噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
年の瀬にかけて、俺は、サルノ門を出てすぐの、最初の一里塚に、水甕と松明壺を据える工事にかかった。
街道を歩く者が、いつでも喉を潤し、暗くなれば火を灯せるように。祭りの行列のため、という名目だ。銭を出させるのは、例によって、見栄っ張りの旦那衆である。甕の腹に、寄進した者の名を、大きく刻んでやる。
冬の初めの、風の冷たい日だった。俺は、かじかむ指に息を吹きかけながら、その一基に、甕を据え、水を張り、松明壺に油を満たしていく。手甲の内で、指の節が、じんじんと痛む。それでも、この手を止めるわけにはいかない。石は、据えれば、そこに残る。据えた者がいなくなっても、水甕は、黙って水を湛え続ける。人は忘れる。習慣も、途切れる。だが、石だけは、忘れない。俺は、俺のいなくなった十六年後のために、物言わぬ石に、仕事を、託しているのだ。
門を出て、最初の一里。その塚に、水甕。松明壺。そして、隣街まであと七里、と告げる道しるべ。
誰の目にも、それは、ただの、行き届いた街道の設えだ。旅人のための、親切な気配り。――だが、俺の頭の中では、それは、避難路の、最初の一里の、水場であり、灯りであり、標だった。灰の降りしきる夜、逃げる者が、まず、ここで一息つくための。この先の塚は、また来年、再来年と、祭りを口実に、一つずつ増やしていけばいい。十六年も、あるのだから。
工事が終わりに近づいたころ、家に、新しい命が生まれた。
娘だ。年の瀬の、しんと冷え込んだ朝に、力いっぱいの産声を上げた。俺は、産婆に言われるまま、
不思議な、心持ちである。四十年、俺の手は、水を失わないためだけに動いてきた。壊れた管を継ぎ、涸れた辻に水を戻し、盗まれた分を取り返す。ずっと、失わないための手だ。それが今、生まれて初めて、新しく生まれてくるもののために、水を汲んでいる。守るための水ではなく、迎えるための水。……この、腕の中の小さな温もりが、六十年生きて、はじめて、俺の指を、こんなふうに震わせる。
ユスタ、と名づける。
その夜、俺は、乳を含んですやすやと眠る娘の寝顔を、灯りの下で、いつまでも飽かず眺めていた。それから、そっと水帳を開く。この一年で、井戸八本の水位、水の色、匂い、地面の揺れ、獣の噂、管の傷――七つの目の、最初の一年ぶんが、几帳面に埋まっている。まだ、平年とは、呼べない。物差しは、年を重ねて、はじめて物差しになるのだから。これは、その、いちばん最初の、たった一本の目盛りだ。
一本の目盛りは、頼りない。線は、一本だけでは、線にならない。だが、二本あれば、その間の幅が見える。三本、四本と増えていけば、その幅の、いつもの揺れ具合が、だんだん見えてくる。十六本まで引き通せば――いつもと違う揺れが、ひと目で分かるようになる。俺のやっているのは、そういう、気の長い仕事だ。今日の一本には、まだ、なんの意味もない。意味は、十六年後に、いっぺんに生まれる。それまで、俺は、ただ、黙って、線を引き続ける。
娘の寝顔の横で、俺は、静かに指を折った。
「……あと、十六年」
「また、指折りかい」
寝ていたはずのサルウィアが、薄目を開けて、俺の手を、そっと上から包む。
「なあ、あんた。何を、そんなに数えてるんだい。……いつか、話しておくれよ。ひとりで抱えるには、あんたの指は、少し短すぎるようだからね」
「……ああ。いつか、必ず」
その約束を、俺は胸に刻む。間に合うかどうかを数えるのは、もう、やめよう。習慣は、十六回くり返せば、根が張る。俺のやることは、根が張るまで、黙ってくり返す。ただ、それだけだ。焦ったところで、木は、早くは育たないのだから。
と――娘の、小さな手が、寝ぼけたまま、俺の指を、きゅう、と握った。水車の軸より、ずっと頼りない、柔らかな力で。それでも、その小さな握力に、俺の指折りは、これまでのどの夜よりも、ずっしりと重くなる。
守るものが、ここにいる。この街の、二万の、一人ひとりの家にも、こんな小さな手が、今夜も、誰かの指を握って眠っている。
俺は、灯りを、そっと吹き消した。十六年の、その一年目が、静かに暮れていく。