噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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17. 涸れ井戸の夏

 七四年の夏、雨が、来なかった。

 

 春の終わりに二度ばたついたきり、空は焼いた素焼きの色のまま、動かない。畑が割れ、サルノ川が痩せ、そして井戸が、一本ずつ細り始めた。十二年前の地震の断水を覚えている年寄りたちの顔に、あのときと同じ強張りが戻ってくる。水切れの怖さは、骨が覚えているのだ。

 

 俺は、水帳を抱えて参事会へ出向いた。

 

 卓に広げたのは、十二年分の水位の写しである。井戸八本、月ごとの高さを、線で結んである。旱魃の年が、過去にも二度あった。その二度で、どの井戸がどれだけ粘り、どの井戸から先に音を上げたか。線は、全部覚えている。十二年分の平年幅は、もう、ただの控えではない。どの井戸がいつまで保つかを言い当てる、物差しである。

 

「町方の二番と五番は、秋口まで保ちます。四番は、この月のうちに涸れる。山手の三本は浅いので当てにしない。分配槽の水は例年の七割――この数字で、夏を組みます」

 

 並べた線を、ポピディウスは長いこと眺めていた。それから、短く言う。

 

「組め。順番は、おまえが書け」

 

 配水の順番は、こう決めた。診療所と産屋が、まず先。次に辻の噴水、ただし朝と夕の二度に絞る。浴場は隔日。私邸の引き込みは、当分、細くする。ホルコニウスは案の定うなり声を上げたが、俺は先手を打った。

 

 朝の汲み時の辻には、十二年前と同じ光景が戻っている。暗いうちから並ぶ列、桶の縁の触れ合う音、そして列の頭で腕組みをするサルウィアである。桶は一人ひとつ、年寄りと身重を先へ――仕切りの声は、十二年経っても、少しも錆びていない。違うのは、母の脇に十になったユスタがくっついて、汲み終えた婆さんの桶を、家の戸口まで運んでやっていることだ。

 

「熱病の年の白湯の評判、お忘れですか。今度は『旱魃の夏に、街へ湯を譲った湯屋』です。ネアポリスまで聞こえますよ」

 

「……おまえは、わしの見栄の使い方を、わしより知っとる」

 

 月のうちに涸れる、と言った四番の井戸は、言った日の三日後に、底を見せる。秋口まで保つと言った二番は、秋口まで保った。読みが当たるたび、街の目が変わっていくのが、肌でわかる。桶を提げた女房たちが、水帳を抱えた俺とすれ違いざま、あの帳面は水の神様の帳面だ、と囁き合う。神様は、いささか買い被りである。あれはただ、十二年、毎日書いただけの帳面だ。だが、毎日書いただけの帳面が、旱魃の夏に、街をひと夏、静かに保たせた。売り惜しみも、水争いも、ついに一度も起きなかったのである。

 

 夏の盛りに、俺はもう一つ、仕掛けを打った。

 

 壁の袋、である。麻の置き袋に、水袋と、替えの履物と、松明と、小銭を幾らか。竈の横の釘に、掛けておく。中身は、俺が幾晩もかけて選んだ。水袋は革のひと袋、履物は麻紐で括った替えを一足、松明は短いのを一本、銭は渡し賃と一夜の宿代ほど。全部で、片手に提げられる目方に収める。両手の塞がった人間は、転ぶ。転べば、後ろが詰まる。……旱魃の水汲みの話をしているようで、頭の中で俺が測っているのは、いつも、別の夜道である。遠い辻まで水を汲みに歩く夏だ、履物は傷むし、暗いうちから並ぶなら松明も要る、表の理屈は、いくらでも立った。売るのは、サルウィアのパン屋の店先である。

 

「旱魃の年の縁起物だよ。竈の横に掛けときゃ、水難よけ。……ほら、赤い紐がついて、可愛いだろ」

 

 妻の売り文句は、俺の理屈より、よほど強い。袋は面白いように売れて、夏の終わりには、竈の横に赤い紐の袋の掛かった家を、路地のどこでも見かけるようになった。女房たちは知らない。その袋の中身が、水汲みの道具立てに見えて、そのまま、夜道を八里歩ける道具立てでもあることを。……知らないままで、いい。掛かってさえ、いれば。

 

 秋の初めの雨で、旱魃は明ける。

 

 参事会は、俺に礼を言い、それから妙な決議をひとつ通した。水帳の年次写しを、市の公文書庫に収める、というのである。言い出したのはポピディウスだ。おまえの帳面は、もう、おまえひとりの帳面ではない。市の帳面だ。だから写しは市が預かる――理屈は、そういうことらしい。個人の手控えが、公の書庫に入る。妙な出世をしたものだ、と俺は思う。悪い気は、しない。俺が倒れても、写しは残る。残るものが、また一つ増えた。

 

 礼を述べて、議場を出かけたときである。

 

 背中で、声がした。振り返ると、ポピディウスだけが、卓に頬杖をついたまま、こちらを見ている。

 

「で――山手の井戸だけ、なぜ毎年濁るのだ?」

 

 議場の空気が、一拍、止まる。

 

「……あれは、井戸の癖です」俺は、ゆっくり答える。「毎年二月に濁って、夏には澄む。先代の帳面の代から、ずっとです。癖と異常を見分けるのが、あの帳面の仕事でして」

 

 嘘は、ひとつもついていない。あれは癖だ。十二年かけて確かめた、正真正銘の癖である。だが――なぜ二月なのか、山の腹で何がどう巡って水を濁らせるのか、その先の答えを、俺は持っていない。持っているのは、もっと別の、たった一つの結末だけだ。

 

「癖、か」

 

 ポピディウスは、頬杖のまま、指で卓を二度、叩いた。目は、笑っていない。値踏みの目である。予算の絵図を検分するときの、あの目だ。

 

「まあ、いい。……おまえの帳面は、井戸の癖まで飼っておる、というわけだ。行け」

 

 石段を下りる俺の背中に、頬杖の視線が、いつまでも張り付いて離れなかった。見栄と実利の男は、匂いに、誰より鼻が利く。……この男が今日、俺の何を嗅ぎ取ったのか。それを知る日は、まだ、ずっと先である。

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