俺は五十六になった。
春にリツが俺の胸に手を当てた。しばらくそうしていた。そして離した。
リツはこう言った。
「……今年です」
俺は頷いた。
リツはこう言った。
「秋には弱ります。夏のうちにやります」
「わかった」
リツはしばらく俺を見ていた。
それからこう言った。
「……わかったとあなたはよく言います」
「そう、だな」
俺はその夏まで書いた。書けることは全部書いた。龍が答えたこと。俺が知っていること。……足りない。まったく足りない。だが書いた。
最後に俺はこう書いた。
「※以下は観測ではない。読む者はこれを根拠としてはならない。」
俺はそれを書いた。そして、その下に何を書くかをしばらく考えた。
俺は書きたいことがあった。
村のこと。兄のこと。母のこと。ミナのこと。サキのこと。……。俺が二人を山に捨てたこと。
俺はそれを書きたかった。だが、書かなかった。
なぜか。
あの男は書いた。三十二回書いた。妻のことを。娘のことを。そして最後に謝った。……。
俺はあのときこう言った。
「謝るな」
だから俺は書かない。
書けば謝りたくなる。謝りたくなれば謝る。……。俺は謝らない。
俺はその一行を消した。
消してこう書いた。
「以上。」
それだけだ。
夏が来た。
その日俺は朝から何もしなかった。飯を食った。いつも通りに食った。リツもいつも通りだった。
昼に俺は荷を開けた。
三十四年開けていない荷だ。中に二つ入っていた。
石と眼鏡だ。
石は窯の町で買ったものだ。俺は火を熾せる。だから要らない。要らないのに買った。……四十一年前だ。
眼鏡はあの男のものだ。俺の目には合わない。何の役にも立たない。……三十四年前に拾った。
俺はその二つを手に持った。
石を握った。温かくなった。まだ、生きていた。四十一年、生きていた。
俺はそれをしばらく見ていた。
そしてリツに渡した。
リツはそれを受け取った。何も訊かなかった。
「捨てないでくれ」
「はい」
それだけだった。
地下に降りた。
機械の部屋の下だ。三百年この家が心臓を扱ってきた場所だ。俺はそこに初めて入った。
寒かった。石の壁だ。灯りがいくつも置いてあった。台があった。その横に道具が並んでいた。
女がいた。他に二人いた。リツの家の者だ。顔は覚えていない。
俺は台に横になった。
仰向けになった。
天井があった。石の天井だ。何もない。
俺はそれを見ていた。
リツが言った。
「痛みは消します」
「いい」
「なぜ」
「……見ておきたい」
リツはしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「わかりました」
リツは俺の横に立った。
「……最後に何かありますか」
俺は少し考えた。
そしてこう言った。
「……あんたは算えるだろう」
「算えます」
「答えは、出るか」
「わかりません」
俺はそこで少し笑った。
「……そうだな」
リツはこう言った。
「ですが、算えます。私が算えます。私が死んだら子が算えます。子が死んだらその子が算えます。……算え方を書き残しました。あなたと私で書きました。……続きます」
俺はその言葉を聞いた。
「……そうか」
「はい」
俺は天井を見ていた。
……俺は答えを見られない。
三百年前の男も見なかった。書いて死んだ。……。俺もそうだ。書いて死ぬ。
俺はそこでこう思った。
……俺はあの男と同じことをしている。
俺はその考えをしばらく抱えていた。
そしてこう、思った。
あの男のは、届いた。
三百年かかった。だが届いた。
……なら俺のも届く。
俺はそれを信じた。
根拠はない。証拠もない。算えても出ない。……。俺が生涯で根拠なく信じたのはこれだけだ。
リツが言った。
「……始めます」
「ああ」
リツの手が動いた。
速かった。迷いがなかった。三百年の手つきだ。……。このリツは震えなかった。
俺はそれを感じた。
痛みはあった。思っていたより強かった。だが堪えられた。
俺は天井を見ていた。
石の天井だ。何もない。……。俺はそれを見ていた。
……前もこうだった。
前の生で俺は仰向けに倒れていた。何かが来て俺は飛ばされた。落ちて動けなくなった。……。俺はそのとき空を見た。見るものが他になかったからだ。……。俺はそのときこう思った。ああ空があるのかと。
二十一年そこにあったものをそのとき初めて見た。
いま俺はまた仰向けになっている。
だが空はない。
石の天井だ。
地下だ。
俺はそこで少し笑った。
「……何、ですか」
俺は答えなかった。
答える息がなかった。
俺は天井を見ていた。
そしてこう思った。
……見えるか。
俺はそこにいた。台の上にいた。地下の石の部屋に。天井を見ていた。……。俺はそれを見ていた。
……ずっとそこにあった。
俺が見なかっただけだ。
俺は五歳で一度見た。美しいと思った。そして二十年見なかった。……。そのあといくつか見た。海の上で見た。都の空で見た。山の頂で見た。……。龍と二人で見た。
俺はそれを思い出していた。
俺は天井を見ていた。
石の天井だ。
何もない。
「——星が出ている」
リツが俺を見た。
俺はそう言った。
そしてそれが最後だった。