最後の宿場で、俺はその言葉を聞いた。都まで、あと三日という場所だ。宿は混んでいた。都に入る者と、都から出る者が、そこで一晩を過ごす。飯を食っていると、隣の卓で、男が三人、話していた。商いの話だ。どこそこの道が塞がっている。どこそこの荷が滞っている。そういう話の中で、一人が、こう言った。東に回れば、早いんだがな。もう一人が、笑って、こう言った。トキには行くな。
三人が笑った。笑って、話が、別のことに移った。俺は飯を食っていた。食いながら、その言葉を聞いていた。トキ。聞いたことのない言葉だった。だが笑い方から、意味は、なんとなくわかった。行ってはいけない場所だ。あるいは、行っても仕方のない場所だ。諺のようなものだと思った。村にも、そういう言い回しがあった。夜の沢に降りるな、とか。冬の尾根を越えるな、とか。意味は、単純だ。死ぬからだ。だから俺はそれと同じものだと思った。
俺は隣の卓に、こう訊いた。トキとはなんだ。三人が、こちらを見た。一人が、こう言った。知らんのか。知らない、と俺は言った。男は少し、考えた。それからこう言った。東の土地だ。行くと、帰ってこない。俺はなぜ、と訊いた。男はこう答えた。地面が、抜ける。
地面が抜ける、と俺は繰り返した。男は頷いた。昔、大きな町があったらしい。いまは、崩れてる。崩れた上に、土が積もってる。だから歩けるように見える。だが下が、空だ。乗ると、落ちる。男はそう言った。それからこう続けた。誰も行かん。行く理由も、ない。
こう訊いた。トキというのは、その町の名か。男は少し、間を置いた。それからこう言った。さあ。トキは、トキだ。昔から、そう呼んでる。
俺はそこで、飯に戻った。男たちも、話に戻った。トキの話は、それで終わった。俺はその言葉をその夜、それ以上、考えなかった。考える理由が、なかった。俺は都に行く。東には、行かない。行かない場所の名を覚えても、仕方がない。だから俺は覚えていない。……いや。覚えていた。覚えていたのに、考えなかった。俺はその言葉を五年、頭の隅に置いたまま、一度も、触らなかった。
三日後、都に着いた。
最初に見えたのは、山だ。都は、山に囲まれている。北と、東と、西に山があり、南が開いている。その盆地の底に、都がある。俺は峠から、それを見下ろした。広かった。村が、いくつ入るのか、見当がつかない。家が、どこまでも並んでいた。煙が、いくつも上がっていた。道が、まっすぐだった。まっすぐな道が、何本も、縦と横に走っていた。あんなにまっすぐな道を俺は見たことがなかった。いや。見たことがある。前の生で、見た。俺はそこで、少し、息が詰まった。
あれは、誰かが、決めて、作った道だ。地形に合わせて、できた道ではない。先に、線を引いて、それから街を作った。そういう作り方だ。俺はそれを知っている。前の生の街も、そうだった。……いや。俺が住んでいた街は、そうではなかった。道は、曲がっていた。だがそういう街があることは、知っていた。どこで知ったのかは、覚えていない。俺は峠に立って、しばらくそれを見ていた。誰かが、この街を線から作った。三百年より、前に。
俺はそこで、止まった。止まって、こう思った。この街は、古い。三百年より、古い。なぜなら、三百年前に、何かが落ちて、全部が壊れたはずだからだ。壊れたあとに、こんな街は、作れない。人が足りない。金が足りない。なら、この街は、壊れる前からあった。壊れる前から、この形をしていた。……。俺はそこで、また、止まった。止まって、こう思った。この街の名は、なんだ。
都だ。誰もが、そう言う。キョウ、と言う。俺はそれを道中、何十回も聞いた。キョウに行く。キョウから来た。キョウの品だ。都、という意味だ。誰も、それを名前だとは言わない。名前を訊いても、キョウだ、と答える。キョウという名の都だ。それだけだ。
俺は峠で、しばらく動かなかった。風が吹いていた。俺は頭の中で、何かを掴みかけていた。掴みかけて、それが、何なのか、わからなかった。キョウ。まっすぐな道。三百年より、古い街。……。俺はそれを繋がなかった。繋げば、答えが出た。俺は繋がなかった。
三度目だ。俺はこれで、三度、答えの手前まで来て、引き返した。海の上で、環を見たとき。窯の町で、落ちたものの話を聞いたとき。そして峠で、都を見下ろしたとき。三度とも、あと一歩だった。三度とも、俺は踏まなかった。なぜか。わからない。いまでも、わからない。だがたぶんこうだ。俺はまだ、見ていなかった。目は、開いていた。だが見ていなかった。見るというのは、目を開けることではない。俺が、それを知るのは、まだ、五年も先の話だ。
都に、入った。門があった。門番がいた。文を見せた。門番は、それを読んで、通した。簡単だった。拍子抜けした。都に入るのは、難しいことだと思っていた。難しくなかった。入るのは、簡単だ。難しいのは、その先だ。俺はそれをまだ、知らなかった。
都は、うるさかった。人が、多い。あまりに、多い。村の全員を集めても、この通りの半分の人数にならない。その人間が、全員、別のことをしていた。物を売っている者。買っている者。運んでいる者。歩いている者。座っている者。誰も、俺を見なかった。港でも、そうだった。だが港の比ではない。港では、誰かが、たまに俺を見た。都では、誰も、俺を見ない。俺はその中を歩いた。歩いて、こう思った。俺はここでは、何者でもない。
村では、俺は強い者だった。尊敬され、恐れられた。道では、俺は旅の者だった。誰も、俺に関心を持たなかった。都では、俺は何でもない。いない者と、同じだ。俺はそれを悪くないと思った。いや。俺はそれを悪くないと思おうとした。実際には、俺はそのとき、初めて、少し、怖かった。
役所に行った。文を出した。役人は、それを読んだ。読んで、こう言った。ミチノのフーシか。俺はそうだ、と言った。役人は、帳面を出して、何かを書いた。それからこう言った。届いた。俺は待った。役人は、それ以上、何も言わなかった。次の者が、後ろに並んでいた。
俺はこう訊いた。これから、どうすればいい。役人は、顔を上げた。俺を見た。それからこう言った。どうもしない。
俺はその言葉を聞いた。どうもしない。俺が、三十六年、言い続けてきた言葉だ。それを都の役人が、俺に言った。
役人は、続けた。文は受け取った。村から若い者が都に来た。それは、記録した。それだけだ。あとはお前の勝手だ。仕事を探すなり、どこかに雇われるなり、好きにしろ。役所は何もしない。役人は、そう言った。悪気は、なかった。そういう仕組みなのだ。俺は頷いた。そして役所を出た。
外は、明るかった。人が、歩いていた。俺はその中に、立っていた。村を出て、四月かかった。四月かけて、ここに来た。来て、どうもしない、と言われた。俺は笑った。声を出して、笑った。誰も、こちらを見なかった。都では、笑っている男は珍しくない。
俺はその日、宿を取った。金は、まだ残っている。村がくれた金だ。だが長くはもたない。ひと月か、ふた月だ。その間に、何かをしなければならない。何を。わからない。だが思った。俺は知りたいことがある。答える者は、いない。なら、俺が、見つける。どうやって。わからない。
その夜、俺は宿の窓から、外を見た。都の空は、明るかった。灯りが多いからだ。星が、見えにくい。環は、見えた。村で見たものと、同じだ。だが少し、高い。俺はそれに、気づいた。気づいて、こう思った。南に来たからだ。南に来れば、あれは、高く上がる。北にいれば、低い。村では、山に沈んでいた。ここでは、真上に近い。
俺はそれをしばらく見ていた。十年ぶりに、まともに見た。いや、二度目だ。海の上で、一度、見た。だからこれで、二度目だ。俺はそれを見て、こう思った。あれは、この星を輪のように、回っている。地球に、輪はない。なかった。……。俺は窓を閉めた。閉めて、寝床に入った。目を閉じた。考えなかった。考えなかったのだ。その夜、俺はよく眠った。
第一部道の奥了