星が出た。
俺はそれを見なかった。下を見ていた。足元の雪を。
俺はそこに立っていた。寒かった。風は止んでいた。風が止むと余計に寒かった。息が白かった。俺はその白いものが上に昇っていくのを見ていた。
……見ていなかった。
俺は何も見ていなかった。
龍がこう言った。
「出た」
俺は顔を上げた。
龍は俺を見ていなかった。
上を見ていた。
俺はその顔を見た。長い顔だ。角がある。その顔が真上を向いていた。目が開いていた。
……見ていた。
俺はその視線の先を追った。空があった。俺はそこで息を呑んだ。
星が多かった。
村で見た空より多い。都で見た空よりはるかに多い。海の上で見た空よりまだ多い。……。俺はその理由を知っている。高いからだ。高いところは空気が薄い。空気が薄ければ光がよく通る。だから星が多く見える。……。俺はそれを知っている。知っているがこんなに多いとは思わなかった。
そして環があった。
銀色の帯が空を横切っていた。その帯が光っていた。俺はそんな光り方を見たことがなかった。都ではこうは見えない。灯りが多いからだ。村でもこうは見えなかった。空気が厚いからだ。……。ここでは見える。
俺はそれを見上げた。
しばらく動かなかった。
龍も、動かなかった。
俺たちは二人とも上を見ていた。
どれくらいそうしていたのかわからない。長かった。俺は寒さを忘れていた。いや寒かった。だが動かなかった。
やがて龍がこう言った。
「あれは月だとお前は言った」
俺はこう答えた。
「言った」
龍はこう言った。
「私もそう思っていた」
俺はそこで龍を見た。
龍はまだ上を見ていた。
龍はこう続けた。
「月が開いた。中から揺れが出た。そして月はなくなった。……なくなった月がどこに行ったのか。私はそれを考えた」
俺はこう訊いた。
「いつ」
龍はこう答えた。
「割れた次の夜だ」
俺はその言葉を聞いた。
龍は続けた。
「月がなかった。代わりに帯があった。……同じものだと思った」
俺はこう訊いた。
「なぜ」
龍はこう答えた。
「他にない」
俺はその答えに少し笑った。笑ったのはその答えが正しいからだ。月がなくなった。同じ夜に帯ができた。なら同じものだ。……それ以外に考えようがない。
「三百年前にそれを考えたのか」
「考えた」
「人間は三百年考えなかった」
「知っている」
俺はそこに立っていた。
俺は空を見上げた。環があった。俺はそれを見ていた。
俺もずっと考えなかった。
俺は五歳であれを見た。美しいと思った。それから十七年見上げるたびに美しいと思った。
……。
考えなかった。
この龍は割れた次の夜に考えた。
俺はそこでこう思った。
……こいつは俺より賢い。
そしてそのことに俺は腹を立てなかった。
俺はこう訊いた。
「お前は三百年あれを見ていたのか」
龍はこう答えた。
「見ていた」
「毎晩か」
「雲がなければ」
俺はその答えを聞いた。
三百年。雲のない夜は全部。この龍はあれを見上げていた。
俺はこう訊いた。
「なぜ」
龍は答えなかった。
長い間があった。
俺は待った。龍は上を見ていた。動かなかった。俺はその横顔を見ていた。
やがて龍はこう言った。
「……わからない」
俺はその答えを聞いた。
俺はこう思った。
この龍はわからないと言う。だが三百年見ていた。毎晩見ていた。雲のない夜は全部。
……。
わからないものを三百年見続けるか。
俺はそこでこう訊いた。
「……お前はあそこに何を見ている」
龍はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「近い」
俺はこう訊いた。
「何が」
龍はこう答えた。
「ここは近い。下より近い。……だからここにいる」
俺はそこで動きが止まった。
俺はこう訊いた。
「……三百年、そのためにここにいるのか」
龍はこう答えた。
「そうだ」
俺はそこに立っていた。
俺はこう思った。
この山は都から三十日だ。最後の五日は登りだ。人間はここに住めない。寒い。餌がない。……。この龍はここに三百年いる。餌は下りて獲る。獲ってまた上がる。……。なぜ下に住まない。下の方が餌がある。暖かい。……。この龍は上を見るためにここにいる。
俺はそこでこう訊いた。
「お前は飛べるのか」
龍はこう答えた。
「飛べる」
俺はこう訊いた。
「どこまで」
龍はこう答えた。
「上には行けない」
俺はそこで止まった。
「行けない、とは」
龍はこう答えた。
「上に行くと息ができない。空気が薄くなる。薄くなってなくなる。……なくなるというのは正しくない。薄くなり続ける。どこまでも薄くなり続ける。……だから行けない」
龍は続けた。
「私は何度も上がった。上がるたびに息が苦しくなった。寒くなった。……そして下りた。何度もそうした。……いまは上がらない」
俺はこう訊いた。
「……いつやめた」
龍はこう答えた。
「二百年ほど前だ」
俺はその言葉を聞いた。
二百年。
この龍は百年飛び続けた。上に、上に、飛び続けた。届かなかった。何度も届かなかった。……そしてやめた。二百年前に。
それから、二百年。
この龍は山の頂に座っている。いちばん近い場所に。そして見上げている。毎晩。雲のない夜は全部。
俺はそこでこう言った。
「……それは違う」
龍が俺を見た。
初めて上から目を外した。俺を見た。
俺はこう言った。
「空気は薄くなり続けない」
龍は動かなかった。
俺は続けた。
「終わりがある。上に行けば、空気は薄くなる。薄くなって、ある高さで、なくなる。……なくなる。薄くなり続けるのではない。なくなるんだ」
龍は動かなかった。
俺は続けた。
「空気がない場所には何もない。息はできない。……だが押し返すものもない」
俺はそう言った。
龍は動かなかった。
目だけが俺を見ていた。
俺はこう言った。
「お前は決まりを読める。押せる。……押し続ければ、どうなる」
龍は答えなかった。
俺は続けた。
「押し返すものがなければ、押した分だけ進む。止まらない。止めるものがない。……押し続ければ速くなる。速くなり続ける」
龍は動かなかった。
俺はこう言った。
「息はできない。……だが息を止めればいい。どれくらい止められる」
龍はこう答えた。
「……長く止められる」
俺はこう言った。
「なら届く」
龍は動かなかった。
風がなかった。寒かった。星が出ていた。環が光っていた。
龍は上を見た。
それから俺を見た。
そしてこう言った。
「……あそこには行けるか」
俺はその言葉を聞いた。
俺はこう答えた。
「わからない」
俺はそう答えた。
そして、こう、続けた。
「わからない。だが、お前は行けないと決めていた。……その決め方は間違っている。行けるかどうかは、算えなければわからない」
龍はそこで長く黙っていた。
俺は待った。
やがて龍はこう言った。
「……なぜ、私は行きたいのだ」
俺はその言葉を聞いた。
俺はそこに立っていた。
龍は続けた。
「私はいま、行けるかと訊いた。……なぜそう訊いた。私は、行きたいのか。……。三百年見ていた。毎晩見ていた。わからないまま見ていた。……。私は、行きたかったのか」
俺はその言葉を聞いた。
龍はこう言った。
「……ああ」
そして、こう続けた。
「私は、行きたかったのか」
俺はそこに立っていた。
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
この龍は三百年あれを見ていた。行けないと決めた。二百年前に飛ぶのをやめた。……。そしていま初めてそれが望みだったと知った。
三百年だ。
俺はそこでこう思った。
俺は四十三年望まなかった。
この龍は三百年望んでいた。
望んでいることを、知らずに。