神崎隆二の独白。
竜崎が教室に来なくなって数日が経った。
Aクラスの教室。
放課後の教室に響いた声は、絶望と怒りで激しく震えていた。
「どうして、神崎くんまでそんな事を言うの!?」
いつもの笑顔は、もう面影すら無かった。
あふれる涙と、怒り。色々なものが混ざり合った表情でクラスを見回しながら、一之瀬は声を荒らげる。
「どうして……!? どうして竜崎くんなの!? みんな、目を覚ましてよ!」
一之瀬は拳を固く握りしめ、爪が手のひらに食い込んで血が滲むのも構わずクラスメイトたちを怒鳴りつけた。
普段の穏やかで優しい姿はどこにもない。溢れ出る涙を拭おうともせず、悲痛な叫びを上げる。
「忘れちゃったの!? 今私たちがAクラスなのは、このクラスを引っ張ってくれたのは、竜崎くんでしょ!? 彼が裏で泥を被ってくれてたから、私たちはこうして笑っていられるんじゃないの!?」
殆どの人間が気まずそうに視線を逸らし足元を見つめる中、誰かが小さく呟いた。
『でも、竜崎くんは協調性がないし……奇行も目立つし、クラスの輪を乱してるよ』
その言葉を聞いた瞬間、一之瀬の瞳から完全に『光』が消え去った。
「協調性……?」
静かな、そして冷たい声。
一之瀬はゆっくりと頭を上げ、自分を頼りにしてきたクラスメイト一人ひとりを、狂気を孕んだ強い眼光で射貫いた。
「そんなくだらない理由で、私たちを守ってくれた人を捨てるの…? 恩を仇で返すなんて……そんなの、最低だよ!!」
バンッ! と一之瀬は激しく教壇を叩いた。
「私たちが掲げてきた『誰一人見捨てない』っていう目標は、そんな都合のいいものだったの!? 貢献してくれた人を切り捨てて得るAクラスなんて、何の意味もない! 私は絶対に認めないよ!!」
呼吸を荒くし、一之瀬は自身の喉を掻き切るかのような勢いで宣言する。
「竜崎くんを退学にするくらいなら、私を退学にしてよ! 彼を排除して平然としていられるようなクラスなんて、私はもう見たくないよ…」
自分を犠牲にしてでも。そんな一之瀬帆波の暴走に、誰もが言葉を失った。
「一之瀬……いい加減にしろ。お前が退学になっても意味はない」
俺は教壇の前で肩を上下させる一之瀬に詰め寄る。
「竜崎の功績は認める。だが、奴はあまりにも異質だ。クラスの機密も、試験の作戦も一人で抱え込んで共有しない。この学園でそんな秘密主義の人間を抱え続けるリスクを、お前は理解しているのか?」
「リスク……? そんな言葉で、この話を片付けるつもり!?」
一之瀬は瞳に涙を溜めながらも、刃物のような鋭い視線で神崎を突っぱねた。
「それに神崎くんは竜崎くんと仲が良いんじゃないの?いつも一緒に居るし、キミだって竜崎くんを頼ってた。なのに、いざとなったら簡単に切り捨てるの?」
「…否定はしない。だが、この試験はあまりにも異色だ。竜崎が居る限り、また起こる可能性を捨てきれない」
「それでも、簡単にあきらめるのはおかしいよ。何か、何か手がある筈だよ……」
教室のあちこちから、気まずそうな視線と小さな動揺が広がる。渡辺や柴田も、一之瀬の気迫に押されて言葉を詰まらせていた。
「私たちは『全員でAクラスに行く』って誓ったはずだよ……! その『全員』の中に、私たちを救ってくれた竜崎くんが入っていないなんて、そんなのただの偽善でしょ!!」
彼女の言葉は俺の心に刺さった。
苦しい。本当なら俺だってお前と同じ側に立ちたかった。一之瀬の言う通り、竜崎を切る選択は冷酷で、恩知らずでしかなかった。
だが、俺がこうして冷静さを保っていられるのは、竜崎が教室に来なくなった日の翌日に送られてきたメッセージのお陰だった。
『私を信じてください』
詳細を聞こうとすぐさま返信を送ったが、既読すらつかなかった。
それでも──いや、だからこそ、竜崎を疑う理由にはならない。
あの男は、迷っていた俺を導いてくれた。
…なら、いま俺がやるべきは、一之瀬を止めることだ。
「一之瀬、一度頭を冷やせ。今のお前は正しい判断を出来てない」
教壇の前に立つ一之瀬は、なおもその瞳から光を失ったまま、俺を睨みつけていた。
「正しい判断、ね……。神崎くん、それがあなたの選んだ答えなの?」
嘲るような、どこか哀切を帯びた声が教室の空気を凍りつかせる。
網倉が冷や汗を拭いながら、おそるおそる一之瀬に歩み寄った。
「ほ、帆波ちゃん……。神崎くんの言うことも一理あると思う。私だって竜崎くんには感謝してるけどさ、このままじゃクラス全員が潰れちゃうよ……」
「麻子ちゃんも、……そんなこと言うんだ」
一之瀬はゆっくりと首を横に振った。その絶望しきった声音に、網倉は気まずそうに目を逸らすしかなかった。
クラスの連帯感は、音を立てて崩れ去ろうとしている。竜崎という圧倒的な支柱を失ったことで、このクラスがいかに脆い基盤の上にあったのかが嫌というほど思い知らされる。
(……だが、ここで引くわけにはいかない)
俺は一之瀬から視線を外し、動揺に満ちたクラスメイトたちへと向き直った。
「…これ以上の議論はただ時間を浪費するだけだ。……投票の期限はあと数日。各自、このクラスの未来のためにどう動くのか、考え直すべきだ」
それだけを言い捨てると、俺は背を向け重い足取りで教室を後にした。廊下に出た途端、冷たい夜気が火照った肌を撫でる。
もう3月、あっという間にこの学校に来てから1年が経とうとしていた。
一之瀬が狂気に囚われ、クラスが崩壊の危機に瀕しているこの瞬間も、竜崎は姿を見せない。
俺は竜崎からのメッセージが表示されているスマートフォンを強く握りしめると、歩き出した。
無力な俺は任された役割を果たす事しか出来なかった。
──
堀北鈴音の独白。
私は、人から「冷酷だ」とか「孤高を気取っている」と言われることがある。
けれど、それは根本的な誤解だ。私はただ、自分の人生において、無駄な感情や他者への過度な期待を排除しているにすぎない。感情に流されて真実を見誤ることほど、愚かしいことはないからだ。
私は、兄さんという圧倒的な存在の背中を追いかけるだけだった。兄に認められたい、兄と同じ高みへ行きたい――その一心だけで息をしていた。自分の意志などなく、ただ兄の軌跡をなぞるだけの存在。
人が群れるのは、弱さの表れだ。
誰かと馴れ合うことで安心を得ようとするその姿勢は、私には滑稽にすら見える。
群れは責任を分散させ、個人の成長を奪う。本当に困難な局面に直面したとき、最後に頼りになるのは他でもない、自分だけなのだから。
もちろん、私は孤立を好んでいるわけではない。
かつての私は他者を切り捨てることしか知らなかったが、この学校に来て、クラスメイトたちとぶつかり、背中を預け合ううちに、少しずつ変化が生まれたことは認める。信頼とは、馴れ合いではなく、互いの自立の上に成り立つものだと知った。
それでも、私の根本にある信念が揺らぐことはない。
私は私自身の力で這い上がる。誰かに頼るのではなく、誰かを導き前へ進む強さを証明するために。他人の同情や薄っぺらな優しさなどいらない。私が進むべき道は、もう示されてるのだから。
そんな中、特別試験『クラス内投票』が始まった。
この学校で始めての強制的に退学者を出す試験。これまでに私たちのクラスは少なくない退学者を出してきたが、良くも悪くも他クラスの手によるものだった。それを自分たちの手で出さなければならない、その現実に当然クラスは荒れた。
私たちのクラスはもうボロボロだった。
平田くんと櫛田さんが何とか纏まらせているが、それもいつまで持つか分からない。
だからこそ、私が何とかしなければならない、そう考えた。
***
冬のせいか冷えた廊下を歩き、私はある場所へ向かっている。
私はまず、この学年で最も嫌われ、同時に警戒すべき生徒と話をする事にした。
本当は、全ての元凶である竜崎くんにも話をしてみたかった。
けど、避けられているのか足取りを掴む事すら叶わず今日まで来てしまった。
(──だからこそ、彼に話をする)
選んだのは、Dクラスの龍園くん。暴力的な手段でクラスを支配してきた彼に、話を聞くことが試験の解決法に繋がると思った。
何故なら、彼は自分が最も狙われる立場だからだ。嫌われてかつ貰えるポイントが多い。
この学年でただ一人の人物だ。
「龍園くんが今何を想っていて、何を考えているのか。それを知るには話しかけてみるしかないわ」
「なるほどな」
試験について説明された日の昼休み。
疎らに居る人は綺麗に彼から離れて座っている。龍園くんはそんな状況を無視しているのか分からないが、その中心でポツンと佇んでいた。
周囲から隔絶された場所で堂々と本を読んでいて、まるで退学する事なんて無い。そう言いたげな態度だった。
そうして近づいていく最中、綾小路くんがいつのまにか付いて来ていたが気にせず彼の前に立った。
気配に気づいているはずの龍園くんは、しかし、すぐに顔を上げたりはしなかった。手元の文字を追う視線は冷ややかで、私を値踏みするかのようだった。
「随分と余裕ね」
その言葉に彼は、数泊の沈黙を使った後に答えた。
「…誰かと思えば、鈴音か。そしてお前も居るんだな綾小路」
彼はふっと鼻を鳴らし、パタンと乱暴に本を閉じた。そして、ゆっくりとこちらに視線を向ける。その眼に映る光は、もう足掻く余地がないという諦念にも、策があるからの余裕にも受け取れた。
「素直に聞くわ。貴方は今回の特別試験、どうするつもりなの」
私が危険を冒してまで接触した理由を知った綾小路くんが、少しだけ身じろいだのが視線の端に映った。
彼と龍園くんは状況が似ている。
退学したらクラスに多くのポイントが入るという点が、それを作り上げていた。
だから、綾小路くんも、龍園くんがどう動くのか知りたいのだろう。
「随分と抽象的な言いようだな、鈴音?」
煽るような言動で龍園くんは、私への質問の回答を濁した。
すぐ答える気が無さそうだと察した私は、別の切り口から話を聞くことにした。
「そう、なら竜崎くんの噂は知っているかしら」
「あぁ、アイツの事は話題になってるからな」
竜崎くんの宣言、それは噂ではなく真実だったのだろう。同じAクラスの一之瀬さんの様子を見れば一目瞭然だった。
少し前の図書室で、彼女は竜崎くんとならクラスの全員が無事で卒業できると宣言していたのだ。その片翼が捥がれる現状をそう易々と受け入れられるわけが無かった。
「お前はどう思うんだ」
「どう?とは何かしら?」
仕返しのような曖昧な質問に、私は思わず聞き返してしまった。それを龍園くんは黙って見つめた後、話を続ける。
「可笑しいと思わないか、アイツがそんな簡単に試験を諦めるのか?」
「…そうね、それは確かにそうだわ」
脳裏に浮かぶのはあの淀んだ瞳だった。竜崎くんが、理不尽を前に大人しく諦める。そんな匙を投げる姿は想像できなかった。
だからこそ、龍園くんは彼の態度に裏があると睨んでいる。そこにこの試験の突破の糸口があるのでは言いたいのだろう。
「アイツが抜けたAクラスは脅威じゃない。一之瀬帆波じゃ竜崎の代わりにはならない」
それは紛れもない真実だった。
いい意味でも悪い意味でもあのクラスは竜崎くんのワンマンチーム。学校がこの試験を飛びぬけたクラスを均す為に行うと言っていたが、それぐらいしないと追いつけないぐらいの実力の差があった。
「でも、それは貴方も変わらない」
私のストレートな物言いに、龍園くんは目を細めた。
「なんだ、デレたのか?あのお前が?」
「いいえ。お世辞なんかじゃないわ。もし仮に竜崎くんが居なければ、この学年がどうなっていたのか……想像もつかないの」
私は決して龍園という男を低く見ていたわけではない。暴力という野蛮な手段を好む彼を軽蔑こそすれど、その実力を無視することは出来なかった。
「俺が居ないDクラスは脅威じゃないって話か?」
「えぇ。そうね」
確かに彼のクラスは今、Dクラスにまで転がり落ちている。けど、それは彼の能力不足だけが原因じゃない。
Dクラスは龍園くんの独裁で成り立っていた。それが崩された今、どうしようもできないだろうけど、彼の考え方は私の持たない視点だった。
それは彼の方法の肯定では無い。私たちより苦しい立場の筈なのに、彼は竜崎くんから勝利を捥ぎ取る事を諦めていなかった。その狂気じみた姿勢は今の私に欠けているものだった。
「最後に一つだけ、いいかしら」
「なんだ」
私は龍園くんが作戦の詳細を語ってくれなさそうだと判断し、話を切り上げる事にした。
「……貴方は今絶望的状況に居る。だけど、もし本気でこの試験に挑んだら退学になる事なく生き残れる?」
龍園くんの目を見て私はそう話した。誰の目から見ても退学が濃厚である男が、自分の窮地を理解した上で何を語るのか、それを聞きたかった。
「それは愚問だな」
吐き捨てるようにそう答えた。その瞳の奥には、恐怖の色など微塵もなく、燃えるような自信が揺らめいていた。
「虚勢…では無さそうね。自信しか感じられないわ」
「なんだ、生き残る秘策でも伝授してもらいたくて話しかけたのか」
その言葉に引っ掛かりを覚えた。
「それは…、方法があるという話かしら」
「クク。素直に教えると思っているのか?」
「いいえ、でもあると考えれば前を向けるわ」
それは実質的な肯定だった。彼はすでに、この残酷な試験を切り抜けるための答えを掴んでいる。その確信が、私の胸をざわつかせた。
「それにあなたが退学する事を喜ぶ生徒も多いわ。竜崎くんも勿論そうだけど、あなたたちは良くも悪くもやりすぎたの」
彼らが居なくなれば、クラス間の闘争は終わるだろう。確かに坂柳さんや葛城くんは居る。けど、龍園くんや竜崎くん程の脅威は感じなかった。
「ありがとう。あなたのお陰で自分の選択に後悔が少なくて済むわ」
私のその言葉を聞いた瞬間、龍園くんの表情に冷ややかな嘲笑が浮かんだ。
「…なんだ、お前の底が知れたな。虚勢塗れだな、鈴音は」
「──なに?」
「後悔するってのはそんな簡単じゃねえよ」
彼の低い声が、図書室の空気に重くのしかかった。
「後悔ってのはそんな安い言葉じゃねえよ。お前みたいな上辺しか見れない奴には特にそうだ。お前は人を頼らねえと決断も出来ない雑魚でしかない」
龍園くんは「それに」と話を続けた。
「お前はクラスっていう底なし沼にハマってる。自力で這い上がれないお前は、もう冷徹にも成れねえ。それにそんな判断が出来るのは少ないしな」
私の頭の中に、数人の人が浮かんだ。確かに彼らならこんな弱気な発言はしない。
友人としての関係が出来る前と、今は違う。入学当初の私なら迷いなく決めれた、でも今は迷いが生じる。
だけど言われっぱなしが癪だった私は、龍園くんに反撃した。
「そんな偉そうに講釈垂れているけど、貴方も後悔した事ないんじゃないかしら?」
「……」
「それなら馬鹿ね。そんな虚勢を張っても現実は変わらないのだから」
「クク、なんとでも言え。精々足掻くんだな、鈴音。
私の挑発的な言葉を、龍園くんは鼻で笑い飛ばした。彼はそれ以上何も語ろうとせず、再び無造作に本のページに視線を戻してしまう。
結局のところ、彼の口から「生き残る方法」を聞き出すことはできなかった。
そして、彼の言われた言葉に私は、言い知れない感情を抱き始めていた。
***
特別試験が始まるまで数日。
そろそろ眠りにつこうとしていた頃に1通のメールが届いた。
私は綾小路くんからのものだと判断して、既読だけでもつけておく。そんな簡単な気持ちで携帯を開いた時、驚いた。
兄さんからのものだったからだ。
『思い残す事はないのか』
たった1行だけのものだった。けど、それはチャンスだった。
この機会を逃したら、次はいつになるか分からない。最悪、卒業式まで話せないかもしれない。
だから、話したいと返信を送った。
そんな不安に苛まれて数分経った後、電話が来た。
「話の内容はなんだ」
その言葉に私は言葉を詰まらせた。何も考えていない、それを知られればもっと失望されるかもしれない。そう考え、手の震えが止まらなかった。
「もし、兄さんが良ければ直接お会い出来ないでしょうか」
でも、私は勇気を振り絞って引き留めるようにそう話した。
気まぐれかもしれない兄さんからのメール。これまでのこと、これからのこと。
それを話したい、そう願って言葉を続けた。
「直接、伺いたいです。これを最後にもう二度と兄さんと関わりません」
だから私は歩いている。
人目を避けて会える待合場所、そこに兄さんの姿はあった。
「お待たせしました…」
静かに、佇んでいた兄さんは昔から変わらない姿だった。
私の人生の終着点だ。
私にとって堀北学という存在は、絶対的な基準であり、追いつくべき「高み」だった。
感情に流されず、大局を見据え、冷徹なまでの公正さを保ち続ける。
それが兄という人間だった。
そんな兄さんに私は中学1年生の頃、突き放された。
でも、それは仕方が無い事だった。私が未熟だから、実力が足りないから。
「追加試験に関する事です」
「強制的に1人を退学する試験、だったな」
「はい」
以前の私なら仲直りしたいと、兄さんを失望させることを言っていたのかもしれない。
けど、もうそれは無理だと悟った。
「今日、兄さんに話したい事。それは、私に──勇気をください」
縋るようなその願いは、かつての私であれば絶対に口にしなかったものだ。
しかし、差し迫った絶望と、クラスメイトたちとの間で揺れ動く不穏な空気を前に二の足を踏んでいた。
「…お前は、どうする気だ」
「この試験に立ち向かいたいんです。逃げずに受け止めないと後で後悔する、そんな気がしてならないんです」
それがどれほど甘い言葉であるかくらい、分かっていた。
それでも、私は──
「それがどんな道でも超えれると?」
「はい……、そう断言は、今の私じゃできないです」
「なら、どうしてだ」
兄さんの探るような目線に私は、覚悟を決めた。
「──私は、後悔をしたくないんです」
絞り出すような声に、兄さんの眉間にわずかにシワが寄った。
「後悔、か」
「兄さんにとっては馬鹿らしいかもしれないですけど、私はそんな当たり前すら出来ていなかったんです」
この学校に来て、私はどれほど傲慢だっただろうか。
完璧な存在な兄さんになれるかもしれないと、驕っていたのだから。それがどうしようもなく恥じるべき行為だと、今更気が付いた。
「この学校で多くの学びがありました、私は周りが見えているつもりで見えていなかった」
「そうだな。お前の欠点の一つでもある。お前は人を数値でしか見ていない、だから道を逸れる」
容赦のない事実の指摘に、胸が痛いほど締め付けられる。それでも私は折れなかった。
「私は兄さんが永遠の目標です」
その言葉に兄さんは険しい顔をした。
理由は分かってる。私が兄さんに追いつくなんて身の程知らずだから。
けど、限りなく近づけるように努力する事は悪いとは思わなかった。
その様子を見た兄さんは、静かに目を閉じた。
「なら一つ、俺も世間話をするとしよう」
「せ、世間話ですか?」
私は知る兄さんは、真面目で自分を高める事を怠らない人。そんな雑談に花を咲かせるような人では無い、と考えていた。 だからこそ、その意外な切り出し方に戸惑いを隠せない。
「お前は、これまでの人生を悔いた事があるか」
「…私は、数えきれないほどあります」
「そうか俺もある。いやこの一年で後悔し始めたと言ってもいい」
兄さんの後悔。そんな人間味溢れる話に少し胸が痛くなった。 あの完璧な兄が、自分と同じように過去の選択を振り返り、思い悩むことがあるというのか。
「俺は、愚かだった。行動する事を諦めていた。それは俺が模範的な人間という抽象的な目的意識しかなかったからに他ならない」
「……」
「だが、それを変えてくれる存在に出会った。俺はもう一度、歩む事を決断した」
嫌な予感がした。兄さんが話をしている最中、今まで見たことが無かった表情をしていたからかもしれない。
他の生徒たちに向けるものとは明らかに違う、一目置くような、何か特別な感情を孕んだような態度。
今迄誰のことも対等に見ることのなかった兄さんが、変わっている気がした。
「その人物はお世辞にも善人とは言えない。人の心があるかも怪しい」
兄さんは「だが」、と話を続けた。
「もし、間違っていれば止めればいい。もし、俺が間違っていればあの男は俺を止めてくれるだろう。そう、願っている」
先程までの予感は、やがて胸をざわつかせるほどの不快感へと変わっていった。
──それを理解ができなかった。いや、認めたくなかったのかもしれない。
兄さんが誰かに目をかけ、その才能や存在を認め、あるいは警戒しているという事実がどうしようもなく嫌だった。
私は兄さんの妹だ。兄さんの背中を追いかけ、誰よりも近くでその背中を見てきたはずの私が兄さんの本心を見ていなかったという現実がどうしようもなく嫌だった。
その存在が私の兄さんを変えてしまった、そんな得体の知れない焦燥感が胸の奥を這いずった。
「あの男が俺をどう思っているかは分からない。だが、一度信じてみる事にした」
「し、信じる?」
「あぁ。あの男の、選択を信頼してみることにした。それは俺にとっての大きな一歩で、だが確かなる前進だった」
きっと、もう私は戻れない。以前までの自分と変わっていく気がした。
その、兄さんの特別がどうしようもなく憎かった。 兄さんの瞳に映るそれが、私ではない誰かであるという事実が許せなかった。
「だからこそ。未熟な俺がお前に問う」
閉じていた目を開け、兄さんは私と目を合わせた。
そのまっすぐな視線から、逃げ出したいのに逃げられない。
「お前は人生において、後悔とは何だと思う?」
今、私の自負を壊している存在は他ならぬ兄さんだった。
これまでの理想が消えていく。夢なのかも、そう希望を見出して頬を抓ってみるが涙が出るほどに痛かった。
私の今までの生き方が、兄さんによって無慈悲に否定されていく。
積み上げてきた誇りも、信じてきた絶対の背中も、音を立てて崩れ落ちていく。
溢れそうになる涙を堪えきれず、視界が歪んだ。
それがどうしようもなく嫌だった。
これ以上話を聞けば自分のすべてが壊れてしまうような恐怖に駆られた。だから私は、兄さんの静止の声を振り切るように走って逃げた。
原作の成長ポイントを悉く失った堀北鈴音さんは、残念ながら理想を拗らせてしまった。
次回、結果発表(?)です。