噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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16. 客人の家

 ヌケリアの水車の軸受けに、俺が最初の油を差してから、九年になる。

 

 あのころ、井戸の水一杯くれなかった街と、いまや月に幾度も荷が行き交う。ポンペイからは鉛と管と水道の手間、ヌケリアからは穀物と挽きたての粉。仲買を通していた取引は、いつからか、ムナティウスと俺が卓を挟んで直に決めるようになっていた。仏頂面は、九年経っても仏頂面のままである。ただ、その仏頂面が、俺の顔を見ると、渋々といった調子で酒を出すようになっている。

 

 七二年の夏、その男が、めずらしく改まった顔で切り出した。

 

「あんたとこと、うちとで、客人の家(ホスピティウム)を結びたい」

 

 客人の家。家と家とが交わす、古い誓いである。互いの街で困れば、互いの家がかばう。商いの約定より、一段深い。木の割符(わりふ)に双方の名を刻み、割って半分ずつを持つ。俺は、しばらく黙って、この仏頂面を見つめてしまう。

 

「……ポンペイの人間と、ですか?」

 

「ポンペイの、じゃねえ」ムナティウスは、ぶっきらぼうに言う。「あんたと、だ。勘違いするな」

 

 条項の読み合わせは、粉屋の奥の間で、昼をまたいでやった。穀物の値は秋の相場で。鉛は目方で。荷の遅れは互いに三日まで待つ。細かい取り決めを一つずつ読み上げ、うなずき合っていく。すべて読み終えたところで、俺は、一条だけ足させてもらった。

 

「――パンの注文が来たら、量を問わず、三日で焼く。理由は、問わない」

 

 ムナティウスの手が、止まる。

 

 量を問わず、というのが、どういう注文でありうるのか。三日、というのが、どれほどの窯の火なのか。粉屋なら、瞬時に算盤の立つ話である。男は長いこと、じっと俺の顔を見ていた。訊かれたら、答えられない。嘘をつかずに答える言葉を、俺はまだ持っていない。だが、ムナティウスは何も訊かず、やがて、割符に判を捺した。

 

「妙な一条だが……あんたの妙は、今に始まったことじゃねえ」

 

 それから、杯を交わす。粉屋の奥から出てきた、よく使い込まれた素焼きの杯に、双方の家の酒を注ぎ合って、ひと息に飲み干す。客人の家の杯、というやつである。割符が証文なら、杯は腹の約束だ。飲み干した杯の底に、濃い酒の色がうっすら残っていた。九年分の、と思うことにする。

 

 理由を問わない一条の理由を、この男は、問わなかった。それが、客人の家というものらしい。

 

 同じ年の十月、十度目の泉の祭が来る。

 

 十度目の節目に、行列は初めて、ヌケリアの市場まで、全行程八里を歩き通すことになった。歩き切ったのは二百人ばかり。短い道のりで戻る者は、例年どおり数千といる。敷石の道を、子供綱が行き、点呼の木札が鳴り、道の市が四里塚まで続く。そして八里の先では――ヌケリアの粉組合が、広場に炊き出しの竈を並べて待っていた。

 

 門をくぐるとき、俺は九年前を思い出す。ひとりで道具袋をかつぎ、冷たい目の中を歩いた門だ。今日は同じ門を、角笛と、二百の足音と一緒にくぐる。門柱の脇では、ヌケリアの子供らが、物珍しげに行列へ手を振っている。

 

 湯気の立つ粥。焼きたての丸パン。井戸の順番を仕切る、ヌケリアの女たち。

 

 九年前、俺の手から桶を引っ込めた街が、いま、俺の街の行列に、水を汲んでくれている。列の後ろで見ていた俺に、井戸端の女が、素焼きの椀を突き出した。どうぞ、も、何も言わない。ただ、突き出す。俺は頭を下げて、受け取って、ゆっくり飲んだ。

 

 ……よその街の水が、初めて、うまい。

 

「市が儲かるからな」と、ムナティウスは言い張っている。「うちの広場の売り上げ、祭りの日は月のひと山分だ。来年もやる。儲かるからだ。いいな、儲かるからだぞ」

 

「ええ。儲かるのは、いいことです」

 

 帰り道である。夕暮れの街道を、ムナティウスが四里塚まで送ると言って、並んで歩いた。刈り入れの済んだ畑から、乾いた藁の匂いが流れてくる。行列の足音は、ずっと前を行き、俺たちの周りには、二人分の足音だけが残っていた。

 

「なあ、水道屋」前を向いたまま、ムナティウスが言う。「九年、見てきたが、あんたは妙だ。道を敷き、甕を据え、祭りを太らせ、うちと杯を交わし……ひとつずつは、まっとうだ。だが、並べると、妙だ。あんた、何をそんなに待ってるんだ?」

 

 俺は、すぐには答えなかった。夕日が、ヴェスヴィオの稜線を、静かに縁取っている。穏やかで、なだらかで、火の気配のない線を。

 

「……順番です」

 

「順番?」

 

「順番が来たら、真っ先に、あんたに注文が行きます。……それだけの話です」

 

 ムナティウスは、ふん、と鼻を鳴らして、それきり黙った。四里塚で別れ、俺はひとり、暮れた道を歩く。懐の割符が、一歩ごとに、こと、こと、と胸を叩いてくる。

 

 夜道で、俺は指を折る。十七から数え始めた指が、今夜は、七つで止まった。

 

「……あと、七年」

 

 七年したら、この善き隣人に、俺は途方もない注文を出す。そのために、九年かけて油を差し、九年かけて杯まで来た。そう思うと、懐の割符が、少しだけ重い。重いのは、木の目方ではないのだ。

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