兄の名は、タケという。俺より四つ上で、背は高く、肩は広い。狩りがうまい。魔法は村の中では上の方だが飛び抜けてはいない。村ではそれを真っ当と呼ぶ。兄は真っ当だった。いずれ家を継ぎ、山に入り、所帯を持ち、子を作り、老いて死ぬ。そういう男だ。俺は兄を少しも嫌いではなかった。
兄は俺をソウと呼ぶ。村では、珍しいことだ。村の人間は、俺を名で呼ばない。あの子、と呼ぶ。あるいは、家の名で呼ぶ。狩りの場では、おい、と呼ぶ。なぜかは、わからない。いや、わかっている。名を呼ぶというのは距離を詰めることだ。村の人間は、俺との距離を詰めない。兄は詰める。ミナも詰める。二人だけだ。
十三の秋、俺は狩りの編成から外れた。外れた、というのは正確ではない。編成表に俺の名前がなかった。村の狩りは、四人か五人の組で動く。追う者、囲む者、仕留める者、運ぶ者。役割がある。それを狩り頭が組む。その表に、俺の名前がなかった。俺はそれを見て、何も思わなかった。兄が、狩り頭のところへ行った。
ソウは、と兄が言った。狩り頭はしばらく黙っていた。それからあいつは一人の方が早い、と言った。組で動けば、あいつの足に合わせられん。囲みも要らん。追いも要らん。あいつが行けば、それで終わる。だから別に出す。そういうことだ、と。筋は、通っている。完全に、通っている。兄はしばらく立っていた。それから、わかった、と言って戻ってきた。
その日から、俺は一人で山に入った。朝、村を出る。日が高くなる前に獲物を仕留める。血を抜き、担いで、戻る。誰とも喋らない。誰とも歩かない。効率は上がった。俺一人で仕留める量は組一つ分より多い。だから村はそれでよかった。実際、それでよかったのだと思う。村は飢えなかった。冬も越せた。塩も布も、去年より多く買えた。誰も損をしていない。俺も、損をしていない。俺は一人でいることを苦にしない。前の生で、二十一年、そうしていた。
兄はそれを気に入らなかった。狩りから戻った夜、飯を食いながら、兄は言った。あれはおかしい、と。何が、と俺は訊いた。お前を外すのが、と兄は言った。外れてない、と俺は言った。別に出てるだけだ。同じことだ、と兄は言った。俺はそうかもしれない、と答えた。兄はそれ以上、何も言わなかった。父も、母も、何も言わなかった。母は汁を注ぎ足した。
その年は、そうやって過ぎた。次の年も、同じだった。俺は一人で山に入り、一人で戻った。編成表に、俺の名前はない。誰もそれをおかしいとは言わなくなった。言っていたのは、兄だけだ。その兄も、そのうち、言わなくなった。言っても、変わらないからだ。
俺が十四になった春に、山の下の方で、見たことのない魔物が出た。狩り頭は、最初、若い個体だと思ったらしい。四人の組を出した。三人が、傷を負って戻ってきた。一人は、戻らなかった。戻らなかったのはミナの父ではない。俺の家の人間でもない。だが村の人間だ。村は小さいから、誰が減っても、誰もが知っている。その夜、広場に人が集まった。俺は家にいた。呼ばれるのを待っていた。なぜ待っていたかというと、呼ばれるとわかっていたからだ。半刻ほどして、狩り頭が来た。
行けるか、と狩り頭は言った。行ける、と俺は言った。どんな相手か、訊かないのか、と。少し考えて、こう答えた。訊いても、変わらない。狩り頭は、俺を見た。そして行ってくれ、とだけ言った。その言い方は、頼む、というより、近い言葉が他になかった、という言い方だった。
翌朝、俺は一人で山に入った。その魔物は四半刻で見つかった。大きい。角がある。前脚が長い。北の方の個体だ。冬でも下りてこないはずのものが、春に下りてきている。なぜ下りてきたのかは、わからなかった。俺は考えなかった。考えても、変わらないからだ。俺はそいつを二手で殺した。一手目で、脚を止めた。二手目で、頭を割った。早かった。あまりに早かったので、俺自身、少し手が余った。血が、雪の残りに広がっていくのをしばらく見ていた。温かい湯気が立って、それが消えるまで、見ていた。それから担いで、村に戻った。
村は静かだった。広場に、それを置いた。誰も、近寄らなかった。しばらくして、狩り頭が来た。獲物を見て、俺を見た。傷は、と訊いた。ない、と俺は答えた。狩り頭は、頷いた。そして何も言わずに、離れていった。俺はその背中を見て、それから家に戻った。
その日、村の人間は、俺に礼を言わなかった。言えなかったのだと思う。組が四人で行って、三人が傷ついて、一人が死んだ。俺は一人で行って、四半刻で戻ってきて、傷もなかった。この二つの事実は、並べてはいけないものだ。並べれば、死んだ男の死が、無駄になる。だから村は並べなかった。俺に礼を言えば、並べることになる。だから誰も、言わなかった。これは、村が悪いのではない。俺が悪いのでもない。誰も悪くない。ただ、俺が、そこにいるということが、村にとって、扱いの難しいことだった。
兄だけが、その夜によくやった、と言った。それから少し黙って、こう続けた。俺はお前を誇りに思ってる、と。俺はそうか、とだけ答えた。いま思えば、あそこで、何か言うべきだったのだと思う。何を言えばよかったのかは、いまでもわからない。だがそうか、ではなかった。兄は笑って、それきりだった。
夏に、古老が死んだ。村でいちばん年寄りの男で、もう十年、山に入っていなかった。死ぬ数日前、その男が、妙なことを言った。俺はたまたま、その場にいた。水を運んでいて、家の前を通っただけだ。男は戸口に座って、山を見ていた。そして俺に、こう言った。昔は、もっと楽だったんだ、と。
何が、と俺は訊いた。冬が、と男は言った。わしが子供の頃は、雪はここまで来なかった。魔物も、もっと上にいた。下りてくるのは、ひどい年だけだった。いまは、毎年下りてくる。そして去年より、今年の方が、下りてくるのが早い。男はそう言って、しばらく黙った。それからこう続けた。わしの親父も、同じことを言っていた。昔は、もっと楽だった、と。男は笑った。年寄りはみんな同じことを言うな、と。
俺は水を持ったまま、そこに立っていた。男はそれ以上、何も言わなかった。俺は家に戻って、水を置いた。そしてその話を忘れた。いや、忘れてはいない。覚えている。こうして書いている。だがあのとき俺はそれを何とも結びつけなかった。年寄りが昔を懐かしんでいる。そういう話だと思った。俺はその意味を二十年、考えなかった。考えなかったのだ。
その秋、ミナが山に入った。ミナは俺より半年遅れて生まれている。その秋に、十四になった。村の子供は十二で山に入る。ミナは二年遅い。組の中で、いちばん後ろだ。だが組に入った。村の人間はそれを喜んだ。弱かった女が、山に入る。それは、村にとって、いいことだ。人手が増える。だから喜んだ。喜びながら、誰も、なぜそうなったのかを口にしなかった。あの日、広場で誰かが訊いた。誰に教わった、と。あの問いに、答えは出なかった。出ないまま、冬が来た。誰も、もう一度は訊かなかった。
俺はそのことに、気づいていた。気づいていて、何もしなかった。俺が名乗り出れば、村はどう反応しただろうか。たぶん褒めただろう、表向きは。そしてその裏で、もう一段、俺を恐れただろう。なぜなら、それは、俺が人を作れるということだからだ。強さは、生まれつきではない。教えられる。村では、そう思われていない。強い者は、強く生まれる。弱い者は、弱く生まれる。だから弱い者は、あきらめる。俺はそれを崩した。崩したことに、村はまだ、気づいていない。気づかないでいてくれた方が、村は楽だ。だから俺は何も言わなかった。これは、優しさではない。俺が、面倒だっただけだ。
冬が来た。その年の冬は、早かった。初雪が、去年より十日早い。村の年寄りが、また、昔は楽だった、と言った。俺は山に入り、獲物を仕留め、戻ってきた。毎日、そうした。村は飢えなかった。俺のおかげだ、と兄は言った。俺はそうだね、と答えた。そしてその冬、村長が、家に来た。
俺はその場にいなかった。山にいた。戻ってきたときには、村長はもう帰っていて、父と母が、火の前に座っていた。二人とも、何も言わなかった。母が、飯を出した。父が、山はどうだった、と訊いた。いつも通りだ、と俺は答えた。そうか、と父は言った。それだけだった。いつも通りの夜だった。いつも通りすぎた。俺は飯を食い、寝床に入って、天井を見た。外で、雪が降っている気配がした。俺はそのとき、何かを薄く、感づいた。感づいて、目を閉じた。考えなかった。考えれば、わかったはずだ。だが考えたところで、どうする。どうもしない。だから考えなかった。俺はそのまま、眠った。