転ばぬ先の杖、という諺がある。
もちろん、怪我をしなかったのは喜ばしいことだし、備えあれば憂いなし、の精神が遺憾なく発揮されてさぞ誇らしいことだろう。とはいえ、そもそもの話として、転びそうになった事に変わりはなく、その事実から目を背けていることに対しては文句のひとつでも言いたくなってくる。
犬も歩けば棒に当たるとはいうが、僕ほどになるとマウンテンバイクに乗っていても当たる。その程度の備えで満足しているなんて、そんなに僕と一緒に追試を受けたいのだろうか。受けたくないから備えるんじゃないのか、普通。
それに杖だって万能ではない。本質的にはたかが棒なのだから、何かにつっかえたり、運が悪ければ折れたりすることだってある。三本束ねるならともかく、高々一本の棒に命運を預けるのは愚の骨頂である。棒にしてみれば風評被害も甚だしいのかもしれないが、僕からすれば全く信用ならない。
いっそのこと、石橋を叩くのに使った方がいくらかは有用と言えるだろう。もしくは、犬を遊ばせるのに使うか、だ。
……信用ならない棒で叩いた石橋を安心して渡れるかというのは、また別の話だが。
「これはこれは、ありゃりゃ木さんではないですか。そんなところで何をされているんですか?」
「八九寺。僕の名前は……って、この状況じゃあ、ありゃりゃと言われても仕方がないのか……」
実に反論がしづらいことだ。
「見てわかるだろ」
「だから聞いているんです。今日の阿良々木さんは特にありゃりゃって感じですね」
「やっぱりわざとじゃないか」
「噛みまみた」
「流石に無理があるぞ!」
そう。今の僕は、お気に入りのマウンテンバイクごと植え込みに突っ込んでいるという、実に素敵な状況に陥っているのだった。
ステッキだけに素敵ってか、はは、言わせておけば。
……言っているのも、言われているのも僕だった。ウロボロスだって苦笑いだ。
「あなたは蛇ではなくて吸血鬼でしょう。それにしても、転ばぬ先の杖をここまで身をもって証明した人を私は知りませんよ」
「それは違うな。八九寺が来てくれたんだから、杖なんて必要なかっただろう?」
「それを一般には転んだ後の言い訳と言います。まったく、必要なのは猫の手だったということですか?」
あるいは。蝸牛の手なのかもしれない。
「では次からは、転ぶ前に私を呼んでください」
「それじゃ転ばぬ先の八九寺だな」
「ふっふっふ、私は高いですよ?」
「金を取るのかよ……」
タダでは転ばない蝸牛なのだった。