噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
「――アッティウス。おい、アッティウス!」
誰かが俺の名を呼んでいる。ずいぶん若い、聞き慣れない声だ。
その名で呼ばれるのは、生まれて初めてのはずだった。俺の本当の名は、別にある。日本の小さな市で、水道局の維持管理をやって四十年。定年の朝、送別の式の壇上で、課長は俺の名の一字を、するりと読み違えた。訂正しようと口を開きかけて――足元の床が、ぐらりと斜めに傾いだ。そこから先の記憶が、ない。
崩れた煉瓦。割れた
「気を確かに、親方に何かあったら、俺たちは」
男の声が、震えていた。地面が、またひとつ、下から突き上げてくる。
ウェッティウス、という名が、俺のものではない頭の奥から、ふいに像を結ぶ。分配槽の水を守ってきた老技師。俺の――アッティウスの、師匠。今朝の地震のひと突きで、胸を押さえたまま逝ったばかりだという。
二つの記憶が、水路の合流みたいに、俺の中で低く音を立てて混ざり合う。維持管理四十年の男と、水道番の徒弟アッティウス。ここは、西暦六二年のポンペイ。地中海に面した、カンパニアの交易の街だ。奇妙なことに、混乱よりも先に、体のほうが答えを出していた。行くべき場所を、膝が知っている。
(分配槽だ。まず、分配槽を診る)
立ち上がっても、膝が笑わなかった。三十の体である。走れる。四十年ぶりに、俺は自分の脚で走れる。
街のいちばん高い場所、ウェスヴィオ門の脇に、この街の水の心臓がある。
考えるより先に、手が動いた。
「浴場と、私邸へ回す水門を締める。いまだ、二筋とも」
「そんな、旦那衆が黙っちゃ」
「黙らせる。水は、まず辻へ回す」
俺は、浴場と私邸へ分ける水門の堰板を、順に落としていく。木の
「勝手をするな!」
坂を駆け上がってきたのは、造営官のポピディウスだった。市の営繕を差配する、面子と実利の男である。息を切らし、額に土埃を張りつかせて怒鳴る。
「浴場を止めただと? 旦那衆に、何と言い訳する気だ?」
「辻の水が、先です」俺は水門から手を離さずに答えた。「人は桶で、水を運べます。ですが――暴動は、運べません」
ポピディウスの口が、開いて、閉じる。彼は理屈より先に、坂の下へ目をやった。桶を提げた人の列が、涸れかけた噴水の縁で、じりじりと膨らんでいる。その膨らみの意味を、この男は数字で読める。読めるからこそ、次に出る言葉は、俺の思ったとおりのものになる。
「……三日だ」低く、彼は言った。「三日、わたしの名で許す。辻に水が戻らなかったら、そのときはおまえの名で、街に詫びてもらうぞ」
「じゅうぶんです」
日が西へ傾くころ、辻の噴水の口から、細い水が、ちろちろと戻ってきた。
夕日を受けて、落ちる水が、銅を溶かしたような色に光る。桶の底を打つ音が、ひとつ、またひとつと重なって、広場に低いさざめきを作っていく。人々が順に水を汲んでいった。その列のいちばん後ろから、腰の曲がった婆さんが、俺を見上げて言う。
「ありがとうよ、水道屋さん。……アッティウスさん、だったかね?」
名を、呼ばれた。
妙な熱が、喉の奥を、するりと通り抜けていく。四十年、俺は誰の記憶にも残らない男だった。水は出て当たり前、水道屋の顔なんぞ、誰も覚えない。感謝状の一枚すら受け取れないまま、俺の四十年は式の途中で床に沈んだ。それが、こんな見知らぬ街の夕暮れに、皺だらけの婆さんの口から、俺の――アッティウスの名が、水みたいにこぼれ落ちてくる。たったそれだけのことで、六十年ぶんの渇きが、癒えるような気がした。
「……どういたしまして」
声が、われながら少し掠れる。俺は思わず顔を伏せて、水門の締まり具合を、意味もなく確かめるふりをした。
その夜、俺は人けのない丘に上る。市街を見下ろす石積みの上に腰を掛け、北西の空へ目をやった。夜でも、そこにだけ、星の抜け落ちた黒い塊がある。稜線のなだらかな、裾野に葡萄畑を這わせた、穏やかな山。土地の者は、その山をヴェスヴィオと呼ぶ。名は、ちゃんと付いている。ただ、誰ひとり、その山を恐れてはいない。
だが俺は、知っている。この穏やかな山が、十七年ののちに何をするのかを。名前ではない。俺だけが知るのは、この街の、未来だ。
極東の男だったころ、映像で幾度も見せられた。灰に呑まれた街。逃げ遅れて、抱き合ったまま石のように固まった、人の型。西暦七九年、ヴェスヴィオは火を噴き、ポンペイは灰と軽石の下に沈む。今日の地震は、長い序章の、ほんの最初の一行にすぎない。
膝の上で、俺は指を一本、静かに折った。
「十七年」
声に出すと、それは決心の形をしている。逃げろ、と叫ぶ気はない。誰も信じはしない。俺にできるのは、逃げ道を、いまのうちに舗装しておくことだけだ。
――間に合うかどうかは、まだ、考えないでおく。