俺はその日から、記録を読ませてくれ、と言った。リツは少し、驚いた顔をした。驚いた顔を初めて見た。なぜ、と訊かれた。答えた。星の動きを算えた、と書いてあるんだろう。なら、それを読みたい。
リツはこう言った。読めますか。俺はその意味が、最初、わからなかった。リツは続けた。古い記録はいまの字と違います。俺はこう言った。見てみないと、わからない。リツは少し、考えた。それからこう言った。……いいでしょう。
記録は別の部屋にあった。機械の部屋の隣だ。棚がある。棚に、巻いたものと、綴じたものが並んでいる。多くはない。村の家の二つ分の広さもない。これが、三百年分か、と俺は言った。リツはこう答えた。三百年分ではありません。残っている分です。
俺は古いものから、順に見ていった。リツの言った通りだった。字が、違う。いまの字は、線が少ない。古い字は、線が多い。だが——読める。
読めた。なぜ読めたのかは、その場では、わからなかった。俺はこの世界の字を覚えている。工房でも帳面をつけるのに覚えた。五年だ。その五年で覚えた字と、目の前の古い字は、確かに、違う。違うのに、読める。俺はその理由をしばらく考えなかった。読めるのだから読めばいい。そう思って、読んだ。
記録はつまらなかった。金の出入りだ。どこそこの家から、いくら受け取った。どこそこに、いくら払った。人が死んだ。人が生まれた。工房を建てた。工房が焼けた。そういうことが、延々と書いてある。俺はそれをひと月、読んだ。毎日、狩りと工房の合間に、この部屋に来た。リツは時々、来た。来て、俺が読んでいるのを見ていた。何も言わなかった。
ふた月目に、古い層に届いた。棚のいちばん奥だ。埃が、厚い。そこにあるものは、綴じ方が、違った。紙も、違う。俺はそれを開いた。
字が、また、違った。線がもっと多い。そして俺はそこで、手が、止まった。
読める。さっきより、はっきり、読める。新しい字より、古い字の方が俺には読みやすい。……なぜだ。俺はそこで、初めて、その問いを立てた。立てて、答えがすぐに出た。俺は前の生で字を読んでいた。その字に、これは、近い。……。俺はその紙を持ったまま、動かなかった。
字は、崩れていく。三百年で、崩れる。線が減る。形が丸くなる。だからいまの字は、簡単だ。古い字は、複雑だ。俺は複雑な方を知っている。なぜなら、俺の生きた時代の字が、それだからだ。……。俺はその部屋に一人で座っていた。埃が、光の中で、動いていた。俺はこう思った。この字は、俺の国の字だ。……この国は、俺の国だ。俺は五年、都にいて、いま、初めて、それを確かめた。
いや。確かめてはいない。俺は十五年前に、星を見て、地球だと知った。知っていた。ずっと、知っていた。知っていて、確かめようとしなかった。いま、確かめた。それだけだ。
俺はその古い綴じ物を読んだ。三日かかった。中身は、やはり、記録だ。だが少し、違った。この時代の記録は金の話が少ない。代わりに、こういうことが書いてある。どこそこで、人が変わった。どこそこで、獣が変わった。どこそこの土が、変わった。変わった、という言葉が何度も出てくる。何が変わったのかは、書いていない。書く必要がなかったのだと思う。書いた者にとって、それは、日常だった。
そしてこういう記述が、あった。
「機、二基。星ノ運行ヲ算ス。」
俺はそこで、手が止まった。機が、二つあった。いや。二基、というのは、心臓が二つ、ということかもしれない。どちらでもいい。二つあった。そして星の運行を算えた。リツが言った通りだ。俺はその先を読んだ。その先に、こうあった。
「東京ノ記録ヲ待ツモ、至ラズ。」
俺はその七文字を見た。しばらく見ていた。トウキョウ。東の京。
……。
俺はその部屋で、動かなかった。どれくらい、動かなかったのか、わからない。埃が、光の中で、動いていた。外から、機械の音が、聞こえていた。規則正しい音だ。止まらない。
この都を人は、キョウと呼ぶ。キョウ、というのは、都、という意味だと俺は思っていた。誰もが、そう使う。キョウに行く。キョウから来た。だからそれは、名前ではなく、意味だと思っていた。だが違う。これは、名前だ。京。都、という意味の名前だ。この街の名は、京だ。
そして東に、もう一つ、京がある。東京。東の京だ。
俺はそこで、息を吐いた。自分が、息を止めていたことに、そのとき、気づいた。
トキ。俺はその言葉を五年前に、聞いた。宿場で、商人が、笑いながら言った。トキには行くな、と。俺はそれが何かを訊いた。東の土地だ、と言われた。地面が抜ける、と言われた。昔、大きな町があったらしい、と。名前かと訊いたら、こう言われた。さあ。トキは、トキだ。
トウキョウ。トウキョウ。トーキョー。トキ。
俺はその部屋で、声を出さずに、笑った。笑って、それから笑うのをやめた。やめて、しばらく座っていた。
俺は五年、その言葉を頭の隅に置いていた。置いていて、一度も、触らなかった。触れば、わかった。あの宿場の夜に、わかった。いや、わからなかった。あの夜の俺はキョウが京だと、知らなかった。知らなければ、繋がらない。俺はいま、繋いだ。五年かかった。……。いや。五年ではない。俺は二十年、繋がなかった。俺は十五年前に、この星が地球だと知った。知っていて、この国が日本だと、確かめなかった。確かめれば、地名は全部繋がった。フーシ。あれは、なんだ。……フクシマ。ミチノ。……ミチノク。エチ。……エチゴ。全部、そこにあった。俺が、聞かなかっただけだ。
俺はその日、家に帰らなかった。記録の部屋に座っていた。夜になった。誰かが、灯りを持ってきた。リツだった。リツは灯りを置いて、俺の向かいに、座った。何も、言わなかった。俺も、言わなかった。
しばらくして、リツが、こう言った。何を見つけましたか。
俺はその紙をリツに見せた。リツはそれを見た。東京、という字を。リツはこう言った。読めません。俺はこう言った。トウキョウ、と読む。リツは俺を見た。俺は続けた。東の京だ。この都が、京だ。東に、もう一つ、京がある。リツはこう言った。……この都の名は、京、なのですか。俺はそうだ、と言った。リツはしばらく黙っていた。それからこう言った。知りませんでした。
俺はその言葉を聞いた。このリツはこの都で、五番目の家の娘だ。機械を守る家の娘だ。そのリツが、自分の住んでいる都の名を知らない。誰も、知らない。三百年、誰も、知らない。俺だけが、知っている。……。俺はそのとき、初めて、自分が何者かをはっきりと理解した。俺はこの世界で、たった一人の外の人間だ。
リツはこう訊いた。東の京は、いま、どうなっていますか。俺はこう答えた。トキだ。リツは聞き返した。俺は続けた。東の行ってはいけない土地。地面が抜ける。昔、大きな町があった。誰も、行かない。リツはこう言った。……そこに、記録が、あるのですか。
俺はその紙を指した。「東京ノ記録ヲ待ツモ、至ラズ。」俺はこう言った。三百年前、この機械を動かしていた者は、東京から、何かが届くのを待っていた。届かなかった。だから書いた。……待っていた、ということは、あるはずだと思っていた、ということだ。あるはずだと思っていたものが、届かなかった。届かなかったものは、まだ、そこにある。
リツは俺を見ていた。俺はこう言った。行く。
リツは何も言わなかった。俺は続けた。誰も行かない。三百年、誰も行っていない。なら、そこには、全部、残っている。地面が抜けるなら、下がある。下に、あるはずだ。リツはこう言った。死にます。俺はこう答えた。死ぬかもしれない。
リツは長く、黙っていた。灯りが、揺れていた。それからこう言った。なぜ、行くのですか。
俺はその質問に、答えようとした。答えられなかった。俺はこう言った。……わからない。リツは俺を見ていた。俺は続けた。だが行く。俺が、決めた。
俺はその言葉を口に出して、そして少し、驚いた。俺が、決めた。三十六年で、二度目だ。一度目は、都に行くと決めたときだ。いや、あれは、村に出されただけだ。俺は決めていない。……。なら、これが、初めてだ。俺は生まれてから、初めて、自分で、行き先を決めた。
リツはこう言った。……止めません。それからこう続けた。ですが、条件があります。俺は何だ、と訊いた。リツはこう言った。持ち帰ったものは、すべて、この家のものです。俺は少し、考えた。そして。いいだろう。
俺はその夜、外に出た。空を見た。自分から、見た。二度目だ。星が、出ていた。オリオン座が出ていた。十五年前に村で見たものと同じ形だ。同じ場所にある。同じ角度で、傾いている。俺はそれをしばらく見ていた。そして環を見た。真上に、あった。銀色の帯が、空を横切っていた。俺はそれを見た。
地球に、環はない。俺はそう思った。十五年、その言葉を頭の隅に置いていた。いま、俺はそれを口に出した。声に出して、言った。誰もいない庭で。
「地球に、環はない」
……。
俺はそこで、動きが、止まった。止まって、こう思った。
……月は、どこだ。