

 

 若い父と母。

 

 二人で笑う写真。

 

 友人たちと並ぶ姿。

 

 ハリーは、しばらく頁をめくることができなかった。

 

 前世でも同じ贈り物を受け取った。

 

 内容を覚えている写真も多い。

 

 それでも、生きて動く両親の姿を見ると胸が痛んだ。

 

「ありがとう、ハグリッド」

 

「大事にしてくれよ」

 

「もちろん」

 

「夏休みは、ちゃんと休むんだぞ」

 

「努力する」

 

 ハグリッドが眉をひそめる。

 

「その言い方、マクゴナガル先生が嫌がってたぞ」

 

 ここでも情報が共有されている。

 

 列車の個室では、夏休み中の確認事項を整理した。

 

「日記が取れなかった場合」

 

 ハリーが言う。

 

「ロンは、ウィーズリー家へ持ち込まれる物に注意してくれ」

 

「本とか?」

 

「特に中古の教科書。ルシウスが近くにいる時は、ジニーの荷物から目を離さない」

 

「父さんと母さんには?」

 

「危険な日記があることは話していい。ルシウスが狙っている可能性も。ただし、分霊箱については言わないでくれ」

 

「どうして?」

 

「アーサーさんが魔法省へ報告すれば、ルシウスへ伝わる可能性がある」

 

「父さんは信用できるぞ」

 

「アーサーさんを疑っているんじゃない。魔法省を疑っている」

 

「それなら分かる」

 

 ロンは妙に納得した。

 

 父親の職場について、思うところがあるらしい。

 

「ハリー」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「マルフォイ邸へ入ったら、勝手に日記以外の物を調べないこと」

 

「なぜ?」

 

「目的を増やすと危険だから」

 

「その通りだ」

 

「ドビーを助けようとするのも、今回は我慢して」

 

 考えていたことを見抜かれている。

 

「顔に出てた?」

 

「少し」

 

「分かった。日記を優先する」

 

「約束して」

 

「日記を確保するまで、他の目的では動かない」

 

「確保した後は?」

 

「状況次第だ」

 

「ハリー」

 

「危険なら撤退する」

 

 ハーマイオニーは完全には納得していなかった。

 

 だが、これ以上明確な約束はできない。

 

 キングズ・クロス駅では、ダーズリー家の三人が迎えに来ていた。

 

 一度目の人生では、もっと不機嫌そうに待っていた。

 

 今回は、バーノンが時間通りに到着している。

 

「荷物を積め」

 

「はい」

 

 ペチュニアはハリーを見上げた。

 

「少し背が伸びたわね」

 

「食事が十分でしたから」

 

「学校で妙な物ばかり食べていたんじゃないでしょうね」

 

「普通の食事です」

 

「カエルや虫は?」

 

「菓子の形なら」

 

 ペチュニアの顔が引きつった。

 

「家には持ち込まないで」

 

「持っていません」

 

 ダドリーがトランクを覗き込む。

 

「本当にないのか?」

 

「欲しかったのか?」

 

「別に」

 

「来年は普通の菓子を持ってくる」

 

「魔法のは?」

 

「危険じゃないものなら」

 

 ダドリーは少し機嫌を直した。

 

 プリベット通りでの夏休みは、以前より穏やかに始まった。

 

 ハリーは庭仕事を手伝った。

 

 ダドリーの夏休みの宿題を見る。

 

 ペチュニアが買い物へ行く時には、荷物を持つ。

 

 バーノンの仕事の話には、深入りしない程度に相槌を打つ。

 

 魔法を使わない限り、ダーズリー家との衝突はほとんど起きなかった。

 

 問題は、ドビーがいつ現れるかだった。

 

 一度目の記憶では、バーノンが重要な商談を行う夜。

 

 メイソン夫妻が夕食へ来る。

 

 ドビーはデザートを浮かせて落とし、ハリーの仕業に見せかける。

 

 日付も覚えている。

 

 だが、未来はすでに変化している。

 

 同じ日に来る保証はない。

 

 ハリーは毎晩、自室へ封印箱と透明マントを用意した。

 

 銀貨は常に首から下げる。

 

 ドビーが突然現れても、すぐ動けるようにする。

 

 七月三十一日。

 

 ハリーの誕生日。

 

 夕食後、ペチュニアが小さなケーキを出した。

 

 名前も飾りもない。

 

 ダドリーの誕生日に使った材料の残りだと言った。

 

「ありがとうございます」

 

「余っていたから作っただけよ」

 

「それでも」

 

 ペチュニアは何も答えなかった。

 

 バーノンは新聞を読みながら、明日の予定を説明した。

 

「明日は重要な客が来る。絶対に邪魔をするな」

 

「メイソン夫妻ですね」

 

「どうして知っている?」

 

「電話の声が廊下まで聞こえていました」

 

「聞き耳を立てたんじゃないだろうな」

 

「聞こえただけです」

 

「客がいる間は、部屋にいろ」

 

「分かりました」

 

「物音を立てるな」

 

「僕の部屋に誰かが入ってきた場合は?」

 

「誰が入るんだ」

 

「念のためです」

 

 バーノンは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。

 

 翌日。

 

 午後七時。

 

 メイソン夫妻が到着した。

 

 階下から、バーノンの大げさな笑い声が聞こえる。

 

 ハリーはベッドへ腰掛けて待った。

 

 封印箱。

 

 透明マント。

 

 杖。

 

 連絡用の銀貨。

 

 すべて準備してある。

 

 同じ頃、スネイプもマルフォイ邸へ到着しているはずだ。

 

 事前の打ち合わせでは、午後六時半から夕食。

 

 ルシウスへ酒を勧め、できる限り長く晩餐室へ留めると言っていた。

 

 スネイプが酒を勧める姿は、想像しづらい。

 

 相手を酔わせるためなら、何でもするのだろう。

 

 午後七時十分。

 

 まだ来ない。

 

 七時十五分。

 

 空気に変化はない。

 

 七時二十分。

 

 ハリーは窓の外を見る。

 

「時間が変わったか」

 

 ドビーが来ない可能性もある。

 

 一年目にヴォルデモートを大きく傷つけた。

 

 その情報がルシウスへ伝わり、日記を早く処分しようと考えた可能性もある。

 

 あるいは、逆に警戒して保管し続けるかもしれない。

 

 七時二十三分。

 

 背後の空気が弾けた。

 

 小さな破裂音。

 

 ハリーは反射的に杖を抜きそうになり、止める。

 

 初対面のふりをする必要がある。

 

 ゆっくり振り返る。

 

 ベッドの上。

 

 大きな緑色の目。

 

 蝙蝠のような耳。

 

 古い枕カバーを身につけた、小さな屋敷しもべ妖精。

 

 ドビー。

 

 一度目の人生で、ハリーを救うために命を落とした友人。

 

 今はまだ、マルフォイ家の奴隷だった。

 

 ハリーは、込み上げる感情を抑える。

 

「ハリー・ポッター様」

 

 ドビーが深く頭を下げた。

 

「ドビーは、どうしてもお伝えしなくてはならないことがございます」

 

「君は?」

 

「ドビーと申します」

 

「初めまして、ドビー」

 

 その言葉を聞き、ドビーの目に涙が溜まった。

 

「ハリー・ポッター様が、ドビーへご挨拶をしてくださいました」

 

「普通のことだろ」

 

「ドビーに、そのようにおっしゃる魔法使い様はおりません」

 

 ルシウスの顔が浮かぶ。

 

 腹立たしい。

 

 だが、今は日記が先だ。

 

「何を伝えに来たの?」

 

「ハリー・ポッター様は、ホグワーツへお戻りになってはいけません!」

 

「なぜ?」

 

「恐ろしいことが起きます」

 

「どんな?」

 

「ドビーは、お話しできません」

 

 主人の秘密を漏らそうとした罰として、ドビーが机へ頭を打ちつけようとする。

 

 ハリーは杖なしで枕を移動させた。

 

 ドビーの額が、柔らかな枕へ埋まる。

 

「自分を傷つけるな」

 

「しかし、ドビーは悪い妖精でございます!」

 

「誰かを助けようとしている。悪くない」

 

「ハリー・ポッター様……」

 

 ドビーが泣き始める。

 

「声は抑えてくれ。階下に客がいる」

 

「申し訳ございません!」

 

「僕はホグワーツへ戻る」

 

「なりません!」

 

「友達がいる」

 

「お友達は、ハリー・ポッター様をお忘れになっております!」

 

 ドビーが机の上を見る。

 

 ロンとハーマイオニーから届いた手紙が、束になって置かれている。

 

 動きが止まった。

 

「手紙がございます」

 

「ああ」

 

「なぜ?」

 

「二人が送ってくれたから」

 

 今回は、ドビーに手紙を隠されていない。

 

 ティビーを通じ、ホグワーツから飛び立つ梟の動きを把握していた。

 

 手紙が来なければ、すぐに気づく。

 

「でも、おかしいのでございます」

 

 ドビーが混乱している。

 

「ドビーは……」

 

 主人の秘密と、自分の行動について話せない。

 

 それでも、計画が崩れていることは理解したらしい。

 

「手紙があっても、僕はホグワーツへ戻る」

 

「ドビーが、どうしてもお止めします!」

 

 ドビーが右手を上げる。

 

 階下のデザートを浮かせるつもりだ。

 

「やめた方がいい」

 

 ハリーが言う。

 

 ドビーの手が止まった。

 

「何を、でございますか?」

 

「下のデザートを浮かせて、メイソン夫人へ落とすこと」

 

 ドビーの顔から血の気が引いた。

 

「なぜ」

 

「知っているのか?」

 

 ハリーは杖を抜いた。

 

 ドビーには向けない。

 

 首から下げた銀貨へ杖先を当て、魔力を流す。

 

 スネイプへの合図。

 

 予定通り、今から移動するという連絡だ。

 

「誰へお知らせを?」

 

「君の家にいる友人へ」

 

「ドビーの家?」

 

「マルフォイ邸」

 

 ドビーが後退する。

 

「なぜ、ハリー・ポッター様がご存じなのでございますか?」

 

「君がルシウス・マルフォイに仕えていることも知っている」

 

「お話ししてはなりません!」

 

「ドビーは話していない。僕が知っていただけだ」

 

「どうして?」

 

「長い話になる」

 

 ハリーは透明マントを持ち上げる。

 

 封印箱は縮小し、ローブの内側へ収める。

 

「今は帰っていい」

 

「しかし、ハリー・ポッター様がホグワーツへ――」

 

「戻る。それは変わらない」

 

「では、ドビーが――」

 

「魔法を使えば、僕が先に止める」

 

 ドビーが指を鳴らそうとする。

 

 ハリーは警戒する。

 

 攻撃ではない。

 

 移動。

 

 帰還するつもりだ。

 

「ハリー・ポッター様は、ドビーについてきてはなりません!」

 

「連れていかなくていい」

 

 ハリーは魔力を集中する。

 

「僕が勝手についていく」

 

 ドビーの身体が消えた。

 

 同時に、空間へ細い道が開く。

 

 目には見えない。

 

 だが、魔力の流れは捉えられる。

 

 ティビーとの訓練より、道が荒い。

 

 恐怖と焦りで、ドビーの魔法が不安定になっている。

 

 閉じるまで一秒もない。

 

 ハリーは道へ飛び込んだ。

 

 身体が引き伸ばされる。

 

 上下が消える。

 

 胸が押し潰されるような圧力。

 

 城内での追従とは比較にならない。

 

 距離が長い。

 

 場所との繋がりが弱い。

 

 魔法の道が、ハリーを異物として弾き出そうとする。

 

 指先の感覚が消える。

 

 意識が遠のく。

 

 ハリーはドビーの魔力を探した。

 

 未来での記憶。

 

 友人。

 

 貝殻の家。

 

 牢獄からの脱出。

 

 砂浜。

 

 墓。

 

 自由な妖精、ドビー。

 

 繋がりは存在する。

 

 今のドビーが知らなくても、ハリーは知っている。

 

 同じ場所へ行く。

 

 ドビーを追うのではない。

 

 友人と共に帰る。

 

 そう定めた。

 

 空間が反転する。

 

 硬い床。

 

 ハリーは肩から転がり、壁の直前で止まった。

 

 息ができない。

 

 吐き気。

 

 視界が霞む。

 

 それでも意識はある。

 

「ハリー・ポッター様!」

 

 ドビーの悲鳴が近くで聞こえる。

 

 ハリーは床へ手をつき、身体を起こした。

 

 磨かれた石の床。

 

 銀と緑の装飾。

 

 壁に並ぶ、金髪の魔法使いたちの肖像画。

 

 大きな窓の外には、月明かりに照らされた庭園。

 

 マルフォイ邸。

 

「成功だ」

 

「成功ではございません!」

 

 ドビーが両手で頭を抱える。

 

「ハリー・ポッター様が、恐ろしいご主人様のお屋敷へ来てしまいました!」

 

「ルシウスはどこ?」

 

「晩餐室で、スネイプ様とお話ししております」

 

 作戦通り。

 

 スネイプは内部にいる。

 

「ナルシッサは?」

 

「ご一緒でございます」

 

「ドラコは?」

 

「自室でございます」

 

「日記は?」

 

 ドビーの身体が激しく震えた。

 

「ドビーは、お話しできません!」

 

「場所を聞いているんじゃない」

 

「しかし」

 

「黒い表紙の、古い日記が屋敷にあることは知っているね?」

 

 ドビーの耳が下がる。

 

 答えない。

 

 答えられない。

 

 それで十分だった。

 

「書斎へ行く」

 

「なりません!」

 

「止めなくていい。案内もしなくていい」

 

「見つかれば、ハリー・ポッター様は」

 

「透明マントがある」

 

 ハリーはマントを被る。

 

 ドビーの目の前から姿が消える。

 

「ハリー・ポッター様?」

 

「ここにいる」

 

「お姿が見えません!」

 

「声を抑えて」

 

 廊下の向こうから足音が聞こえた。

 

 ハリーは壁際へ寄る。

 

 ドビーは慌てて姿勢を正す。

 

 現れたのはドラコだった。

 

 寝間着の上からローブを羽織っている。

 

「ドビー」

 

 不機嫌そうに呼ぶ。

 

「何をしてる?」

 

「ドビーは……」

 

 ドビーが言葉に詰まる。

 

 ハリーが近くにいると話せば、主人へ不利益を与える。

 

 隠せば、それも主人への反逆になるかもしれない。

 

「父上が呼んでるぞ」

 

「ご主人様が?」

 

「酒を持ってこいって。スネイプ先生が来てる」

 

 ドラコは欠伸をした。

 

「何で夏休みに先生と会わなきゃいけないんだ」

 

 スネイプはドラコの成績について話す名目で来ている。

 

 本人には迷惑な話だろう。

 

 ドラコが通り過ぎる。

 

 ハリーは後を追わない。

 

 彼の手には何もない。

 

 日記は持っていない。

 

「ドビー」

 

 ドラコが離れた後、ハリーは小声で言った。

 

「晩餐室へ行っていい」

 

「ハリー・ポッター様をお一人にはできません!」

 

「ルシウスが呼んでいる。逆らえば罰を受ける」

 

「しかし」

 

「僕は大丈夫だ」

 

「大丈夫ではございません!」

 

「スネイプもいる」

 

「スネイプ様は、ハリー・ポッター様がここにいらっしゃることを?」

 

「知ってる」

 

 正確には、到着したことを銀貨で知らせただけだ。

 

 ドビーは迷い、最後には頭を下げた。

 

「どうか、すぐにお帰りくださいませ」

 

「努力する」

 

「そのお言葉は信用してはならないと、ティビーから聞いております!」

 

 妖精同士でも情報が共有されていた。

 

「ティビーと知り合いなのか?」

 

「妖精同士の集まりで、お話ししたことがございます」

 

「今度詳しく聞かせてくれ」

 

「今度があってはなりません!」

 

 ドビーは泣きそうな顔で廊下を走っていった。

 

 ハリーは周囲を確認する。

 

 スネイプから渡された見取り図を思い出す。

 

 二階。

 

 東側。

 

 ルシウスの書斎。

 

 階段を上る。

 

 透明マントは姿を隠すが、足音までは消さない。

 

 床へ魔力を薄く広げ、靴音を吸収する。

 

 肖像画の前を通る時は、呼吸も抑える。

 

 絵の中の人物には透明マントがどこまで通用するか分からない。

 

 二階の東側。

 

 扉が三つ。

 

 中央の扉には、銀色の蛇を模した取っ手がついている。

 

 書斎だ。

 

 ハリーは杖を向けない。

 

 魔法を使えば、屋敷の防衛術式へ検知される可能性がある。

 

 扉が開いているべきだと定める。

 

 妖精の魔法。

 

 鍵が外れる感触はなかった。

 

 扉という境界が、僅かに曖昧になる。

 

 ハリーはその隙間を押し広げる。

 

 音もなく、扉が開いた。

 

 書斎へ入る。

 

 壁一面の本棚。

 

 大きな机。

 

 銀の燭台。

 

 鍵の掛かった飾り棚。

 

 ルシウスの趣味らしく、装飾は派手だが整理されている。

 

 目的の物は、見える場所にはない。

 

 机の引き出し。

 

 本棚の裏。

 

 飾り棚。

 

 床下。

 

 探す場所は多い。

 

 ハリーは目を閉じる。

 

 日記の見た目は知っている。

 

 黒い表紙。

 

 古い紙。

 

 ヴォルデモートの魂。

 

 同じ魂の欠片が、ハリーの中にもある。

 

 額の傷へ意識を向ける。

 

 僅かな不快感。

 

 城でクィレルと対峙した時ほど強くはない。

 

 それでも、何かが呼応している。

 

 右。

 

 机ではない。

 

 本棚。

 

 さらに奥。

 

 ハリーは壁際へ近づく。

 

 並んでいるのは、純血家系に関する本。

 

 魔法省の法律書。

 

 闇の魔術の歴史。

 

 一冊を引く。

 

 何も起きない。

 

 隣。

 

 その隣。

 

 奥にある銀色の留め具へ触れる。

 

 本棚の一部が、僅かに前へ出た。

 

 隠し扉。

 

「分かりやすいな」

 

 ルシウスは、自分が秘密を持っていることを見せたがる人物だった。

 

 扉には複数の封印。

 

 スネイプから聞いていた通り、地下の保管庫ほど厳重ではない。

 

 だが、十一歳の生徒が解除できる仕掛けではない。

 

 正面から解除する必要はない。

 

 中にある日記が、封印箱の中へ収まっている。

 

 結果を定める。

 

 魔力を伸ばす。

 

 壁。

 

 扉。

 

 封印。

 

 それらを越え、内側へ触れる。

 

 複数の闇の魔法道具。

 

 呪われた指輪。

 

 血のついた短剣。

 

 人の声で囁く鏡。

 

 その中に、一つだけ異質な存在がある。

 

 物ではない。

 

 眠っている人間に近い。

 

 こちらを見ている。

 

 ハリーが触れた瞬間、額の傷が熱を持った。

 

「見つけた」

 

 空気が歪む。

 

 ハリーの前へ、一冊の日記が現れた。

 

 黒い表紙。

 

 古びた角。

 

 表紙には、かすれた文字で名前が刻まれている。

 

 T・M・リドル。

 

 日記が開きかける。

 

 ハリーは触れ続けない。

 

 縮小していた封印箱を取り出し、元の大きさへ戻す。

 

 蓋を開ける。

 

 妖精の魔法で日記を内部へ移す。

 

 直接持たない。

 

 日記が箱へ入った瞬間、内部の魔法陣が光った。

 

 銀色の線が絡み合い、日記を包む。

 

 蓋を閉じる。

 

 鍵が自動で掛かる。

 

 額の熱が弱まった。

 

「回収完了」

 

 予想より順調だった。

 

 すぐに撤退する。

 

 ハリーは扉へ向かった。

 

 その時。

 

 封印箱の内部から、音がした。

 

 紙を擦るような音。

 

 何かが箱の内側を叩いている。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 ハリーは立ち止まらない。

 

 返事をしない。

 

 箱を開けない。

 

 スネイプの指示通りだ。

 

 書斎の扉へ手を伸ばす。

 

 廊下から足音が聞こえた。

 

 一人ではない。

 

 硬い靴音。

 

 杖を床へ突く音。

 

 ルシウス。

 

 予定より早く席を立ったらしい。

 

 ハリーは透明マントを被り直す。

 

 箱もマントの内側へ入れる。

 

 扉が開いた。

 

 ルシウス・マルフォイが入ってくる。

 

 長い金髪。

 

 黒いローブ。

 

 右手には、蛇の頭を模した杖。

 

 その後ろに、スネイプがいた。

 

「わざわざ書斎まで来る必要があるのか、ルシウス」

 

「君に見せたい物がある」

 

 スネイプの目が、書斎を一瞬だけ走る。

 

 ハリーの姿は見えない。

 

 だが、連絡用の硬貨によって、近くにいることは分かっている。

 

「ドラコの成績表なら、先ほど見た」

 

「息子の話ではない」

 

 ルシウスが隠し扉の方へ歩く。

 

 ハリーは壁際へ下がった。

 

「最近、妙な噂を聞いた」

 

 ルシウスが言う。

 

「ホグワーツで、闇の帝王が再び現れたと」

 

「根拠のない噂だ」

 

「クィレルが重傷を負い、ポッターが医務室へ運ばれた」

 

「それだけで、闇の帝王へ結びつけるのか?」

 

「君なら知っているのではないか、セブルス」

 

 ルシウスが隠し扉へ手を伸ばす。

 

「何を?」

 

「ポッターが、どれほどの力を持っているのか」

 

 スネイプは無表情だった。

 

「生意気な一年生だ」

 

「トロールを倒し、杖なし魔法を使い、クィディッチの選手よりも上手く飛ぶ一年生が?」

 

「誇張された噂だ」

 

「ドラコは、実際に見たと言っている」

 

「お前の息子は、自分が負けた相手を過大評価する癖がある」

 

「ドラコは負けていない」

 

「そういうことにしておこう」

 

 ルシウスの口元が歪む。

 

 手が隠し扉の留め具へ触れた。

 

 開く。

 

 封印の内側を確認する。

 

 日記がない。

 

 ルシウスの動きが止まった。

 

 ハリーは銀貨を強く握った。

 

 緊急合図。

 

 スネイプのローブの内側で、対となる硬貨が熱を持ったはずだ。

 

「どうした?」

 

 スネイプが尋ねる。

 

「何でもない」

 

 ルシウスの声が低くなる。

 

 隠し扉の中をもう一度確認する。

 

 杖を抜き、探知魔法を使う。

 

 ハリーは息を止めた。

 

 封印箱が魔力を隠している。

 

 透明マントも、探知を妨害する。

 

 だが、完全とは限らない。

 

 ルシウスの杖先が、ゆっくり室内を向く。

 

 ハリーのいる方向へ近づいてくる。

 

 スネイプが動いた。

 

「ルシウス」

 

「黙っていろ」

 

「ドラコが先ほど、妙な物を持って廊下を歩いていた」

 

 ルシウスの杖が止まる。

 

「妙な物?」

 

「黒い表紙の本だ」

 

 ハリーは目を見開いた。

 

 完全な嘘。

 

 スネイプが、その場で作った話だ。

 

「ドラコが?」

 

「古い日記のように見えた」

 

「どこへ行った」

 

「自室の方向だ」

 

 ルシウスの顔色が変わる。

 

 書斎を飛び出す。

 

 スネイプはすぐには追わない。

 

 扉の前で数秒待つ。

 

「ポッター」

 

 小さな声。

 

「ここです」

 

「取ったか?」

 

「はい」

 

「出るぞ」

 

「ルシウスは?」

 

「息子の部屋を探している間に移動する」

 

 スネイプは廊下へ出る。

 

 ハリーも後に続く。

 

 階段を下りる途中、スネイプは表情を変えずに言った。

 

「正面玄関は使えん」

 

「ドビーを探します」

 

「時間がない」

 

「では、先生の移動手段は?」

 

「屋敷の敷地外まで出れば、姿現しが使える」

 

「僕はまだできません」

 

「私が連れていく」

 

「透明マントのまま?」

 

「お前の姿をルシウスへ見せるよりましだ」

 

 玄関へ向かう廊下。

 

 前方からナルシッサが現れた。

 

 青白い顔。

 

 金髪。

 

 気品のある姿。

 

「セブルス?」

 

「ルシウスから、ドラコの部屋へ行くよう頼まれた」

 

「何かあったの?」

 

「古い日記を持ち出した可能性があるらしい」

 

 ナルシッサの表情が険しくなる。

 

「ルシウスが保管していた物を?」

 

「そのようだ」

 

「何を考えているの」

 

 夫へ向けた言葉なのか、息子へ向けた言葉なのか分からない。

 

「私も行くわ」

 

 ナルシッサが階段を上る。

 

 スネイプとハリーは反対方向へ進む。

 

 玄関の近くで、ドビーが待っていた。

 

 ハリーの姿は見えない。

 

 だが、妖精には魔力で分かるらしい。

 

「ハリー・ポッター様」

 

 小さく呼びかける。

 

「取った」

 

「恐ろしい物を?」

 

「ああ」

 

「お帰りになるのですか?」

 

「今日は」

 

 今日は。

 

 ドビーを置いていく。

 

 胸が痛む。

 

 だが、ハーマイオニーと約束した。

 

 日記を優先する。

 

 確保した後も、危険なら撤退する。

 

 今、ドビーを解放しようとすれば、ルシウスと正面から対立する。

 

 準備がない。

 

 ドビーにも罰が及ぶ可能性がある。

 

「必ず、また来る」

 

 ハリーは小声で言った。

 

「次は、君を自由にするために」

 

 ドビーの目が見開かれる。

 

「自由?」

 

「今は何も言わなくていい」

 

 ドビーが震える。

 

 泣きそうな顔で、何度も頷いた。

 

「行くぞ」

 

 スネイプが低く言う。

 

 二人は玄関を抜け、庭園へ出た。

 

 屋敷の敷地には、姿現しを妨げる結界がある。

 

 門までの距離は長い。

 

 背後。

 

 屋敷の中から、ルシウスの怒鳴り声が響いた。

 

「セブルス!」

 

 気づかれた。

 

「走れ!」

 

 スネイプが言う。

 

 ハリーは透明マントを脱がない。

 

 足音を消す余裕もない。

 

 庭園を駆ける。

 

 十一歳の足は遅い。

 

 スネイプがハリーの腕を掴み、半ば引きずる。

 

 背後の扉が開く。

 

「止まれ!」

 

 赤い光が飛ぶ。

 

 スネイプが振り返り、盾で弾く。

 

「何の真似だ、ルシウス!」

 

「日記を返せ!」

 

「何の話だ」

 

「とぼけるな!」

 

 ルシウスが庭園へ出る。

 

 ナルシッサとドラコも後ろにいる。

 

 ドラコは何が起きているのか分からない顔だ。

 

「私の書斎へ入ったな!」

 

「お前と共に入った」

 

「その前だ!」

 

「私は晩餐室にいた。使用人へ聞けば分かる」

 

「なら、誰が!」

 

 ルシウスの視線が庭園を走る。

 

 透明マントのハリーは見えない。

 

「ポッターか」

 

 唐突に、その名前が出た。

 

 ハリーの足が僅かに止まりかける。

 

「なぜポッターが出てくる」

 

 スネイプが冷たく返す。

 

「分からん。だが、あの子供なら」

 

「ホグワーツの一年生が、どうやってお前の屋敷へ入る?」

 

 ルシウスは答えられない。

 

 常識的には不可能だ。

 

 マルフォイ邸は、魔法省にも登録された防護結界を持つ。

 

 外部から姿現しで侵入することはできない。

 

 煙突飛行粉も、許可された接続先しか使えない。

 

 門を通れば、警報が鳴る。

 

「日記には、何が入っていた?」

 

 スネイプが尋ねた。

 

 ルシウスの顔が硬直する。

 

「何のことだ」

 

「それほど必死になる物だ。危険な闇の魔法道具ではないのか?」

 

「お前には関係ない」

 

「ならば、魔法省へ相談するか?」

 

「脅すつもりか、セブルス」

 

「友人として忠告している。正体の分からない物を、息子のいる屋敷へ置くべきではない」

 

 ナルシッサの視線が、ルシウスへ向く。

 

 冷たい。

 

「ルシウス」

 

「後で説明する」

 

「今、説明して」

 

 夫婦の間に、別の問題が発生した。

 

 スネイプがハリーの腕を引く。

 

 門。

 

 もう少し。

 

 屋敷の結界が薄くなる位置へ到達する。

 

「掴まれ」

 

 ハリーはスネイプの腕を握る。

 

 背後でルシウスが気づいた。

 

「待て!」

 

 杖が向けられる。

 

 緑ではない。

 

 拘束呪文。

 

 発動より一瞬早く、スネイプが姿現しを行った。

 

 身体が圧縮される。

 

 妖精の魔法とは違う不快感。

 

 暗闇。

 

 次の瞬間、二人は別の場所へ立っていた。

 

 見覚えのある校長室。

 

 ダンブルドアとマクゴナガルが待っている。

 

 ハリーは透明マントを脱いだ。

 

 封印箱を机の上へ置く。

 

「取ってきました」

 

 マクゴナガルは、まずハリーの全身を確認した。

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「長距離移動で少し気分が悪い程度です」

 

「医務室へ行きなさい」

 

「先に日記を」

 

「日記は逃げません」

 

 箱の内部で、何かが叩く音がした。

 

 全員の視線が集まる。

 

 一度。

 

 二度。

 

 静かになる。

 

「これが」

 

 ダンブルドアが机へ近づく。

 

「トムの日記かの」

 

「はい」

 

「開けても?」

 

「精神防御をしてください。日記は文字を通じて会話し、相手の心へ入り込みます」

 

 ダンブルドアが頷く。

 

 スネイプが追加の防護術式を部屋へ展開する。

 

 マクゴナガルも杖を構えた。

 

 箱の鍵を外す。

 

 蓋を開く。

 

 日記は、何事もなかったように収まっていた。

 

 ダンブルドアが杖で日記を浮かせ、机の上へ置く。

 

 表紙が開く。

 

 白紙。

 

 何も書かれていない。

 

「どうやって調べるのじゃ?」

 

「文字を書けば返事をします」

 

「誰が書く?」

 

 スネイプがハリーを見る。

 

「僕が」

 

「駄目だ」

 

「未来で相手の性格を知っています」

 

「だからこそ、情報を引き出そうとする」

 

「僕も、あちらから情報を引き出せます」

 

「十二歳の生徒に分霊箱と会話をさせるつもりはありません」

 

 マクゴナガルが強く言う。

 

「では、ダンブルドア先生が?」

 

「それがよかろう」

 

 ダンブルドアは羽根ペンを手にした。

 

 インクへ浸す。

 

 最初の頁へ、短い文章を書く。

 

『君は誰かね?』

 

 インクが紙へ吸い込まれる。

 

 文字が消える。

 

 数秒後。

 

 新しい文字が浮かび上がった。

 

『僕の名は、トム・リドルです』

 

 整った筆跡。

 

 礼儀正しい文章。

 

 未来で見た、若いヴォルデモートの人格。

 

『あなたは、どなたですか?』

 

 ダンブルドアは答えず、日記を観察した。

 

「ワシを認識しておらぬようじゃ」

 

「日記が作られた時点の記憶しかありません」

 

 ハリーが答える。

 

「一度、クィレルの中にいたヴォルデモートと接触しましたが、情報は共有されていないようです」

 

 分霊箱同士が、自動で記憶を共有するわけではない。

 

 予想通りだった。

 

 ダンブルドアが次の質問を書く。

 

『君は、なぜこの日記の中にいるのかね?』

 

 返事が浮かぶ。

 

『質問の意味が分かりません。これは僕の日記です。自分の日記に、自分の記憶があることは不思議でしょうか?』

 

 無害な学生を装っている。

 

 ハリーは日記を見つめた。

 

 向こうは、こちらを知らない。

 

 ハリーは、トム・リドルが何者かを知っている。

 

 どのように人を信用させるか。

 

 どの言葉で弱みに入り込むか。

 

 何を欲しがり、何を恐れているか。

 

 今回は、相手だけが無知だった。

 

「破壊する前に、情報を引き出せます」

 

 ハリーが言う。

 

「他の分霊箱の場所。作成方法。秘密の部屋について」

 

「危険じゃ」

 

 ダンブルドアが答える。

 

「ですが、機会でもあります」

 

「トムも同じように考えるじゃろう」

 

「僕たちから情報を引き出す機会だと?」

 

「そうじゃ」

 

 日記の文字が、再び浮かび上がる。

 

『そこに、他にも誰かいるのですか?』

 

 誰も返事をしていない。

 

 それでも、会話を聞いているかのような問いだった。

 

 紙の表面から、魔力が僅かに広がっている。

 

 声。

 

 呼吸。

 

 周囲の気配。

 

 日記は、文字以外の情報も感じ取っている。

 

 スネイプが即座に蓋を閉じた。

 

 箱へ戻す。

 

 封印が再び作動する。

 

「今夜はここまでだ」

 

 ハリーも反対しなかった。

 

 回収には成功した。

 

 日記はジニーへ渡らない。

 

 秘密の部屋が開かれる未来は、大きく遠ざかった。

 

 それでも、問題は残っている。

 

 日記を破壊する方法。

 

 秘密の部屋にいるバジリスク。

 

 ドビーの解放。

 

 そして、ルシウスがハリーを疑い始めた可能性。

 

「これで来年度の事件は防げたのでしょうか」

 

 マクゴナガルが尋ねる。

 

「日記による事件は」

 

 ハリーは答えた。

 

「ですが、ヴォルデモートが別の手を使う可能性があります」

 

「日記は独立して動くのではなかったのかの?」

 

「未来では、そうでした。ただ今回は、ルシウスが日記を失った。彼が他の死喰い人へ相談する可能性がある」

 

「闇の帝王本人へ報告することはできん」

 

 スネイプが言う。

 

「今のあいつがどこにいるか、誰も知らない」

 

「だからこそ、何をするか読めません」

 

 ルシウスが日記を探す。

 

 魔法省へは届けられない。

 

 ダンブルドアへ相談することもない。

 

 スネイプを疑うかもしれない。

 

 あるいは、ハリーを疑う。

 

 未来は、また大きく変わった。

 

「とりあえず」

 

 ハリーは椅子へ座った。

 

 移動の疲労が一気に出てきた。

 

「一番危険な分霊箱は回収しました」

 

「一番危険?」

 

 マクゴナガルが尋ねる。

 

「最初に作られた物だからかの?」

 

 ダンブルドアが言う。

 

「おそらく」

 

 ハリーは頷く。

 

「魂を分割する時、綺麗に七等分されるとは思えません。最初の分霊箱には、後に作られた物より大きな魂が入っている可能性があります」

 

「推測か?」

 

 スネイプが尋ねる。

 

「はい。ただ、日記のリドルは他の分霊箱より自律性が高かった。人から生命力を奪い、実体化しかけています」

 

「完全に実体化した場合は?」

 

「十六歳のトム・リドルが復活します」

 

「闇の帝王が二人になるのですか?」

 

 マクゴナガルの顔が険しくなる。

 

「互いに協力するかは分かりません」

 

 同じヴォルデモートでも、魂が分かれてからの経験が違う。

 

 完全復活したヴォルデモートは、自分以外の存在を認めない。

 

 日記のリドルも同じだろう。

 

 出会えば、協力するより先に主導権争いを始める可能性さえある。

 

「若くて、顔が整っている分、日記の方が人を騙すのは上手いでしょうね」

 

 ハリーが言う。

 

「禿げた後より、よほど黒幕らしい」

 

 マクゴナガルが眉をひそめる。

 

「人の容姿をそのように言うものではありません」

 

「ヴォルデモートですよ」

 

「相手が誰であってもです」

 

「すみません」

 

 ダンブルドアは髭の奥で僅かに笑った。

 

 スネイプは呆れたように目を閉じる。

 

「ともかく」

 

 ダンブルドアが言う。

 

「日記はワシとセブルスで調べる。ハリー、君はしばらく休むのじゃ」

 

「夏休み中に、ドビーを解放する方法も考えたいです」

 

「休めと言ったばかりじゃが?」

 

「考えるだけなら寝ながらできます」

 

「そういうところじゃ」

 

「何がです?」

 

「君が自分の幸せを後回しにしておるところじゃよ」

 

 ハリーは答えなかった。

 

 ドビーを置いてきた。

 

 一度目の人生では救えなかった友人。

 

 今もマルフォイ邸で、ルシウスの怒りを受けている可能性がある。

 

 休んでいる場合ではない。

 

 それでも、今すぐ戻ることはできなかった。

 

 準備なしで動けば、ドビーを余計に危険へ追い込む。

 

「分かりました」

 

 ハリーは立ち上がる。

 

「今日は休みます」

 

 マクゴナガルが疑わしそうに見る。

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「必要の部屋へ行ったりは?」

 

「しません」

 

「杖なし魔法の練習も?」

 

「今日はしません」

 

「日記について一人で調べることも?」

 

「箱はここにあります」

 

「頭の中で計画を立てるのは?」

 

「それは禁止できないでしょう」

 

 マクゴナガルがため息をつく。

 

「医務室へ行きなさい」

 

「自分の部屋で寝ます」

 

「医務室です」

 

「歩けます」

 

「ポッター」

 

「分かりました」

 

 スネイプが校長室の扉を開ける。

 

「私が連れていく」

 

「先生が?」

 

「途中で逃げられては困る」

 

「逃げませんよ」

 

「信用していない」

 

 二人で校長室を出る。

 

 階段を下りる途中、スネイプが小声で言った。

 

「よくやった」

 

 ハリーは足を止めた。

 

「今、褒めました?」

 

「聞き間違いだ」

 

「日記を取ってきたことを?」

 

「二度と言わん」

 

「ありがとうございます」

 

「黙れ」

 

 スネイプは先を歩く。

 

 ハリーは少しだけ笑った。

 

 日記は回収した。

 

 ジニーが操られる未来は避けられる。

 

 秘密の部屋編は、始まる前に終わった。

 

 そう言いたいところだった。

 

 だが、未来はすでに原作から外れている。

 

 日記を失ったルシウス。

 

 ヴォルデモートの魂を封じた箱。

 

 まだ解放されていないドビー。

 

 そして、ホグワーツの地下で眠り続けるバジリスク。

 

 一つの危機を消せば、次の危機が別の形で現れる。

 

 二度目の人生は、一度目より簡単ではない。

 

 ただ。

 

 今回は一人ではなかった。

 

 秘密を知る教師がいる。

 

 協力してくれる友人がいる。

 

 未来を変える責任を、すべて自分だけで背負う必要はない。

 

 それを認めるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。

 

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