月のない空   作:朝凪小夜

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第三十七話 年月

 

婚礼はその冬にした。

俺は二十三だった。リツは二十七か八だ。はっきりしない。訊いたことがない。訊いてもたぶん、答えなかった。

 

婚礼は静かだった。人は来た。七つの家から来た。誰も俺を祝わなかった。祝う顔をしていた。それだけだ。

 

俺はその日こう思った。村を思い出した。兄が所帯を持った日を。あの日村はうるさかった。酒を飲んだ。誰かが歌った。誰かが泣いた。……。ここでは誰も歌わない。

 

その夜リツはこう言った。

 

「これからあなたを他の家に送ります」

 

俺は頷いた。

 

リツはこう続けた。

 

「順番は私が決めます。どの家にいつ送るか。……政の話です。あなたは口を出さないでください」

 

「わかった」

 

リツはこう言った。

 

「わかった、とあなたはよく言います」

 

「そうだな」

 

リツはしばらく俺を見ていた。

 

それからこう言った。

 

「……嫌では、ないのですか」

 

俺はその質問に少し考えた。

そして、答えた。

 

「嫌だ」

 

リツは俺を見た。

 

俺は続けた。

 

「嫌だがやる。……あんたもそうだろう」

 

リツはしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「……そうですね」

 

その、そうですね、には間があった。

 

それから三十年が過ぎた。書くことは多い。だが、ここでは書かない。俺はこの記録を算えるために書いている。俺の三十年は算えることの役に立たない。

 

だから要点だけを書く。

 

一つ。俺は龍のところへ通った。

 

最初の年は三度行った。次の年から年に二度になった。往復で二月かかる。それ以上は行けない。……それでも行った。三十年で五十回を越えた。

 

俺は訊いた。龍は答えた。

 

俺が訊けることは少なかった。俺はあの男ほど賢くない。何を訊けばいいのかがわからない。……。だから俺はあの束を持っていった。いや束は家にある。俺が書き写したものを持っていった。そしてそれを龍に読んで聞かせた。

 

龍はそれを聞いた。

 

そしてこう言った。

 

「この男は賢い」

 

俺はこう訊いた。

 

「どこが」

 

龍はこう答えた。

 

「わからないことを、わからないと書いている」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍は続けた。

 

「わからないことをわかると書けば、そこで終わる。……この男は終わらせなかった。だから、私が続けられる」

 

俺はそこでこう思った。

 

……この二人は三百年の隔たりを越えて話している。

 

俺はそのあいだにいるだけだ。

 

二つ。俺は書いた。

 

龍が答えたことを書いた。俺が前の生で知っていたことを書いた。どちらも書いた。……。俺は書くのが下手だった。最初の十年はひどいものだった。リツが直した。リツは書くのがうまい。……俺が話しリツが書く。それを三十年やった。

 

俺たちはこういう決まりを作った。

 

一つ。観測したことと、そうでないことを分けて書く。

二つ。根拠のないものには印をつける。

三つ。わからないことはわからないと書く。

 

……。

あの男の書き方だ。

 

俺たちはそれを真似た。

 

リツはこう言った。

 

「私たちが死んだあとに、これを読む者がいます。その者が迷わないように書きます」

 

俺は頷いた。

 

三つ。俺は血を撒いた。

 

これについてはあまり書きたくない。だが書く。書かなければ俺が何をしたかが残らない。……残すべきだと思う。

 

俺は六つの家に送られた。

 

順番はリツが決めた。どの家にいつ何日。全部リツが決めた。リツはそれを政としてやった。どの家とどの家が争っているか。どこを抑えれば都が静かになるか。……それを算えて決めた。俺はその通りに行った。

 

行って、戻った。戻るとリツがいた。いつも通りに座っていた。何も言わなかった。俺も言わなかった。

 

リツは一度だけ俺を見送った。最初の年だ。俺が初めて他の家に行く日。門のところでリツが立っていた。俺はその前を通った。リツは何も言わなかった。俺も言わなかった。

 

俺は振り返らなかった。

 

振り返れば何かが変わったかもしれない。……変わらなかったと思う。俺たちは二人ともこれをやると決めていた。決めたことをやるだけだ。

 

リツが何を思ったのかは書かない。

 

俺は知らない。訊かなかった。リツも言わなかった。……。俺はいまこう思う。リツは何も思わなかったのかもしれない。あの女はそういう女だ。……。思わなかったと俺は書いておく。

 

子は九人生まれた。

六つの家に九人だ。男が五人。女が四人。俺はその子たちをほとんど見ていない。見に行かなかった。……行っても意味がない。俺は種として送られただけだ。父ではない。

 

イスカの家にも二人生まれた。

 

リツが産んだ。男と女だ。俺はその二人は育てた。育てたというのが正しいかはわからない。俺は家にいなかった。龍のところに行き書き他の家に送られた。……。だが二人には教えた。

 

俺は魔法を教えた。

 

村でミナに教えたのと同じことを教えた。火を思い浮かべるな。動かせ。傷を見るな。流れを見ろ。守るな。置いておけ。……。二人とも、強くなった。

 

そして俺は他の家に送られた子にも同じことを教えるように書いて送った。リツはそれを止めなかった。

 

俺はこう訊いた。

 

「いいのか」

 

リツはこう答えた。

 

「何がですか」

 

「教えればばれる。……血ではなく、教えたからだといつかはわかる」

 

「わかりません」

 

「なぜ」

 

リツはこう答えた。

 

「彼らは血だと思いたいのです。思いたいことを人は思います。……子が強ければ、血のおかげだと言います。子が弱ければ、血が薄まったと言います。……どちらでも、血の話になります」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺はこう言った。

 

「……三百年、そうやってきたのか」

 

リツはこう答えた。

 

「そうです」

 

四つ。俺は老いた。

 

当たり前だ。人は老いる。……。だが俺はそれを書いておく。なぜなら俺は老いることを待っていたからだ。

 

三十を過ぎた。

四十を過ぎた。

五十を過ぎた。

 

毎年リツは俺を見た。

 

春に一度。俺の胸に手を当てる。しばらくそうしている。そして離す。何も言わない。……。俺も何も訊かない。

 

一度だけ、訊いた。

 

五十二の年だ。俺はこう訊いた。

 

「まだ使えるか」

 

リツはこう答えた。

 

「使えます」

 

訊いた。

 

「いつまで」

 

「わかりません」

 

俺は頷いた。

リツはこう言った。

 

「……ですが、そう長くはありません」

 

 

「そうか」

 

「はい」

 

 

……あと少しだ。

 

俺はその日から急いだ。

書き残すべきことを書いた。龍に訊くべきことを訊いた。……足りない。まったく足りない。俺は三十年やってまだ足りない。……。だが時間はない。

 

五十五の年に俺は最後に山に登った。

 

 

登れなかった。

 

 

途中で息が切れた。脚が上がらなかった。俺はそれを認めた。……。俺は五十五だ。老人だ。

 

俺は山の中腹で座った。そして上を見た。

 

頂は雲の中だった。見えなかった。

 

俺はそこにしばらく座っていた。

 

そして、こう言った。

 

「……行けない」

 

誰にも言わなかった。一人だった。

 

そのとき風が動いた。

 

俺は顔を上げた。

 

白いものが雲から出てきた。龍が下りてきた。俺はそれを見た。

 

龍は俺の前に下りた。そしてこう言った。

 

「登れないのか」

 

俺はこう答えた。

 

「登れない」

 

龍はこう言った。

 

「なら私が下りる」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

俺はこう言った。

 

「……見られるぞ」

 

「かまわない」

 

俺はそこで少し笑った。

 

三百年隠れていた龍がいま、俺のために下りてきた。

 

俺はこう言った。

 

「……訊きたいことがある」

 

龍はこう言った。

 

「訊け」

 

俺はその日、山の中腹で龍と話した。

 

日が暮れるまで話した。

 

そして俺はこう言った。

 

「……もう来られない」

 

龍はしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「……なぜだ」

 

俺はこう、答えた。

 

「俺は老いた。あと少しだ。……。心臓を渡す」

 

龍は動かなかった。

 

俺はこう言った。

 

「代わりを探すと言った。……嘘だった。最初から俺だ。俺の心臓に、死の決まりが刻まれている。俺は死んで戻ってきた。……この世界で俺だけだ」

 

龍は長く黙っていた。

 

風が吹いていた。日が沈もうとしていた。空が赤かった。

 

龍はこう言った。

 

「……やめろ」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

龍が初めて俺に何かを頼んだ。

 

俺はこう言った。

 

「やめない」

 

龍はこう言った。

 

「私の心臓を使え」

 

俺はこう言った。

 

「駄目だ」

 

龍はこう訊いた。

 

「なぜだ」

 

俺はこう答えた。

 

「お前が死んだら、答えが出てもお前が見られない」

 

俺は三十三年前と同じことを言った。

 

龍はそこで黙った。

 

長い沈黙だった。

 

日が沈んだ。星が出た。環が出た。

 

龍は上を見た。

 

そしてこう言った。

 

「……ソウ」

俺はそこで動きが止まった。

 

三十三年で初めてだった。

 

この龍が俺の名を呼んだのは。

 

 

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