月のない空   作:朝凪小夜

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第二十二話 入口

 

 建物の中は傾いていた。床が斜めだ。三十度ほど傾いている。沈むときに、傾いたまま固まったのだと思う。俺はその斜めの床を登った。壁が床のようになっている場所もあった。窓があった。割れている。その向こうは土だ。黒い土が詰まっている。この建物は地面の中に、刺さっている。

 

上に登った。階段があった。斜めだが使えた。俺はそれを登った。一つ登ると、また、部屋がある。部屋には、何もない。いや、ある。金属が、ある。骨組みだけの机のようなもの。棚のようなもの。だが木は、ない。布も、ない。紙も、ない。全部、なくなっている。

 

三百年で、燃えないものは、残る。燃えるものは、残らない。いや、燃えたのではない。朽ちたのだ。水が入り、虫が入り、黴が入り、消えた。紙は、いちばん先に、消える。だから——

 

だから記録は、残っていない。俺はそこで、足を止めた。止めて、考えた。俺は三百年前の記録を探しに来た。だが紙は、残らない。残らないものを探しに来た。……。俺はその場に、しばらく立っていた。灯りを持って、立っていた。そしてこう思った。いや。残る場所も、ある。乾いていれば、残る。

 

俺は上に、登った。水は、下にある。上に行くほど、乾いている。俺はそう考えた。登った。四つ、階を登った。登るごとに、乾いた。五つ目の階で、床が、乾いていた。完全に、乾いていた。

 

俺はその階を歩いた。部屋がいくつもあった。どの部屋にも何もなかった。金属の骨組みだけがあった。それを六つ見た。七つ目の部屋の入口で、俺はそれを踏んだ。

 

足の裏に、感触があった。柔らかくない。硬くもない。俺は灯りを下げた。床を照らした。そこに、何かが、落ちていた。

 

束だ。紙の束だ。厚い。俺はそれを見た。しばらく見ていた。それからしゃがんだ。触った。崩れなかった。

 

紙は、変色していた。茶色い。端は、欠けている。だが束として、残っていた。紐のようなもので、綴じてある。紐は、切れていた。だが束は、崩れていなかった。三百年、そこに、あった。

 

俺はその束を持ち上げた。軽かった。思っていたより、軽かった。俺はそれを灯りに、近づけた。最初の一枚を見た。

 

字が、あった。

 

俺はその場に、座り込んだ。斜めの床の上に座り込んだ。灯りを床に置いた。そしてその束を膝の上に、載せた。俺は一枚目を読んだ。

 

読めた。

 

俺はそのまま、二枚目を読んだ。三枚目を読んだ。俺はそれからどれくらい、そこにいたのか、わからない。灯りが、一つ、消えた。俺は二つ目を点けた。そして読み続けた。

 

書いてあることはここでは書かない。あとで書く。全部、書く。いま書きたいのは、そこではない。俺はしばらく読んだ。読んで、途中で、手が、止まった。

 

 

この束は、なぜ、ここに、あるのか。

 

 

俺はそれを部屋の入口で踏んだ。入口だ。扉のあった場所のすぐ内側だ。書きものは、机でする。俺は都の記録の部屋でそうしていた。机に向かって、書く。書いたものは机の上に置く。あるいは、棚にしまう。入口の床に置く者はいない。

 

なら、なぜ、ここにあるのか。落としたのか。持って出ようとして、落としたのか。……。いや。俺はその束を見た。紐が切れている。だが束は崩れていない。崩れていないということは束はまとめて動いた、ということだ。落としたなら、散らばる。散らばらずに、ここにある。

 

……。

投げたのだ。

 

誰かが、これを束ねて、入口に向かって、投げた。なぜか。

 

……誰かが、入ってくるかもしれないからだ。入ってきた者が、最初に、目にする場所。

それが、入口だ。机の上では、気づかれないかもしれない。棚の中では、見つからないかもしれない。だが入口の床なら、踏む。踏めば、気づく。……。俺はそれを踏んだ。三百年後に。

 

俺はその束を持ったまま、動かなかった。そして次に、こう考えた。

 

投げた者は、誰だ。……これを書いた者だ。書いた者が、書き終えて、それを入口に、投げた。なぜ、投げた。持って出ればいい。外に出て、誰かに、渡せばいい。なぜ、投げた。

 

……。

出られなかったからだ。

 

俺は灯りを掴んだ。立ち上がった。そして部屋の奥を照らした。

 

部屋は、広かった。俺はそれまで、入口に座っていた。だから奥を見ていなかった。灯りは、床に、置いていた。床に置いた灯りは、遠くを照らさない。俺はそれを持ち上げた。持ち上げて、奥に、向けた。

 

机が、あった。 

 

金属の机だ。骨組みではない。板が、残っている。金属の板だ。三百年、残っていた。その机の手前に、椅子があった。金属の椅子だ。倒れていない。机に、向かっている。

 

その椅子の周りに。

 

俺は灯りを近づけた。近づけて、それを見た。

 

白かった。

 

床に、散らばっていた。細いものは、崩れていた。粉のようになっていた。だが大きいものは、形が、残っていた。俺はそれを見た。太い、長い骨。それが、二本。その上に、丸いものが、あった。俺はそれを見た。

 

頭だ。

 

俺はその前に、立っていた。灯りを持って、立っていた。動けなかった。

 

顔は、なかった。当たり前だ。三百年だ。皮も、肉も、目も、髪も、ない。骨だけが、ある。その骨も、崩れかけている。触れば、たぶん粉になる。

 

俺はそれを見ていた。そして他のものも、見た。

 

骨の上に、何かが、被さっていた。布のようなもの。だが布ではない。色が、抜けている。薄い。膜のようだ。だが繊維が、見える。俺はそれに、触れた。崩れなかった。……不思議だ、と思った。村の布なら、三年で、朽ちる。これは、三百年、残っている。これは、俺の知らない布だ。いや。俺は知っている。前の生で、着ていた。

 

金属の小さいものが、落ちていた。いくつも。丸い。留め具だ。服の留め具だ。それから細長い、金属。歯が、ついている。噛み合わせて、留めるものだ。俺はそれも、知っていた。

 

そして。

 

頭のそばに。

 

輪が、二つ、あった。金属の細い輪だ。二つが、繋がっている。その輪の中に、透明なものが、入っていた。割れていない。汚れているが、割れていない。

 

 

眼鏡だ。

 

俺はその場に、立っていた。立って、それを見ていた。顔は、ない。目は、ない。だが眼鏡が、ある。三百年、そこに、落ちたまま。

 

俺はそこで、灯りを持つ手が、震えた。震えていることに、しばらく気づかなかった。

 

俺はその男の前に、立っていた。この男は机に、向かっていた。書いていた。書き終えた。そしてそれを入口に、投げた。投げて、机に、戻った。戻って、そのまま、動かなかった。

 

俺はそれを理解した。理解して、こう思った。

 

この男は自分の書いたものを自分から、遠ざけた。

 

自分のそばに、置かなかった。置けば、自分と一緒に、朽ちるからだ。だから離した。できるだけ、遠くに。入口に。……誰かが、入ってくる場所に。

 

俺はその束を持っていた。膝の上に、載せていたものをいま、手に、持っていた。軽かった。三百年前の紙の束だ。俺はそれを見た。それから机の方を見た。

 

俺はそこに、座った。骨の隣に。斜めの床の上に、座った。灯りを置いた。そしてその束を開いた。

 

俺はその男の隣で、それを読んだ。

 

 

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