噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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13. 悪い水

 六六年の夏は、雨が少なかった。

 

 風のない暑い日が続くうち、サルノ川べりの低い区画に、腹下しの熱病が出る。

 

 初めは、子供が二人。次の五日で年寄りが立て続けに三人、逝った。川下の路地には、戸口に喪の糸杉の枝を立てる家が、日ごとに増えていく。医者は手当てに駆け回り、神殿には人が押し寄せ、市場では、どこそこの井戸が呪われたという囁きが、面白半分に売り買いされている。

 

 俺は、朝から晩まで、川下を歩き回ることにした。

 

 水道屋の出る幕か、と言う者もいる。だが、夏の腹下しは、まず水を疑う。それが、前の世の四十年で骨に刻んだ順序である。あちらには、水の善し悪しを数字で告げてくれる検査の道具が揃っていた。こちらには、ない。あるのは俺の目と鼻と、先代から続く水帳だけである。それでも、やることは同じだ。疑わしい水を、一本ずつ、潰していく。

 

 川下の井戸を、順に覗いた。桶で汲み、素焼きの椀に取り、日にかざす。色を見て、それから鼻を寄せる。一本目、異状なし。二本目、異状なし。……三本目の井戸で、鼻の奥に、それが引っかかった。かすかな、だが間違えようのない、腐りの匂いである。

 

「この井戸、いつからこんな匂いだ?」

 

 井戸端の女房たちは、顔を見合わせた。言われてみれば、少し前から。でも、水は水だし、と。

 

 井戸のまわりを、ぐるりと歩く。三軒先の裏庭に、汲み取りの穴があった。地震のあと住人の増えた区画で、穴は掘り継がれ、井戸との間は痩せた土を挟んで、わずか十歩。地面の上では、別々の穴だ。だが地面の下で、水は繋がっている。汲み取りの腐りが土を潜り、井戸の水脈に染みたのだ。呪いの正体というのは、たいてい、こういう地味な顔をしている。

 

 ――悪い水の臭いは、嘘をつかない。

 

 その日のうちに、手を打ち始めた。

 

 匂う井戸には蓋をして、縄を張る。呪いだ何だと騒ぐ声には取り合わず、「この井戸はしばらく休ませます。水なら二筋先の辻にあります」とだけ、根気よく繰り返した。汲み取りの穴は、井戸から遠い水下へ、新しく掘り直させる。古い穴は石灰を厚く撒いて埋め、井戸の周りは粘土を練って巻き立て、地面を伝う汚れ水が縁から染みないように固めた。

 

 縁切り、と俺は呼んでいる。悪いものと水との縁を、地面の中で切ってやる。それだけの、地味な土木である。

 

 もう一つ、打った手があった。湯だ。

 

 俺は湯屋に掛け合い、店先で、煮え湯冷ましの白湯(さゆ)を安く売らせることにした。ホルコニウスは、最初、渋い顔をする。

 

「白湯を売る? 湯屋は浸かるところだぞ。冷ました湯なんぞ、誰が銭を出す?」

 

「熱病のさなかに、街へ白湯を振る舞った湯屋――という評判が残ります。ネアポリスの湯屋には逆立ちしてもできない、上等の自慢になりますよ」

 

「……ふん。相変わらず、口の減らん水道屋だ」

 

 見栄の男は、けっきょく気前よく釜を焚いた。湯屋の店先に据えた大甕から、朝ごと、白い湯気が立ちのぼる。「腹を下したら、生水より白湯」の触れは、湯屋の客の口から口へ、面白いほど早く広まっていった。効き目の理屈は、誰も訊かない。訊かれたところで、俺には「怪しい水は、煮て冷ましたほうが、生のままよりずっとましです」としか答えようがないのだ。腐りの正体を、俺は知らない。煮て消える悪さもあれば、煮ても消えない悪さもあるのだろう。それでも、順序としては、まず煮る。前の世の四十年で、俺はそう教わってきた順序だ。

 

 熱病は、夏の終わりとともに引いていった。

 

 死んだ者、七人。喪の枝の戸口は、それきり増えなかった。医者は首をひねり、神官は供物のおかげと言い、井戸端の女房たちは白湯のおかげだと言う。誰の手柄でもかまわない。手順さえ、街に残ってくれれば。井戸と汲み取りは離す。怪しい水は、煮る。この二つが癖になってくれるなら、逝った七人に、少しは顔向けができる。

 

 ――その後始末で、俺は一人の子供を拾うことになった。

 

 ケレルという。年は十二。川下の指物師(さしものし)の家で使われていた、奴隷の子である。主の一家は熱病で欠け、残った家財と一緒に、子供も人手に渡るという。縁切りの工事のあいだ、この子は毎日、頼みもしないのに石灰の桶を担いで俺の後をついて回った。目端が利き、手を抜かない。そして俺が井戸を覗くたび、覗く俺のほうを、食い入るように見ている。売られていく先が悪ければ、この目は死ぬ。柄にもなくそう思って、気がつけば俺は、指物師の遺族に銭を払っていた。

 

 工房に置いて、雑用をさせている。よく働き、よく食う。そして、妙に、字を見る。壁の書き付けを、荷札を、湯屋の触れを、道具の焼き印を。読めないはずの目で、いつまでも見ている。

 

 秋口の夕暮れ、俺は工房の隅で、その正体を押さえた。

 

 ケレルが、棚から水帳の古い写しを抜き出して、開いて、じっと見入っている。盗み見、と呼ぶには、あまりに一心な目だった。字の読めない目が、字の形だけを、なぞって、なぞって、なぞっている。

 

 俺の足音に少年は、ひぃっと跳び上がった。写しを胸に抱えたまま真っ青になって、それでも、逃げない。

 

「……字を」掠れた声で、少年は言った。「字を、教えてください。水の、綴りから」

 

 なぜ水の綴りからなのか、とは訊かない。訊かなくても、この目を見ていれば、わかる。命を拾われた場所から、この子は始めたいのだ。

 

 俺は写しを取り上げ、卓の上で開き直してやった。

 

「いいだろう。ちょうど、この頁だ。――水は、この四文字で書く」

 

 俺は蝋板(ろうばん)の隅に、鉄筆で大きく、AQVA(アクア)と刻んでやる。井戸にも、辻の噴水にも、俺の帳面の頭にも、毎日出てくる四文字である。

 

 ケレルの目が、皿のようになる。西日が窓から低く差し込んで、刻んだばかりの四文字を、一本ずつ、金色に浮かび上がらせていた。細い刻みが光を溜めて、ほんとうに細い水脈のように、つらなって見える。

 

 ……この指物師の家の子が、この先どんな綴りを書くようになるのか。このときの俺は、まだ知らない。ただ、この夕日の色だけは、いつまでも覚えている。

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