「わぁぁっ、冷たーい!」「滑る、すっごく滑るよ!」
貸し切られたスケートリンクに、わかばパークの子供たちの歓声が響き渡った。
保育施設「わかばパーク」の修繕と慰問の一環として、私たちE組が企画した『スケート教室』。私が所属するフィギュアスケートクラブの監督に頭を下げ、練習の空き時間を特別に提供してもらったのだ。
「ほらほら、手すりから離れる時は重心を少し落としてー」
「氷室、お前言うのは簡単だけどな! うわっ!?」
ド派手に転んだ寺坂を見て、カルマがスィーっと涼しい顔で横を通り過ぎながらスマホで写真を撮る。
「寺坂クン、氷の上でも鈍臭いんだねぇ。凛ちゃん、俺にはバックの滑り方教えてよ」
「カルマは相変わらず器用だね……。渚、大丈夫?」
「う、うん……なんとか立てるようにはなったよ」
生まれたての小鹿のようにプルプル震える渚を支えながら、私は久しぶりのホームリンクの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
子供たちとE組のメンバーが氷の感触に慣れてきた頃、わかばパークの女の子が私のジャージの裾を引っ張った。
「凛おねえちゃん、テレビでやってるみたいに、クルクルッて跳んでみて!」
その無邪気なリクエストに、他の子供たちも「見たい見たい!」と目を輝かせる。
「あ、俺も見たい! 氷室のガチのスケート!」
前原が便乗すると、茅野や磯貝たちも次々と集まってきた。
「そういえば、ニュースで『元・女王』って騒がれてたのに、私たち凛ちゃんの滑りちゃんと見たことないかも!」
皆の期待の眼差しが、私に突き刺さる。
(……ジャンプ、か)
私が右膝を壊したのは、トリプルアクセル(3回転半)の着氷失敗だった。
それ以来、試合はおろか、練習でも高難度のジャンプからは逃げていた。でも、今の私なら。あの恐怖の呪縛を、すでにE組のグラウンドで断ち切っている私なら。
「……わかった。ちょっとだけ、下がっててね」
私がクラブのジャージを脱ぎ、体にフィットした黒の練習着姿になると、リンクの空気が僅かに変わった。
ゆっくりと滑り出す。
エッジが氷を捉える「シュッ、シュッ」という小気味良い音が、静まり返ったリンクに響く。
大きく円を描くように加速していく。クロスロールで一気にスピードに乗る。
風を切る感覚。視界の端で、E組のクラスメイトたちが息を呑むのがわかった。私の纏う空気が、普段の「氷室凛」から、ナイフを構えた時の「暗殺者」のそれに変わったのを感じ取ったのだろう。
(狙う標的は、自分自身の限界)
前向きに踏み切る、フィギュアスケートにおいて最も難しく、最も恐怖を伴うジャンプ。
左足のアウトエッジで深く氷を踏み込み、右足を大きく振り上げる。
恐怖は、ない。頭の中にあるのは、完璧な放物線を描くための極限の集中力と、標的を貫く殺意だけだ。
「――っ!」
氷を蹴り、私の体はふわりと宙に舞い上がった。
高く、鋭く。
1回転、2回転、3回転、そして半回転。
空中で軸を細く絞り込み、回転の遠心力を完全に支配する。シベリアの氷湖で殺せんせーの触手を躱した時のように、体の隅々まで神経を行き渡らせる。
そして、右足のアウトエッジが、吸い込まれるように氷を捉えた。
『カァンッ!』という澄んだ着氷音。
ブレードが氷を削り、美しい弧を描きながら滑らかに後方へ流れていく。両腕を開き、乱れのない完璧なチェック姿勢。
完璧な、トリプルアクセルだった。
「…………えっ?」
「…………うそ、だろ」
数秒の静寂。
口火を切ったのは、わかばパークの子供たちの割れんばかりの歓声だった。
「すっごーーーーい!!」
「おねえちゃん、飛んだ!! 鳥みたいだった!!」
その歓声で我に返ったE組のメンバーたちは、目を丸くして立ち尽くしていた。
「おいおい……マジかよ。今、何回転した?」
前原が信じられないという顔で頭を抱える。
「……3回転半。前向きに踏み切る、トリプルアクセルだよ。女子で跳べる選手は、世界でもほんの一握りしかいない大技」
スマホのカメラを下ろし、カルマが珍しく驚きを隠せない声で呟いた。
「すごい……本当に飛んでた……」
渚は、私の滑った後の氷に残る、深く鋭いエッジの跡をまじまじと見つめている。普段、暗殺の訓練で見せている身体能力の高さが、この氷という特殊な戦場においてどれほど異常な武器になるのか、彼らは視覚的に理解したようだった。
私は荒くなった息を整えながら、皆の元へゆっくりと滑り戻った。
右膝は、全く痛まなかった。それどころか、もっと高く跳べる、そんな確信さえあった。
「凛ちゃん……あんた、本当にバケモノだったんだね……」
中村が震える声でそう言うと、クラス中から「お前が言うな!」とツッコミが入り、ドッと笑いが起きた。
「ははっ、これが私の『暗殺(スケート)』だよ」
私は胸を張って笑った。
絶対王者夜鷹純や、これから現れるであろう無数のライバルたち。
彼らがどれだけ凄まじい才能を持っていようと、恐れることはない。
私には、一度地獄を見て、そこから這い上がった強さがある。
そして、どんな困難な標的にも共に立ち向かってくれる、このE組という最高の仲間がいるのだから。