部屋は暗かった。窓がない。灯りは、あった。石の灯りだ。錬金の品だろう。だが暗かった。部屋の中央に、何かが、あった。大きい。人の背より高い。木と、金と、石でできている。それが、動いていた。
音は、そこから出ていた。規則正しい音だ。速くもなく、遅くもない。止まらない。ずっと、同じ間隔で、鳴っている。俺はその音を知っていた。前の生で、聞いた。どこで聞いたのかは、思い出せない。だがこの音は、何かが、決まった手順を繰り返している音だ。人が動いている音ではない。人は、こんなに正確には動けない。
俺はその前に、立った。しばらく動かなかった。リツは俺の横に立って、何も言わなかった。俺が見終わるのを待っていた。俺は見ていた。外側の動く部分を見た。歯のついた輪が、いくつも噛み合っている。棒が、上下している。板が、動いている。板には、印がついていた。その印が、動いて、並び替わる。俺はそれをしばらく見て、こう理解した。これは、数を扱っている。
リツが、こう言った。わかりますか。俺は数だ、と言った。リツは頷いた。それからこう訊いた。なぜ、わかりました。俺はこう答えた。印が、並び替わっている。並び替わり方に、決まりがある。同じ形が繰り返し出てくる。だから数だ。……たぶん足している。
リツはしばらく黙っていた。それからこう言った。足しています。それから掛けています。あと、もう少し、複雑なことも。俺は頷いた。リツはこう続けた。工房の者に、この部屋を見せたことがあります。三人です。三人とも、これを見て、こう言いました。立派なものですね、と。リツはそう言った。誰も数だとは、言いませんでした。
俺はこう訊いた。何を計算している。リツはこう答えた。いまは帳面です。俺は聞き返した。リツはこう続けた。この家の金の出入りです。工房の産出。買い付け。売り値。年ごとの動き。人が計算するとひと月かかります。これは、三日で終わります。間違えません。リツはそう言った。それから少し、間を置いた。……くだらない、と思いますか。
俺は少し考えて、こう答えた。思わない。リツは俺を見た。俺は続けた。だがこれは、そのために作られたものではない。
リツは動かなかった。しばらく俺を見ていた。それからこう言った。……なぜ、そう思うのですか。俺はこう答えた。これは、大きすぎる。帳面を三日で終わらせるだけなら、こんなものは要らない。もっと簡単なもので足りる。これは、もっと、別のことができる。できるのにやっていない。それは、たぶんやり方がわからないか、……あるいは、力が、足りないからだ。
リツはそこで、長く、黙った。部屋には、音だけがあった。規則正しい音だ。止まらない。リツはこう言った。力が、足りません。
リツは機械の中央を指した。外の部分ではない。もっと、奥だ。木と金の枠の内側。そこに、何かがあった。俺は近づいた。リツは止めなかった。覗き込んだ。
それは、赤黒かった。拳より、少し大きい。濡れているように見えた。実際濡れていた。そして動いていた。脈打っていた。俺はそれを知っていた。俺は五年、魔物の体を割り続けてきた。だから知っている。
心臓だ、と俺は言った。リツはこう答えた。龍のものです。
俺はその部屋にしばらく立っていた。何も、言わなかった。考えていた。考えたのは、こういうことだ。この機械は、数を扱っている。だがこの機械の中心には、生きた心臓がある。なぜだ。歯車と、棒と、板があれば、数は扱える。心臓は、要らない。……いや。要るのか。
この心臓は、何をしている。わかりません。
俺はリツを見た。リツは続けた。わかりません。誰も、わかりません。わかっているのは、これがないと、動かないということです。外の部分だけを同じように作ったことがあります。三代前です。動きませんでした。心臓を入れると、動きます。入れないと、動きません。それだけが、わかっています。
俺はこう訊いた。心臓を入れると、なぜ動く。リツはこう答えた。わかりません。俺はこう訊いた。なぜ、龍のものでなければならない。リツはこう答えた。わかりません。試したのです。牛の心臓。馬の心臓。魔物の心臓。どれも、動きませんでした。龍のものだけが、動きます。
俺はその、わかりません、を三度、聞いた。三度とも、このリツはまっすぐに言った。俺はこう思った。このリツは知らないことを知らないと言う。この都で、それを言える者は、少ないのだと、このリツ自身が言った。言える者は、少ない。だがこのリツは言える。なぜだ。……。俺はそこで、こう気づいた。このリツは毎日、これを見ている。毎日、動いているものを見ていて、なぜ動くかを知らない。三百年、誰も知らない。このリツの家は、三百年、知らないまま、これを持っている。知らないと言えるようになるまで、このリツは何年、これを見たのか。
俺はこう言った。あんたは、これをいつから見ている。リツはこう答えた。物心ついた頃から。俺は頷いた。リツは続けた。この家の仕事です。これを動かし続けること。それが、うちが七つのうちに入っている、理由です。他の家は、持っていません。リツはそう言った。
俺はこう訊いた。他の家は、欲しがっているのか。リツはこう答えた。欲しがっています。俺はこう訊いた。なぜ、奪わない。リツはこう答えた。奪えば、止まるからです。うちの家の者しか、これを動かせません。やり方を知らないからです。やり方は、書かれていません。人から人へ、伝えています。リツはそう言った。それからこう続けた。だからうちは、まだ、あります。
俺はその説明を聞いていた。聞いて、こう思った。この家は一つの機械の上に立っている。機械が止まれば、家はなくなる。だからこの家は機械を守っている。だが動かし方は知っていても、仕組みは知らない。知らないまま、三百年、動かし続けている。もし、壊れたら。直せない。……このリツはそれを知っている。
俺はこう言った。壊れたらどうする。リツはしばらく俺を見ていた。それからこう言った。
……いい質問です。
リツはこう続けた。三代前に、一度止まりました。半年、止まりました。その半年で、うちは、七つの中で、二番目から、六番目まで、落ちました。落ちた分は、戻っていません。どうやって、直した。直していません。心臓を換えました。
換えた。
つまり、新しい龍を狩ったということだ。俺はこう訊いた。龍はどこにいる。リツはこう答えた。います。多くはありません。だがいます。狩れば、心臓は、取れます。狩るのは、大変です。三代前は二百人で行きました。半分が、死にました。リツはそう言った。その言い方は、乾いていた。
訊いた。その心臓は、どれくらい、もつ。わかりません。いまのもので七十年ほどです。前のものは、百年、もちました。その前は四十年でした。リツはそこで、俺を見た。いつ止まるかは、わかりません。
俺はそこに立っていた。機械は、動いていた。音は、規則正しかった。止まらなかった。だがいつか止まる。いつ止まるかは、誰も知らない。止まれば、この家は、消える。このリツはそれを知っている。知っていて、毎日、これを見ている。
もう一つ、要るな。リツは俺を見た。俺は続けた。もう一つ心臓があれば、片方が止まっても動く。それだけではありません。
リツは機械の前に立った。そしてこう言った。二つあれば、二倍になるのではありません。もっと、上がります。俺はなぜ、と訊いた。リツはこう答えた。わかりません。ただ、そう記録されています。三代前よりもっと前に、二つあった時期があるそうです。そのときの記録が残っています。二つのときは、いまの十倍のことができたそうです。
十倍、と俺は言った。リツは頷いた。それからこう言った。二つあれば、帳面などすぐに終わります。もっと、別のことができます。俺はこう訊いた。別のこと、とは。リツはこう答えた。わかりません。記録にはこうあります。
「星の動きを算えた」と。
俺はそこで、動きが、止まった。
星の動き。俺はその言葉を聞いた。聞いて、頭の中で、何かが、動いた。だがそれが何なのか、わからなかった。リツは俺を見ていた。なぜ、星を。わかりません。記録には、それだけです。なぜ星を算えたのか、算えて何が出たのか、書かれていません。リツはそう言った。くだらない、と私は思っていました。
リツはそこで、少し、間を置いた。それからこう言った。……いまも、そう思っています。星が動いても、この家の順は、変わりません。私が欲しいのは、二つ目の心臓です。二つあれば、計算が速くなります。速くなれば、金が動きます。金が動けば、順が上がります。それだけです。リツはそう言った。まっすぐに、言った。
俺はそのリツを見ていた。そしてこう思った。このリツは正直だ。そしてこのリツは間違っている。……いや。間違ってはいない。このリツの言うことは、全部、正しい。だが何かが、抜けている。何が抜けているのか、俺には、わからなかった。
俺はその部屋を出た。外は、明るかった。夕方だった。俺は空を見た。初めて、自分から、見た。空にはまだ星は出ていなかった。俺はしばらくそれを見ていた。リツが、後ろに立っていた。リツはこう言った。何を見ているのですか。俺はこう答えた。……わからない。リツはそれ以上、何も言わなかった。