月のない空   作:朝凪小夜

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第三十四話 ここに

 

その夜、俺は山の頂で寝た。

 

龍のそばで寝た。なぜそんなことをしたのかはわからない。下に下りればよかった。四十八人が待っている。岩の陰に集まっている。俺はそこに戻ることもできた。……戻らなかった。

 

俺は岩に背中を預けて座った。目を閉じた。寒かった。だが眠れた。

 

目が覚めたのは夜明け前だ。まだ暗かった。星が出ていた。俺はそれを見た。……見上げた。自分から見上げた。

 

龍は起きていた。

 

いや寝ていたのかもしれない。俺にはわからない。龍が寝るのかどうかも知らない。だが、俺が目を開けたとき龍は上を見ていた。いつも通りに。

 

俺はこう言った。

 

「訊いていいか」

 

龍はこちらを見た。

 

そしてこう言った。

 

「訊け」

 

俺はその言い方に気づいた。

 

昨日と同じだ。

 

「もう一つ訊け」

 

……。

こいつは訊かれるのを待っている。待っていることを知らない。

 

俺はこう訊いた。

「お前の名は」

 

龍はしばらく黙っていた。

それからこう言った。

 

「無い」

 

「人間は何と呼んでいる」

 

龍はこう答えた。

「……ミル」

 

俺はその言葉を聞いた。

俺はこう訊いた。

 

「知っているのか」

「知っている。人間がそう呼んでいる。……見ていたからだ」

 

俺はこう訊いた。

 

「それは、名ではないのか」

 

龍はしばらく黙っていた。

それからこう言った。

 

「……わからない」

 

俺はその答えを聞いた。

 

俺はこう思った。

 

ミル。見る。……見るもの。

 

この世界の言葉は崩れている。地名は崩れた。人の名も崩れた。だがミルという音は崩れていない。……なぜか。短いからだ。短い言葉は崩れない。サド。ノト。エチ。……ミル。

 

俺はこう言った。

 

「それは名だ」

 

龍は、動かなかった。

 

俺は続けた。

 

「見る、という言葉がある。目でものを見る。……その言葉だ。人間はお前をそう呼んだ。見るものと」

 

龍は動かなかった。

 

俺はこう言った。

 

「人間はそれが何の意味かを知らない。三百年で意味が消えた。音だけが残った。……お前を恐れる音として残った」

 

龍は動かなかった。

 

俺はこう言った。

 

「だが、あれは、名だ。お前をいちばん正しく呼んだ名だ」

 

龍は長く黙っていた。

 

そして、こう言った。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

 

俺はその、そうか、を聞いた。

 

俺はそこに座っていた。夜が明け始めていた。空が東から白くなっていた。星が消えていった。環が薄くなっていった。

 

俺はこう言った。

 

「俺はお前を殺しに来た」

 

龍はこう言った。

 

「知っている」

 

俺はこう言った。

 

 

「なぜ殺しに来たかを話す」

 

 

龍はこう言った。

 

「話せ」

 

俺は話した。

 

都に機械がある。数を算える機械だ。その中に心臓が入っている。龍の心臓だ。三百年前からそうだ。……。その心臓はいつか止まる。止まれば機械が止まる。だからもう一つ要る。二つあれば力が十倍になる。……。そして俺は算えたいものがある。

 

俺はそこで手記のことを話した。

 

三百年前の男のことを。東京の地下のことを。書かれていたことを。……。この星は揺れている。月がなくなったからだ。揺れれば気候が変わる。海が変わる。……いつか人の住めない場所になる。いつかはわからない。算えれば出る。……あの男はそう書いた。算えられなかった。道具がなかったからだ。

 

俺はそこまで話した。

 

龍は聞いていた。途中で一度も口を挟まなかった。

 

俺が話し終えると龍はこう言った。

 

「……知っていた」

俺はそこで動きが止まった。

 

俺はこう訊いた。

 

「何を」

 

龍はこう答えた。

 

「揺れていることを。……私は決まりを読める。この星がどう回っているかも読める。……ずれている。少しずつ、ずれている」

 

俺はこう訊いた。

 

「……いつから、知っていた」

 

龍は、こう、答えた。

 

「三百年前からだ」

 

俺はそこに座っていた。

 

俺は、こう、訊いた。

 

「なぜ誰にも言わなかった」

 

龍は、こう、答えた。

 

「訊かれなかった」

 

俺はその答えを聞いた。

 

三百年。

 

この龍は答えを持っていた。この星が揺れていることを知っていた。……。誰も訊かなかった。人間は殺しに来るだけだった。百年に二度か三度。……。誰も訊かなかった。

 

俺は、こう、訊いた。

 

 

「いつ、終わる」

 

龍はこう答えた。

 

「わからない」

 

俺はこう訊いた。

 

「読めないのか」

 

龍はこう答えた。

 

「読める。だが、算えられない。……読むことと、算えることは違う。私は決まりを読める。だが、その決まりから何年後にどうなるかを算えるには、数が要る。数を積み重ねなければならない。……私にはそれができない」

 

俺はこう訊いた。

 

「なぜ」

 

龍はこう答えた。

 

「私は一人だ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍は続けた。

 

「私には親がいない。子もいない。……三百年前、私は獣だった。ある日考えるようになった。それだけだ。……誰も私に何も教えなかった。私が知っていることは、全部私が見たことだ。……見ていないことは、知らない」

 

俺はそこでこう思った。

 

空気は薄くなり続けない。

 

この龍はそれを知らなかった。三百年知らなかった。……なぜなら誰も教えなかったからだ。この龍は自分で飛んだ。飛んで苦しくなって下りた。何度もそうした。そしてこう結論した。どこまでも薄くなり続けると。

 

……。

正しい観測だ。

正しい推論だ。

……。

そして、間違っている。

 

俺はこう思った。

 

この龍に足りなかったのは力ではない。

 

俺はそこに座っていた。

俺はこう言った。

 

「機械が要る」

 

龍はこう言った。

 

「そうだろうな」

 

俺はこう言った。

 

「機械はいま一つの心臓で動いている。力が足りない。……もう一つ要る」

 

龍はこう言った。

 

「私の心臓か」

 

俺は答えなかった。

 

龍はこう言った。

 

「私の心臓を使えば算えられるのか」

 

俺はこう答えた。

 

「わからない。だが算えられるかもしれない」

 

龍はこう言った。

 

「なら」

 

俺はこう言った。

 

「駄目だ」

 

龍は動かなかった。

 

俺は続けた。

 

「お前が死んだら、答えが出てもお前が見られない」

 

龍は長く黙っていた。

 

風がなかった。空が白んでいた。星はもうほとんど消えていた。環だけが薄く残っていた。

 

龍はこう言った。

 

 

「……それは」

 

そして、そこで止まった。

 

俺は、待った。

 

龍はこう言った。

 

「……それはどういうことだ」

 

俺はその言葉を聞いた。

この龍は答えを見るということを知らない。

 

三百年答えを持っていた。誰も訊かなかった。だから答えを渡したことがない。……。そして、この龍は自分が知りたいことについては、答えを持っていない。算えられないからだ。……。この龍は答えが出るということを経験したことがない。

 

俺はこう言った。

 

「答えが出る。その答えをお前が見る。……それがどういうことか、俺にもわからない。俺も経験したことがない」

 

 

 

そしてこう続けた。

 

「だが俺はあの束を読んだ。三百年前の男の束を。あの男は答えを見なかった。書いて死んだ。……。俺が読んだ。三百年かかった。……届いた」

 

龍は動かなかった。

 

俺はこう言った。

 

「お前は見られる。俺が算える。……だから死ぬな」

 

龍はこう訊いた。

 

「では心臓は」

 

俺はこう言った。

 

 

 

「俺が代わりを探す」

 

 

 

 

 

 

嘘だ。

 

 

 

 

 

 

 

そんなものは探さない。探す必要がない。

 

龍の心臓がこの世界の決まりを読んでいる。書かれている決まりを読んでいる。……。ならその決まりの中でいちばん上のものが刻まれたものがある。

 

 

生と死だ。

 

 

この世界のあらゆる決まりの中で、いちばん根に近いもの。石が落ちる。水が流れる。火が燃える。……そして生き物は死ぬ。死んだものは戻らない。……それがいちばん深い決まりだ。

 

誰もそれを外から見たことがない。

 

死は内側からしか経験できない。経験した瞬間に経験した者がいなくなる。だから誰もそれを読めない。龍にも読めない。読んだ瞬間に読む者が消えるからだ。

 

俺はそれを外から見た。

 

俺は死んだ。そして戻ってきた。

 

俺はこの世界でただ一人、死の決まりを読んで、生きて戻ってきた者だ。

 

俺の胸の中にそれがある。

 

 

ここに。

 

 

俺はそこに座っていた。

 

夜が明けた。日が昇った。東の空が赤かった。雲海が赤く染まっていた。俺はそれを見ていた。

 

龍がこう言った。

 

「また訊きに来い」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺はこう答えた。

 

「来る」

 

そしてこう続けた。

 

「何度でも来る」

 

俺は立ち上がった。

 

武器は抜かなかった。一度も抜かなかった。

 

俺は山を下りた。

 

下りる途中で二人を見つけた。

 

岩の陰にいた。並んで座っていた。寒さでそのまま固まっていた。顔は穏やかだった。苦しんだ跡はなかった。……それがよけいにこたえた。

 

俺は二人を埋めた。岩をどけた。土はなかった。凍っていた。俺はそれを掘った。手で掘った。半日掘った。そして埋めた。石を積んだ。俺はそれをやった。

 

四十八人が下から見ていた。誰も手伝わなかった。俺が断ったからだ。

 

俺は一人でやった。

 

やり終えて俺はその石の前にしばらく立っていた。何も言わなかった。言うことがなかったからだ。俺はこいつらを殺した。殺したのは俺だ。……。謝っても意味がない。謝らないのもずるい。……。俺は何も言わなかった。

 

そして山を下りた。

 

隊の頭がこう訊いた。

 

「……龍は」

 

俺はこう答えた。

 

「殺さなかった」

 

男は俺を見た。

 

そしてこう訊いた。

 

「なぜだ」

 

俺はこう答えた。

 

「話した」

 

男はこう言った。

 

「……話した」

 

俺は頷いた。

 

男はしばらく俺を見ていた。

 

それからこう言った。

「リツ様に、なんと言う」

 

俺はこう答えた。

 

「俺が話す」

 

 

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