その夜、俺は山の頂で寝た。
龍のそばで寝た。なぜそんなことをしたのかはわからない。下に下りればよかった。四十八人が待っている。岩の陰に集まっている。俺はそこに戻ることもできた。……戻らなかった。
俺は岩に背中を預けて座った。目を閉じた。寒かった。だが眠れた。
目が覚めたのは夜明け前だ。まだ暗かった。星が出ていた。俺はそれを見た。……見上げた。自分から見上げた。
龍は起きていた。
いや寝ていたのかもしれない。俺にはわからない。龍が寝るのかどうかも知らない。だが、俺が目を開けたとき龍は上を見ていた。いつも通りに。
俺はこう言った。
「訊いていいか」
龍はこちらを見た。
そしてこう言った。
「訊け」
俺はその言い方に気づいた。
昨日と同じだ。
「もう一つ訊け」
……。
こいつは訊かれるのを待っている。待っていることを知らない。
俺はこう訊いた。
「お前の名は」
龍はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「無い」
「人間は何と呼んでいる」
龍はこう答えた。
「……ミル」
俺はその言葉を聞いた。
俺はこう訊いた。
「知っているのか」
「知っている。人間がそう呼んでいる。……見ていたからだ」
俺はこう訊いた。
「それは、名ではないのか」
龍はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「……わからない」
俺はその答えを聞いた。
俺はこう思った。
ミル。見る。……見るもの。
この世界の言葉は崩れている。地名は崩れた。人の名も崩れた。だがミルという音は崩れていない。……なぜか。短いからだ。短い言葉は崩れない。サド。ノト。エチ。……ミル。
俺はこう言った。
「それは名だ」
龍は、動かなかった。
俺は続けた。
「見る、という言葉がある。目でものを見る。……その言葉だ。人間はお前をそう呼んだ。見るものと」
龍は動かなかった。
俺はこう言った。
「人間はそれが何の意味かを知らない。三百年で意味が消えた。音だけが残った。……お前を恐れる音として残った」
龍は動かなかった。
俺はこう言った。
「だが、あれは、名だ。お前をいちばん正しく呼んだ名だ」
龍は長く黙っていた。
そして、こう言った。
「……そうか」
それだけだった。
俺はその、そうか、を聞いた。
俺はそこに座っていた。夜が明け始めていた。空が東から白くなっていた。星が消えていった。環が薄くなっていった。
俺はこう言った。
「俺はお前を殺しに来た」
龍はこう言った。
「知っている」
俺はこう言った。
「なぜ殺しに来たかを話す」
龍はこう言った。
「話せ」
俺は話した。
都に機械がある。数を算える機械だ。その中に心臓が入っている。龍の心臓だ。三百年前からそうだ。……。その心臓はいつか止まる。止まれば機械が止まる。だからもう一つ要る。二つあれば力が十倍になる。……。そして俺は算えたいものがある。
俺はそこで手記のことを話した。
三百年前の男のことを。東京の地下のことを。書かれていたことを。……。この星は揺れている。月がなくなったからだ。揺れれば気候が変わる。海が変わる。……いつか人の住めない場所になる。いつかはわからない。算えれば出る。……あの男はそう書いた。算えられなかった。道具がなかったからだ。
俺はそこまで話した。
龍は聞いていた。途中で一度も口を挟まなかった。
俺が話し終えると龍はこう言った。
「……知っていた」
俺はそこで動きが止まった。
俺はこう訊いた。
「何を」
龍はこう答えた。
「揺れていることを。……私は決まりを読める。この星がどう回っているかも読める。……ずれている。少しずつ、ずれている」
俺はこう訊いた。
「……いつから、知っていた」
龍は、こう、答えた。
「三百年前からだ」
俺はそこに座っていた。
俺は、こう、訊いた。
「なぜ誰にも言わなかった」
龍は、こう、答えた。
「訊かれなかった」
俺はその答えを聞いた。
三百年。
この龍は答えを持っていた。この星が揺れていることを知っていた。……。誰も訊かなかった。人間は殺しに来るだけだった。百年に二度か三度。……。誰も訊かなかった。
俺は、こう、訊いた。
「いつ、終わる」
龍はこう答えた。
「わからない」
俺はこう訊いた。
「読めないのか」
龍はこう答えた。
「読める。だが、算えられない。……読むことと、算えることは違う。私は決まりを読める。だが、その決まりから何年後にどうなるかを算えるには、数が要る。数を積み重ねなければならない。……私にはそれができない」
俺はこう訊いた。
「なぜ」
龍はこう答えた。
「私は一人だ」
俺はその言葉を聞いた。
龍は続けた。
「私には親がいない。子もいない。……三百年前、私は獣だった。ある日考えるようになった。それだけだ。……誰も私に何も教えなかった。私が知っていることは、全部私が見たことだ。……見ていないことは、知らない」
俺はそこでこう思った。
空気は薄くなり続けない。
この龍はそれを知らなかった。三百年知らなかった。……なぜなら誰も教えなかったからだ。この龍は自分で飛んだ。飛んで苦しくなって下りた。何度もそうした。そしてこう結論した。どこまでも薄くなり続けると。
……。
正しい観測だ。
正しい推論だ。
……。
そして、間違っている。
俺はこう思った。
この龍に足りなかったのは力ではない。
俺はそこに座っていた。
俺はこう言った。
「機械が要る」
龍はこう言った。
「そうだろうな」
俺はこう言った。
「機械はいま一つの心臓で動いている。力が足りない。……もう一つ要る」
龍はこう言った。
「私の心臓か」
俺は答えなかった。
龍はこう言った。
「私の心臓を使えば算えられるのか」
俺はこう答えた。
「わからない。だが算えられるかもしれない」
龍はこう言った。
「なら」
俺はこう言った。
「駄目だ」
龍は動かなかった。
俺は続けた。
「お前が死んだら、答えが出てもお前が見られない」
龍は長く黙っていた。
風がなかった。空が白んでいた。星はもうほとんど消えていた。環だけが薄く残っていた。
龍はこう言った。
「……それは」
そして、そこで止まった。
俺は、待った。
龍はこう言った。
「……それはどういうことだ」
俺はその言葉を聞いた。
この龍は答えを見るということを知らない。
三百年答えを持っていた。誰も訊かなかった。だから答えを渡したことがない。……。そして、この龍は自分が知りたいことについては、答えを持っていない。算えられないからだ。……。この龍は答えが出るということを経験したことがない。
俺はこう言った。
「答えが出る。その答えをお前が見る。……それがどういうことか、俺にもわからない。俺も経験したことがない」
そしてこう続けた。
「だが俺はあの束を読んだ。三百年前の男の束を。あの男は答えを見なかった。書いて死んだ。……。俺が読んだ。三百年かかった。……届いた」
龍は動かなかった。
俺はこう言った。
「お前は見られる。俺が算える。……だから死ぬな」
龍はこう訊いた。
「では心臓は」
俺はこう言った。
「俺が代わりを探す」
嘘だ。
そんなものは探さない。探す必要がない。
龍の心臓がこの世界の決まりを読んでいる。書かれている決まりを読んでいる。……。ならその決まりの中でいちばん上のものが刻まれたものがある。
生と死だ。
この世界のあらゆる決まりの中で、いちばん根に近いもの。石が落ちる。水が流れる。火が燃える。……そして生き物は死ぬ。死んだものは戻らない。……それがいちばん深い決まりだ。
誰もそれを外から見たことがない。
死は内側からしか経験できない。経験した瞬間に経験した者がいなくなる。だから誰もそれを読めない。龍にも読めない。読んだ瞬間に読む者が消えるからだ。
俺はそれを外から見た。
俺は死んだ。そして戻ってきた。
俺はこの世界でただ一人、死の決まりを読んで、生きて戻ってきた者だ。
俺の胸の中にそれがある。
ここに。
俺はそこに座っていた。
夜が明けた。日が昇った。東の空が赤かった。雲海が赤く染まっていた。俺はそれを見ていた。
龍がこう言った。
「また訊きに来い」
俺はその言葉を聞いた。
俺はこう答えた。
「来る」
そしてこう続けた。
「何度でも来る」
俺は立ち上がった。
武器は抜かなかった。一度も抜かなかった。
俺は山を下りた。
下りる途中で二人を見つけた。
岩の陰にいた。並んで座っていた。寒さでそのまま固まっていた。顔は穏やかだった。苦しんだ跡はなかった。……それがよけいにこたえた。
俺は二人を埋めた。岩をどけた。土はなかった。凍っていた。俺はそれを掘った。手で掘った。半日掘った。そして埋めた。石を積んだ。俺はそれをやった。
四十八人が下から見ていた。誰も手伝わなかった。俺が断ったからだ。
俺は一人でやった。
やり終えて俺はその石の前にしばらく立っていた。何も言わなかった。言うことがなかったからだ。俺はこいつらを殺した。殺したのは俺だ。……。謝っても意味がない。謝らないのもずるい。……。俺は何も言わなかった。
そして山を下りた。
隊の頭がこう訊いた。
「……龍は」
俺はこう答えた。
「殺さなかった」
男は俺を見た。
そしてこう訊いた。
「なぜだ」
俺はこう答えた。
「話した」
男はこう言った。
「……話した」
俺は頷いた。
男はしばらく俺を見ていた。
それからこう言った。
「リツ様に、なんと言う」
俺はこう答えた。
「俺が話す」