月のない空   作:朝凪小夜

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第十話 海

 

 道が、下りになった。下り続けて、七日目に、風が変わった。匂いが、違う。湿っていて、少し、塩の匂いがする。俺はそれを知っていた。知っている、というのは、思い出した、ということだ。前の生で嗅いだことがある。どこで嗅いだのかは、覚えていない。だがこの匂いを俺は知っていた。

 

海だ、とサキが言った。もうすぐ出る。俺は頷いた。海というものをこの生では、見たことがなかった。村は山の中だ。海の話は、行商が持ってくる話の中にしかなかった。水が、地平の果てまである。塩辛い。船が浮く。村では、そう言われていた。だいたい、合っている。

 

丘を越えて、視界が開けた。海が、あった。灰色だった。俺はそこで、足を止めた。止めた理由は、わからない。止まるつもりはなかった。だが止まっていた。サキが、車を止めて、こちらを見た。初めて見たのか、と訊いた。初めてだ、と俺は答えた。サキはそうか、とだけ言った。そして待っていた。俺が、動き出すまで、そこで、待っていた。俺はしばらく海を見ていた。

 

海は、動いていた。当たり前だ。波がある。だが俺が見ていたのは、波ではない。もっと、遠くだ。水と空が、接している線。あれが、見えるということは、この星が丸いということだ。俺はそれを知っている。知っていたが、見たのは、初めてだった。俺はいま、地球の丸さを見ている。村では、見えなかった。山があるからだ。ここでは、見える。俺はしばらくそれを見ていた。サキは何も言わなかった。

 

サキ、と俺は言った。なに、とサキが言った。あの線は、なんだと思う。俺は水平線を指した。サキはそちらを見た。少し、見て、それからこう言った。水の終わり。俺はそうじゃない、と言った。じゃあ、なんだい、とサキが言った。俺はこう言った。この星は、丸い。だからあそこから先が、下がっている。下がっているから、見えない。あれは、水の終わりじゃない。見える範囲の終わりだ。

 

サキはしばらく黙っていた。それからへえ、と言った。俺は待った。サキはそれ以上、何も言わなかった。車を押し始めた。俺はその横を歩いた。しばらく歩いて、俺は言った。驚かないのか。サキはこう言った。驚けばいいのかい。

 

俺は答えられなかった。サキは続けた。あんたの言う通りだとして、それで、あたしの何が変わる。海は、そこにある。船は、浮く。魚は、獲れる。塩は、できる。丸かろうが、平らだろうが、明日、あたしは荷を運ぶ。そうだろう。俺はそうだな、と言った。サキは頷いた。そしてこう言った。でも、あんたには、変わるんだろ。

 

俺はそこで、足が、少し、遅れた。サキは振り返らなかった。振り返らずに、こう続けた。あんたは、そういうのを知りたいんだろ。だから都に行くんだろ。なら、いいんじゃないか。あたしには、要らない。あんたには、要る。それだけの話だよ。

 

俺はその言葉をしばらく噛んでいた。そしてこう思った。この女は俺を否定していない。一度も、否定していない。三日目に、俺はこの女を馬鹿だと思っていたと言った。この女は知っていると答えた。そして困っていない、と言った。この女は俺の見下しを受け流している。受け流していて、そのうえで、俺のことを正確に見ている。あんたには、要る。俺はそれを自分では言えなかった。俺は都に何をしに行くのか、わからないと言い続けてきた。この女は俺が何を欲しがっているかを俺より先に、言った。俺はそれに、腹を立てなかった。立てられなかった。

 

港に着いたのは、その日の夕方だ。港は、里より、ずっと大きかった。家が、百はある。船がある。人が、多い。人が多い、というのは、俺にとって、初めての経験だった。村では、全員の顔を知っていた。ここでは、誰の顔も知らない。誰も、俺を知らない。俺はそれを悪くないと思った。いや。悪くない、と思おうとしていた。実際には、少し、落ち着かなかった。

 

サキは荷を降ろす場所を知っていた。運び、渡し、金を受け取った。その一連の動きに、無駄がなかった。誰かが、サキの名を呼んだ。サキが、笑って、何か言い返した。俺はその様子を少し離れて、見ていた。この女はここに、居場所がある。俺には、ない。俺はそう思った。思って、そのことに、何も感じなかった。いや、感じた。何を感じたのかは、わからない。

 

サキが、こちらに来た。あんた、船だろ、と言った。そうだ、と俺は言った。都に行くには、ここから船に乗る。沿岸を南に下り、途中で降りて、また道を行く。村長が、そう言っていた。サキは明日の船がある、と言った。朝だ。乗るなら、今夜、話をつけておいた方がいい。俺は頷いた。サキはそれだけ言って、行こうとした。俺は呼び止めた。

 

あんたは、と俺は言った。サキは振り返った。あたし、と言った。あたしは、戻るよ。北に、と俺は訊いた。北に、とサキは言った。荷を積んで、また、上がっていく。俺はそれを聞いて、こう思った。この女は俺が来た道を逆に辿る。俺の村の方向に、行く。行って、また、戻ってくる。それを何年も、繰り返している。

 

俺はこう言った。あんた、俺の村に行くか。サキは少し考えて、行くこともある、と言った。あの辺は、年に二度だ。俺は頷いた。それから何かを言おうとした。言おうとして、言葉が、出てこなかった。何を言おうとしたのか、自分でも、わからなかった。俺の村に、ミナという女がいる。そう言おうとしたのかもしれない。言って、どうする。どうもしない。だから俺は言わなかった。俺は代わりに、こう言った。道中、気をつけろ。

 

サキは笑った。あんたが言うのか、と言った。俺は何も言い返せなかった。サキはそのまま、こう続けた。あんたも、気をつけな。都は、山より、面倒だよ。どういう意味だ、と俺は訊いた。サキは少し、間を置いた。それからこう言った。山では、殺せば終わる。都では、殺せない相手が、いる。

 

俺はその言葉の意味をそのときは、わからなかった。いま思えば、あれは、正確な予言だった。都には、殺せない相手がいる。貴族がそうだ。制度がそうだ。三百年の秩序が、そうだ。そして俺はそれを殺さなかった。殺さずに、騙した。サキはそれをあの時点で、言い当てていた。いや、言い当ててはいない。この女はそんな大きな話をしていない。この女は道を歩く者として、当たり前のことを言っただけだ。通れない道は、通るな。殺せない相手は、殺すな。それだけの話だ。だが俺はその言葉を十年、覚えていた。

 

その夜、俺は船の話をつけた。宿を取った。港の宿は、村の家より、狭かった。人が、詰め込まれていた。俺は隅に座って、飯を食った。サキはいなかった。サキは別の宿だ。運び屋には、運び屋の宿がある。そういうものらしい。

 

俺は飯を食いながら、こう考えた。俺はあの女に、何かを返しただろうか。返していない。あの女は俺に、いくつも教えた。鳥の声を聞くこと。通らない道があること。困っていないものを直す必要はないこと。殺せる者が、いずれ死ぬこと。俺はそれを全部、受け取った。受け取って、何も返していない。俺はあの女に、魔法を教えると言った。断られた。それ以外に、俺があの女にできることは、何もなかった。いや、あったのかもしれない。あったのかもしれないが、俺はそれを探さなかった。探そうと、思わなかった。

 

次の朝、船に乗った。港には、人が多かった。サキはいなかった。いるはずが、なかった。別れの挨拶は前の夜に済ませている。済ませた、というより、あれで終わりだった。道中、気をつけろ、と俺は言った。あんたも、と、あの女は言った。それだけだ。それで、終わりだ。俺の名は、最後まで、呼ばれなかった。

 

船が、出た。港が、遠くなった。俺は船尾に立って、それを見ていた。見ていて、こう思った。あの女はいま、北へ向かって歩いている。荷を積んで、車を押して、鳥の声を聞きながら、歩いている。崩れた斜面は通らない。沢筋も通らない。殺せる魔物がいても、殺さない。そうやって生きている。そしてたぶん俺より長く生きる。俺はそれを認めた。認めて、船に乗っている。俺は都に行く。なぜ行くのか、まだ、わからない。

 

海の上には、何もない。水と、空だけだ。夜になった。船は、止まらなかった。岸から離れすぎなければ、夜でも走れる。岬に灯りが置いてあって、それを繋いでいけばいい。船頭が、そう言った。誰が灯りを絶やさずにいるのか、と俺は訊いた。岬の者が、代々やっている、と船頭は言った。なぜ、と俺は訊いた。船頭は、少し、変な顔をした。そういうものだからだ、と言った。俺はそれ以上、訊かなかった。俺は甲板に、寝転がっていた。寝る場所が、そこしかなかった。だから寝転がった。寝転がると、上しか、見えない。他に、見るものが、なかった。だから俺は見た。

 

環が、あった。銀色の帯が、空を横切っていた。海の上では、遮るものがない。山も、木も、家も、ない。だから端から端まで、見える。俺は十年ぶりに、それをまともに見た。美しい、と思った。それだけだ。その先を俺は考えなかった。あれが何なのかを俺は考えなかった。考えれば、わかったかもしれない。俺はこの星が地球であることを知っている。地球に、環はない。なかったはずだ。あるはずのないものが、ある。なら、あるはずのものが、ないのではないか。そこまで、あと一歩だった。あと、一歩だ。俺はその一歩を踏まなかった。美しい、と思って、目を閉じた。俺は月のことを思い出さなかった。

 

 

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