もう一つの書き方について、書く。記録ではない方だ。囲みの中に、あるいは裏に、あるいは余白に、書かれていたものだ。その頭には必ず同じ一行があった。
「※以下は観測ではない。読む者は、これを根拠としてはならない。」
これだ。毎回、これが、書いてあった。
俺は最初、その一行の意味がわからなかった。観測ではない、と書いてある。なら、何なのか。根拠としてはならない、と書いてある。なら、なぜ、書いた。……。俺はその囲みの中を読んだ。
中身は、こういうものだった。
妻と娘が南にいる。南の状況はわからない。わからない、と書くべきだ。私はわからないことをわかると書いては、ならない。だが……。そこで、切れていた。三行ほど、読めなかった。紙が、腐っていた。その先に、こうあった。無事であると仮定して、以降の記述を続ける。仮定である。仮定であることを明記する。
俺はそれを読んだ。
この男は自分の願いに、注釈をつけた。
妻と娘が無事であってほしい。この男はそう思った。思って、それを書いた。書いて、その横に、こう書いた。仮定である、と。仮定であることを明記する、と。
俺はしばらくその紙を見ていた。
この男は科学者だ。科学者というのは、そういう言い方をするのだと思う。俺は前の生で、そういう言葉を聞いた気がする。確かめたことは、ない。だがこの男はそうだった。この男は自分の書いたものを読む者が誤らないようにした。自分の願いを事実とを、混ぜなかった。混ぜれば、読む者が、迷う。迷えば、判断を誤る。誤れば、死ぬ。……この男はそう考えたのだと思う。
だからこの男は書くたびに、この一行を書いた。
「※以下は観測ではない。読む者は、これを根拠としてはならない。」
俺は数えた。
なぜ数えたのかは、わからない。途中から、数え始めた。最初から、数え直した。紙を一枚ずつ、めくって、その一行を探した。あった。何度も、あった。
三十一。
三十一回、書いてあった。
俺はその数を数え終えて、しばらく動かなかった。
この男は三十一回、書きたくなった。妻のことを。娘のことを。恐ろしいことを。寒いことを。誰も、来ないことを。……。書きたくなって、三十一回、書いた。そして三十一回とも、その前に、こう書いた。これは観測ではない。根拠にしては、ならない。
俺はそこで、その紙を膝に置いた。置いて、天井を見た。地下だ。天井には、何もない。俺はそれを見ていた。
この男は書きたかった。どうしても、書きたかった。だが書けば、誰かの邪魔になるかもしれない。この束を読む者は生き延びるためにこれを読む。その者にとって、この男の悲しみは、要らないものだ。要らないものが混ざっていれば、読む者は迷う。……。だからこの男は印をつけた。ここから先は要らないものです。読み飛ばしても構いません。根拠にはしないでください。……。そう書いて、それから書いた。妻のことを。娘のことを。
俺はその紙を持ったまま、動かなかった。
俺は思った。この男は優しい。いや。違う。優しい、では、足りない。
この男は自分の悲しみが、他人の生存の邪魔になることを許せなかった。
俺はその紙をめくった。めくって、次を読んだ。まだ、あった。
記録は、終わっていた。最後の記録には、こう書いてあった。ここまでで、記すべきことは、すべて記した。誤りがあれば、訂正されたい。訂正できる者が、いることを前提として、書いた。その前提が正しいかどうかは、私には、確かめられない。
俺はその一行を読んだ。
訂正できる者が、いることを前提として、書いた。
この男はいるかどうかわからない相手に向けて、書いた。三百年後に、誰かがいるかどうか。その誰かが、これを読めるかどうか。読んで、理解できるかどうか。全部、わからない。わからないまま、書いた。書いて、束ねて、入口に、投げた。
そして俺が、それを踏んだ。
俺はそこで、一度、目を閉じた。閉じて、また、開けた。そして次の紙をめくった。
最後の一枚だった。
上が、欠けていた。どれくらい欠けているのか、わからない。残っているのは、下の半分ほどだ。俺はそれを灯りに、近づけた。読んだ。
最初に、こうあった。
「なぜ、月の中にあったのか。」
俺はその一行を読んだ。その先を読んだ。
「あれは、偶然、そこにあったのか。」
「それとも、」
そこで、切れていた。
紙が、そこで、失われていた。破れたのか、朽ちたのか、わからない。だがその先は、なかった。俺はその紙を裏返した。裏には、何も、なかった。
俺はその紙をしばらく見ていた。
それとも、……。俺はその先をいま、書けない。この男が、何を書こうとしていたのか。俺には、わからない。二十年、わからなかった。いまも、わからない。
だが。
その切れた行の下に。
まだ、字が、あった。
俺はそれを見た。
「※以下は観測ではない。読む者は、これを根拠としてはならない。」
三十二回目だった。
俺はその一行を見た。見て、そしてその下を読んだ。
字が、変わっていた。
それまでの字は細かった。小さくて、まっすぐで、間隔が揃っていた。この男の字は、そういう字だった。三百年、崩れずに残っていた。だがその最後の数行は、違った。大きい。線が、震えている。間隔が、揃っていない。俺はそれを見た。
こう、書いてあった。
「妻と、娘に、会いたい。」
俺はそれを読んだ。
その下に、まだ、あった。
「これを書いた。」
「書かずには、終われなかった。」
その下に、一行、あった。
「すまない。」
俺はその紙を持ったまま、動かなかった。
すまない。
この男は謝った。
誰に。
俺に、だ。
この束を読む者に。
この男は最後に、一行、無駄なことを書いた。観測ではないことを書いた。根拠にならないことを書いた。……妻と、娘に、会いたい、と書いた。そしてそれを書いたことを謝った。
俺はその紙を持っていた。手が、震えていた。いや、体が、震えていた。
謝るな。
「謝るな」
俺の声が、地下に、響いた。響いて、消えた。誰も、いない。隣に、骨がある。骨は、答えない。三百年、答えない。
俺はその紙を抱えて、床に、うずくまった。
泣いた。
俺は四十二年、泣いたことが、なかった。前の生で、泣かなかった。この生でも、泣かなかった。村を出るときも、泣かなかった。ミナと別れるときも、泣かなかった。俺は泣き方を知らなかった。知らないまま、泣いた。
声が、出た。自分の声とは、思えなかった。止まらなかった。俺はその紙を濡らさないように、離した。離して、それから床に、額をつけた。斜めの乾いた床に。
俺はそこで、長いこと、泣いた。
なぜ泣いたのかを俺はいまでも、うまく説明できない。この男は死んだ。三百年前に、死んだ。妻にも、娘にも、会えなかった。誰にも、看取られなかった。書いたものは、三百年、誰にも読まれなかった。……それは、悲しい。悲しいが、俺が泣いた理由は、それでは、ない。
俺はこう思ったのだ。
この男は最後に、一行だけ、自分のことを書いた。そしてそれを謝った。
この男は最後まで、他人のことを考えていた。見たこともない、いつ来るかもわからない、いるかどうかもわからない他人のことを。三百年後の誰かのことを。……俺のことを。
そして俺は四十二年、誰のことも、考えていなかった。
俺はそれが、悔しかった。
俺は床に、額をつけて、泣いた。灯りが、そばで、燃えていた。骨が、そばに、あった。俺はその男の隣で、泣いた。
どれくらい、そうしていたのか、わからない。やがて、止まった。俺は体を起こした。顔を拭った。そしてその紙を拾った。束ね直した。抱えた。
俺は立ち上がった。骨の方を見た。俺はこう言った。
「届いた」
骨は、答えなかった。当たり前だ。俺はそれを知っている。だが俺は言った。言わずには、いられなかった。
「あんたのは、届いた」
俺はそこに、立っていた。灯りを持って、立っていた。そしてこう思った。
届いた。三百年、かかった。だが届いた。……なら。
俺はそこで、初めて、それを考えた。
俺のも、届く。