月のない空   作:朝凪小夜

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第三十話 答える

 

 「私は」

 

龍はそう言った。そしてそこで止まった。

 

俺は待った。龍は続けなかった。長い間があった。風の音だけがしていた。俺は構えたまま待っていた。

 

やがて、龍はこう言った。

 

「……その問いは難しい」 

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ」

 

龍はこう答えた。

 

「私が何であるかを、私は答えられる。だが、お前が知りたいことと、私が答えられることが同じかどうか、わからない」

 

俺はその言葉を聞いた。聞いて少し黙った。それからこう言った。

 

「では答えられることを言え」

 

龍はこう言った。

 

「私の体は、他の生き物と同じものでできている。肉がある。骨がある。血が流れている。だが一つ、違う。私の胸の中に一つ器官がある。それは心臓と呼ばれているが心臓ではない。いや心臓でもある。血を送っている。だがそれだけではない」

 

俺はこう訊いた。

「何をしている」

 

龍はこう答えた。

「読んでいる」

 

「何を」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「この世界がどう動くかを決めている決まりがある。石は落ちる。水は低い方に流れる。火は燃える。……そういう決まりだ。それはどこかに書かれている。書かれているというのは言い方が悪い。だが他に言いようがない。……その決まりを私の器官は読んでいる」

 

俺はそこで動きが止まった。

 

俺はこう訊いた。

「読めるということは読めないものもあるのか」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「……いい問いだ」

 

俺はその言い方に少し引っかかった。龍は続けた。

 

「ある。読めるものと読めないものがある。読めるものは決まりそのものだ。石が落ちるという決まり。水が流れるという決まり。それは読める。読めないものはなぜその決まりなのかだ」

 

「わからないのか」

「わからない」

 

俺はその言葉を聞いた。

訊いた。

 

「では人間が火を熾す。あれは何だ」

 

龍はこう答えた。

 

「あれは決まりを押している」

俺はそこで止まった。

 

押している。

 

俺は九つのミナにそう言った。火を思い浮かべるな。動かせ。手のひらの先に何かがある。それを押せ。……。俺はそれを自分で考えた。誰にも教わっていない。村の大人は念じろと言った。俺は押せと言った。……。この龍はいま押していると言った。

 

訊いた。

 

「何を押している」

 

龍はこう答えた。

「決まりだ。決まりは動かない。だが、決まりの細かいところは揺れる。揺れているところを押すことができる。押せば動く。押さなければ動かない。……人間が火を熾すというのはそういうことだ」

 

「なぜ人間にそれができる」

「できないものがいるのか」

 

俺はそこでこう、答えた。

 

「三百年前は誰もできなかった」

 

龍はしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「……できなかったのではない」

 

俺は、待った。

 

龍はこう、言った。

 

「揺れがなかった。揺れがなければ押せない。押せないからできなかった。……三百年前に揺れが始まった」

 

俺は、こう、訊いた。

 

「なぜ」

 

龍は、こう、答えた。

 

「月が割れたからだ」

 

 

俺は、そこで、息を呑んだ。

 

龍は、月、という言葉を使った。

 

この世界にその言葉はない。村の年寄りが輪廻の話をするときに一度だけ使う。

 

「月が割れたときに」

 

……それだけだ。誰もそれが何かを知らない。リツも知らなかった。俺が教えた。……。この龍は知っている。

 

俺は、こう、訊いた。

 

「お前は月を知っているのか」

 

龍は、こう、答えた。

 

「見た」

 

俺はそこで動きが止まった。

 

俺は、こう、訊いた。

 

「……見た」

 

答えた。

「見た。白かった。丸かった。夜に出た。欠けてまた満ちた。……見た」

 

訊いた。

 

「お前は何歳だ」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「数えていない」

 

 

「月が割れたときに、生きていたのか」

 

「生きていた」

 

俺はそこに立っていた。

 

構えを解いていた。いつ解いたのか覚えていない。俺は両手を下げてそこに立っていた。風が吹いていた。寒かった。だが寒さを感じていなかった。

 

俺は、こう、訊いた。

 

「割れるところを見たのか」

 

龍は、こう、答えた。

 

「見た」

 

俺は、こう、訊いた。

 

「どうだった」

 

龍はしばらく、黙っていた。長い間だった。俺は待った。

 

やがて、龍は、こう、言った。

 

「明るかった」

 

俺は、待った。

龍は、続けた。

 

「夜だった。空に月があった。いつも通りだった。……そして光が走った。一瞬だ。白い光が月の横から来た。……そして月が開いた」

 

「割れたではなく、開いた、なのか」

 

「開いた」

 

龍は、続けた。

 

「割れるというのは、外から力が加わって、砕けることだ。そうではなかった。……いや。そうでもある。外から何かが当たった。それは確かだ。だが月は砕けなかった。開いた。中から押し広げられるように開いた。……そしてその中から何かが出てきた」

 

俺は、そこで、動けなくなった。

 

俺は、こう、訊いた。

 

「何が、出てきた」

 

龍は、こう、答えた。

 

「わからない」

 

龍は続けた。

 

「見えなかった。いや、見えた。だが、それが何なのか、わからなかった。……いま、私は、それをこう呼んでいる。揺れ、と。月が開いて、揺れが出てきた。揺れはこの星に降りてきた。降りてきて広がった。……その日から私は、決まりを読めるようになった」

 

俺はそこでこう訊いた。

 

「その前は読めなかったのか」

 

「読めなかった」

 

俺は、こう、訊いた。

 

「その前のお前は何だった」

 

龍は、長く、黙っていた。

 

風が吹いていた。俺は待った。龍は動かなかった。目だけが俺を見ていた。

 

やがて、龍は、こう、言った。

 

「……獣だった」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍は、続けた。

 

「私は獣だった。この山にいた。餌を食い、寝て、また餌を食った。考えていなかった。考えるということを知らなかった。……月が開いた。揺れが降りてきた。そして私は考えるようになった」

 

俺はそこに立っていた。

 

俺はこう思った。

 

……人間と同じだ。

 

人間も変わった。あの男が書いていた。人は、これまでできなかったことができるようになった、と。そして、こう書いていた。これを進化と呼ぶ者がいる。私は同意しない。これは生きている個体に直接起きている。……。この龍もそうだ。こいつは獣だった。そしてある日考えるようになった。……。こいつは三百年前に生まれ直したのだ。

 

俺はそこでこう気づいた。

 

……俺と、同じだ。

 

俺はそのとき初めてこの龍をまともに見た。

 

白い。大きい。角がある。目がこちらを見ている。……。俺はその目を見た。見てこう思った。

 

こいつは三百年ここにいる。三百年この山の頂にいる。誰もこいつに話しかけなかった。二百年前に一人上を見た男が登ってきた。だが話さなかった。訊かれなかったからだ。……。三百年だ。

 

俺はこう訊いた。

 

「お前は三百年ここで何をしていた」

 

龍はこう答えた。

 

「見ていた」

 

俺はこう訊いた。

 

「何を」

 

龍はこう答えた。

 

 

「全部だ」

 

 

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