村を出るまでに、ひと月あった。道が開くのを待つ、というのが表向きの理由だ。実際道は開いていなかった。だがひと月というのは、長い。半月あれば足りる。なぜひと月なのか、俺は考えなかった。いま思えば、村の側にも、支度が要ったのだと思う。金を集める。紹介の文を書く。誰に宛てて書くかを決める。そういうことに、時間がかかる。あるいは、村の人間が、俺と顔を合わせる時間を少しずつ減らしていくのに、それだけかかったのかもしれない。どちらでもいい。俺はそのひと月をいつも通りに過ごした。
いつも通り、というのは、嘘だ。狩りには出なくなった。出るなとは、言われていない。だが出ても組が組まれない。俺は元から一人だからそれは関係ない。関係ないはずだが山に入っても、獲物を持ち帰る意味がなくなっていた。俺が持ち帰った獲物は、俺の分け前になる。俺はひと月後に、村を出る。村を出る人間の分け前をどう扱うか。誰も、それを口にしなかった。だから俺は山に入らなくなった。誰も、何も言わなかった。それでいい、ということだ。
やることが、なくなった。薪を割った。水を汲んだ。屋根の直しを手伝った。全部やって、それでもまた、余った。余った時間を俺はミナの家で過ごした。冬と、同じだ。冬と違うのは、糸を紡いでいないことだった。春だからミナは山に入る。入って、戻ってくる。戻ってきてから、俺のところに来る。
ミナは成人の日の話をしなかった。俺も、しなかった。最初の三日、それが続いた。四日目に、ミナが言った。都って、どんなところ。俺は知らない、と答えた。行ったことがない。そうだよね、とミナは言った。そして少し黙って、こう言った。遠いの。遠い、と俺は言った。どれくらい、とミナが訊いた。俺は少し考えた。村長が言った道筋を頭の中でなぞった。エチまで下りて、そこから海沿いを行く。船を使う日もある。ふた月か、み月、と俺は言った。ミナはそれを聞いて、へえ、と言った。それから何も言わなかった。
ふた月かみ月、というのは、行くのに、だ。戻るのにも、同じだけかかる。だから簡単には戻れない。簡単には戻れない、ということは、たぶん戻らない、ということだ。ミナはそれを理解したのだと思う。理解して、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。二人とも、それを口にしなかった。村の人間が、追放の話を口にしなかったのと、同じだ。俺はそのとき、村と同じことをしていた。いま、それに気づいた。
ひと月のうち、二十日ほどを俺はミナの家で過ごした。毎日、同じことをした。ミナが山から戻る。俺が、そこにいる。ミナが、その日の話をする。俺が、聞く。組の誰それが、獲物を取り逃がした。北の沢に、去年はいなかったものがいた。雪解けが早い。そういう話だ。どうでもいい話だ。俺はそれを全部、覚えている。十年経った、いまでも、覚えている。なぜ覚えているのか、わからない。俺はたいていのことを忘れる。だがあの二十日の話は、覚えている。
一度、ミナが、こう訊いた。都に行ったら、何をするの。俺はわからない、と答えた。学問をするんでしょ、とミナは言った。たぶんな、と俺は言った。何を学ぶの。俺は少し考えて、こう言った。魔法の仕組みだと思う。仕組み、とミナは言った。なんで火が熾るのか、とか、そういうことだ、と俺は言った。ミナはふうん、と言った。それからこう言った。ソウは、もう知ってるじゃない。
俺はそこで、黙った。知らない、と俺は言った。知ってるよ、とミナは言った。知らない、と俺はもう一度言った。俺は動かせる、というところまでしか知らない。何が動いているのかは、知らない。名前も知らない。理由も知らない。だから知らない。ミナはしばらく黙って、それから笑った。じゃあ、それを知りに行くんだね。俺はそうかもしれない、と答えた。そのときは、そう答えるしかなかった。俺は何かを知りに行くつもりなど、なかった。俺はただ、出されるから、出るだけだった。だがミナがそう言ったので、そう答えた。嘘をついた、ということだ。あれが、たぶん俺がミナについた、最初の嘘だ。
最初の、と書いた。実際には、俺はミナに、もっと大きな嘘をついていた。ずっと、ついていた。俺はこの村が、かつて何だったかを知っている。この星が、何であるかを知っている。空にかかっている環が、どこか異常なものであることを知っている。村の誰も、それを知らない。ミナも、知らない。俺はそれを一度も言わなかった。言えば、どうなったか。たぶん、何も起きない。信じてもらえないか、あるいは、輪廻の話として処理されるかだ。母がそうしたように。だから言う意味が、なかった。意味がないから、言わなかった。俺はそういう理屈で、ミナに、何も言わなかった。そして二十日のあいだ、その隣に座って、山の話を聞いていた。
最後の日が、来た。朝、村の広場に人が集まった。成人の日と同じ場所だ。人数は少なかった。全員ではない。村長がいた。狩り頭がいた。父と母がいた。兄がいた。ミナがいた。村長が紹介の文を渡した。革の袋に入っていた。金も渡された。思っていたより、多かった。村は金を惜しまなかった。惜しむ理由がなかったのだと思う。俺はそれを受け取って、はい、と言った。村長は頷いた。達者でな、と言った。はい、と俺は言った。それで、村長との話は終わった。
父は俺の肩に手を置いた。何も言わなかった。しばらく置いて、離した。母は荷に、何かを詰めていた。乾かした肉と、塩と、あとは何だったか。母は俺の顔を見て、こう言った。ちゃんと、寝るのよ。俺は少し笑った。笑ったのは、母がそう言ったのが、あまりに母らしかったからだ。うん、と俺は言った。母はそれ以上、何も言わなかった。母は俺が何者かを知っている。最初から知っていた。知っていて、ちゃんと寝ろ、と言った。それが、母の全部だったのだと思う。
兄は村の外れまでついてきた。誰も、それを止めなかった。道の分かれ目まで来て、兄は立ち止まった。俺も、立ち止まった。しばらく二人とも、何も言わなかった。それから兄が言った。悪かったな、と。俺は何が、と訊いた。あの日、と兄は言った。俺が騒いだせいで、お前が、言いにくくなったんじゃないか、と。俺はそうじゃない、と言った。本当に、そうではなかった。俺は最初から、何も言うつもりがなかった。兄が騒ごうが騒ぐまいが、俺はわかった、と言った。だから兄のせいではない。俺はそれをうまく言えなかった。言えないまま、そうじゃない、とだけ言った。兄はそうか、と言った。それからこう言った。戻ってこいよ。俺は頷いた。頷いただけで、返事をしなかった。
ミナは道の分かれ目より、少し先まで来た。兄が、そこで引き返したあとも、ついてきた。俺は何も言わなかった。ミナも、何も言わなかった。しばらく歩いて、川のところまで来た。冬に、二人で立った川だ。氷は、もう解けていた。水が、音を立てて流れていた。ミナはそこで、立ち止まった。
俺も、立ち止まった。振り返った。ミナは川の音の中に立っていた。何か言おうとしていた。口を少し開いて、それから閉じた。もう一度、開いた。そしてこう言った。ソウ。それだけだった。
俺は待った。ミナは続けなかった。続けられなかったのだと思う。ミナは十五にもなっていない。俺は十五だ。二人とも、別れの言葉を持っていなかった。持っていないものは、出てこない。だからミナは俺の名を呼んだ。それだけだった。俺はああ、と答えた。答えて、それからこう言った。うまくやれよ。
ミナは頷いた。強く、頷いた。うん、と言った。俺はそれを見て、背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。振り返らなかった理由は、わからない。振り返れば、何かが変わったかもしれない。いや、変わらなかったと思う。俺は何も望んでいなかった。望んでいない人間が振り返っても、何も起きない。だから振り返らなかった。俺はそのまま、川沿いの道を南に下りていった。
ミナが、そのあと、どうしたのかを俺は知らない。あの場所に、どれだけ立っていたのか。いつ村に戻ったのか。何を思ったのか。俺は知らない。知りようがない。俺はそれを十年、想像し続けた。想像の中で、ミナは一人前になった。組の中ほどまで上がって、若い者に、血の止め方を教えている。傷を見るな、流れを見ろ、と言っている。そしてたぶん所帯を持った。子供がいる。冬には糸を紡いでいて、山の話をしている。誰かが、それを聞いている。それでいい。それが本当かどうかは、確かめようがない。確かめようがないから、俺はそう想像することにした。そう想像することにした、というのは、そうであってほしい、ということだ。俺が、生まれてから、そう思ったのは、あれが最初だったと思う。
あとになって、一つだけ、聞いたことがある。村を出て、ずっとあとだ。誰から聞いたのかは、書かない。俺が村を出たあと、ミナはしばらく空を見上げていたそうだ。川のところで。何を見ていたのかは、わからない。春の昼だ。星は、出ていない。環は、出ていたかもしれない。昼でも、うっすらと見えることがある。だがミナは環の意味を知らない。あれが何なのかを知らない。知らないまま、見上げていた。俺はその話を聞いて、しばらく何も言えなかった。俺が十年、見なかったものをあの女はあの日、見ていた。