その冬は、長かった。雪が深く、山の道が塞がる日が続いた。塞がれば、狩りには出られない。俺でも出られない。道が消えれば、獲物のいる場所まで辿り着くのに、丸一日かかる。丸一日かけて行って、丸一日かけて戻れば、その間に村の火が絶える。だから雪の深い日は、村にいる。村にいるあいだ、俺には、やることがない。これは、以前からそうだった。だがその冬は、それが、少し違って感じられた。
やることがない、というのは正確ではない。俺は薪を割った。水を汲んだ。屋根の雪を下ろした。母の手伝いをして、皮をなめした。全部やった。全部やって、それでも、余った。村の人間は雪の日には家に集まる。話をする。誰かの家で、火を囲んで、去年の狩りの話をしたり、春の話をしたりする。俺はそこに、行かない。呼ばれないからではない。呼ばれる。村は狭い。誰かが誰かを呼ばないというのは、そういう狭さの中では、あからさますぎる。だから呼ばれる。俺が行かないだけだ。行っても、話すことがない。俺が入ると、話が、少し変わる。変わる、というのは、止まるという意味ではない。止まったりはしない。ちゃんと続く。ただ、少し、丁寧になる。その丁寧さを俺はうまく処理できない。だから行かない。
行かない代わりに、俺はミナの家に行った。ミナの家は、糸を紡ぐ。冬のあいだ、ずっと紡いでいる。手が空かない。だからミナは村の集まりにあまり行かない。俺はその隣に座った。最初はたまたまだった。薪を届けに行って、母親に呼び止められて、火の前に座らされて、そのまま日が暮れた。次の日も行った。三日目からは、届ける薪もなかったが、行った。ミナは何も言わなかった。俺が座ると、少し詰めて、場所を空けた。それだけだった。
ミナは糸を紡ぎながら、よく喋った。俺はあまり喋らなかった。だからほとんど、ミナが喋っているのを俺が聞いていた。話の中身はたいしたことではない。山で見たものの話。組の誰それが、どんな失敗をしたか。去年より雪が深いという話。春になったら何をするかという話。俺はそれを聞いていた。聞いていて、時々、返事をした。返事は、短かった。そうか、とか、へえ、とか、そういうものだ。ミナはそれで満足していたようだった。いや、満足という言い方は、違うかもしれない。気にしていなかった、という方が近い。
ソウは、喋らないね、とミナが言った。ある日、そう言った。喋ることが、ない、と俺は答えた。あるでしょ、と言われた。ないよ、と俺は言った。ミナは手を止めなかった。紡ぎながら、じゃあ、聞くだけでいいよ、と言った。それでいいのと俺は訊いた。いいよ、とミナは言った。私が喋りたいだけだから。
俺はそのとき、少し、変な気持ちになった。その気持ちに、名前をつけることが、できなかった。いまでも、できていないと思う。俺は前の生で、誰かの話をこんなふうに聞いたことがあっただろうか。思い出せない。思い出せない、というより、たぶんなかった。俺は人の話を聞かなかった。聞いていたつもりでいて、聞いていなかった。いま、俺はミナの話を聞いている。糸を紡ぐ音がして、火が爆ぜて、外で雪が積もっていて、ミナが、組の誰それの失敗を話している。どうでもいい話だ。どうでもいいのに、聞いている。これは、何だろうと思った。わからなかった。わからないまま、俺は次の日も、そこに行った。
家に戻ると、母が、飯を出す。父と兄が、先に食っていることもあれば、待っていることもある。その冬は、待っていることが、多かった。なぜ待つのか、俺は訊かなかった。訊けば、答えが返ってきただろう。たとえば、お前が遅いからだ、と。あるいは、みんなで食った方がうまいからだ、と。どちらでも、いい。どちらでも同じだ。俺はそう思っていた。
父は口数の少ない男だ。狩りの話をするときは、喋る。それ以外は、あまり喋らない。その冬、父は狩りの話をしなかった。狩りに出ていないのだから当然だ。だから父はほとんど、何も喋らなかった。ただ、飯のあと、火を見ていた。俺も、火を見ていた。二人で、何も言わずに、火を見ていた時間が、けっこう長い。あれは、悪い時間ではなかった。いまでも、そう思う。
あるとき、父が、こう言った。お前は、どこに行ってもやっていけるだろうな、と。俺は火を見たまま、そうかな、と答えた。やっていける、と父は言った。断定だった。俺は少し考えて、こう訊いた。どこかに行くのか、と。
父は何も言わなかった。少し、間があった。その間は、短い。短いが、あった。それから父はこう言った。いや、と。それだけだ。いや、と言って、また火を見た。俺も、火を見た。その夜、それ以上の会話は、なかった。
俺はそのとき、確信した。父は知っている。村長が家に来た夜から、俺はそれを疑っていた。疑っていて、考えないようにしていた。だがあの「いや」は、否定ではない。否定なら、間は要らない。間があるということは、そこに、言うか言わないかの判断があったということだ。判断があるということは、言えることがあったということだ。だから父は知っている。母も、たぶん知っている。そして二人とも、言わない。
俺はそこで考えるのをやめた。やめた理由は二つある。一つ。考えても、変わらないから。もう一つ。これは、書いておくべきだと思う。もう一つは、父と母が、それを言わないと決めたのなら、俺がそれを暴くのは、筋が違う、と思ったからだ。なぜそう思ったのかは、わからない。俺はそういうことを気にする人間ではない。筋が違う、などと、俺はそれまで一度も考えたことがなかった。だがあのときは、そう思った。だから俺は何も訊かなかった。父も、何も言わなかった。母は汁を注ぎ足した。兄は雪の話をした。その冬は、そうやって、過ぎていった。
兄はその冬、所帯を持つ話が出ていた。相手は村の女だ。ミナではない。名は、書かなくていいと思う。兄はそれを嬉しそうに話した。俺はそうか、と言った。お前も、そのうちだな、と兄は言った。俺はそうかな、と答えた。そうだよ、と兄は言った。お前は強い。だからどこの家でも喜ぶ。俺はそういうものか、と言った。そういうものだ、と兄は言った。それから兄は少し笑って、こう言った。ミナのところにでも行けばいい、と。
俺はそのとき、何も答えなかった。答えられなかった、のではない。答えるべきことが、思い浮かばなかった。兄は俺の顔を見て、冗談だ、と言った。俺は冗談か、と言った。半分な、と兄は言った。そしてそれきりだった。俺はその夜、寝床に入ってから、その話を少し考えた。考えて、何も出なかった。俺は所帯というものを想像できない。誰かと一緒に暮らして、子を作って、その子が育つのを見て、老いる。それは、たぶん意味のあることだ。だが俺には、その意味が、わからない。わからないものを望むことはできない。だから俺は何も望まなかった。そのまま、眠った。
冬が終わりかける頃、雪が、少し緩んだ。まだ山には入れないが、村の外までは歩ける。ミナが、外に出たいと言った。紡ぎ疲れた、と。俺はいいよ、と言って、ついていった。村の外れに、川がある。冬は凍る。その年も凍っていて、氷の下で水が動いているのが、音でわかった。ミナはその音をしばらく聞いていた。それからこう言った。私、山に入れて、よかった。俺はそうか、と言った。ソウのおかげだよ、とミナは言った。
俺はそのとき、否定しようとした。俺は教えただけだ。やったのは、お前だ。そう言おうとした。だが言わなかった。言わなかった理由は、わからない。たぶん言えば、この話が終わってしまうと思ったのだと思う。だから俺はそうか、とだけ言った。ミナは笑った。そして氷の音をまた聞いていた。俺はその隣に、立っていた。空を見なかった。あのとき、見ていれば、環が出ていたはずだ。昼でも、うっすらと見えることがある。だが俺は見なかった。俺が見ていたのは、氷だ。氷の下で、水が動いている。それだけを見ていた。
春が来た。雪が解けて、山の道が開いた。俺はまた、一人で山に入るようになった。ミナは組に戻った。村は動き出した。そして俺は十五になった。