あの男が来ない。
冬が過ぎた。
春が過ぎた。
夏が来た。
……来ない。
あの男は年に二度来た。春と秋だ。三十三年そうだった。……来なかった年もあった。だが次の年には来た。
その年は来なかった。次の年も来なかった。その次の年も来なかった。
三年だ。
私は待った。
待つという言葉を私は知らなかった。いや、知っていた。人間がそう言うのを聞いた。……だがそれが何であるかを知らなかった。
いま私はそれをしている。
私は山の頂にいる。いつも通りだ。三百年ここにいる。……。だがいつも通りではない。
私は下を見ている。
道が見える。人が通る。あの男はいつもその道を来た。……今年は来ない。
私はその道を見ている。
なぜ見ているのか。
……わからない。
三年ほど前だ。
世界が変わった。
私は決まりを読む。この世界がどう動くかを読む。……その決まりのある一点が変わった。
いや決まりは変わっていない。決まりを押しているものが増えた。
都の方角だ。
あそこに機械がある。心臓が入っている。……私と同じものの心臓だ。三百年前に殺されたあれの。
その機械が速くなった。
急に速くなった。十倍だ。いやそれ以上だ。……。私はそれを読んだ。
私はそれを読んでそして理解した。
もう一つ心臓が入った。
あの男はこう言った。
「代わりを探す」
嘘だった。
私はそれを知っていた。最後にあの男が言った。最初から俺だと。……。私はやめろと言った。あの男はやめないと言った。
そしてやった。
機械が速くなった。
……あの男はいま機械の中にいる。
私はその事実を理解した。
理解してそして何も起きなかった。
私は山の頂にいる。いつも通りだ。風が吹いている。雪がある。日が昇り沈む。……いつも通りだ。
だが、いつも通りではない。
私はそれを感じている。
何が違うのか。
……わからない。
私はそのことをしばらく考えた。
私は三百年考えてきた。考えることは得意だ。……。だがこれはわからない。
私は何も失っていない。
あの男は私のものではなかった。あの男は三十三年、年に二度来た。来て話して帰った。……それだけだ。私はその男がいなくなった。それだけだ。
私は三百年一人だった。三十三年二人だった。……いままた一人だ。
元に戻っただけだ。
……。
だが戻っていない。
私はそのことをうまく言えない。
言葉がない。
私は言葉を人間から覚えた。三百年聞いてきた。……。だがこれを表す言葉を聞いたことがない。
あるいは聞いたがわからなかった。
私は夜を待った。
夜が来た。
星が出た。
環が出た。
私はそれを見上げた。
いつも通りだ。
三百年そうしてきた。雲のない夜は全部。……いつも通りに見上げた。
……いつも通りに見上げられなかった。
私はそこで動きが止まった。
なぜだ。
環はそこにある。星もそこにある。何も変わっていない。私の目も変わっていない。……。同じものを見ている。
だが同じではない。
私はその差を表す言葉を持っていない。
私は長いことそこにいた。
そしてこう言った。
「……ソウ」
私はその名を呼んだ。
声に出して呼んだ。
……返事はなかった。
当たり前だ。
あの男は死んだ。三年ほど前に。……。死んだ者は答えない。
私はそれを知っている。
……。
だが私はいま知った。
呼ぶというのは返ってくることを待つ行いだ。
私はそれを知らなかった。
私は三百年誰も呼ばなかった。呼ぶ相手がいなかった。……名を持たなかった。名を訊かれなかった。名を訊かなかった。
あの男が私の名を名だと言った。
「ミル」
見るものという意味だと。
人間がそう呼んだと。
意味は消えた。音だけが残った。……。だがそれは名だと。
私をいちばん正しく呼んだ名だと。
私はそのときこう言った。
「……そうか」
それだけだった。
いま私はこう思う。
……あれは嬉しかったのだ。
私はその言葉をいま初めて使う。
合っているかはわからない。
私は山の頂にいる。
上を見ている。
環がそこにある。
私はそれを見ている。
あの男はこう言った。
空気には終わりがある。その先には押し返すものがない。……押し続ければ速くなる。速くなり続ける。……なら届くと。
私はそれをまだ試していない。
なぜか。
……答えが出ていないからだ。
あの男はこう言った。
「お前が死んだら、答えが出てもお前が見られない」
だから死ぬなと。
……あの男は死んだ。
私に死ぬなと言って自分が死んだ。
私はそれをうまく飲み込めない。
だが私は生きている。
あの男がそう言ったからだ。
私は待つ。
答えが出るまで。
何年かかるのか。……わからない。百年か。二百年か。……あの男はそれを算えられなかった。私にも算えられない。
だが機械は算えている。
いまこの瞬間も算えている。
私はそれを読める。
都の方角で決まりが押されている。規則正しく押されている。止まらない。……三年止まっていない。
あの男が押している。
私はそれを読んでいる。
毎日読んでいる。
いつか答えが出る。
出たら私はそれを読む。
読んでそしてその先を決める。
行けるのか。行けないのか。……行くのか。行かないのか。
わからない。
わからないが私は待つ。
私は三百年ここにいた。
あと百年か二百年ここにいる。
それだけのことだ。
……。
あの男は最後にこう言ったそうだ。
人間から聞いた。あの男の妻がそう言った。
「星が出ている」
あの男は地下にいた。石の天井の下に。……星は見えない。
それなのにそう言った。
私にはその言葉の意味がまだわからない。
三年考えた。わからない。
だから私は見ている。
毎晩見ている。
雲のない夜は全部。
空を見ている。
いつかわかるまで。