月のない空   作:朝凪小夜

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第三十三話 行けるか

 

星が出た。

 

俺はそれを見なかった。下を見ていた。足元の雪を。

 

俺はそこに立っていた。寒かった。風は止んでいた。風が止むと余計に寒かった。息が白かった。俺はその白いものが上に昇っていくのを見ていた。

 

……見ていなかった。

俺は何も見ていなかった。

 

龍がこう言った。

 

「出た」

 

俺は顔を上げた。

 

龍は俺を見ていなかった。

 

上を見ていた。

 

俺はその顔を見た。長い顔だ。角がある。その顔が真上を向いていた。目が開いていた。

 

 

……見ていた。

 

 

俺はその視線の先を追った。空があった。俺はそこで息を呑んだ。

 

 

星が多かった。

 

 

村で見た空より多い。都で見た空よりはるかに多い。海の上で見た空よりまだ多い。……。俺はその理由を知っている。高いからだ。高いところは空気が薄い。空気が薄ければ光がよく通る。だから星が多く見える。……。俺はそれを知っている。知っているがこんなに多いとは思わなかった。

 

そして環があった。

 

銀色の帯が空を横切っていた。その帯が光っていた。俺はそんな光り方を見たことがなかった。都ではこうは見えない。灯りが多いからだ。村でもこうは見えなかった。空気が厚いからだ。……。ここでは見える。

 

俺はそれを見上げた。

 

しばらく動かなかった。

 

龍も、動かなかった。

 

俺たちは二人とも上を見ていた。

 

どれくらいそうしていたのかわからない。長かった。俺は寒さを忘れていた。いや寒かった。だが動かなかった。

 

やがて龍がこう言った。

 

「あれは月だとお前は言った」

 

俺はこう答えた。

 

「言った」

 

龍はこう言った。

「私もそう思っていた」

 

俺はそこで龍を見た。

 

龍はまだ上を見ていた。

 

龍はこう続けた。

 

「月が開いた。中から揺れが出た。そして月はなくなった。……なくなった月がどこに行ったのか。私はそれを考えた」

 

俺はこう訊いた。

 

「いつ」

 

龍はこう答えた。

 

「割れた次の夜だ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍は続けた。

 

「月がなかった。代わりに帯があった。……同じものだと思った」

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ」

 

龍はこう答えた。

 

「他にない」

 

俺はその答えに少し笑った。笑ったのはその答えが正しいからだ。月がなくなった。同じ夜に帯ができた。なら同じものだ。……それ以外に考えようがない。

 

「三百年前にそれを考えたのか」

「考えた」

「人間は三百年考えなかった」

「知っている」

 

俺はそこに立っていた。

 

俺は空を見上げた。環があった。俺はそれを見ていた。

 

 

俺もずっと考えなかった。

俺は五歳であれを見た。美しいと思った。それから十七年見上げるたびに美しいと思った。

 

……。

考えなかった。

 

この龍は割れた次の夜に考えた。

 

俺はそこでこう思った。

 

……こいつは俺より賢い。

 

そしてそのことに俺は腹を立てなかった。

 

俺はこう訊いた。

 

「お前は三百年あれを見ていたのか」

 

龍はこう答えた。

 

「見ていた」

「毎晩か」

「雲がなければ」

 

俺はその答えを聞いた。

三百年。雲のない夜は全部。この龍はあれを見上げていた。

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ」

 

龍は答えなかった。

長い間があった。

俺は待った。龍は上を見ていた。動かなかった。俺はその横顔を見ていた。

 

やがて龍はこう言った。

「……わからない」

俺はその答えを聞いた。

 

 

俺はこう思った。

この龍はわからないと言う。だが三百年見ていた。毎晩見ていた。雲のない夜は全部。

 

……。

わからないものを三百年見続けるか。

 

俺はそこでこう訊いた。

 

「……お前はあそこに何を見ている」

 

龍はしばらく黙っていた。

それからこう言った。

 

「近い」

俺はこう訊いた。

 

「何が」

 

龍はこう答えた。

 

「ここは近い。下より近い。……だからここにいる」

 

俺はそこで動きが止まった。

 

俺はこう訊いた。

 

「……三百年、そのためにここにいるのか」

 

 

龍はこう答えた。

 

「そうだ」

 

俺はそこに立っていた。

 

俺はこう思った。

 

この山は都から三十日だ。最後の五日は登りだ。人間はここに住めない。寒い。餌がない。……。この龍はここに三百年いる。餌は下りて獲る。獲ってまた上がる。……。なぜ下に住まない。下の方が餌がある。暖かい。……。この龍は上を見るためにここにいる。

 

俺はそこでこう訊いた。

 

「お前は飛べるのか」

 

龍はこう答えた。

 

「飛べる」

 

 

俺はこう訊いた。

 

「どこまで」

 

龍はこう答えた。

「上には行けない」

 

俺はそこで止まった。

 

「行けない、とは」

 

龍はこう答えた。

「上に行くと息ができない。空気が薄くなる。薄くなってなくなる。……なくなるというのは正しくない。薄くなり続ける。どこまでも薄くなり続ける。……だから行けない」

 

龍は続けた。

 

「私は何度も上がった。上がるたびに息が苦しくなった。寒くなった。……そして下りた。何度もそうした。……いまは上がらない」

 

俺はこう訊いた。

 

「……いつやめた」

 

龍はこう答えた。

 

「二百年ほど前だ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

二百年。

 

この龍は百年飛び続けた。上に、上に、飛び続けた。届かなかった。何度も届かなかった。……そしてやめた。二百年前に。

 

それから、二百年。

 

この龍は山の頂に座っている。いちばん近い場所に。そして見上げている。毎晩。雲のない夜は全部。

 

俺はそこでこう言った。

 

「……それは違う」

 

龍が俺を見た。

 

初めて上から目を外した。俺を見た。

 

俺はこう言った。

 

「空気は薄くなり続けない」

 

龍は動かなかった。

 

俺は続けた。

 

「終わりがある。上に行けば、空気は薄くなる。薄くなって、ある高さで、なくなる。……なくなる。薄くなり続けるのではない。なくなるんだ」

 

龍は動かなかった。

俺は続けた。

 

「空気がない場所には何もない。息はできない。……だが押し返すものもない」

 

俺はそう言った。

 

龍は動かなかった。

 

目だけが俺を見ていた。

 

俺はこう言った。

 

「お前は決まりを読める。押せる。……押し続ければ、どうなる」

 

龍は答えなかった。

 

俺は続けた。

 

「押し返すものがなければ、押した分だけ進む。止まらない。止めるものがない。……押し続ければ速くなる。速くなり続ける」

 

龍は動かなかった。

 

俺はこう言った。

 

「息はできない。……だが息を止めればいい。どれくらい止められる」

 

龍はこう答えた。

 

「……長く止められる」

 

俺はこう言った。

 

「なら届く」

 

龍は動かなかった。

 

風がなかった。寒かった。星が出ていた。環が光っていた。

 

龍は上を見た。

 

それから俺を見た。

そしてこう言った。

 

 

「……あそこには行けるか」

 

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺はこう答えた。

 

「わからない」

 

俺はそう答えた。

 

そして、こう、続けた。

 

「わからない。だが、お前は行けないと決めていた。……その決め方は間違っている。行けるかどうかは、算えなければわからない」

 

龍はそこで長く黙っていた。

俺は待った。

 

やがて龍はこう言った。

 

「……なぜ、私は行きたいのだ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺はそこに立っていた。

 

龍は続けた。

 

「私はいま、行けるかと訊いた。……なぜそう訊いた。私は、行きたいのか。……。三百年見ていた。毎晩見ていた。わからないまま見ていた。……。私は、行きたかったのか」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍はこう言った。

 

「……ああ」

 

そして、こう続けた。

 

「私は、行きたかったのか」

 

俺はそこに立っていた。

 

俺は何も言わなかった。

 

言えなかった。

 

この龍は三百年あれを見ていた。行けないと決めた。二百年前に飛ぶのをやめた。……。そしていま初めてそれが望みだったと知った。

 

三百年だ。

 

俺はそこでこう思った。

 

 

俺は四十三年望まなかった。

 

 

この龍は三百年望んでいた。

 

望んでいることを、知らずに。

 

 

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