噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
七一年の春は、雨が多かった。
その雨の朝も、ケレルは見回りを休まない。頭巾つきの
「雨の日は、いいですね」と、火の前で弟子見習いは言う。「蝋板は、濡れても字が流れません。パピルスと違って」
「パピルスに書く日が、来るのか?」
「来ます。いつか俺が、年次の写しを任される日が。……写しは、パピルスに墨でしょう、親方」
「気の早いやつだ」
口ではそう言いながら、俺は、この十七の目をいつまで「奴隷の子」の身分に置いておくのか、と雨音の奥で問われている気がしていた。答えは、とうに出ている。延ばしてきたのは、手放すのが惜しかったからかもしれない。奴隷という身分を、ではない。「拾った子」という、あの夕日の日の続きをだ。
◇
その時が来た――――。
夏の初めのよく晴れた日を選んで、俺はケレルを連れ、参事会の館へ出向く。
解放の手続きである。三十に満たぬ奴隷を、正式の市民として解き放つには、先に評議会へ正当の理由を申し立て、認めさせておかねばならない。俺の立てた理由は、ひとつ――水道工房の管理を、この者に継がせるため。
『水の工房の後継ぎなら』と評議会は認め、当日は政務官の前で、ケレルの頭に解放の杖が触れた。税は俺が納める。安い銭ではない。だがこれは施しではなく、先への手付けだ。この子の腕と目が、これから四十年、この街の水を見ていく。
続けて、その場で徒弟の契約を交わした。条件は、ひとつきり。
「水帳の書き方を、全部覚えること。観測も、写しも、綴じ方も、全部だ」
「……もう、覚えました」
「書き方は、な。頁の意味までは、まだだ」
ケレルはけげんな顔をしたが、俺はそれ以上を言わなかった。意味を渡す日は、まだ先でいい。
契約の板の前で、ケレルは葦の筆を執る。
自分の名を書く段になって、その手が、初めて震えた。書き慣れた手のはずである。八本の井戸の水位を、五年、雨の日も書き続けてきた手だ。その手が、自分の名前ひとつの前で小刻みに震え、筆先から墨が一滴、白く塗った板の上に落ちた。
黒い染みが、じわりと丸く広がる。ケレルの顔から、血の気が引く。
「かまわん」俺は言った。「染みも、記録のうちだ。震えた日の字は、震えたまま残しておけ。……あとで読み返したとき、この日のおまえがどんな思いで書いたか、字のほうが覚えていてくれる」
ケレルは唇を結んでうなずき、震えの残る手で、それでも一画ずつ、自分の名を書き終える。書き終えて、板を両手で捧げ持ったまま――この生真面目な弟子は、生まれて初めて、声を上げて泣いた。工房に来た日も泣かず、熱病で家の者を見送った話をした夜も泣かなかった子が、である。役人が目を丸くするのも構わず、板を胸に抱いて泣いている。
俺は、泣きやむまで待った。前の世で、俺は誰かに手職を渡したことが一度もない。俺の帳面の付け方など、誰も欲しがらなかったのだ。……渡したかったのだと、この二度目の生で初めて知る。渡す相手の泣き顔が、こんなに胸に応えるとは。
その晩、家では、ささやかな祝いの膳を囲んだ。
サルウィアは大盤振る舞いの腕を振るい、ユスタは七つの生意気盛りで、今日から兄弟子と呼ぶのか兄さんと呼ぶのかと騒ぎ、当のケレルは、飯のあいだじゅう、面映ゆさに耳まで赤くしていた。夜が更け、ケレルは新しい寝床――工房の二階へ引き上げ、娘も寝付いて、卓には俺と妻だけが残る。
片づけの手を動かしながら、サルウィアが、ぽつりと言った。
「あの子に、いつ話すんだい?」
「……何をです?」
「とぼけるんじゃないよ」妻は手を止めず、こともなげに続ける。「婚礼の前の晩の話さ。――『俺には、前の生の覚えがある。この体の生まれる前、遠い国で、水道を四十年、守っていた』。……あんたはあの晩、あたしに、そう言ったろ?」
竈の残り火が、ちり、と小さく鳴る。
八年前の夜、俺は確かに、それだけを話した。どう受け取ったのか、恐ろしくて訊けないまま翌日には婚礼で、以来、二人ともこの話に触れずに来たのだ。触れずにいてくれることが答えなのだと、俺は勝手に決めて、勝手に安心していた。
「……信じて、いたんですか?」
「半分だけね」サルウィアはあっさり言う。「遠い国も前の生も、あたしには確かめようがない。だから、半分。でもね、あんたが嘘をつく男じゃないことだけは、この十年で嫌ってほど見せられた。だから残りの半分は、信じる信じないの話じゃなく――まるごと、許すことにしたのさ。前の生ごと、あんたを、ね」
俺は、何も言えなかった。この女は八年、それを抱えたまま列を捌き、パンを焼き、娘を育て、一度も問い直さなかったのだ。
「あの子は、あんたの仕事を継ぐ子だろ? 水帳もいつか、あの子の背に載る。だったらいつか、話してやらなきゃならない。あんたのあの帳面が、どこの国の四十年から来たのか。……順番として、そうなるだろうと思ってさ」
「……ええ。いつかは」
サルウィアは布巾を畳み、それから初めて、まっすぐこちらへ向き直った。竈の残り火が、その目の中で小さく揺れている。
「なあ、あんた。夜ごと北の山を見てるのは、知ってるよ。指折りが、まだ続いてるのもね。前の生の話に、まだ先があるんなら――山のことまで話したら、あんた、少しは軽くなるのかい?」
――まだだ。
まだ、言葉にしたら、折れる。あの日付を声に出したら、俺は明日から、ただの水道屋の顔で見回りに出られなくなる。
「……いつか、必ず」掠れた声が、やっとそれだけを押し出す。「あなたには、全部」
「そうかい」妻はそれ以上、押してこなかった。「なら、あたしは半分のまま待つよ。……ああ、それと」
竈の火に灰をかぶせながら、こともなげに付け足す。
「今日のあの子の泣き顔、ありゃあ、いいものを見た。あんたの四十年も、少しは報われたんじゃないのかい?」
そう言うと妻は先に寝間へ入ってしまった。竈の灰の下で、火だねが一つ、静かに息をしている。俺はその小さな赤い点を、しばらくひとりで眺めていた。