月のない空   作:朝凪小夜

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第三十一話 訊け

 

「全部だ」

 

龍はそう言った。

 

俺はこう訊いた。

 

「全部とは」

 

龍はこう答えた。

 

「人間が崩れるのを見た。街が燃えるのを見た。人が人を殺すのを見た。殺した者がまた殺されるのを見た。それが百年続いた。……そのあと都ができた。都に家ができた。家が増えて減った。いまは七つだ。……全部見た」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

「ここから見えるのか」

「見えない」

「ならなぜ知っている」

「下りた」

 

俺はそこで動きが止まった。

 

龍は続けた。

 

「夜に下りた。人のいない場所に下りた。遠くから見た。見てまた上がった。……何度もそうした」

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ人前に出なかった」龍はこう答えた。

 

「出れば、逃げる。逃げれば見えない。……見たかった」

 

俺はその答えを聞いた。聞いてしばらく何も言えなかった。

 

そして、こう訊いた。

 

「……都まで三十日だ」

 

龍は、答えなかった。

俺は続けた。

 

「歩けば往復で六十日だ。最後の五日は登りだ。……何度もそうしたのか」

 

龍はしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「……その話はあとだ」

 

俺はその答えに引っかかった。引っかかったが、それ以上訊かなかった。訊く必要があった。あったのに訊かなかった。

 

……俺はまだそういう男だった。

 

この龍は三百年人間を見ていた。見るために隠れていた。姿を見せれば人間は逃げる。逃げれば人間がどう暮らしているのかが見えない。……だから隠れた。三百年隠れて見ていた。

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ見たかった」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「わからない」

 

「わからないのに三百年見ていたのか」

 

「そうだ」

 

俺はそこに立っていた。

 

風が吹いていた。日が傾き始めていた。俺はそれに気づいていなかった。どれくらい話していたのかわからない。……。俺は後ろを見た。四十八人が遠くにいた。岩の陰に集まっていた。こちらを見ていた。誰も動かなかった。俺が龍と話しているのを見ていた。……何が起きているのかわかっていないのだろう。俺にもわかっていない。

 

俺はまた前を見た。

 

俺はこう訊いた。

 

「人間はお前を殺しに来た」

 

龍はこう答えた。

 

「来た」

「何度」

「数えていない。多い。……いや、多くはない。百年に二度か三度だ。だが、来た」

「どうした」

「殺した」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍は続けた。

 

「向かってくれば殺す。向かってこなければ殺さない。……いつも向かってきた」

 

「なぜ向かってくると殺す」

「殺さなければ私が死ぬ」

 

俺は頷いた。

当たり前だ。

俺もそうしてきた。

 

俺はこう訊いた。

 

「他の龍は」

 

龍はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「いた」

 

俺は待った。

龍は続けた。

 

「私と同じものが他にもいた。月が開いたときに変わったものが。……いまは少ない。人間が殺した」

 

「なぜ、殺された」

「下りたからだ」

 

龍は、続けた。

 

「あれらは下りた。人の前に出た。人を殺した。……人は集まって殺し返した。何百人も来た。半分が死んだ。だが殺した。……そういうことが何度もあった」

 

俺はこう訊いた。

「お前は下りなかった」

「下りた。だが出なかった。見ていた」

「なぜお前だけ出なかった」

 

龍は、長く、黙っていた。

 

風の音がしていた。俺は待った。龍は動かなかった。目だけが俺を見ていた。

 

やがて、龍はこう言った。

 

「……わからない」

 

俺はその答えを聞いた。

 

訊いた。

「お前はわからないとよく言うな」

 

龍はこう答えた。

「わからないものが多い」

 

俺はこう言った。

「三百年生きていてか」

 

龍はこう答えた。

「三百年生きた。だから、わからないものが多い。……短く生きればわからないものは少ない」

 

俺はそこで少し笑った。

 

笑ってから俺は自分に驚いた。俺はこいつを殺しに来た。殺しに来た相手の言葉に笑っている。……。俺はそこでこう思った。俺はいま何をしている。

 

俺はその問いを立てた。立てて答えを探した。探して答えが出なかった。

 

俺は黙った。

 

俺が黙ると風の音だけになった。龍も黙っていた。俺はそこに立っていた。考えていた。何を考えていたのかは覚えていない。たぶん、何も考えていなかった。ただ黙っていた。

 

どれくらい黙っていたのかわからない。長くはない。十を数えるほどだ。あるいは二十か。

そして龍がこう言った。

 

「……もう一つ訊け」

 

俺は顔を上げた。

俺はその言葉を聞いた。

 

「もう一つ、訊け」

 

俺は龍を見た。

龍は動いていなかった。目だけが俺を見ていた。その目が変わったようには見えなかった。何も変わっていなかった。だがこいつはいまそう言った。

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜだ」

 

龍は答えなかった。

 

俺はこう訊いた。

「なぜ訊けと言う」

 

龍は長く黙っていた。

 

そして、こう言った。

「……わからない」

 

俺はその答えを聞いた。

俺はそこに立っていた。構えはとうに解いていた。両手が下がっていた。武器は腰にある。抜いていない。……。俺はそのとき初めてそれに気づいた。

 

俺はこいつを殺しに来た。

 

俺はそれを忘れていた。

 

どれくらい忘れていたのか。

……。

「珍しい」

 

こいつがそう言った。そこからだ。そこから俺はこいつを殺すことを考えていない。一度も考えていない。……。俺はそのあいだ何を考えていた。月のことを。揺れのことを。決まりのことを。……こいつが何を見てきたかを。

 

俺はそこでこう思った。

 

……俺はいつからこいつを殺すつもりでいなかった。

 

俺はその問いを立てた。立てて答えが出た。すぐに出た。

 

 

最初からだ。

 

 

俺はこいつが殺してこなかったことを知っていた。五日見られていて殺されなかった。殺せるのに殺さなかった。……だから俺は訊いた。「なぜ殺さない」と。……。あれは戦いのための問いだった。俺はそう思っていた。相手の狙いを知るための問いだと。……。違う。

 

 

俺はそのときこう思ったのだ。

……こいつは殺してこない。

 

 

殺してこない相手を俺はどうすればいいのかわからなかった。俺は向かってくるものしか殺したことがない。向かってこないものを殺したことがない。……だから訊いた。訊く以外にやることがなかった。

 

俺はそこに立っていた。日が傾いていた。風が冷たくなっていた。俺はこう思った。

 

……俺はこいつを殺せるのか。

 

俺はその問いを立てた。立てて答えを探した。

 

殺せる。たぶん殺せる。こいつは動かない。動かないものを殺すのは簡単だ。俺は地下で目のない魔物をそうやって殺した。……。殺せる。

 

俺はそう答えた。

 

そして次にこう思った。

 

 

……なぜ殺す。

 

 

俺はそこで動けなくなった。

 

 

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