道は、南に下る。川に沿って歩けば、そのうち谷に出る。谷を抜ければ、里がある。里からは、道が広くなる。村長はそう言った。道は、その通りだった。俺は歩いた。一日目は、何も考えなかった。歩くというのは、思っていたより、忙しい。足元を見て、道を選んで、荷の重さを調整して、水の場所を探す。考える暇がない。日が暮れて、火を熾して、飯を食って、寝た。二日目も、同じだった。三日目に、道が平らになった。
道が平らになると、足元を見なくてよくなる。足元を見なくてよくなると、他に見るものが、なくなる。左は、山だ。右は、川だ。前は、道だ。後ろは、来た道だ。何も変わらない。半日歩いても、景色がほとんど変わらない。俺はそのとき初めて、暇になった。村では暇ではなかった。やることがない、というのと、暇だ、というのは、違う。村では、常に誰かがいた。誰かがいれば、その誰かが、俺を見ている。見られていれば、暇にはならない。見られている、というだけで、人は、何かをしている。誰も、いなくなった。三日目の昼に、俺は生まれてから初めて、完全に一人になった。
そして思い出した。
思い出そうと思ったわけではない。勝手に、出てきた。十五年、一度も出てこなかったものが、道が平らになった、それだけの理由で、出てきた。最初に出てきたのは、天井だ。白い天井。平らで、四角くて、隅に、何か、細い線が入っている。あれは、たぶん蛍光灯というものの縁だ。俺はそれを毎日、見ていた。目が覚めて、最初に見る。寝る前に、最後に見る。その天井の下で、俺は二十一年生きた。
もっと、出てきた。箱があった。小さい箱で、光る。手のひらに載る。あれを俺は一日中、見ていた。何を見ていたのかは、思い出せない。いや、思い出せる。思い出せるが、書く価値がない。どうでもいいものを見ていた。どうでもいいと知りながら、見ていた。時間が、そうやって、減っていった。減っていくのを俺は見ていた。
学校というものがあった。行った。行って、座って、話を聞いて、帰った。何を学んだのかは、覚えていない。オリオン座は、たぶんあそこで習った。習ったことを俺はろくに覚えていない。ただ、オリオン座は覚えていた。なぜかは、わからない。わからないが、そのおかげで、俺はこの星が地球であることを知った。俺が二十一年で得たもののうち、役に立ったのは、それだけだ。それだけだった、というのは、少し、笑える。
人がいた。当然いた。親がいたはずだ。顔が、出てこない。いや、出てくる。出てくるが、遠い。俺は彼らと、あまり話さなかった。話すことが、なかった。これは、いまと、同じだ。俺は十五年、この村の家族と暮らして、たいして話していない。前も、そうだった。同じことを繰り返している。だが違うところが、一つある。前の生では、誰も、俺に何かを言わなかった。母は俺の頭に手を置いて、前にも生きていたのね、と言った。父は肩に手を置いた。兄は怒った。前の生では、そういうことが、なかった。なかった、と思う。あったのかもしれない。あったのかもしれないが、俺はそれを見ていなかった。
友達というものは、いた。名前が、出てこない。顔も、はっきりしない。一緒にいた、ということだけを覚えている。一緒にいて、何をしていたのかは、覚えていない。たぶん何もしていなかった。何もせずに、一緒にいた。それを当時は、悪いことだと思っていなかった。いまも、悪いことだとは思わない。ただ、何も、残っていない。二十一年の中で、俺が誰かにしてやったことも、誰かが俺にしてくれたことも、俺は一つも思い出せない。これは、彼らが薄情だったからではない。俺が、見ていなかったからだ。
将来の話をされたことがある。何になりたい、と訊かれた。何度も、訊かれた。俺はそのたびに、何も答えられなかった。わからない、と答えた。わからない、というのは、嘘ではない。俺は本当に、わからなかった。何かになりたい、という気持ちが、なかった。なりたいものがないのだから答えようがない。訊いた側は困った顔をした。困った顔をされるとこちらも困る。だからそのうち、適当なことを答えるようになった。適当に答えると、相手は、安心した。安心されると、話が終わる。話が終わるのは、楽だった。俺はそうやって、二十一年、話を終わらせ続けた。
俺は不幸ではなかった。これは、はっきり書いておく。殴られてもいないし、飢えてもいない。学校にも行った。飯も食った。屋根もあった。誰かに憎まれたこともない。誰かを憎んだこともない。俺は恵まれていた。恵まれていて、何も望まなかった。何も望まなかったのは、恵まれていたからではない。何も望まないことが、当たり前だったからだ。望むというのは、たぶん何かを見て、それが欲しいと思うことだ。俺は何も見なかった。だから何も欲しくならなかった。簡単な話だ。
死んだ日のことは、覚えている。覚えているが、たいしたことではない。外にいた。どこかに向かっていた。どこに向かっていたのかは、覚えていない。たぶんどこでもよかった。そして何かが来た。何が来たのかは、わからない。見ていないからだ。俺は下を向いて歩いていた。箱を見ていたかもしれない。覚えていない。音がして、体が、浮いた。浮いて、落ちた。それだけだ。痛みは、あった。だが思っていたほどでは、なかった。俺は地面に横になって、空を見た。
空を見た。
あれが、俺が、前の生で、空を見た唯一の瞬間だ。仰向けに倒れていたからだ。他に、見るものがなかった。だから見た。何が見えたのかは、覚えていない。昼だったのか、夜だったのかも、覚えていない。星は、見なかったと思う。ただ、空があった。俺はそれを見て、こう思った。ああ、空があるのか、と。二十一年、そこにあったものをそのとき、初めて見た。そしてすぐに、死んだ。
俺は道の真ん中で、立ち止まっていた。いつから立ち止まっていたのか、わからない。右に川があって、左に山があって、前に道がある。日が、少し傾いていた。誰もいない。俺は荷を下ろして、座った。座って、しばらく何もしなかった。
考えたのは、こういうことだ。俺は二十一年、何も見なかった。死ぬ間際に、一度だけ、空を見た。そして生まれ直して、五つのときに、もう一度、空を見た。そこで、この星が地球だとわかった。わかって、どうもしなかった。それから十年、俺は空を見ていない。つまり、俺は二回、空を見た。二回とも、そこで、何かが見えた。二回とも、俺は何もしなかった。
なぜだ、と思った。思って、答えが出なかった。俺はそれを少し長く考えた。村では、こんなに長く、一つのことを考えたことがない。考えたところで、どうする。そう思って、いつも、そこで止めていた。だがその日は、止まらなかった。止まらなかったのは、たぶん他にやることがなかったからだ。道は、平らで、景色は変わらず、誰も、俺を見ていない。だから俺は初めて、自分を見た。
見て、こう思った。俺はたぶん何かを見ると、望んでしまうのが、怖いのだ。
これはうまく説明できない。だがそう思った。望めば、失う。失うのが怖いから、望まない。望まないために、見ない。……いや。違う。これは、順番が違う。俺は失ったことがない。失うのが怖い、と思えるほどのものを俺は一度も持っていない。持っていないのだから怖がりようがない。だからこれは、違う。俺はただ、見なかっただけだ。理由は、ない。怖かったわけでも、傷ついたわけでも、諦めたわけでもない。ただ、見なかった。二十一年と、十五年。合わせて、三十六年。俺はずっと、そうだった。それだけの話だ。
立ち上がった。荷を担いだ。日が、傾いていた。もう少し歩けば、谷に出る。俺は歩き出した。歩きながら、こう思った。ミナは望んだ。一人前になりたい、と言った。なぜそう思うのか、俺には、わからなかった。いまも、わからない。だがあれが、望むということだ。そして俺はそれを教えることができた。俺は望まないのに、望む者に、やり方を教えられる。妙な話だ。自分が持っていないものを俺は人に渡している。あれは、何なのだろう。考えたが、わからなかった。わからないまま、俺は谷に入った。
その夜、火を熾して、飯を食った。空には、環が出ていた。出ていたはずだ。俺は見なかった。見なかったことに、その夜、初めて、気がついた。気がついて、それでも、見なかった。なぜ見ないのか、自分でも、わからなかった。わからないまま、俺は眠った。