櫛田桔梗の独白。
窓に映る自分を見つめながら、私はいつも同じことを考える。
私の人生は、ずっと「舞台」の上だ。
笑顔を貼り付け、みんなが望む「理想の人間」を演じる。
困っている人がいれば手を差し伸べ、誰とでも仲良くし、太陽のような存在で居続ける。 そうしていれば、誰もが私を好いてくれる。私の味方になってくれる。
……それがどれだけ気持ちいい事か、誰も分かるはずがない
だから仮面を被るんだ。
承認欲求、それが私の一番大切な宝物なんだから。
どうせ他人は、自分のことしか考えていない。私を愛しているように見えても、都合が悪くなればあっさり切り捨てる。
そんな薄っぺらな繋がりしか、この世には存在しない。
だったら、私も同じだ。
誰も彼も、全員私の手のひらの上で踊らせて、私の安全を脅かす可能性のある人間は手懐けておく。
「櫛田さんは優しいよね」「頼りになる、私の大親友だよ」
そうやって私を満たしてくれる連中の顔を思い浮かべるたび、胸の奥で冷たい笑いがこみ上げてくる。
バカだな、全員。私の中身がどれだけ腐りきっているかなんて、これっぽっちも気づいていない。
本性を隠さなきゃいけない理由もある。
中学時代にしてしまったあの出来事。
私の醜い本音も、ドす黒い嫉妬も、心の奥底で渦巻くドロドロとした感情も、一度外に漏れ出せば、すべてが私を壊す凶器になった。
分かったんだ、本音なんて、見せるだけ無駄だって。
もう二度と同じ過ちをしないように、そう誓ってたはずだった。
でもそれは壊れた。
よりにもよって一番バレちゃダメな人間に本性がバレた。
『貴女は嘘がとてもお上手なんですね』
竜崎正。アイツが全部ぶっ壊した。
私の化けの皮を剥がして、本性を握られて、協力者にさせられた。
最初はうざかった。堀北と同じく、口封じしようと思ってた。
でも今は少し考えが変わった。アイツは私に承認欲求を満たす手段をくれる。
体育祭の時だって、私に本物の参加表をくれた。
確か『貴女はこれを自クラスの主要人物と龍園翔に渡しておいてください』だったっけ?
もしかしたら堀北を…って思ったけど潰されたのは龍園だけ。なんなら私のクラスは2位で竜崎は3位だったし。
何が目的?って思ったけど、今回は龍園の無様な姿を見れたから良しとした。
そんな、長くも短い時間を過ごしたアイツの事を私はある意味信用してる。
竜崎は、結局私を人間として見てない。だからアイツは私に価値が無くなった時しか裏切らない。
『白波千尋と同じグループになってください』
今回の混合合宿も始まる前に送られてきたメールは端的なものだった。
けど竜崎の事だから意図があるんだろう。そして私が文を深読みしないことも知ってる筈。
つまり私は白波と同じグループになるだけで任務完了。
そっからは様子見して、彼女が動き出したらそれに入り込めるよう言い訳を作る準備をしてた。
「(…でも、これは聞いてないけど?)」
特別試験『混合合宿』の宿泊室に、他クラスの生徒同士が無理やり一つのグループに押し込む。
だからこの澱みのような、冷ややかな空気は予想内だ。
僅かな不満や猜疑心を育てるのには十分すぎる環境の中、ついに我慢の限界を迎えた者たちが衝突の火花を散らしていた。
「ちょっと待ってよ。そんな言い方、あまりにもひどくない?」
ヒートアップした女子二人が鋭い視線をぶつけ合い、室内の空気は凍りついたように重くなっていた。
その中心にいるのは、気が強く自分の意見を曲げない篠原さつきと、プライドが高く責められると頭に血が上る真鍋志保だ。
似た者同士の彼女たちは、水と油のようにお互いを激しく嫌悪し合っている。
「ひどい? こっちは最初からあんたのせいでペナルティを受けそうになってるんだけど。自覚ないわけ?」
「は? 私のせいって言いたいわけ? 」
「そっちこそ人のせいにするの、いい加減にして」
停まる気の無い言い争い。周りの連中は見てるだけだった。
「はい、そこまで! 二人とも、そんなに熱くならないでよ。ね?」
だから私は、適切なタイミングで彼女たちの間に割って入る。
笑顔はいつもより困ったように、でも殺伐とした空気を和ませるようなものにした。
そんな乱入者に、睨み合いを続けていた真鍋も篠原も、気まずそうに勢いを緩めた。
(…結局、自分より下だと思う相手にしか強気で行けない小心者ってことね。本当に見てて気持ち悪い)
「……櫛田さん。こいつが勝手に」
「そうだよ、櫛田さんは関係ないでしょ。こいつが一方的に──」
「うんうん、言いたいことはお互いによく分かるよ。この合宿ってみんな余裕なくなっちゃうよね。でもさ、ここで言い合っても何も解決しないし、せっかく同じグループになったんだから仲良くしようよ?」
淀みないトーン。相手の感情に優しく寄り添うような仕草。
その場にいた誰もが、私の演技で平和な空気に戻ると信じて疑っていない。
「ね? だから今回はお互い様ってことで、ここで仲良く握手して終わりにしよ? 私もちゃんと協力するからさ」
「……ううん、私こそ言い過ぎたかも、ごめんね」
「……私も、ちょっとカッとなっちゃったし、謝るわよ」
私が差し出した柔らかく温かな手をとって、真鍋と篠原は気まずそうに視線を逸らし、ようやく形だけの和解を取り繕った。
まぁ問題の解決にはなってないから、またするんだろうな。そう思いつつ、周りの様子を観察する。
周囲の女子たちからは「さすが櫛田さんだよね」「本当に頼りになる」という称賛と安堵の視線が一斉に向けられる。
(──で、結局この2人の取り巻きは何にも行動しない、使えない連中だなぁ)
真鍋は藪、篠原は佐藤。それぞれ後ろについていたが、何もしなかった。
ただ、心配そうに見守っているだけの、役立たずの置物だった。
「ううん、みんなが無事で仲良くしてくれれば、それが一番なんだから!」
完璧なトーンで返事をしながら、私は心の中で冷ややかに吐き捨てる。
(はいはい、めでたしめでたし。はぁ……後何回こんな茶番劇につき合わなきゃいけないのか、本当にうんざりする)
「流石、人気者は言うことが違いますね。まるで絵に描いたような平和主義のヒロインごっこ、見てると満腹元気百倍になります」
だが、今日はどうやら私にとって最悪の厄日らしい。
ひらひらと両手を軽く振って、ようやく収まりかけた話をあえて蒸し返すように近づいてきたのは、気だるげでマイペースな──1年Bクラスの森下藍だった。
彼女は面白がるように目を細め、私の顔を至近距離で覗き込むようにして首を傾げる。
「櫛田桔梗、そんなにいつでもどこでもニコニコしてて、頬が攣るって思ったことないですか? それとも、その笑顔の下では『早く黙れよ』って舌打ちしてます?」
核心を突くような、どこかふざけているのか本気なのか分からない森下のダル絡みに、心臓がわずかに跳ねた。
背筋を冷たいものが走るが、私は一瞬たりとも表情を崩さず、むしろより一層困ったような、愛らしい苦笑いを浮かべて見せる。
「もう、森下さんってば冗談ばかり。私はみんながギスギスしてるのが心配なだけだよ?」
「そうですか。他人の喧嘩なんて、目に見えた泥沼に突っ込む人って相当なバカか、裏の顔でもあるのではと疑う気持ちが溢れてきます」
ふふんと鼻歌をする森下を、周囲の女子たちは「また変なこと言ってるよあの人……」といった呆れた視線で見つめている。
誰も森下の言葉を本気にしてなどいない。あくまでいつも通りの『変人の冷やかし』として聞き流しているだけだ。
(……なんなの、この変人。なんで私ばかり、こうやって余計なちょっかいをかけてくるわけ……?)
脳裏に蘇るのは、同じように自分の本質を嗅ぎ分けてくる竜崎正の存在と、彼の前で感じたあの底知れない恐怖だ。
(竜崎といい、この森下といい……どうして私の周りには、こういう嗅覚の鋭い面倒くさい奴ばかり寄ってくるのよ。私の邪魔をしないで、さっさと消え失せろっての……!!)
怒号と嫌悪感に満ちたドス黒い感情が、喉元まで出かそうになる。
私はその感情を何とかねじ伏せ、まるでからかわれて少し困っているだけのような、少女らしい愛嬌のある仕草を作ってみせた。
「もう、森下さんいじわる言わないで?もう次の授業が始まっちゃうよ、時間も無いし余計な話はこれおしまい!」
あえて明るく場を仕切り直すように声を張り上げる。
その完璧な切り返しに、森下は「敗者はさっさと去るのみです。ドロン」と両手を上げてひらひらと振り、数歩後ろへ下がった。
周囲の女子たちからは「本当に櫛田さんは大人だなあ」「森下さんに絡まれて大変なのにすごいよ」という称賛と安堵の視線が一斉に向けられた。
(絶対、この試験の報酬は高く吊り上げてやる…)
だから、内心で罵詈雑言を浴びせていた私は気が付かなかった。
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竜崎正の独白。
順調に授業をこなし終えれば、特別試験最後の夕食の時間を迎える。
明日の試験はこれまでの授業を通じて、得たものの発表日。
内容は『禅』『駅伝』『スピーチ』『筆記試験』の4つ。
どれも面倒な事に変わりはない。明日をどうやり過ごすか、無理難題に頭を悩ませる。
そんな中、一人静かに箸を進めていた私の背後に軽やかな足音が近づいてきた。
「よぉ、竜崎。調子はどうだよ」
振り返るまでもない。全校生徒の頂点に君臨する男特有の余裕を纏った声だった。
「こんばんは南雲さん、調子はどうですか?」
私は表情を変えず、そう問い返す。彼は私を睨みつけるような視線を向けると、皮肉交じりの返事を口から吐いた。
「あぁ。お前が勝負に乗らなかったこと以外は全部予定通りだな」
「そうですか、それは良かったですね」
私のそっけない返答に、南雲はわずかに面白くなさそうな表情を浮かべつつも、椅子を引き寄せて強引に隣に腰掛けた。
彼はテーブルに片肘を付きながら、私の顔をまじまじと見つめた。
「…なぁ竜崎、何故乗らなかったんだ?」
周囲の目を気にしてか、少し声を潜めながら探るような言葉を投げかけてくる。
「堀北さんと貴方の勝負を邪魔したくなかったから。それでは駄目ですか?」
「お前が純粋無垢で、他人を慮れる奴だとは思わなかったな」
「私はとても純粋な青年ですよ」
本心など言う気はない。それにあの場で表立って勝負に参加する事は今後を考えれば好ましくなかった。
そう、涼しい顔で言い放った私に、南雲は鼻で笑うように息を吐き出す。
だから私は少し話題を変える事にした。
「ただ、一つ良いですか?」
「…なんだ」
私は持っていた箸で、テーブルの上に置かれた水を掻き混ぜながら彼の目を見た。
「──貴方は今、楽しいですか?」
「…突然どうした?」
南雲の眉がわずかにピクリと動く。どうやら図星らしい。
その小さな動揺を逃さず、私は言葉を重ねた。
「だって、堀北学が居なくなったら寂しいでしょう?」
その名前を出した瞬間、周囲の空気が一変した。 南雲の完璧だった笑みがわずかに張り詰め、いつもとは異なる光を宿した瞳が私を射抜くように捉える。
彼はきっと、堀北学以外にそこまで興味が無い。
それは恐らく、自分以上の本当の天才と出会った衝撃、そして敗北感からなる執着。
「……」
あえての沈黙。その意味を察したのか、南雲の表情が一瞬だけ険しくなった。私はその反応を視界の端に捉えながら、さらに追撃するように言葉を紡ぐ
「私を暇つぶしの玩具としか見てないですよね」
「……へぇ、なんでそう思った?」
彼は『対等な相手』に飢えているのかもしれない。自分と対等に渡り合える存在が周りに居なくなった、そんな退屈は彼を蝕んでいるんだろう。
彼は、堀北学と綺麗事では無い、全てを掛けた戦いを望んでいる筈だ。
そしてそれに堀北学が答える事は無いだろう。
彼は南雲雅とは性質が違うのだから。
それを私は教える気はない。
彼に多くの情報を与える義理は無いからだ。だから淡々と事実を羅列していく。
「可哀そうですね。対等な相手が居なくなるというのは」
「無視か、まぁいい。確かに俺は竜崎の事を下に見てるからな」
余裕を取り繕うように片側の口角を上げる南雲だったが、その声のトーンにはわずかなトゲが混ざっていた。
「そうですか、マグレで当たりましたね」
それに少し怒りを覚えたのか、彼の爽やかな笑顔にハッキリとひびが入る。
「貴方が今回、堀北学の駒を攻撃している事は知っています」
「……そうか?俺は堀北先輩と正々堂々、グループの結束力で勝負する気だったぜ」
「そう仰るのならそれでもいいです」
私は味噌汁の入った器に視線を落とし、感情の乗らない声で続けた。
「だからこれは想像の話だと思ってください」
「ほう?」
「三年生と手を組み、堀北学に最も近い橘という生徒を嵌める。そして道連れの条件を満たした彼女を退学させ、責任者の方は救済するって話です」
南雲の瞳孔がわずかに収縮した。図星を突かれた人間の、本能的な反応だった。
「面白い事を言うんだな、竜崎。だが、それじゃあ堀北先輩は勝負を無効にしちまうぞ」
「それすらもどうでも良いんでしょう。貴方はそんな口約束を律儀に守る気はないのだから」
「……」
きっと彼は認めて欲しいんだろう。自分を特別視して欲しい、実力を憧れの人物に魅せたいそんな歪んだ承認欲求の慣れの果てなんだろう。
だから堀北学の信用を利用して欺く。そして激昂させ自分との決着を付けて欲しい。
対等な関係のまま、学校から卒業して欲しくない。そんな感情を覚えているのかもしれない。
「それを私は否定しません。彼は生徒を転がすようなやり方を認めなかった。なんでもありでやりたかった貴方はそのせいで満たされてない」
南雲の仮面が完全に剥ぎ取り去られ、そこには冷徹な支配者の素顔が露わになっていた。だが、私は臆することなく、すっと彼を真っ直ぐに見据えた。
「南雲さん、この試験が終わったら少し話がしたいんです。お時間作ってもらえますか?」
彼の口元が、わずかに不敵な弧を描く。
「……いいぜ、待っててやるよ、竜崎」
それだけ言い残すと、南雲は音もなく席を立ち、去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、私は再び箸を動かし始める。
彼は結果が分かった時どういう感情を覚えるのだろう、それを少しだけ楽しみにしていると入れ替わりでもう1人来客が来た。
「龍園君ですか」
彼は気だるげに私の前の席に座ると、いつものあくどい笑顔を見せた。
「さっきは先輩と楽しそうに話してたじゃねーか?」
「はい。南雲さんは色々と私に絡んでくるんですよ」
「お前の言動にも原因があるんじゃねえか?」
「そうですかね?私には良く分かりませんが」
私は他人事のように肩を竦め、目の前の龍園翔からの眼光を真っすぐに受け止めた。
彼は私の態度が気に食わなかったからか、腕を組んで椅子の背に体重を預けた。
「それで龍園くんはどうするんですか?」
「…どういう意味だ」
「いえ。クラスの裏切り者、放置する気なのかと思いまして」
その質問に待ってましたと言わんばかりに彼は、自らの答えを述べた。
「お前が言っていたうちのクラスの裏切り者──真鍋志保じゃねえのか?」
真鍋志保。彼女は気が強く弱みは多い。裏切り者にするには比較的簡単な部類で、それに辿り着くのは想定内だった。
恐らく、椎名ひよりがペーパーシャフルの際に渡す情報に差をつけて精査する事は予測できた。
だからこそ、私はDクラスを相手に選ばなかった。
彼女が出てくるなら、大きな行動をする事は勝利の確率を3%減らす愚策だからだ。
「おー、そういう風になるんですか。一応考察を聞きたいんですが構いませんか?」
「…いや、お前に言う気はねえな」
「そうですか。それは残念です」
私はそれに予想通りだと、落胆せず笑顔を見せた。
それを語る事が次の裏切り者を作る際の傾向を考える隙を産む行為だと、彼が気が付くのは妥当だからだ。
私が話す気が無いと理解した彼は、もうこれ以上の会話は必要ないと判断したのか去ろうとした。
それに少し、魔が差した私は少しヒントを渡す事にした。
「今回の試験は退屈であるとともに、色んな考えが交錯していると思いますよ」
「何を言って…?」
「取り敢えず、
「……ふっ、相変わらず気色の悪い物言いをしやがる。お前のその含みを持たせた喋り方、いつか剥いでみたいもんだな」
龍園は面白そうに片方の口角を吊り上げると、それ以上詮索することなく、音もなく背中を向けて歩き出した。
「せいぜい、足を掬われないことだな、竜崎」
暗がりへと消えていく彼の背中に向け、私は小さく会釈する。
「ご忠告どうも。……お互いに、ですね」
呟いた言葉は、人の騒音にかき消されて誰の耳にも届かない。
いよいよ明日が最終日だ。停滞を打ち破るための引き金がどこで引かれるのか――私は静かに、その瞬間を待ち構えていた。
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堀北学の独白。
特別試験最後の夜。
外ではあいにくの悪天候で、大粒の雨が窓を激しく叩きつけている。
そんなせいか、宿泊棟のラウンジは外界から完全に切り離されていた。
静まり返った闇の中、コーヒーカップの微かな触れ合う音だけが響く。
明日の朝食はもしかしたら免除かもしれない。そう多くの生徒は楽観的に考えているだろう。
「夜更かしだな、竜崎」
俺は静かに歩を進め、彼の斜め前の席に腰を下ろす。そして、テーブルの上に残された微かな痕跡――温もりを失いかけたカップに視線を落とした。
「こんばんは、堀北さん」
振り返ることも無く、竜崎はそう告げた。その声色には俺に対する警戒も、他の感情も含まれていないように感じた。ただの事実確認、落ち着きがあった。
「誰か居たのか?」
「あぁ、そうですね。少し用がありまして。……まぁ、他愛のない世間話ですよ。気にしないでください」
竜崎は、ゆっくりと俺へと視線を向けた。 その瞳には光がない。まるでこの暗い夜の底を切り取ったかのような、底知れない深淵だった。
「それで何か用でしょうか?私は今外を眺めて時間を過ごしているのですが」
「…寝ないのか?」
「はい。私はこの混合合宿中、軽い仮眠しかしていません。それぐらいには集団生活が嫌なんです」
この混合合宿は7泊8日。時間にして約180時間。それを仮眠だけでやり過ごすというのだから、竜崎という人間は変わっていた。
「相変わらず、変なところを気にする男だ」
「まぁ潔癖ですから」
竜崎は薄く笑った。だが、その笑みには温度がない。 俺はカップから視線を外し、真っ直ぐに彼を見据えた。
「それで何の用かという話だったな」
「…」
静寂が落ちる。雨音だけが、やけに大きく耳に響く。 俺は、彼の真意を測るように低い声で紡いだ。
「俺は南雲がどういう奴か、知っている」
「約束を反故にする人間だと?」
「いや、それは違う。南雲は俺との約束をこれまで破ったことはない。ならば、信頼するのが妥当だろう」
「確かに、理論だけを追うならそうかもしれませんね」
竜崎はカップを持ち上げ、黒い液体を揺らした。
「ですが、貴方ほどの男が……存外、人間の感情の機微を理解できていないらしい」
「……なんだと?」
竜崎の返答は無く、代わりに雨音が強くなった。
雷でも落ちそうだった。
「一つ、賭けをしませんか?」
「賭け、だと?」
「はい。貴方たちが勝つのか、それとも──私が勝つのかです」
「…竜崎、お前は勝負をしていない筈だが?」
竜崎は音もなくカップをソーサーに戻した。その口元に、微かな、しかし底意地の悪い笑みが浮かぶ。
「そうですね。ですが、私は今勝負をしていますよ」
彼は頭を整理するように、細い指先で唇を何度か撫でた。それは、俺への言葉に悩んでいるのではなく、別の何かを見ている気がした。
「私は、幼稚なんです。眼中にないと言われて、易々と引き下がるわけにはいかない」
竜崎の体が、わずかに前に傾いた。まるで謎解きの答えを相手に突きつけるかのように目が大きく見開かれる。
「だから、今回は動くことにしました」
嵐の夜の静けさの中、彼の低い声がラウンジの空気を冷たく刺す。
「もう一度聞きましょう、堀北学。貴方は自分達が勝つと思うのか?負けると思うのか?」
「お前はどちらを選ぶんだ」
俺の問いかけに対し、竜崎はすぐに答えようとはしなかった。
ただ静かにカップの縁を指でなぞり、窓の外で荒れ狂う雨の音に耳を傾けている。まるで、今この瞬間の静寂を惜しむかのように。
「……選びませんよ、堀北さん」
やがて、彼はふっと息を吐くように笑い、こちらに視線を戻した。 その瞳の奥にある深淵は、先ほどよりも一層色濃く、底知れない知性を湛えていた。
「私はプレイヤーではなく、観測者でありたい。だが、盤上の駒が勝手に動くと言うのなら少しばかり面白い」
「それがお前の言う『賭け』か」
「ええ。あなたが築き上げた秩序がどう崩れ去るのか。あるいは、私がそれすらも凌駕するのか」
竜崎は立ち上がり、襟を軽く整えた。
「…どちらにせよ、明日にはすべてが分かる。結果がどう転ぼうとも、この合宿は最高の展開になるでしょうね」
それ以上言葉を交わすことはなかった。 竜崎は音もなくラウンジを去り、この空間には雨音と静寂だけが残った。
(……南雲、そして竜崎。彼らの思惑はなんだ)
俺は窓の外の闇を見据えたまま、冷め切ったコーヒーをじっと見つめた。 嵐の夜が明けたとき、この盤上で最後に立つのは誰か。
──答えは、明日、すべての試験が終了した瞬間にのみ下される。
次回、決着。