月のない空   作:朝凪小夜

9 / 17
第九話 通らない

 

 サキとはそのまま一緒に歩くことになった。誰が決めたわけでもない。方角が同じで、荷車の速さに合わせて歩けば、ちょうど、俺の歩調になる。だから離れなかった。サキは俺に、何も訊かなかった。どこから来たのか。なぜ都に行くのか。なぜあんなに強いのか。一度も訊かなかった。村の人間は、訊かなかった。訊けなかったからだ。サキは訊かない。訊く必要が、ないからだ。俺が誰であろうと、荷車の速さは変わらない。

 

三日目に、魔物が出た。昼だった。道が、林に入るところで、サキが、急に止まった。俺は何も感じていなかった。サキが止まったから、止まった。どうした、と俺は訊いた。サキは答えなかった。林の奥を見ていた。俺も、見た。何もいない。音もしない。俺はそう言おうとした。言う前に、サキが、車を引いて、後ろに下がり始めた。

 

俺は動かなかった。サキが、十歩ほど下がって、そこで、俺を見た。早く、と言った。声を抑えていた。俺は林の奥をもう一度、見た。やはり、何もいない。だが下がった。サキのその抑えた声には、何か、逆らいにくいものがあった。俺たちは、五十歩ほど下がって、道の脇の岩の陰に入った。そこで、四半刻ほど、待った。

 

四半刻して、出てきた。林の奥から、道に出てきた。大きい。村で、去年の春に出た、あれと同じ種だ。角がある。前脚が長い。北の個体だ。こんなところにいるはずのないものが、いた。そいつは、道の上で、一度、立ち止まった。それから、林の反対側に入っていった。いなくなった。サキはそれからさらに四半刻、待った。俺たちは、何も言わなかった。

出よう、とサキが言った。俺たちは、道に戻った。そいつが立っていた場所には、爪の跡がついていた。深い。俺はそれを見て、こう言った。殺せた。サキは荷車を押していた。振り返らずに、こう言った。だろうね。

 

俺は続けた。殺しておけば、次に通る者が、死なずに済む。サキは少し、間を置いた。それからこう言った。そうだね。俺はそこで、口を閉じた。サキが、そうだね、と言うときは、話が終わったときだ。それは、三日でわかっていた。だが俺は終わらせなかった。なら、なぜ止めた、と俺は言った。

 

サキは車を止めた。俺を見た。しばらく見ていた。それからこう言った。あんたが死んだら、この荷は、誰が運ぶんだい。

 

俺はその言い方に、少し、腹が立った。俺は死なない、と言った。サキは頷いた。そうだろうね、と言った。それからこう続けた。あたしが会った中で、そう言った男は七人いる。そのうち、四人は、死んだ。俺は黙った。残りの三人は、と俺は訊いた。三人は、生きてる、とサキは言った。生きてて、いま、どうしてると思う。俺は答えられなかった。サキはこう言った。運び屋をやってる。

 

サキは車を押し始めた。俺はその横を歩いた。サキは話し続けた。あんたみたいなのは、珍しくない。強い男はいる。あたしより、ずっと強いのが、たくさんいる。道には、そういうのが、しょっちゅう歩いてる。みんな、同じことを言う。殺せる、って。実際殺せる。そしてそのうち、殺せないやつに、会う。サキはそこで、少し、笑った。道は、長いからね。何年も歩いてれば、いつか、当たる。当たったときに、殺せるかどうかは、その日の運だ。運が悪ければ、死ぬ。だから殺せる男はいつか、死ぬ。サキはそう言った。

 

俺はこう言った。なら、生きてる三人は、どうして生きてる。サキはこちらを見ずに、答えた。あるとき、殺すのをやめたからだよ。

 

その夜、俺はその言葉を考えた。サキは火の石を握って、飯を作っていた。俺は少し離れたところに、座っていた。考えていたのは、こういうことだ。サキの言っていることは、正しい。確率の話だ。毎回、殺す。毎回、勝つ。だが負ける可能性は、毎回、少しずつある。少しずつあるものを何百回も繰り返せば、いつか、当たる。当たれば、死ぬ。だから殺すという選択を繰り返す者は、いずれ死ぬ。これは、正しい。正しいのだが俺はそれを認めたくなかった。なぜか。俺は負けない。俺は村でいちばん強かった。俺は負けたことがない。……いや。俺は一度、負けている。俺は前の生で死んでいる。何かが来て、俺は死んだ。見ていなかったから、死んだ。

 

俺はそこで、手が、止まった。俺はあのとき、下を向いて歩いていた。何も見ていなかった。だから来たものが、見えなかった。見えなかったから、死んだ。サキは林の奥を見た。俺は見なかった。俺は何もいない、と思った。サキはいる、と思った。サキが、正しかった。俺はまた、見ていなかった。

 

なんで見えた、と俺は訊いた。サキは飯をよそっていた。顔を上げずに、こう言った。鳥がいなかった。俺は聞き返した。鳥、と。あの林、鳥がいた。ずっと鳴いてた。道の手前まで、鳴いてた。あの辺で、やんだ。サキはそう言った。それだけだよ、と言った。

 

俺は鳥の声を聞いていなかった。聞こえていた、はずだ。耳は、機能している。だが聞いていなかった。俺は聞こえていることと、聞いていることの違いをそのとき、初めて、はっきりと意識した。サキは飯を差し出した。俺は受け取った。食った。味が、薄かった。いや、いつも通りだ。俺の口の中が、乾いていただけだ。

 

なあ、と俺は言った。サキは何、と言った。あんたは、なんで、それを覚えた。サキは少し考えた。それからこう言った。死にたくないからだよ。

 

簡単な答えだった。簡単すぎて、俺は返事ができなかった。死にたくない。だから鳥の声を聞く。だから崩れた斜面を通らない。だから沢筋を歩かない。だから車輪が沈んだら、荷を下ろして、揺らす。全部、繋がっている。この女の全部の行動が、たった一つの理由から出ている。死にたくない。俺には、それがない。俺は死にたくない、と思ったことが、たぶん一度も、ない。死にたい、と思ったことも、ない。どちらも、思ったことがない。だから俺の行動には、理由がない。斜面を越えたのは、越えられたからだ。魔物を殺すのは、殺せるからだ。それだけだ。この女には、理由がある。俺には、ない。

 

俺はこの女を見下していた。三日間、見下していた。原理を知らない。仕組みを知らない。石を買って、済ませている。俺の方が、知っている。俺の方が、強い。そう思っていた。その俺の方が、という言い方の中に、何かが抜けていた。俺の方が、何だ。俺の方が、知っている。だが俺はそれで何もしていない。この女は知らない。だがこの女は生きている。生きて、荷を運んでいる。運んだ荷が、どこかの村の火を熾している。どちらが、上か。……そんな問いを立てること自体が、たぶん間違っている。この女はそんな問いを立てない。立てる暇があったら、鳥の声を聞いている。

 

俺はその夜、サキに、こう言った。俺はあんたを馬鹿だと思っていた。サキは火を見ていた。しばらくして、こう言った。知ってるよ。

 

俺はそこで、何も言えなくなった。サキはこちらを見なかった。火を見たまま、こう続けた。あんたみたいなのは、みんなそうだよ。最初は、あたしを馬鹿だと思う。途中で、少し、考える。最後に、謝る。そしてまた、同じことをする。サキはそこで、笑った。だから謝らなくていいよ。あたし、別に、困ってないから。

 

俺はその夜も、眠れなかった。サキはすぐに寝た。寝る前に、火を消して、石を袋にしまった。その手つきは、速かった。何千回もやっている手つきだ。俺はそれを見ていた。見ていて、こう思った。この女は原理を知らない。だがこの女の手は、正確だ。俺の手より、正確だ。俺は俺の魔法が、なぜ効くのかを少しは知っている。だが俺の手は、この女の手ほど、正確ではない。知っていることと、できることは、違う。俺はそれをそのとき、初めて考えた。

 

俺は空を見なかった。見上げれば、環が出ていた。俺は目を閉じた。目を閉じて、こう思った。俺は明日、この女に、何かを言うべきだろうか。言うことは、ない。謝らなくていい、と言われた。言われた通りだ。俺は謝るつもりも、なかった。俺はただ、こう思っただけだ。この女は俺より、うまく生きている。それを俺は認める。認めて、それで、俺は何をするのか。……何もしない。俺は明日も、都に向かって歩く。行き先は、変わらない。だから何もしない。いつも通りだ。そう思って、俺は眠った。眠って、次の朝、いつも通りに、起きた。そしてまた、歩き出した。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。