噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
翌六五年、春の長雨の上がった朝、俺は東の街道に立ち、うんざりするほど見事なぬかるみを眺めていた。
サルノ門から一里塚へ続く道は、まだ土のままだ。祭りの行列は年ごとに膨らみ、川港へ向かう荷も増えた。増えた分だけ轍が深くえぐれ、雨が降るたび、道は泥の川になる。昨日も砂利積みの荷車が一台、車輪を取られて横倒しになった。年寄りが滑って腰を打ったという話も、ひと雨ごとに聞こえてくる。
――この道は、いずれ、二万が歩く。泥のままでは、駄目だ。
俺は袖の中の革袋を握り直して、参事会の館へ坂を上った。御用邸の礼金である。ただし、これだけでは一里の敷石に到底足りない。足りない分を出させる相手の顔は、最初から決まっていた。
「敷石を、敷きたいだと?」
造営官の部屋で、ポピディウスが眉を寄せる。
「東門から一里塚まで、まるまる一里だぞ。石の量を、わかって言っているのか?」
「石材は川で運びます。艀のニゲルと、話がついています。人手は、刈り入れの済んだ後の日雇いで足ります。俺も、宮廷の礼金をそっくり出します。足りない分は――」俺は、指を三本立てる。「三年で、市が返してくれます」
「……市が? 石が、銭を生むのか?」
「祭りです。行列に、露店が付き始めているのはご存じでしょう。道が良くなれば、行列が伸びます。行列が伸びれば、市が立つ。市が立てば、場銭が入る。……祭りが太れば、市が太ります。旦那は、うなずくだけでいい」
ポピディウスは長いこと、俺の顔を眺めていた。この男の頭の中には、よくできた算盤が入っている。玉の弾ける音が、やがて、かちりと答えの形に止まった――ように見えた。
「……次の参事会に、かけてやる。礼は言うな。市の場銭は、市のものだ」
「けっこうです。道は、みんなのものですから」
敷石の工事は、夏のあいだじゅう続く。
まず、えぐれた轍を突き固めて埋める。砂利を敷き、川船で運んだ平石を、一枚ずつ噛み合わせて並べていく。道の背は、真ん中をわずかに高く。降った雨が両脇へ流れ落ちるようにするためだ。脇には水はけの溝を切り、溝の出口は畑の側へ逃がす。石の目地は固く、だが遊びを殺しすぎない。地面は生き物で、締めすぎた道は、次の揺れで割れる。
炎天の下、石を並べる俺の横で、荷を下ろしたニゲルが汗を拭いて笑う。
「水道屋の道楽にしちゃ、豪勢な道だ。こりゃ、雨の日でも歩けるぜ」
「ええ。雨の日も、歩けます」
――灰の日も、だ。
その四文字だけは胸の中で言って、並べた石の下へ、そっと埋めた。
道と一緒に、里程標も肥えていく。一里塚に据えた水甕と松明壺を、今年は二里塚、三里塚、四里塚へ。祭りを口実に、一基ずつ。甕の腹には例によって寄進の旦那衆の名が誇らしげに刻まれ、旦那衆は例によって、競って財布の紐を緩めた。見栄というのは、まったく、頼りになる。
十月、三度目の泉の祭が来る。
今年の行列は、真新しい敷石の披露を兼ねて、四里塚の「中日の泉」まで足を伸ばした。歩き手は百を超え、行列の後ろには、目ざとい商人たちが屋台を担いでぞろぞろと付いてくる。焼き栗、干し無花果、揚げ菓子、安葡萄酒。里程標のたもとごとに、ちょっとした市が立った。人々はこれを早くも「道の市」と呼び始めている。
サルウィアも、店を出した。前の晩から焼き溜めたパンの荷を、荷車――ではなく、天秤棒で担いでである。今日の東門は、歩きのみ。荷車は通さない。門の内で詰まった荷車が、去年の行列を半刻も堰き止めた。その顛末を盾に、俺が今年から決めさせてもらった作法だ。それからもう一つ、列は道の左を歩く。右は、戻る者と急ぎの者のために空けておく。どちらも口うるさい掟ではなく、守れば行列が気持ちよく流れる、それだけの決め事である。人は、気持ちのいい決まりなら、言われなくても守る。守っているうちに、決まりは体に染みて、癖になる。
……癖になってくれれば、しめたものだ。
中日の泉は、四里塚の脇の、古い石組みの泉だ。
「歩いて、汲んで、食べて、買って帰る。いい祭りだねえ」店じまいのサルウィアが、空になったパン籠を叩いた。「あんたの祭りは、儲かる祭りだ」
「儲からない祭りは、続きませんから」
祭りの数日後の、夕暮れである。俺は妻と娘を連れて、人気の失せた敷石の道を、一里塚まで歩いた。仕事納めの検分がてらだ。
ユスタは、二つになる。歩き出したのは春のことだが、外に出れば、いつも母の腕の中か、俺の肩の上だった。その娘が、一里塚の水甕の前で、下ろせ下ろせと手足を振る。石の上へ立たせてやると、夕日で薄赤く染まった敷石を、よちよちと、蟹のような足取りで歩き出した。
小さな沓の裏が、ぺた、ぺた、と頼りない音を立てて石を踏む。二歩、三歩、四歩。水甕の台座に手が届いて、娘は勝ち誇ったように振り返った。
「はじめの一里を、歩き切ったねえ」サルウィアが笑いながら追いつく。「気の早い子だよ、四歩でさ」
俺は、二人に追いついて娘を抱き上げ、それから、門のほうを振り返った。真新しい敷石が、夕日を受けて、門から一里、川のようにまっすぐ光っている。娘が生まれて初めて自分の足で歩いた道が、この道であったことを、俺はきっと、一生忘れないだろう。
――この道の、ほんとうの使い道を、娘はまだ、知らなくていい。
知らないまま、何度でも歩いて、足の裏で覚えてくれれば、それでいい。