「私は」
龍はそう言った。そしてそこで止まった。
俺は待った。龍は続けなかった。長い間があった。風の音だけがしていた。俺は構えたまま待っていた。
やがて、龍はこう言った。
「……その問いは難しい」
俺はこう訊いた。
「なぜ」
龍はこう答えた。
「私が何であるかを、私は答えられる。だが、お前が知りたいことと、私が答えられることが同じかどうか、わからない」
俺はその言葉を聞いた。聞いて少し黙った。それからこう言った。
「では答えられることを言え」
龍はこう言った。
「私の体は、他の生き物と同じものでできている。肉がある。骨がある。血が流れている。だが一つ、違う。私の胸の中に一つ器官がある。それは心臓と呼ばれているが心臓ではない。いや心臓でもある。血を送っている。だがそれだけではない」
俺はこう訊いた。
「何をしている」
龍はこう答えた。
「読んでいる」
「何を」
龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。
「この世界がどう動くかを決めている決まりがある。石は落ちる。水は低い方に流れる。火は燃える。……そういう決まりだ。それはどこかに書かれている。書かれているというのは言い方が悪い。だが他に言いようがない。……その決まりを私の器官は読んでいる」
俺はそこで動きが止まった。
俺はこう訊いた。
「読めるということは読めないものもあるのか」
龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。
「……いい問いだ」
俺はその言い方に少し引っかかった。龍は続けた。
「ある。読めるものと読めないものがある。読めるものは決まりそのものだ。石が落ちるという決まり。水が流れるという決まり。それは読める。読めないものはなぜその決まりなのかだ」
「わからないのか」
「わからない」
俺はその言葉を聞いた。
訊いた。
「では人間が火を熾す。あれは何だ」
龍はこう答えた。
「あれは決まりを押している」
俺はそこで止まった。
押している。
俺は九つのミナにそう言った。火を思い浮かべるな。動かせ。手のひらの先に何かがある。それを押せ。……。俺はそれを自分で考えた。誰にも教わっていない。村の大人は念じろと言った。俺は押せと言った。……。この龍はいま押していると言った。
訊いた。
「何を押している」
龍はこう答えた。
「決まりだ。決まりは動かない。だが、決まりの細かいところは揺れる。揺れているところを押すことができる。押せば動く。押さなければ動かない。……人間が火を熾すというのはそういうことだ」
「なぜ人間にそれができる」
「できないものがいるのか」
俺はそこでこう、答えた。
「三百年前は誰もできなかった」
龍はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「……できなかったのではない」
俺は、待った。
龍はこう、言った。
「揺れがなかった。揺れがなければ押せない。押せないからできなかった。……三百年前に揺れが始まった」
俺は、こう、訊いた。
「なぜ」
龍は、こう、答えた。
「月が割れたからだ」
俺は、そこで、息を呑んだ。
龍は、月、という言葉を使った。
この世界にその言葉はない。村の年寄りが輪廻の話をするときに一度だけ使う。
「月が割れたときに」
……それだけだ。誰もそれが何かを知らない。リツも知らなかった。俺が教えた。……。この龍は知っている。
俺は、こう、訊いた。
「お前は月を知っているのか」
龍は、こう、答えた。
「見た」
俺はそこで動きが止まった。
俺は、こう、訊いた。
「……見た」
答えた。
「見た。白かった。丸かった。夜に出た。欠けてまた満ちた。……見た」
訊いた。
「お前は何歳だ」
龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。
「数えていない」
「月が割れたときに、生きていたのか」
「生きていた」
俺はそこに立っていた。
構えを解いていた。いつ解いたのか覚えていない。俺は両手を下げてそこに立っていた。風が吹いていた。寒かった。だが寒さを感じていなかった。
俺は、こう、訊いた。
「割れるところを見たのか」
龍は、こう、答えた。
「見た」
俺は、こう、訊いた。
「どうだった」
龍はしばらく、黙っていた。長い間だった。俺は待った。
やがて、龍は、こう、言った。
「明るかった」
俺は、待った。
龍は、続けた。
「夜だった。空に月があった。いつも通りだった。……そして光が走った。一瞬だ。白い光が月の横から来た。……そして月が開いた」
「割れたではなく、開いた、なのか」
「開いた」
龍は、続けた。
「割れるというのは、外から力が加わって、砕けることだ。そうではなかった。……いや。そうでもある。外から何かが当たった。それは確かだ。だが月は砕けなかった。開いた。中から押し広げられるように開いた。……そしてその中から何かが出てきた」
俺は、そこで、動けなくなった。
俺は、こう、訊いた。
「何が、出てきた」
龍は、こう、答えた。
「わからない」
龍は続けた。
「見えなかった。いや、見えた。だが、それが何なのか、わからなかった。……いま、私は、それをこう呼んでいる。揺れ、と。月が開いて、揺れが出てきた。揺れはこの星に降りてきた。降りてきて広がった。……その日から私は、決まりを読めるようになった」
俺はそこでこう訊いた。
「その前は読めなかったのか」
「読めなかった」
俺は、こう、訊いた。
「その前のお前は何だった」
龍は、長く、黙っていた。
風が吹いていた。俺は待った。龍は動かなかった。目だけが俺を見ていた。
やがて、龍は、こう、言った。
「……獣だった」
俺はその言葉を聞いた。
龍は、続けた。
「私は獣だった。この山にいた。餌を食い、寝て、また餌を食った。考えていなかった。考えるということを知らなかった。……月が開いた。揺れが降りてきた。そして私は考えるようになった」
俺はそこに立っていた。
俺はこう思った。
……人間と同じだ。
人間も変わった。あの男が書いていた。人は、これまでできなかったことができるようになった、と。そして、こう書いていた。これを進化と呼ぶ者がいる。私は同意しない。これは生きている個体に直接起きている。……。この龍もそうだ。こいつは獣だった。そしてある日考えるようになった。……。こいつは三百年前に生まれ直したのだ。
俺はそこでこう気づいた。
……俺と、同じだ。
俺はそのとき初めてこの龍をまともに見た。
白い。大きい。角がある。目がこちらを見ている。……。俺はその目を見た。見てこう思った。
こいつは三百年ここにいる。三百年この山の頂にいる。誰もこいつに話しかけなかった。二百年前に一人上を見た男が登ってきた。だが話さなかった。訊かれなかったからだ。……。三百年だ。
俺はこう訊いた。
「お前は三百年ここで何をしていた」
龍はこう答えた。
「見ていた」
俺はこう訊いた。
「何を」
龍はこう答えた。
「全部だ」