月のない空   作:朝凪小夜

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第八話 運ぶ女

 

 谷を抜けて四日目に、里に出た。里は村より大きい。家が三十ほどある。畑がある。人が、道を歩いている。俺はそこで、初めて、村以外の人間を見た。誰も、俺を見なかった。これは、妙な感じがした。村では、俺が歩けば、必ず誰かが俺を見た。見て、目を合わせないようにしていた。里では、誰も、俺を見ない。見る理由がないからだ。俺はただの通りすがりの若い男だ。それだけのものとして扱われた。悪くない、と思った。

 

宿があった。村長にもらった金で泊まれた。飯が出た。村の飯より、味が濃い。塩がたっぷり使ってある。俺はそれを食いながら、周りの話を聞いていた。道の話をしていた。南に行くなら、いまはやめておけ、と誰かが言っていた。雪解けで道が崩れている。崩れているというより、抜ける。上を歩くと、下がない。だからいまは、待つ。半月もすれば、乾く。俺はそれを聞いて、半月待つのは面倒だ、と思った。

 

次の朝、宿を出た。道は確かに悪かった。泥だ。膝まで沈む場所がある。沈むと、抜くのに力が要る。力が要ると、疲れる。だが抜けないことはない。俺は進んだ。半日で道が消えた。崩れて、山肌が落ちている。道があったはずの場所が、斜面になっている。迂回する道があるのかもしれないが、俺は知らない。俺はそこを登ることにした。

 

登れる、と判断した。実際登れた。斜面は脆かったが、脆いところには足を置かなければいい。置くべきところと、置いてはいけないところは、見ればわかる。わからない者には、わからないのだと思う。俺は半刻で、斜面を越えた。越えた先に、道が続いていた。そして道の上に、荷車があった。

 

荷車が、傾いていた。車輪が、片方、泥に入っている。深い。持ち上げなければ、抜けない。その横に、女が一人、立っていた。俺より、だいぶ年上に見えた。二十五は過ぎている。三十かもしれない。日に灼けているから、よくわからない。女は車輪を見ていた。しばらく見て、それから荷を下ろし始めた。一人で、下ろしていた。俺はしばらくそれを見ていた。

見ていて、こう思った。この女はなぜ、魔法を使わないのか。車輪を持ち上げるのに、魔法を使えばいい。風を入れるか、下から押すか、やり方はいくつもある。俺なら、一息で終わる。だが女は使わなかった。荷を一つずつ、下ろしていた。十個ほど下ろして、それから車を揺らした。揺らして、少し動いた。また揺らした。少し動いた。それを何度も繰り返していた。時間がかかる。俺はその光景を少し、馬鹿げていると思った。

 

手伝おうか、と俺は言った。女は振り返った。俺を見て、上から下まで見て、それからいいよ、と言った。いいのか、と俺は訊いた。いいよ、と女は言った。もう少しで抜ける。俺はそこに立っていた。立ったまま、女が、車を揺らすのを見ていた。三回揺らして、四回目で、車輪が抜けた。女はそれから荷を一つずつ、積み直した。全部で、四半刻ほどかかった。俺なら、一息で終わる。俺はそう思っていた。

 

積み終わって、女は額を拭った。それから俺を見た。まだいたのか、と言った。いた、と俺は言った。女は笑った。変なやつだね、と言った。俺は答えなかった。女は車の把手を持って、押し始めた。俺も、同じ方向だ。だから並んで歩くことになった。

 

女はサキ、と名乗った。俺も、名乗った。サキは俺の名前を聞いて、へえ、と言った。それだけだった。それから二度と、俺の名を呼ばなかった。あんた、と呼んだ。ずっと、そうだった。

 

サキは運び屋だ、と言った。里から里へ、物を運ぶ。塩を運ぶ。布を運ぶ。そして錬金の品を運ぶ。錬金の品というのは、村にもあった。火の熾らない者でも火を熾せる石。傷に貼ると血が止まる布。冷えない布。村では、貴重品だ。年に何度か、行商が来て、置いていく。あれを運んでいるのが、この女だ。俺はそう理解した。

 

なぜ魔法を使わない、と俺は訊いた。歩きながら、そう訊いた。サキは何を、と言った。車輪だ、と俺は言った。あれくらい、魔法で持ち上がる。サキはああ、と言った。それからこう答えた。あたし、そんなに使えないよ。

 

俺は少し、意外に思った。運び屋なら一人で道を行く。道には魔物が出る。使えなければ、死ぬ。どうやって生きているのか、と俺は訊いた。サキは笑った。出るところを通らない。それだけだよ。

 

俺はその答えを少しの間、理解できなかった。出るところを通らない。それは、答えになっていない。どこに出るかは行ってみるまでわからない。俺はそう言った。サキはわかるよ、と言った。わかる、と俺は言った。わかる、とサキは言った。あんた、ミチノの北の方から来たんだろ。あの辺は、山から下りてくる。だから山に近い道は、避ける。春先は、沢筋に出る。だから沢筋を歩かない。このへんは、崩れた斜面に巣ができる。だから崩れたところは、通らない。サキはそう言った。それからこう続けた。あんた、さっき、崩れたところを越えてきただろ。

 

俺はそこで、黙った。越えた、と答えた。サキはああ、と言った。それだけだった。馬鹿だね、とは言わなかった。言わなかったが、そのああ、には、そういうものが入っていた。俺はそれをうまく処理できなかった。俺はあの斜面を半刻で越えた。誰にもできないことをやった。この女は半月待つか、迂回するかして、通らない。俺の方が、速い。俺の方が、強い。なのに、この女は俺を馬鹿だと思っている。

 

俺はこう言った。俺なら、巣があっても、殺せる。サキは少し、間を置いて、こう言った。そうだろうね。それからこう続けた。で、それで、何がいいの。

 

俺は答えられなかった。何がいいのか。そんなことは、考えたことがなかった。殺せるから、通る。それだけだ。それ以上の理由が、要るのか。サキは俺の顔を見て、笑った。あんた、強いんだろうね、と言った。それは、褒め言葉ではなかった。褒め言葉でも、貶し言葉でもなかった。ただの事実の確認だった。

 

その日は、日が暮れるまで、一緒に歩いた。途中で、サキは一度、道を外れた。なぜ、と俺は訊いた。この先、水が出てる、とサキは言った。水が出てると、道が緩む。緩むと、車が沈む。俺はその先を見た。道は、乾いているように見えた。乾いてるように見えるだけだよ、とサキは言った。俺はそこで、確かめてみようと思った。いや、確かめなかった。俺はサキについて、道を外れた。外れて、迂回して、また道に戻った。戻ったところで、後ろを振り返った。俺たちが通らなかった道は、遠目には、乾いて見えた。俺には、わからなかった。

 

夜、火を熾した。俺が熾した。サキはそれを見て、ほう、と言った。速いね、と言った。速い、と俺は言った。サキは荷から、石を出した。小さい石だ。手で握って、少し力を入れると、熱を持つ。錬金の品だ。あたしは、これでやる、とサキは言った。俺はその石を見た。それは、いくらだ、と俺は訊いた。高いよ、とサキは言った。三日ぶんの稼ぎ。なら、魔法を覚えた方が安い、と俺は言った。サキは笑った。そうだね、と言った。でも、覚えられないから、買うんだよ。

 

俺は教えられる、と言った。

 

言ってから、俺は少し驚いた。なぜそう言ったのか、わからなかった。サキは俺を見た。しばらく見ていた。それからこう言った。いいよ。いいのか、と俺は訊いた。いらない、とサキは言った。なぜと訊いた。サキは火を見ていた。それからこう言った。困ってないから。

 

そこで言葉を失った。困っていない。この女は魔法が使えない。石を買っている。三日ぶんの稼ぎで。それを俺は無料で教えられる。教えれば、この女は三日ぶんの稼ぎを失わずに済む。得しかない。なのに、いらない、と言う。困っていないから、と言う。俺はこう言った。得をする。サキはそうだね、と言った。でも、いま、困ってない。困ってないものをなんで、直すんだい。

 

俺はその夜、寝つけなかった。腹が立っていた。なぜ腹が立っているのか、わからなかった。この女は原理を知らない。なぜ火が熾るのか、知らない。何が動いているのか、知らない。知らないまま、石を買って、それで済ませている。俺は知っている。いや、知らない。俺も、名前は知らない。理由も知らない。だが少なくとも、俺はそこに何かがあることを知っている。この女はそれすら、知らない。知らないのに、生きている。生きていて、困っていない。俺より、うまく、生きている。

 

それが、腹立たしかった。俺はそれを認めた。認めて、こう思った。俺はこの女を見下している。なぜ見下しているのか。俺の方が、知っているからだ。では、俺はその知識で、何をした。……何もしていない。俺は村で、魔物を狩った。村を出された。いま、道を歩いている。行き先は、都だ。都に行って何をするのか。わからない。俺は何も、していない。

火が、小さくなっていた。サキはもう寝ていた。荷車の陰で、丸くなって、寝ていた。明日も、この女は荷を運ぶ。運んで、里に着いて、金をもらって、また運ぶ。それをたぶん何年もやっている。その荷の中には、石がある。俺が村にいた頃、行商が置いていった、あの石だ。あれで、村の誰かが、火を熾した。火を熾して、飯を炊いて、生きた。この女はそれを運んだ。俺は何を運んだ。何も運んでいない。俺は火を熾せる。だが俺の火は、俺の手のひらの先にしか、熾らない。

 

俺はその夜、初めて、腹の底が冷えるのを感じた。寒かったからではない。俺は寒さには強い。そういう冷え方では、なかった。俺は寝返りを打って、目を閉じた。空を見なかった。見上げれば、環が出ていた。だが俺は目を閉じた。目を閉じて、こう思った。俺は賢い。それで、何をするんだ。答えは、出なかった。その夜は、そのまま、眠れなかった。

 

 

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