月のない空   作:朝凪小夜

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第二十一話 塩

 

 水が塩辛かった。俺はそれに二日目に気づいた。落ちた日は気づかなかった。水を飲まなかったからだ。俺は水を持っていた。だから飲む必要がなかった。二日目に、持っていた水が減った。減ったので足元の水を掬った。舐めた。塩辛かった。

 

その場に座り込んだ。ここは、海ではない。海から、遠い。いや。遠いのか。俺は東京が、海の近くだったかどうかを知らない。……知らない。俺は前の生で、東京に行ったことがない。行ったことがないのに、知っている。地下鉄があり、道が黒く、まっすぐで、たくさんの人がいた。それだけを知っている。海が、近かったかどうかは、知らない。

 

だが水は、塩辛い。塩辛い水が、地下に流れ込んでいる。なら、海は、近い。近くて、しかも、ここより、高い。水は、上から下に流れる。海が、ここより高いから入ってくる。……。俺はそこで、こう思った。ここは、昔、海より、高かったはずだ。街があったのだから。街の下に、地下鉄があった。水が入ってきたら、街は、使えない。なら当時、ここは、海より、高かった。いまは、低い。……三百年で、下がったのか。それとも、海が、上がったのか。

 

俺はその問いを頭の中に、置いた。置いて、答えを探さなかった。探しても、出ないからだ。俺はいま、地下にいる。食い物が、十日分ある。水は、飲めない。まず、それをどうにかしなければならない。

 

水はしばらくして見つかった。天井から、落ちてくる。滴っている。それは塩辛くなかった。雨だ。上からしみてきている。俺はそれを器で受けた。一日で、二口ほど、溜まる。足りない。全く、足りない。

 

俺は線路を歩いた。線路はまっすぐだ。まっすぐだが時々、曲がる。そして分かれる。分かれ道があった。俺はそこで、迷った。どちらに行くか。

 

……。考えた。俺は街の中心に行きたい。中心には、何かがあるはずだ。街は中心に物を集めるからだ。なら、どちらが、中心か。……わからない。俺はしばらくそこに立っていた。

 

そしてこう気づいた。水が、流れている。わずかだが流れている。海の水が、入ってきているなら、それは、低い方に、溜まる。流れているということは、まだ、流れ込んでいる、ということだ。……なら、流れの上流に行けば、海から、遠ざかる。下流に行けば、海に、近づく。海に近い方が、街の中心か。……。わからない。だが俺は下流を選んだ。深い方に、行く。深い方に、街の下が、ある。

 

三日目に、魚を見た。

 

水の中にいた。白かった。指ほどの大きさだ。俺はそれをしばらく見ていた。魚には、目がなかった。あるべきところに皮膚がある。ただ皮膚が、少し、へこんでいる。昔、目だったところだ。……三百年だ。三百年、暗闇の中で、目を使わなかった。だからなくなった。

 

俺はその魚を捕った。簡単だった。魚は、俺が近づいても、逃げなかった。見えないからだ。俺は水に手を入れて、掬った。何匹も捕れた。

 

俺は火を熾した。地下で火を熾すのは簡単だった。俺は何もなくても熾せる。ただ、燃やすものが要る。俺は荷から布を出した。濡れていたが、乾かして、燃やした。布は、すぐになくなった。次に、木を探した。地下に木はあった。どこかから流れてきたものだ。あるいは、天井から落ちてきたものだ。俺はそれを集めた。集めて、燃やした。火が燃えた。

 

俺はその火を見ていた。地下の暗闇の中で、火が燃えていた。線路が、光に、照らされていた。壁が、天井が、照らされていた。思った。この場所に、火が灯るのは、三百年ぶりだ。

 

俺は魚を焼いた。串に刺して、火にかけた。焼けた。食った。……まずかった。だが食えた。毒ではなかった。少なくとも、腹は壊さなかった。俺はそれをその日から、毎日、食った。

 

水は天井の滴りと魚から取った。魚の中には水がある。塩辛くない水が。だから魚を食えば、水も取れる。足りないが死なない程度には取れた。俺はそうやって地下で生きた。

 

魔物もいた。

 

最初に会ったのは五日目だ。白かった。目がなかった。魚と同じだ。だが大きい。犬ほどある。脚が六本あった。それが水の中から出てきた。俺はそれを殺した。

 

殺すのは簡単だった。目がないからだ。こいつは音で俺を探す。だから音を消せばいい。俺は動かなかった。動かずに待った。そいつは俺のすぐ横を通った。俺はそのまま、殺した。そいつは、最後まで、俺を見つけられなかった。

 

俺はそれを食った。まずかった。だが魚より量があった。俺はそれを焼いて、食った。骨は捨てなかった。工房の癖だ。骨は、いい素材になる。俺はそれを荷に入れた。なぜ入れたのかは、わからない。都に持ち帰れるかもわからない。だが入れた。入れて、また歩き出した。

 

俺はそれからしばらく歩いた。しばらくというのは、正確ではない。俺は日数を数えなくなった。

 

地下には昼も夜もない。空がないからだ。俺は眠くなったら寝た。起きたら歩いた。腹が減ったら、魚を捕った。それを繰り返した。何度繰り返したか、俺は数えなかった。数えようと、思わなかった。……いや。最初は、数えていた。一日、二日、三日。五日目に、魔物を殺した。そこまでは、覚えている。その先を覚えていない。

 

なぜ、数えなくなったのか。わからない。たぶん意味が、なかったからだ。地下では、何日目かを知っても、何も変わらない。俺は進むか、止まるかしかない。止まれば、死ぬ。だから進む。それだけだ。

 

俺はそのとき、こう思った。俺は地上でも同じだった。村で、十五年。都で、五年。俺は日を数えていなかった。起きて、狩って、寝た。起きて、働いて、寝た。それを繰り返した。俺の三十六年は、いま、この地下と、同じだ。昼も、夜も、なかった。俺はその中をただ、歩いていた。

 

俺はその考えに、しばらく立ち止まった。線路の上で、立ち止まった。灯りが、俺の足元を照らしていた。それより先は、暗かった。俺はその暗さを見ていた。そして、こう、思った。

 

……俺はずっと、ここにいた。

 

俺はまた、歩き出した。

 

地下は広かった。線路は、何度も、分かれた。俺はそのたびに水の流れを見た。そして深い方を選んだ。選び続けた。地下は下るほど、深くなった。深くなると、水が増えた。腰まで浸かる場所があった。胸まで浸かる場所があった。泳がなければ進めない場所もあった。俺は荷を頭の上に載せて泳いだ。灯りは、消えなかった。石の灯りは水に強い。リツはいいものを渡してくれた。

 

途中でいくつも部屋があった。線路から階段が上に伸びている。登ると、広い場所に出る。柱が、たくさんある。壁に、板が、貼ってある。板には、字が、書いてあった。

 

読めた。俺はそれを読んだ。字は、薄れていた。だが、読めた。

 

地名だ。俺はその地名を知らなかった。だが字は、読めた。読めて、それが、地名だとわかった。俺はその板をしばらく見ていた。三百年前、人が、ここに立って、この板を見ていた。見て、どこに行くかを決めていた。毎日、何万人も。

 

いまは、誰も、いない。俺だけだ。俺はその板の前に立っていた。灯りを持って、立っていた。俺の影が、床に伸びていた。俺はその影を見た。それから階段を降りた。線路に、戻った。また、歩き出した。

 

俺はそのとき、二十一になっていたはずだ。だが俺はそれを知らなかった。日を数えていなかったからだ。俺は地下の暗闇の中で、前の生の自分の年を越えた。越えたことに、気づかなかった。何も、起きなかった。俺はただ、歩いていた。

 

……いま、これを書いていて、思う。あれは、たぶんいちばん、俺らしい。俺は自分が死ぬはずだった年を暗闇の中で、気づかずに、通り過ぎた。誰も、祝わなかった。誰も、知らなかった。俺自身も、知らなかった。

 

そしてしばらく歩いて、俺はそれを見つけた。

 

線路が、途中で、消えていた。崩れている。天井が落ちている。その先は、瓦礫だ。進めない。俺はその瓦礫を見た。そして上を見た。天井に穴が開いていた。崩れた穴だ。その穴の向こうに、何かが、あった。俺は灯りを上に、向けた。光が、届いた。

 

建物だ。

 

俺はその光の中に、それを見た。地下鉄の天井を突き破って、上から、何かが、落ちてきている。いや、違う。落ちてきたのではない。沈んだのだ。地上にあった建物が、地面ごと、沈んだ。沈んで、地下鉄の中に、突き刺さっている。見上げた。高い。どこまで、続いているのか、見えない。灯りの光が、届かない。

 

俺はその建物の割れ目に、手をかけた。登れる。俺はそう判断した。判断して、登り始めた。なぜ登るのか、俺は考えなかった。考えなかった、のではない。考える必要が、なかった。俺はここに、何かを探しに来た。目の前に、建物がある。なら、入る。それだけだ。

 

俺は登った。三百年前の建物の中に、入った。

 

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