俺はその部屋に三日いた。いや、三日かどうかは、わからない。日は、数えていない。だが三度、寝た。だから三日と、書く。
その三日で、俺は何をしたか。読み直した。最初から、最後まで、もう一度読んだ。二度、読んだ。覚えるためだ。
俺はこう考えていた。この束を都に持ち帰る。だが持ち帰る途中で、失うかもしれない。水に落とすかもしれない。濡れれば、終わりだ。三百年、乾いた場所にあったから、残った。俺が持ち出せば、濡れる。……。なら、覚える。覚えれば、俺が死なない限り残る。俺はそう考えた。
俺は二度、通して読んだ。そして覚えた。全部は覚えられない。数字は、覚えられなかった。あれは、多すぎる。だが書いてあることの筋は、覚えた。いま、それを書いている。二十年、忘れていない。
三日目に、俺は部屋を出ることにした。
出る前に、机を見た。骨のそばの机だ。俺はそれまで、机を見ていなかった。骨を見ていた。紙を読んでいた。机は見ていなかった。俺は灯りを上げた。机の上を照らした。
何も、なかった。
金属の板があるだけだった。その上に何もない。俺はそれを見た。この男は机の上を片づけた。
書き終えて、束ねて、投げた。そして机の上を片づけた。なぜか。……わからない。だが片づけた。何も、残さなかった。残したのは、あの束だけだ。あの束だけを入口に、置いた。それ以外は、何も、残さなかった。
俺はその机をしばらく見ていた。
そして床を見た。骨があった。白い。崩れている。その頭のそばに。
眼鏡が、あった。
俺はそれを見た。しばらく見ていた。それからしゃがんだ。手を伸ばした。伸ばして、止めた。
俺はそこで、しばらく動かなかった。
持ち出していいのか、と俺は思った。これは、この男のものだ。三百年、ここにあった。俺が持ち出す理由が、あるのか。……ない。理由は、ない。これは、何の役にも立たない。都に持ち帰っても、誰も、これを使えない。中の透明なものは、割れていない。だがこれは、この男の目に、合わせて、作られたものだ。俺の目には、合わない。何の役にも、立たない。
俺はそれを拾った。
なぜ拾ったのかはわからない。いまでも、わからない。俺はそれを拾って、荷に、入れた。荷の中には、もう一つ、役に立たないものが入っていた。石だ。六年前に、窯の町で買った石だ。俺は火を熾せる。だからあの石は要らない。要らないのに、買った。買って、六年、持っていた。いま、その隣に眼鏡を入れた。
俺は荷を閉じた。そして立ち上がった。
骨の方を見た。俺はこう言った。
「持って行く」
骨は、答えなかった。俺は続けた。
「あんたの書いたものを持って行く。都に、機械がある。数を算える機械だ。三百年前に、二つあったやつだ。いまは、一つしかない。力が、足りない。……もう一つ、要る」
俺はそこで、少し、黙った。それからこう言った。
「算える」
俺はその言葉を口に出した。言って、それが、約束のように、聞こえた。誰への約束か。骨は、聞いていない。骨は、三百年前に、死んでいる。……。なら、これは、誰への約束か。……。俺はその問いを立てなかった。立てる必要が、なかった。
俺はその部屋を出た。
帰りは、来た道を戻った。水の流れを逆に、辿った。上流に、向かった。浅い方に、向かった。行きより、速かった。道を覚えていたからだ。
だが俺は途中で、止まった。
落ちた穴は、塞がっていた。俺はそれを確かめに行った。行って、確かめた。塞がっていた。上から、土が、崩れていた。光は、入っていなかった。俺が落ちた場所は、いま、暗い。……俺はそこに、立っていた。水の中に、立っていた。上を見た。何も、見えなかった。
俺はそこで、こう思った。俺はここで、死ぬところだった。いや。俺はまだ、ここにいる。出口が、ない。
それから六日、出口を探した。
線路を辿った。分かれ道を選んだ。登れる場所を探した。階段をいくつも、登った。登った先が、土で、塞がっていた。何度も、塞がっていた。俺はそのたびに、戻った。戻って、別の道を行った。
灯りが、二つ目も消えた。三つ目を点けた。最後の一つだ。俺はそれを点けて、こう思った。これが、消えたら、終わりだ。暗闇の中で、俺は何も、できない。
俺はその日、初めて、焦った。
焦ったのは、初めてだった。村で魔物と向き合ったときも、焦らなかった。斜面を登ったときも、船に乗ったときも、焦らなかった。地面が抜けて、落ちたときも、焦らなかった。だがそのとき、俺は焦った。
なぜか。
俺は荷を抱えていた。荷の中に、束が、入っていた。俺が、死ねば、あれも、終わる。
……。
俺はそこで、こう気づいた。
俺は俺の命が、惜しいのではない。
俺は四十二年、自分の命を惜しいと思ったことが、ない。前の生でも、この生でも、ない。死んでも、どうでもよかった。いまも、そうだ。……。だが俺はあの束を持っている。三百年、誰にも読まれなかった束を。三百年、待っていた束を。……。俺が、ここで死ねば、あれは、また、三百年、待つ。いや。待たない。俺の骨と一緒に、水に沈む。濡れる。朽ちる。
……終わる。
俺はそこで、初めて、死ぬわけにはいかない、と思った。
四十二年で、初めてだ。
俺はそれから二日、歩き続けた。寝なかった。寝れば、灯りが、減る。俺は歩き続けた。そして二日目に、光を見た。
上だ。天井の割れ目から、光が、入っていた。細い。だが光だ。俺はその下に、立った。見上げた。高い。だが壁が、崩れていた。崩れた瓦礫が、積み重なっていた。登れる。
登った。
登って、割れ目に、手をかけた。土を掻いた。掻いて、掻いて、掻いた。土が、崩れて、俺の上に、落ちてきた。目に、入った。口に、入った。俺は掻き続けた。
そして抜けた。
顔が、外に、出た。
光だった。
俺はその光の中で、目を閉じた。開けられなかった。痛かった。俺はしばらく目を閉じたまま、そこに、いた。土から、顔だけを出して。目を閉じて。
風が、あった。風の音が、していた。草の匂いが、した。俺はそれを吸った。何度も、吸った。
やがて、目を開けた。
空が、あった。
その空を見た。
昼だった。雲が、あった。青かった。……。俺はその空を見ていた。
俺は地面から、這い出した。出て、草の上に、倒れた。仰向けに、倒れた。そして空を見ていた。
俺は前の生で、死ぬときに、空を見た。仰向けに、倒れていた。だから見えた。他に、見るものが、なかったからだ。……。いま、俺は仰向けに、倒れている。そして空を見ている。死んでいない。
俺はしばらくそうしていた。
やがて、日が、傾いた。俺はまだ、そこにいた。日が、沈んだ。空が、暗くなった。星が、出た。
俺はそれを見た。
オリオン座は、出ていなかった。夏だからだ。夏には、出ない。俺はそれを知っていた。代わりに、別の星が、出ていた。俺はその名を知らなかった。
そして環が、出ていた。
銀色の帯が、空を横切っていた。俺はそれを見上げた。
あれは、月だ。割れた、月だ。俺はそれを二十一年、美しいと思っていた。いま、俺はそれが何かを知っている。知って、見ている。
それでも、美しかった。
俺はそこで、少し、笑った。
俺は荷を抱えていた。束が、入っている。石が、入っている。眼鏡が、入っている。俺はそれを抱えて、草の上に、寝ていた。そして空を見ていた。
都に、戻る。女に、これを渡す。そして龍を狩る。心臓を取る。機械に、入れる。そして算える。……。俺はそれをやる。
俺はその夜、そこで、寝た。外で、寝た。空の下で。三百年ぶりに、地上に出た人間として。……いや。俺は三百年ぶりではない。俺はただの旅の者だ。地面が抜ける土地に行って、落ちて、出てきただけだ。それだけの男だ。
だが俺はあの束を持っている。
俺は目を閉じた。閉じる前に、もう一度、空を見た。環が、あった。星が、あった。俺はそれを見た。見て、目を閉じた。