俺は手を止めなかった。止める理由がなかったからだ。臓は時間が経つと、石が溶ける。溶けたら、使えない。だから俺は手を動かしたまま、答えた。俺だ。
工房の親方が、俺の後ろで、何か言った。声が、裏返っていた。俺はそれを聞き流した。女は親方を見なかった。俺を見ていた。しばらく見ていた。それからこう言った。手を止めなくて結構です。
俺は頷いた。女は俺の前に、立っていた。血が、俺の腕から、床に落ちていた。女の履物から、三歩ほどのところに。女は下がらなかった。その布は、汚れたら、たぶん二度と落ちない。それでも、下がらなかった。俺はその時点で、この女が、面倒な相手だと理解した。
女はこう訊いた。骨を先に焼いていると聞きました。焼いている、と俺は答えた。なぜ。効きが、上がるからだ。女は頷いた。それからこう言った。そうではなくて。なぜ、焼こうと思ったのですか。
俺はそこで、初めて、手を止めた。顔を上げた。女を見た。その質問を五年、誰もしなかった。親方は誰に習った、と訊いた。工房の連中は何も訊かなかった。この女はなぜ思いついたのか、と訊いた。
俺はこう答えた。骨には水が入っている。水は、じゃまだ。じゃまなものは抜けばいい。抜くには焼くのが早い。だから焼いた。女は聞いていた。そしてこう言った。水が、じゃま。なぜ、そう思ったのですか。
答えた。血は新しいほど効く。新しい血は水が多い。なら、水は、じゃまではない。だが骨は乾いたものの方が効く。同じ体から出たものなのに、逆だ。なぜか。……骨の中の水と、血の中の水は、違うのかもしれない。あるいは、水が問題なのではなく、水と一緒に何かが抜けるのかもしれない。わからない。わからないが、焼いてみた。効いた。だから使っている。なぜ効くのかは、知らない。
女はしばらく黙っていた。工房は、静かだった。誰も、動いていなかった。俺はそれに、気づいていなかった。女はこう言った。あなたは、いま、三つのことを言いました。
俺は聞き返した。女は指を三本立てた。一つ。効くやり方を見つけた。二つ。なぜ効くかは、知らない。三つ。知らないと、はっきり、言った。女はそこで、少し、間を置いた。それからこう言った。この工房で、三つ目を言える者は、あなただけです。
俺はその意味が、わからなかった。わからない、と俺は言った。女はこう言った。工房の者に、なぜ効くのか、と訊いてごらんなさい。彼らは、答えます。そういうものだから、と。昔からこうしているから、と。教わった通りだから、と。女はそこで、俺を見た。誰も、知らない、とは言いません。
なぜだ、と訊いた。女はこう答えた。知らない、と言うのは、恥だからです。
俺はそこで、黙った。女は続けた。この都では、知らないと言った者は下に置かれます。だから誰も、言いません。知っているふりをします。知っているふりをした者どうしが、集まって話をします。そうやって、三百年、やってきました。女はそう言った。その言い方には、皮肉も、嘲りも、なかった。ただ、事実を述べていた。
あんたは、と俺は言った。あんたは、知っているのか。
工房の親方が、後ろで、息を呑む音がした。俺はそれを聞いた。聞いて、意味が、わからなかった。女は俺を見ていた。しばらく見ていた。それからこう答えた。知りません。
誰が知っている、と俺は訊いた。誰も、と女は言った。嘘だろう、と俺は言った。嘘ではありません、と女は言った。この都に知っている者はいません。三百年、誰も知りません。だからあなたが焼いた骨は、この都で、いちばん新しいものです。
俺はその言葉を聞いた。聞いて、こう思った。俺は五年、無駄にしたと思っていた。やり方を覚えただけで、何もわかっていないと思っていた。だがこの女はいま、こう言った。誰も、わかっていない。俺だけが、わかっていないことを知っている。……それは、進んでいるのか。それとも、同じところにいるのか。俺はわからなかった。
女はこう言った。あなたは、どこの出ですか。ミチノのフーシだ、と俺は答えた。女は頷いた。それからこう言った。よい土地だと、聞いています。
俺はそうか、と言った。女は続けた。人が、まっすぐに育つ、と。俺は頷いた。そうかもしれない、と思った。村の人間は、たしかに、まっすぐだ。嘘をつかない。いや、つく。村長は俺を追い出すのに、まっすぐな嘘をついた。俺はそう考えて、少し、笑いそうになった。笑わなかった。
女はこう続けた。ミチノでは、皆さん、そのようにお話しになるのですか。俺はどのように、と訊いた。女は少し、間を置いた。それからこう言った。……羨ましい。ここでは、そうはいきません。
俺はその言葉の意味が、わからなかった。わからないまま、頷いた。女はそれを見て、何も言わなかった。少しだけ、目を伏せた。それからこう言った。もう一度、来ます。そして、行った。
女が出ていったあと、工房の親方が、俺の腕を掴んだ。力が、入っていた。親方の手が、震えていた。お前、と親方は言った。何をした、と。俺は何もしていない、と答えた。親方は俺を見て、そしてこう言った。あれは、イスカの家だ。
俺はイスカ家、と繰り返した。親方は頷いた。この工房の持ち主だ。持ち主の家の娘だ。名は、リツという。親方はそう言った。それからこう続けた。お前は、あの方に、あんた、と言った。
俺はそうだな、と言った。親方は俺を見た。その顔は、怒っているというより、怯えていた。親方はこう言った。殺されても、文句が言えん。俺はそうなのか、と言った。親方は何も言わなかった。手を離した。離して、離れていった。
俺はその日、工房で、誰にも話しかけられなかった。誰も、俺を見なかった。いや、見ていた。見て、目を合わせなかった。村と同じだ。俺はそう思った。都でも、村でも、同じことが、起きる。俺が、何かをすると、周りが静かになる。
その夜、俺は寝床で考えた。あの女はこう言った。ミチノでは、皆さん、そのようにお話しになるのですか。……羨ましい。ここでは、そうはいきません。俺はその言葉を繰り返した。繰り返して、意味を探した。
羨ましい、と言った。だがあれは、羨ましがっていなかった。あの女は俺の話し方を褒めていない。褒めていないのに、褒める形で、言った。なぜか。……。俺はそこで、わかった。あれは、こういう意味だ。
お前は、口の利き方を知らない。
俺は寝床の上で、しばらく動かなかった。それから笑った。声を出さずに、笑った。俺はあの女に、あんた、と言った。工房の親方は殺されても文句が言えん、と言った。あの女は殺さなかった。殺さずに、こう言った。ミチノでは、皆さん、そのようにお話しになるのですか。……見事なものだ、と俺は思った。あれは、俺を切っている。切りながら、切ったと、悟らせない。俺が気づいたのは、その夜だ。半日、かかった。
あの女は俺をこう見ている。働く。効く。使える。だが口の利き方を知らない。作法を知らない。自分の立場を知らない。血まみれの手で、貴族の娘に、あんた、と言う。……そういう男をこの都では、何と呼ぶのか。俺はその言葉を知らなかった。だがあるはずだ。あるはずの言葉をあの女は使わなかった。使わずに、羨ましい、と言った。
俺はその夜、環を見なかった。寝床から、空は見えない。見ようと思えば、外に出ればいい。俺は出なかった。俺は考えていた。あの女は俺の質問に、正面から答えた。知らない、と答えた。誰も知らない、と答えた。この都で、それを言える者は、少ないのだと、あの女自身が言った。あの女はそれを言った。俺に。初対面の血まみれの田舎者に。……なぜだ。俺はその理由を五年後まで、わからなかった。