月はどこだ。俺はその問いを立てた。立てて、答えを探した。探して、三日で、答えが出た。簡単な話だ。俺はそれを十五年、避けていた。避けていたから、時間がかかった。向き合えば、三日だった。
地球には月がある。俺はそれを知っている。夜に、白い大きなものが空に出る。満ちて、欠ける。俺は前の生で、それを見なかった。見なかったが、知っている。知らないはずがない。誰でも知っている。
この世界の空に、月はない。十五年見ていない。いや、二十年だ。俺が生まれてから、一度も出ていない。誰も月の話をしない。村でも、都でも、聞いたことがない。月という言葉が、この世界には、ない。……いや。ある。
俺はそこで、気づいた。村の年寄りが、言っていた。輪廻の話をするときに、こう言っていた。
「月が割れたときに、そういう仕組みができた」
俺はそれを聞いていた。子供の頃から、何度も、聞いていた。
月が割れた。
……月が、割れた。
俺はそこで、しばらく動かなかった。月は、あった。割れた。割れたものは、どこに行った。……。俺は空を見た。昼だった。だが環は、うっすらと、見えた。銀色の帯が、空を横切っていた。俺はそれを見た。
あれが、月だ。
俺はその場に座り込んだ。工房の裏の石の上だ。俺はそこに、座った。息が、うまく、できなかった。
俺は五歳のときに、あれを見た。美しい、と思った。それから十五年、あれを見上げるたびに、美しい、と思った。海の上で見た。都の空で見た。美しい、と思った。
あれは、月の死体だ。
俺は十五年、月の死体を美しいと思っていた。
俺はその日、工房に行かなかった。狩りにも、行かなかった。石の上に、座っていた。日が暮れるまで、座っていた。考えていたのは、こういうことだ。月が割れた。割れた破片が、環になった。残りは、地面に落ちた。落ちた場所の土が、変わった。変わった土から、石が取れる。石を使うと、魔法と同じことができる。どこの土も、多少は、変わっている。……つまり、破片は、どこにでも、落ちた。濃いか、薄いかの違いだけだ。
そして獣が、変わった。魔物になった。人も、変わった。魔法が、使えるようになった。……。いや、違う。俺はこう考え直した。魔法は、新しく生まれたのではない。それなら、なぜ都の連中も、俺も、誰も、仕組みを知らない。新しく生まれたものなら、生まれた瞬間を誰かが見ている。誰も、見ていない。三百年、誰も知らない。……。なら、こうだ。魔法は、元から、あった。あって、見えなかった。月が割れて、見えるようになった。……。俺はその考えに、辿り着いて、そして動けなくなった。
ずっと、そこにあった。誰も、見なかっただけだ。
俺はその夜、遅くまで、石の上に座っていた。寒くはなかった。夏だった。俺は空を見上げた。環が、あった。星が、あった。俺はそれを見ていた。初めて、まともに、見ていた。
リツが、来たのは、その三日後だ。
工房に来た。俺は獲物を割っていた。いつも通りだ。リツはこう言った。話があります。
部屋に通された。例の何もない部屋だ。リツは座って、こう言った。龍を狩ります。
俺は頷いた。リツは続けた。二つ目の心臓が、要ります。いまの心臓は、七十年、動いています。いつ止まるか、わかりません。止まれば、家がなくなります。だからその前に、狩ります。リツはそう言った。それからこう続けた。あなたに、行ってもらいます。
俺はいつだ、と訊いた。リツはこう答えた。支度に一年かかります。人を集め、装備を作り、道を調べ、龍の居場所を確かめます。三代前は、二百人で行きました。半分が、死にました。今度はそれを減らしたい。リツはそう言った。
訊いた。俺が行けば、減るのか。リツはこう答えた。わかりません。龍を見たことがある者は、生きていません。記録はあります。記録では、大きい、としか書いていません。リツはそう言った。それからこう続けた。
ですが、あなたは、強い。この都で、いちばん強いと思います。だから行ってもらいます。
俺はその言葉を聞いた。聞いて、こう思った。村と同じだ。強いから、行かされる。俺は村で、そうやって生きてきた。都でも、同じだ。俺は道具だ。……。俺はそのことに、腹を立てなかった。いつも通りだ。だが俺は言った。
その前に、東京に行く。
リツは俺を見た。しばらく見ていた。それからこう言った。順序が、逆です。
俺はなぜ、と訊いた。リツはこう答えた。龍を狩れば、心臓が、二つになります。二つになれば、機械の力が上がります。力が上がれば、東京に何があるかも算えられるかもしれません。だから龍が、先です。リツはそう言った。筋は、通っていた。
俺はこう言った。通らない。リツは俺を見た。俺は続けた。機械は、数を扱う。数を扱うには、数を入れなければならない。入れる数がなければ、何も出ない。東京に何があるかを機械は、算えられない。東京の数を誰も持っていないからだ。
リツはそこで、黙った。俺は続けた。あんたの家の記録に、こうあった。東京の記録を待つも、至らず。三百年前の連中は、機械を二つ持っていて、それでも、東京の記録を待っていた。算えられなかったからだ。行くしかなかったからだ。……三百年前に、算えられなかったものをいま、算えられるはずがない。
リツは長く、黙っていた。それからこう言った。……そうですね。間が、あった。俺はその間を覚えている。
リツはこう言った。ですが、あなたが東京で死ねば、龍は狩れません。俺はこう答えた。俺が龍で死ねば、東京には行けない。同じことだ。リツはこう言った。同じではありません。龍は一年後です。あなたが死んでも、一年、支度があります。その間に、別の者を探せます。東京は、いま、あなたしかいません。リツはそう言った。それからこう続けた。だから東京の方が、危ない。
俺はその理屈を聞いた。このリツは俺を失う話をこういう形でする。俺が死ぬかどうかではない。俺が死んだとき、代わりが利くかどうかだ。俺はそれを聞いて、こう思った。正しい。このリツは正しい。俺は道具だ。道具は代わりが利くかどうかで、扱いが決まる。
俺はこう言った。なら、一年待つ理由がない。龍の支度に、一年かかる。その一年、俺は何をする。狩って、工房で働いて、待つのか。一年待つなら、その間に行ける。
リツは俺を見ていた。俺は続けた。東京まで、片道ひと月だ。滞在を含めて、三月。戻ってくる。支度には、間に合う。
リツはこう訊いた。戻れますか。俺はこう答えた。わからない。リツはこう言った。……なぜ、行くのですか。三日前も、その前も、同じことを訊きました。あなたは、わからない、と答えました。いまも、わからないのですか。
俺は少し、考えた。そしてこう答えた。わかる。
リツは待った。俺はこう言った。この空には、月がない。
……つき。
俺は頷いた。
それは、何ですか。
俺はその質問を聞いた。聞いて、しばらく答えられなかった。このリツは月を知らない。言葉も、知らない。この世界には、月という言葉が、残っていない。残っているのは、村の年寄りの輪廻の話の中だけだ。「月が割れたときに」あれだけだ。その言葉が、何を指すかを誰も知らない。
俺はこう言った。あそこにある、あの環は、昔、一つの塊だった。空に、浮かんでいた。白くて、大きくて、丸かった。俺はそれを知っている。リツはこう訊いた。なぜ、知っているのですか。
俺はそこで、黙った。言うか、言わないかを考えた。言えば、このリツは俺をどう扱うか。……。俺はこう言った。俺は前にも、生きていた。
リツは俺を見ていた。長く、見ていた。それからこう言った。……輪廻ですか。俺は頷いた。リツは少し、間を置いた。それからこう言った。田舎の話ですね。
俺はその言い方に、少し、笑った。このリツは輪廻を信じていない。母は信じていた。母は俺を一言で、言い当てた。このリツは信じていない。だからこのリツは俺の言葉を信じない。……。俺はそう思った。思って、こう言われた。
リツはこう言った。ですが、あなたは、東京、と読みました。
俺は顔を上げた。リツは続けた。誰も読めない字をあなたは読みました。この都の名をあなたは、知っていました。私は知りませんでした。私の父も、兄も、知りません。三百年、誰も、知りません。……あなたは、知っている。リツはそう言った。それからこう言った。私は輪廻を信じません。ですが、あなたが知っていることは、事実です。事実は、信じます。
俺はその言葉を聞いた。聞いて、こう思った。このリツは俺を信じたのではない。このリツは俺の言葉を確かめて、それが正しかったから、使うと決めた。信仰ではない。計算だ。……。俺はそれを悪くないと思った。
リツは立ち上がった。そしてこう言った。行きなさい。三月です。三月で、戻ってきなさい。持ち帰ったものは、すべて、この家のものです。リツはそう言った。それから扉のところで、止まった。振り返らずに、こう言った。
……その月というものを私も、見たかった。
リツは出ていった。俺はその部屋に、一人で、残った。外から、機械の音が、聞こえていた。規則正しい音だ。止まらない。俺はそれをしばらく聞いていた。