月のない空   作:朝凪小夜

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第二十七話 突合

 

支度に一年かかるとリツは言っていた。その一年のうち、三月は俺が地下にいた。残りは九月だ。九月のうち俺がやったことは二つある。一つは狩りだ。もう一つがこれから書くことだ。

 

俺たちは突き合わせた。

 

あの男の書いたものと都の記録を突き合わせた。都の記録はイスカの家にある。三百年分ではない。残っている分だけだ。だがある。金の出入り。人の出入り。工房のこと。機械のこと。そしていちばん古い層にこうあった。

 

「機二基。星ノ運行ヲ算ス。」

 

俺はそれをもう一度読んだ。

 

俺はこう言った。二基あったと書いてある。ならその二基で何を算えたのかも書いてあるはずだ。リツはこう言った。書いてありません。俺はこう言った。書いてないのではない。残っていないだけだ。

 

俺たちは探した。

 

三月かかった。毎日記録の部屋にいた。俺が読み、リツが書き取る。それを繰り返した。俺は狩りに行く日以外はそこにいた。リツは毎日来た。来られない日もあった。家の用があるからだ。だがたいていは来た。

 

俺はあるときこう訊いた。あんたは家の仕事はいいのか。リツはこう答えた。これが家の仕事です。俺はこう言った。当主はそう思っているのか。リツは少し黙った。それからこう言った。思っていません。

 

俺はそのとき初めて、このリツの立場を正確に理解した。

 

このリツは家の中で三番目だ。兄が二人いる。リツは機械を預かっている。機械は家の要だ。だが機械を預かることは家を継ぐことではない。リツはいずれどこかに嫁ぐ。嫁げば機械から離れる。……。このリツはそれを知っている。知っていて毎日機械を見ている。

 

俺はこう訊いた。あんたはいつまでここにいる。リツはこう答えた。わかりません。それからこう続けた。父が決めます。

 

俺はそれ以上訊かなかった。

 

三月目に見つけた。

 

記録ではない。記録の裏だ。紙の裏に書いてあった。俺はそれをたまたま見つけた。紙をめくったときに光が透けた。裏に字があるとわかった。裏返した。

 

こうあった。

 

「算二百七十年」

 

それだけだ。他には何も書いていない。誰が書いたのかもいつ書いたのかもわからない。だが俺はそれを見た瞬間に理解した。

 

俺はリツにそれを見せた。リツは訊いた。これは何ですか。答えた。……算えた結果だ。

 

何を算えた結果ですか。あの男の書いたものにこうある。この星がいつ人の住めない場所になるか。それは算えられると。……三百年前二基あったときにそれを算えた。答えがこれだ。

 

リツはその紙を見た。そしてこう言った。二百七十年。

 

俺は頷いた。

 

リツはこう訊いた。いつから、二百七十年ですか。

 

俺はそこで止まった。

 

わからない。それが書いていない。算えたのは三百年前だ。なら三百年前から二百七十年か。

 

……ならもう三十年過ぎている。

……。

いや。違うかもしれない。

 

月が割れた日から二百七十年かもしれない。

……ならもう三十年過ぎている。同じだ。

……。

いや。「算二百七十年」の意味がそもそも違うかもしれない。

二百七十年算え続けたという意味かもしれない。あるいは二百七十年分を算えたという意味かもしれない。

……。わからない。

 

俺はこう言った。わからない。リツは俺を見ていた。俺は続けた。この一行だけではわからない。前後がない。根拠がない。算え方が書いていない。……これは結果だけだ。結果だけを信じてはいけない。

 

俺はそう言った。言ってからこう思った。

 

……あの男が書いていた。

 

 

「※以下は観測ではない。読む者はこれを根拠としてはならない。」

 

 

あの男は根拠のないものを根拠にしないように印をつけた。この「算二百七十年」には印がない。根拠もない。算え方もない。……。これは根拠にならない。

 

俺はリツにこう言った。これは使えない。リツはこう訊いた。なぜですか。俺はこう答えた。算え方が書いていないからだ。算え方がわからなければ正しいかどうかが確かめられない。確かめられないものを信じてはいけない。

 

リツはしばらく俺を見ていた。それから言った。

 

……あなたは変わりました。

 

何が。リツは、答えた。

 

一年前のあなたならこれを信じたと思います。

 

俺はそうかもしれないと言った。リツは続けた。あなたはあの男に教わりましたね。

 

俺はその言葉に答えなかった。

 

答えられなかった。

 

リツはそれ以上何も言わなかった。そしてその紙を綴じ直した。書き取りの束に加えた。「算二百七十年」の一行も書き写した。その横にこう書き添えた。

 

「根拠不明。算法不記載。これを根拠としてはならない。」

 

俺はそれを見た。見て何も言わなかった。

 

リツはそのあとこう言った。

 

「もう一つ心臓が要ります」

 

俺は頷いた。リツはこう続けた。二基あれば算えられます。三百年前に算えられたのですから。算えれば答えが出ます。そして答えが正しいかどうかも確かめられます。……算え方も残せます。

 

俺はリツを見た。

 

このリツはいまこう言った。算え方も残せます。

 

俺はこう訊いた。なぜ残す。リツはこう答えた。

 

「私たちが死んだあとにそれを確かめる者がいるからです」

俺はその言葉を聞いた。聞いてしばらく動かなかった。

 

このリツはいま、こう、言った。

 

自分が死んだあとの誰かの話を。

 

……あんたはそれを見られないぞ。

知っています。

ならなぜ。

 

リツはしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「あの、男がそうしたからです」

 

俺はそこで何も言えなくなった。

 

このリツは輪廻を信じない。神もたぶん信じない。このリツは金を数え、順位を数え、人を、道具として使う。それだけが人間だと思っている。……。そのリツが三百年前に死んだ名も知らない男のやり方を真似ている。

 

俺はこう言った。あの男の名を俺たちは知らない。リツはこう答えた。知りません。俺はこう言った。書いてあればよかった。リツはこう言った。書きませんよ。

 

俺はこう訊いた。なぜ。リツはこう答えた。

 

「あの人は自分のことを書かない人です」

 

俺はその言い方に少し驚いた。このリツはあの男のことをこう言った。

 

「あの人」

 

三百年前の名も知らない骨になった男を。このリツはいま知っている人のように言った。

俺はその一年でこのリツのことを少し知った。少しだけだ。全部ではない。このリツは俺を道具として使う。それは変わらない。だがこのリツはあの男の書き方を真似た。根拠のないものに印をつける。自分が死んだあとの誰かのために算え方を残す。……。このリツは三百年前の男に教わった。俺と、同じだ。

 

そして九月が過ぎた。

 

春が来た。支度が整った。人が五十人集まった。

 

リツはこう言った。五十人です。訊いた。三代前は二百人だった。リツはこう答えた。二百人で百人が死にました。人が多ければ勝てるわけではありません。俺はこう訊いた。なら五十人で何をする。リツはこう答えた。

 

「戦いません」

 

俺はリツを見た。リツは続けた。五十人のうち戦えるのはあなた一人です。残りの四十九人は運びます。食い物を運びます。水を運びます。道具を運びます。そして、心臓を運びます。

龍はあなたが止めます。止めて殺します。そのあと四十九人が心臓を取り出します。取り出して生かしたまま都まで運びます。それが、いちばん難しい。

 

俺はこう訊いた。俺が失敗したら。リツはこう答えた。

 

「五十人は逃げます」

 

リツは続けた。戦いません。戦っても死ぬだけですから。逃げるように言ってあります。

 

俺はその言葉を聞いた。聞いてこう思った。このリツは俺が死ぬ場合を計算している。計算してそのときに損を最小にする方法を決めている。……。正しい。このリツは、正しい。

 

わかった。リツはこう言った。わかった、とあなたはよく言います。俺はそうだなと言った。

 

 

「死なないでください」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

リツはこう続けた。あなたが死ねば心臓は手に入りません。心臓が手に入らなければ算えられません。だから死なないでください。

 

俺は少し笑った。リツはこう訊いた。何がおかしいのですか。

 

いや。……あんたらしい。

 

リツはしばらく俺を見ていた。それから目を伏せた。そしてこう言った。

 

「……そうですね」

 

そのそうですねには間があった。俺はその間を覚えている。いまでも、覚えている。

 

 

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