書いてあったことを順に、書く。俺の言葉で、書く。あの束の言葉をそのまま写すことはしない。できないからだ。俺はあれを都に持ち帰った。持ち帰って、女に渡した。だからいま手元にない。だが俺は覚えている。全部、覚えている。十六年、忘れたことがない。
束は二つに分かれていた。いや、二つの書き方が混ざっていた。一つは、記録だ。番号が振ってある。短い。言い切っている。もう一つは、そうではない。囲みの中に、書いてある。あるいは、紙の裏に。あるいは、余白に。そちらは、記録では、なかった。
そしてその記録でない方の頭には、必ず同じ一行があった。毎回だ。何十回も、同じ一行が、書いてあった。俺は最初、それが何なのかわからなかった。読み進めて、わかった。その話はあとでする。
記録の方から、書く。
月が砕けた。外から何かが当たった。当たったものが何であったかは書かれていない。わからなかった、と書いてある。わからないことは、わからない、と書いてある。そしてこうも書いてある。避けられなかった。誰にも避けられなかった。わかっていても、避けられなかったし、わかっていなかった。
砕けた月は、二つに分かれた。一つは、地上に落ちた。もう一つは、地上に落ちず、この星の周りを回り続けている。輪になった。それが環だ。俺が、二十年、美しいと思っていたものだ。その質量については、詳しく書いてあった。俺には、半分もわからなかった。だが結論は、わかった。環の方が、地上に落ちた分より多い。……つまり、まだ、落ちてくる。三百年で終わりではない。
地上に落ちた破片は土を変えた。どこに落ちたかで、濃さが、違う。濃いところと、薄いところがある。だが薄いところでも、ゼロではない。この星のどこにも少しは落ちた。……窯の町の男が、言っていた通りだ。どこの土でも多少は出る。あそこは、濃い。だからあそこを掘る。
そして。
物理法則が、変わった。
この言葉は、俺の言葉ではない。書いてあった言葉だ。俺はその言葉を知っている。前の生で、聞いた。どこで聞いたのかは、覚えていない。だが意味は、わかる。この世界が、どう動くかの決まりだ。その決まりが、変わった。
だがこの男はその直後にこう書いていた。
「変わった」は、正確ではない。変わったのではない。これまで、観測できなかったものが、観測できるようになった。……そう解すべきである。
この男はそう書いていた。そしてその根拠を七つ挙げていた。俺には、四つしかわからなかった。だがこの男はこう書いていた。これは推測ではない。証拠がある。証拠は、別紙にある。……別紙は、なかった。朽ちたのか、失われたのか。だがこの男は「ある」と書いた。
俺はその一行を読んで、そこで、しばらく動かなかった。
ずっと、そこにあった。誰も、見なかっただけだ。
俺はそれを自分で、考えた。都の工房の裏で、石の上に座って、考えた。三日、かかった。そして辿り着いた。その俺が三日かけて辿り着いた場所に、この男は三百年前に、いた。いて、書いていた。書いて、死んだ。誰にも、読まれずに。
記録は、続いていた。
生き物が変わった。獣が変わった。変わった獣は、元に戻らない。変わった獣は子を産む。子も、変わっている。だからこれは、一度きりの災いではない。……この男はそう書いていた。
人も、変わった。
人はこれまでできなかったことが、できるようになった。火を熾せるようになった。物を動かせるようになった。傷を塞げるようになった。この男はそれを詳しく書いていた。どういう条件で、それが起こるか。どの程度の割合の人間が、それを持つか。……全員だ、と書いてあった。例外は、見つかっていない、と。
そしてこの男はこう書いていた。
これを進化と呼ぶ者がいる。私はそう呼ぶことに、同意しない。進化とは、世代を経て起こるものである。これは、生きている個体に直接起きている。これは、進化ではない。何かは、わからない。わからないものに名前をつけてはならない。名前をつければ、わかった気になる。わかった気になれば、そこで、考えるのをやめる。
……この男はそう書いていた。
俺はそこで、また、手が止まった。
名前をつければ、わかった気になる。わかった気になれば、考えるのをやめる。
……。
俺は村を思い出した。母は俺を輪廻だと言った。言って、それ以上、何も訊かなかった。名前がついたからだ。輪廻という名前が。名前がついたものを人は、それ以上、掘らない。
……。俺は都を思い出した。魔法。この世界の連中は、あれを魔法と呼ぶ。呼んで、それ以上、考えない。三百年、考えていない。
……。この男は三百年前に、それを予見していた。
記録は、まだ、続いていた。
海が上がっている。あるいは、陸が沈んでいる。この男はどちらとも、断定していなかった。観測が足りない、と書いてあった。だが事実として、水位は上がっていた。この男が観測を始めてから、上がり続けていた。速さも、書いてあった。速すぎる、と書いてあった。通常の変化ではない、と。
なぜか。
この男はこう書いていた。
月が失われた。月は、この星の回り方を支えていた。支えを失った星は、揺れる。揺れれば、気候が、変わる。海が、変わる。……これは、すぐには起きない。何百年もかけて起きる。だが確実に、起きる。
そしてこう書いてあった。
私が観測できる範囲では、すでに始まっている。
俺はそこで灯りを見た。灯りはまだ、燃えていた。俺はこう思った。
村の年寄りが言っていた。昔はもっと楽だった。冬がここまで来なかった。魔物ももっと上にいた。いまは毎年下りてくる。去年より今年の方が早い。そしてこう言っていた。わしの親父も同じことを言っていた。
俺はそれを年寄りの昔語りだと思った。十六年、そう思っていた。
……。
違った。
村は生存の下限にある。俺はそれを知っていた。知っていて、なぜ下限が下がっているのかを考えなかった。下がっている。毎年、下がっている。二世代、続けて、下がっている。
……。
そしてこの男は書いていた。それは、止まらない。
俺はその紙を持ったまま、動かなかった。隣に、骨があった。この男が、書いた。書いて、そこで、死んだ。俺はその隣に、座っていた。
俺はこう思った。
村はいつまで、もつ。
俺はその問いを立てた。立てて、答えが、出ないことを知った。この男も、答えを出していない。出せなかったからだ。観測が、足りない。人が、足りない。時間が、足りない。この男は一人だった。一人で、観測して、一人で、書いて、一人で、死んだ。
だがこの男はこう書いていた。
算えれば、出る。
俺はその一行を読んだ。
算えれば、出る。必要な観測を積み重ね、必要な計算を行えば、答えは出る。いつ、この星が、人の住めない場所になるか。それは、算えられる。私は算えられない。道具が、失われた。人が、失われた。時間が、失われた。……だが算えれば、出る。それは、確かである。
俺はその紙を持ったまま、座っていた。斜めの床の上に。骨の隣に。地下の暗闇の中に。
……機械が、ある。
都に、機械がある。数を扱う機械だ。いまは、帳面を算えている。力が、足りない。心臓が、一つだからだ。もう一つあれば、十倍になる。十倍になれば、何ができる。記録には、こうあった。
「機、二基。星ノ運行ヲ算ス。」
……星の運行。三百年前、二つの機械で、星を算えていた。なぜ、星を算えたのか。記録には、書かれていなかった。……。
いま、わかった。
この星が、いつまで、もつのか。それを算えていたのだ。
俺はそこで、灯りを消した。
なぜ消したのかは、わからない。消す必要は、なかった。石の灯りは、まだ、もつ。だが俺は消した。真っ暗になった。何も、見えなくなった。俺はその暗闇の中に、座っていた。隣に、骨がある。膝の上に、紙がある。何も、見えない。
その暗闇の中で思った。
俺は二十一年、何も望まずに生きて、死んだ。生まれ直して、二十一年、何も望まずに生きた。合わせて、四十二年だ。俺は四十二年、何も、望まなかった。……。いま、俺は初めて、何かを望んでいる。
俺はそれが、何なのかをその暗闇の中で、確かめた。確かめて、こう言った。声に出して、言った。誰も、聞いていない場所で。
「……算えたい」
俺はその言葉を口に出した。出して、しばらく動かなかった。暗闇の中で、俺の声が、響いた。響いて、消えた。それから静かになった。水の音が、遠くで、していた。それだけだった。
俺は灯りを点けた。光が、戻った。骨が、そこに、あった。俺はそれを見た。そして紙の続きをめくった。
まだ、あった。まだ、終わっていなかった。俺はそれを読み続けた。