都に戻ったのは秋の初めだ。俺は痩せていた。地下で魚と目のない魔物しか食っていなかった。髪も髭も伸びていた。服はほとんどなかった。俺はそのままイスカの家の門に立った。
門番は俺を止めた。当然だ。こう言った。リツを呼べ。
門番が俺を殴ろうとした。俺は避けなかった。避ける必要がなかった。当たらなかったからだ。門番は体勢を崩して地面に手をついた。俺は動いていない。……いや動いた。だが門番には見えなかった。門番は俺を見上げた。顔が白かった。俺はもう一度こう言った。リツを呼べ。
来た。
俺を見てしばらく何も言わなかった。俺の顔を見た。俺の体を見た。最後に俺が抱えている荷を見た。その順番はいつもと違った。いつもは手を見て物を見て目を見た。このときは逆だった。顔を先に見た。
三月と十一日です。
俺はその意味が最初わからなかった。リツは続けた。あなたが出てから、三月と十一日経ちました。私は三月と言いました。十一日過ぎています。
……数えていたのか。数えます。それが私の仕事です。
俺はその言葉を聞いた。俺は地下で日を数えなかった。数える意味がないと思った。このリツは数えていた。毎日一日ずつ。三月と十一日。……。気づいた。
俺は二十一になっている。
その場で少し笑った。それを見て何も言わなかった。俺は二十一だ。リツはこう言った。それがどうかしましたか。俺はこう答えた。俺は前の生で二十一で死んだ。
リツは俺を見た。しばらく見ていた。それから、……越えましたね。頷いた。何か起きましたか。何も起きなかった。
当然です。あなたはただ生きているだけです。
俺はその言葉に少し救われた。なぜ救われたのかはうまく言えない。俺はあの日を地下で気づかずに越えた。誰も祝わなかった。誰も知らなかった。俺自身も知らなかった。……。そしてこのリツは数えていた。俺のためではない。三月と決めたからだ。仕事だからだ。だが数えていた。
俺は荷を開いた。束を出した。そしてリツに渡した。
リツはそれを受け取った。受け取って、しばらくそれを見ていた。これは何ですか。俺はこう答えた。三百年前の記録だ。
リツはそれを開いた。一枚目を見た。そしてこう言った。読めません。
頷いた。リツは俺を見た。俺はこう言った。俺が読む。
その日から俺は読んだ。
リツは毎日来た。記録の部屋に来た。俺が読む。声に出して読む。リツがそれを聞く。そして書き取る。いまの字で書き取る。リツの字は速かった。俺が読むより速く書いた。
訊いた。なぜあんたが書く。書記を呼べばいい。リツはこう答えた。呼びません。なぜと訊いた。リツはこう言った。これを他の者に見せません。
俺はその理由を訊かなかった。訊かなくてもわかったからだ。この束にはこう書いてある。この星はいつか人の住めない場所になる。
……。
それを都の連中が知ったらどうなる。
……。
わからない。
だがいいことにはならない。
俺はそう思った。そしてリツもそう思ったのだと思った。
……。
いや。
違った。
俺はあとで知った。このリツが他の者に見せなかった理由はそれではない。このリツはこう考えていた。これは価値がある。価値があるものは独占する。それだけだ。
俺はそれを知ったとき笑った。このリツというものはそういう女だ。最初からそうだ。俺はそれを知っていた。知っていて忘れかけていた。
俺たちはひと月かけて全部を書き取った。
書き取り終わった日リツはしばらくその紙を見ていた。いまの字で書かれた紙だ。リツはそれを最初から読み返した。俺はその横に座っていた。リツは二刻ほど読んでいた。読み終えて顔を上げた。
リツはこう言った。
……この月というものは、あの環になったのですか。
俺はそうだと答えた。
リツは立ち上がった。そして部屋を出た。俺はその後ろについた。リツは廊下を歩いた。庭に出た。夜だった。空があった。
リツは空を見上げた。
俺はその横に立っていた。リツはしばらく動かなかった。環が出ていた。銀色の帯が空を横切っていた。リツはそれを見ていた。
「……綺麗ですね」
俺はその言葉を聞いた。聞いてしばらく何も言えなかった。
このリツはそれが何かをいま知った。割れた月だと知った。この星の災いの元だと知った。この星をいずれ殺すものだと知った。
……。
知って、綺麗だと言った。
……そうだな。
リツは俺を見なかった。空を見ていた。そしてこう言った。
「私はこれを綺麗だと思ってはいけないのですね」
……それでいい。
リツはしばらく俺を見ていた。それからまた空を見た。二人とも何も言わなかった。長いことそうしていた。
その夜リツはこう言った。
龍を狩ります。
頷いた。リツはこう続けた。支度は進んでいます。あなたがいない間に進めました。場所はわかりました。人も集めました。あとはあなただけです。
訊いた。どこにいる。リツはこう答えた。
山の上です。
リツは続けた。都から東の山脈です。高い。ここからは見えません。三十日歩きます。最後の五日は登ります。そこの頂にいるそうです。
なぜそんなところに。リツはこう答えた。わかりません。誰も知りません。ただ昔からそこにいます。三百年そこにいます。
なんという山だ。リツはこう答えた。
「ミルの山です」
俺はその言葉を聞いた。
ミル。
それは何だ。
答えた。
龍の名です。いえ名ではありません。そう呼んでいるというだけです。昔からそう呼びます。ミルがいる。ミルの山だ。ミルの領域だ。……そういう言い方です。
なぜミルという。わかりません。
俺はその言葉を頭の中で転がした。ミル。……見る。俺はそう思った。思ってすぐにそれを打ち消した。この世界の言葉は崩れている。三百年で崩れている。地名も崩れた。人の名も崩れた。……。だがミルという音は崩れていない。崩れていないなら意味が残っている。……。見る。……見るもの。
俺はこう思った。まさか。そしてそれ以上考えなかった。考えなかったのだ。俺はまだそういう男だった。