月のない空   作:朝凪小夜

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第二十九話 珍しい

 

最初に目に入ったのは色だった。

 

白かった。雪と同じ色だ。だから、俺は最初それを雪の吹き溜まりだと思った。岩の陰に、雪が積もっている。そう見えた。大きい。だがこの山にはそういうものがいくつもあった。俺はそれを見た。見て目をそらしかけた。

 

そらしかけて、止まった。

 

……動いていない。当たり前だ。雪は動かない。だが俺はそこで止まった。なぜ止まったのか自分でもわからなかった。もう一度それを見た。見てこう思った。

 

……あれは俺を見ている。

 

俺はそのとき、それが何であるかをまだ理解していなかった。目が見えていなかった。どこに目があるのかも、わからなかった。白い大きな塊がそこにあるだけだった。だが俺は見られていると思った。なぜ、そう思ったのかは、いまでもわからない。村で山にいるときにそういうことがたまにあった。何も見えないのに見られていると思うことが。たいてい当たっていた。俺はそういう男だ。

 

俺はそこで動かなかった。

 

隊の頭が俺の後ろでこう言った。

 

「いる」

 

声が小さかった。抑えていた。俺はその声を聞いた。聞いてこう思った。この男にも見えている。

 

……見えているのか。

 

俺はこう訊いた。どこだ。隊の頭はこう答えた。……正面だ。あの白いのがそうだ。

 

俺はその白いものを見た。

 

そしてそこで初めてそれの輪郭が見えた。

 

一度見えるともう雪には見えなかった。なぜ雪だと思ったのかわからなくなった。それは雪ではない。長い。太い。巻いている。自分の体を巻いて蹲っている。その蹲った塊の上の方に。

 

頭があった。俺の背の三倍はある。いや、もっとだ。角がある。二本。後ろに伸びている。鼻先が長い。口は閉じている。そして。

 

目が開いていた。

 

俺はその目を見た。

 

俺を、見ていた。

 

 

……いつから。

 

 

俺は五日この山を登った。その五日こいつは何をしていた。……。俺はそこでこう考えた。この山は高い。頂からは下が見える。雲があれば見えない。だが雲はいつもあるわけではない。……。俺は後ろを振り返った。雲があった。いまは、ある。だが、昨日はなかった。一昨日も、なかった。

 

俺はまた前を見た。

 

こいつは五日俺たちを見ていた。

 

俺はその事実を理解した。理解して背中に冷たいものが走った。俺は五日登った。こいつは五日見ていた。見ていて動かなかった。……いつでも殺せた。狭い岩場だ。落とせばそれで終わりだ。俺たちは五十人だ。いや四十八人だ。二人は置いてきた。……。こいつは殺さなかった。

 

俺は隊の頭にこう言った。下がれ。

 

男はこう言った。しかし。俺はこう言った。下がれ。全員下がれ。俺が行く。あんたらは離れていろ。

 

男はしばらく動かなかった。それからこう言った。……わかった。そして下がった。四十八人が下がった。俺はその音を聞いていた。背中で聞いていた。前を見たまま。

 

俺は一人になった。

 

俺は前に出た。

 

一歩進んだ。龍は動かなかった。二歩進んだ。動かなかった。十歩進んだ。動かなかった。俺はその距離を測った。あと二十歩だ。二十歩あれば届く。俺はそう判断した。いや届かないかもしれない。この大きさなら間合いが違う。……。俺はそこで止まった。

 

 

なぜこいつは動かない。

 

 

俺は村でたくさんの魔物を殺した。都でも殺した。地下でも殺した。どれも向かってきた。向かってくるから殺せた。向かってこないものを俺は殺したことがない。……。いや。地下の目のないやつは向かってこなかった。俺は動かずに待った。そいつは俺の横を通った。俺はそのまま殺した。……。あれは俺が見えていなかったからだ。

 

こいつは見えている。

 

俺はそこに立っていた。風が強かった。寒かった。息が白かった。俺の息が風に流されていった。龍は動かなかった。俺も動かなかった。

 

どれくらいそうしていたのかわからない。長かった。俺の指がかじかんできた。このままでは動けなくなる。俺はそう思った。思ってこう言った。

 

「なぜ殺さない」

 

俺はそれを声に出して言った。

 

言ってから俺は自分に驚いた。なぜそんなことを言ったのか。俺はこいつを殺しに来た。殺しに来た者がなぜ殺さないのかと訊く。……おかしい。おかしいが俺はそう言った。

 

俺はそのとき、こう考えていたのだと思う。この五日こいつは俺たちを殺せた。殺さなかった。なぜだ。それがわからなければ俺は動けない。わからないまま踏み込めば俺が死ぬ。……。だから訊いた。戦いのために訊いた。相手の狙いを知るために。

 

俺はそう思っていた。

 

そして龍が。

 

口を開いた。

 

俺はその口が開くのを見た。見て体が動きかけた。息を吐くと思った。火か風か何かを。俺は避けようとした。避ける準備をした。

 

そして声がした。

 

「珍しい」

 

俺はそこで止まった。

 

完全に止まった。体が動かなかった。構えたまま止まった。俺はその声を聞いた。

 

低い。だがはっきりしていた。言葉だった。俺の知っている言葉だ。この世界の言葉だ。俺が村で覚え、都で使っている言葉だ。

 

俺はそれを聞いた。

 

俺は驚かなかった。

 

これは書いておく。俺は驚かなかった。龍が喋る。……ありうると思っていた。なぜならこいつは五日俺たちを見ていて殺さなかったからだ。殺せるのに殺さない。それは判断だ。判断をするものは考えている。考えるものが言葉を持っていてもおかしくない。俺はそう考えた。……いや。そこまで考えていたかどうか。わからない。だが驚かなかったのは本当だ。

 

俺が驚いたのは別のことだ。

 

俺はこう訊いた。

 

「何が」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう答えた。

 

「お前だ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

「何が珍しい」

 

龍はこう答えた。

「……お前は上を見ていた」

 

俺はそこで動きが止まった。

 

龍は続けた。

 

「五日見ていた。四十八人登ってきた。全員下を見ていた。足元を見ていた。当たり前だ。滑れば落ちる。……お前だけが上を見た」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺は頂に着いたとき上を見た。空が近いと思った。昼なのに星が見えると思った。しばらく動けなかった。隊の者が俺の横を通り過ぎた。誰も上を見ていなかった。……。こいつはそれを見ていた。

 

俺はこう訊いた。

 

「それが珍しいのか」

 

龍はこう答えた。

 

「三百年で二人目だ」

 

俺はそこでこう訊いた。

 

「一人目は」

「知らん」

「知らない」

 

龍はこう言った。

 

「二百年ほど前だ。登ってきた。一人だった。上を見た。……そして下りていった」

「話したのか」

「話さなかった」

「なぜ」

 

「訊かれなかった」

 

俺はそこで長く黙った。

 

風が吹いていた。寒かった。俺は構えたままそこに立っていた。龍は動かなかった。俺を見ていた。

 

俺はこう訊いた。

 

「お前は何だ」

 

龍はしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「私は」

 

その言葉は、少し、遅れて出てきた。俺はそれに気づいた。その私はという言葉が出てくるまでに間があった。短い間ではない。……。俺はその間を覚えている。

 

いまこれを書いていてわかる。

 

その言葉は三百年使われたことがなかった。

 

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