月のない空   作:朝凪小夜

38 / 39
第三十八話 星が

 

俺は五十六になった。

 

春にリツが俺の胸に手を当てた。しばらくそうしていた。そして離した。

 

リツはこう言った。

 

「……今年です」

 

俺は頷いた。

リツはこう言った。

 

「秋には弱ります。夏のうちにやります」

 

「わかった」

 

リツはしばらく俺を見ていた。

 

それからこう言った。

 

「……わかったとあなたはよく言います」

 

「そう、だな」

 

俺はその夏まで書いた。書けることは全部書いた。龍が答えたこと。俺が知っていること。……足りない。まったく足りない。だが書いた。

 

最後に俺はこう書いた。

 

「※以下は観測ではない。読む者はこれを根拠としてはならない。」

 

俺はそれを書いた。そして、その下に何を書くかをしばらく考えた。

 

俺は書きたいことがあった。

 

村のこと。兄のこと。母のこと。ミナのこと。サキのこと。……。俺が二人を山に捨てたこと。

俺はそれを書きたかった。だが、書かなかった。

 

なぜか。

 

あの男は書いた。三十二回書いた。妻のことを。娘のことを。そして最後に謝った。……。

 

俺はあのときこう言った。

「謝るな」

 

だから俺は書かない。

 

書けば謝りたくなる。謝りたくなれば謝る。……。俺は謝らない。

 

俺はその一行を消した。

 

消してこう書いた。

 

「以上。」

 

それだけだ。

 

夏が来た。

 

その日俺は朝から何もしなかった。飯を食った。いつも通りに食った。リツもいつも通りだった。

 

昼に俺は荷を開けた。

 

三十四年開けていない荷だ。中に二つ入っていた。

 

石と眼鏡だ。

 

石は窯の町で買ったものだ。俺は火を熾せる。だから要らない。要らないのに買った。……四十一年前だ。

 

眼鏡はあの男のものだ。俺の目には合わない。何の役にも立たない。……三十四年前に拾った。

 

俺はその二つを手に持った。

 

石を握った。温かくなった。まだ、生きていた。四十一年、生きていた。

 

俺はそれをしばらく見ていた。

 

そしてリツに渡した。

 

リツはそれを受け取った。何も訊かなかった。

 

「捨てないでくれ」

 

「はい」

 

それだけだった。

 

地下に降りた。

 

機械の部屋の下だ。三百年この家が心臓を扱ってきた場所だ。俺はそこに初めて入った。

寒かった。石の壁だ。灯りがいくつも置いてあった。台があった。その横に道具が並んでいた。

 

女がいた。他に二人いた。リツの家の者だ。顔は覚えていない。

 

俺は台に横になった。

 

仰向けになった。

 

天井があった。石の天井だ。何もない。

 

俺はそれを見ていた。

 

リツが言った。

 

「痛みは消します」

 

「いい」

 

「なぜ」

 

「……見ておきたい」

 

リツはしばらく黙っていた。

 

それからこう言った。

 

「わかりました」

リツは俺の横に立った。

 

「……最後に何かありますか」

 

俺は少し考えた。

そしてこう言った。

 

「……あんたは算えるだろう」

 

「算えます」

 

「答えは、出るか」

 

「わかりません」

 

俺はそこで少し笑った。

 

「……そうだな」

 

リツはこう言った。

 

「ですが、算えます。私が算えます。私が死んだら子が算えます。子が死んだらその子が算えます。……算え方を書き残しました。あなたと私で書きました。……続きます」

 

俺はその言葉を聞いた。

 

「……そうか」

 

「はい」

 

俺は天井を見ていた。

 

……俺は答えを見られない。

 

三百年前の男も見なかった。書いて死んだ。……。俺もそうだ。書いて死ぬ。

 

俺はそこでこう思った。

……俺はあの男と同じことをしている。

俺はその考えをしばらく抱えていた。

そしてこう、思った。

 

あの男のは、届いた。

三百年かかった。だが届いた。

……なら俺のも届く。

俺はそれを信じた。

根拠はない。証拠もない。算えても出ない。……。俺が生涯で根拠なく信じたのはこれだけだ。

 

リツが言った。

 

「……始めます」

 

「ああ」

 

リツの手が動いた。

 

速かった。迷いがなかった。三百年の手つきだ。……。このリツは震えなかった。

俺はそれを感じた。

 

痛みはあった。思っていたより強かった。だが堪えられた。

 

俺は天井を見ていた。

 

石の天井だ。何もない。……。俺はそれを見ていた。

 

……前もこうだった。

 

前の生で俺は仰向けに倒れていた。何かが来て俺は飛ばされた。落ちて動けなくなった。……。俺はそのとき空を見た。見るものが他になかったからだ。……。俺はそのときこう思った。ああ空があるのかと。

 

二十一年そこにあったものをそのとき初めて見た。

 

いま俺はまた仰向けになっている。

 

だが空はない。

 

石の天井だ。

 

地下だ。

 

俺はそこで少し笑った。

 

「……何、ですか」

 

俺は答えなかった。

 

答える息がなかった。

 

俺は天井を見ていた。

 

そしてこう思った。

 

 

……見えるか。

俺はそこにいた。台の上にいた。地下の石の部屋に。天井を見ていた。……。俺はそれを見ていた。

 

……ずっとそこにあった。

 

俺が見なかっただけだ。

俺は五歳で一度見た。美しいと思った。そして二十年見なかった。……。そのあといくつか見た。海の上で見た。都の空で見た。山の頂で見た。……。龍と二人で見た。

俺はそれを思い出していた。

 

俺は天井を見ていた。

 

石の天井だ。

 

何もない。

 

「——星が出ている」

 

リツが俺を見た。

 

俺はそう言った。

 

そしてそれが最後だった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。