噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
六四年の年明けから、街は一つの噂で持ちきりだった。
皇帝が、カンパニアへ下ってくる。それも、戦でも視察でもない。ネアポリスの劇場の舞台に御自ら立ち、
「皇帝ってのは、歌うのが仕事なのかい?」
サルウィアが、竈の灰を掻き出しながら、首をかしげる。
「さあ。……偉い方の考えは、俺には」
「見物に行く物好きが、この街からも大勢出るってさ。歌より、皇帝の顔のほうが見たいんだろうけどね」
俺はといえば、その騒ぎから少し離れたところにいた。俺の相手は、皇帝ではなく、給水塔である。
この街には、給水塔が十四基ある。鉛の管を駆け上がった水が、いったん塔の上の水槽で息をつき、勢いを殺してから、近くの辻へ配られていく仕組みだ。てっぺんの水槽は鉛の板を打ち合わせた箱で、外から鉄の
皇帝がネアポリスの舞台に立った、まさにその日の晩方である。
地面が、来た。
二年前ほどでは、ない。それでも、棚の壺が落ちて割れ、路地に悲鳴が上がり、人々が家から転がり出てくる程度には、揺れた。俺は工房を飛び出し、暮れかけた坂を、分配槽へ駆け上がる。目地は、無事。水門も、狂いなし。それから松明を提げて、市中の給水塔を一基ずつ回った。締め直したばかりの箍は、一本も緩んでいない。水槽の水は、波立ちこそすれ、漏れてはいなかった。
いちばん大きな辻へ下りると、噴水が、何事もなかった顔で水を吐き続けている。
月が出ていた。揺れの名残で人の出払った広場に、水音だけが、いつもと同じ調子で響いている。水面が月を受け、細かく震えながら光っていた。俺は、その水明かりを、しばらく黙って眺める。揺れた晩に、いつもどおり水の出ている辻。誰の目にも留まらない、ただの当たり前の景色だ。だが、この当たり前こそ、俺がこの二年、こつこつと積んできたものである。
翌朝の辻には、いつもの列があり、いつもの噂話が咲いていた。ネアポリスじゃ水瓶が残らず割れたらしい、井戸が濁ったってさ、それに比べて――と、汲みたての桶を抱えた婆さんの一人が、こともなげに言う。
「うちの街は、揺れた日にも、水が出るからねえ」
当たり前の顔で、水を汲んで帰っていく。俺は列の後ろで、その背中に、心の中でだけ頭を下げた。街というのは、水の出た日のことも、ちゃんと覚えているものらしい。この覚えが、いつか、俺の言葉の重みになる。
数日して、ネアポリスから続きの噂が届いた。歌が果てて客の引けた後、あの劇場は、がらんどうのまま崩れ落ちたのだという。神々が皇帝の歌を惜しんで、崩すのを待ってくださったのだ、と言う者がいる。逆さの意味に取って、声を低くする者もいる。俺はどちらにもうなずかず、工房で水帳を繰った。今月の頁の、揺れの刻みは、五つひと組の束が三つ――大地震からこの方で、いちばん多い。
……多い、というだけだ。それが何の前触れなのかは、俺にも、わからない。わからないものは、わからないまま、ただ書いておく。それが水帳の流儀である。
その噂も冷めやらぬうちに、市の役人が、身なりのいい使いの男を連れて工房へ来た。海べりにある皇帝家の御用邸の、水回りが揺れで狂ったという。石の水盤が乾き、庭の池が痩せ、館の奥の湯が濁る。直せる者を寄こせと、宮廷の家令が市へ言い付けてきたらしい。
「おまえしか、おらんだろう」と役人は言う。「粗相のないようにな。くれぐれも、粗相のないようにな」
二度言うところに、役人の胃の痛みが滲んでいる。
御用邸は、静かな館だった。磨いた大理石の床、白い柱の並ぶ廊下、手入れの行き届いた庭。主は留守で、皇帝の顔も宮廷の煌びやかも、ついに廊下の端にも現れない。俺の相手は、床下でわずかにずれた鉛管が一本と、詰まった噴水の口が三つ。それだけである。管の狂いを直し、継ぎ目を締め、水盤の口を開けてやると、庭の池に、澄んだ水がゆっくりと戻っていった。水面に、白い柱の影が立つ。誰もいない庭で、水音だけが、贅沢に鳴っている。
使いの男は、仕事を検分して満足げにうなずき、俺の名は、最後まで一度も訊かなかった。書き付けには、ただ「ポンペイの水道屋」とある。前の世の俺なら、少しは堪えたかもしれない。四十年、名を呼ばれずに終わった男だ。だが今は、なんとも思わない。俺の名は、辻で水を汲む婆さんたちが覚えていてくれる。名前の置き場所は、宮廷の書き付けの上でなくていい。
仕事は三日で終わり、渡された革袋は、両手で受けるほどの重さがあった。
家に持ち帰って卓に置くと、サルウィアが中を検めて、目を丸くする。
「……あんた、これ、うちの竈が三十は直せるよ」
「でしょうね」
「新しい鍋だろ、ユスタの
「ええ。道に、敷きます」
妻の眉が、器用に片方だけ持ち上がる。道、と口の中で繰り返している。
「東の街道の敷石です。祭りの道が、雨のたびにぬかるむでしょう。あれを、石で敷き固めたい。……いつでも歩ける道は、いつでも水の出る辻と同じくらい、街の役に立ちますから」
サルウィアは、しばらく黙って俺を見ていた。それから、呆れ半分の息を吐いて笑う。
「宮廷の銭を、そっくり道の石ころに変えちまう水道屋なんて、天下広しといえど、あんたぐらいのもんだよ」
「褒め言葉として、いただいておきます」
俺は、袋の口をあらためて固く縛った。中身は、もう銭ではない。東の道の、最初のひと並びの石だ。皇帝の歌は、いつか忘れられる。だが、石の道は、敷いてしまえば残る。歌より、石だ。俺は、そういう性分の男である。