噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
七六年の春、俺は山腹の葡萄園を、ひと区画借りた。
ヴェスヴィオの南の裾、街から見上げる中腹に、葡萄の段々が這っている。借りたのは、その外れの、小さな泉のある一角だ。名目は、二つ。水源の見回りに小屋が要ること。それから、家で飲む葡萄酒を、自前で仕込むこと。
「あんたが道楽を覚えるとはね」サルウィアは、上機嫌で樽の算段を始めた。「いいよ、いいよ。四十過ぎの男の道楽が酒なら、上等の部類さ」
道楽の顔をした畑へ、俺は月に幾度も登る。
黒い土だ。掌に取ると、軽くて、温かくて、驚くほど肥えている。葡萄の若葉が風に鳴り、振り返れば、街の甍と、その向こうの海が光っている。この土の黒さが、どこから来たのか。この裾野の肥えの、元手が何なのか。知っているのは、たぶん、この畑で俺ひとりだ。山は、恵みの顔をして、そこにいる。恵みの顔しか、まだ、誰も見たことがない。
泉は、岩の割れ目から湧く、細い水である。
俺はその湧き口に石の桝を据え、内側に目盛りを刻んだ。水の嵩が、ひと目で読める。温みは、手首まで浸けて覚える。初めて浸けた日、俺は思わず、長いこと手を沈めていた。ぬるい。真冬の沢水が、人肌にわずかに足りぬほど、ぬるいのだ。山の腹の長い道のりを巡ってきた水だけが、この温みを持つ。この泉は、いわば山の手首である。指を当て続けていれば、脈の変わる日には、指のほうが先に気づく。そのための、桝と目盛りだ。それから、周りの草の枯れ具合、獣の道の変わり方、鳥の巣のかかり方。見るものを決めて、月に一度、書き付ける。受け持ちは、ケレルに割り振った。
「畑の見回り、ですか?」
「水源の見回りだ。ついでに葡萄の様子も見ろ。……いちばん上等の仕事だぞ。眺めがいい」
ケレルは、生真面目にうなずいて、翌月から、雨の日でも欠かさず登るようになる。
同じ年の秋、街のほうでは、俺の知らないうちに、妙なことが決まっていた。
世話役組の寄り合いが、世帯代表の輪番、というものを定めたのである。一戸から一人、五年に一度は、祭りの全行程八里を歩く。歩いた者には、道の市で使える木札を一枚。名目は、厄落としと、市の景気づけだ。言い出したのは組頭たちで、理屈はこうである。全行程を歩いた者は、道の市で大きく銭を使う。歩く者が回れば、市の実入りも回る。だから、回す。
「五年にいっぺん歩きゃ、厄も落ちる、市も潤う。悪い話が、どこにあるね?」
組頭の一人が
寄り合いの隅でそれを聞きながら、俺は幾度も、口を開きかける。
言いたいことなら、あった。順の組み方、名簿の持ち方、子連れの扱い。口を出せば、もっと上手く回る。……だが、そのたびに、俺は口を閉じた。俺が言えば、それは俺の決まりになる。俺の決まりは、俺が倒れた日に、一緒に倒れる。彼らが決めれば、それは街の決まりだ。街の決まりだけが、俺より長生きする。
だから俺は、最後まで黙って、決まったことを、あとから教えられる側にいた。教えられて、家に帰って、誰もいない工房で、少しだけ笑う。十三年前、四十人で歩いた道である。それがいま、俺の手の届かないところで、勝手に太っていく。……装置、という言葉が、前の世の口癖のように浮かんで、俺はそれを、水帳の言葉に言い直す。
――根が、張った。
秋には、最初のひと樽を仕込んだ。出来は、正直、売り物には遠い。それでもサルウィアは上機嫌で、夕餉の杯に注いでは、山の酒だ、と笑う。山の酒。……そのとおりだ。この山の恵みを、俺たちはいま、確かに飲んでいる。恵みと、それから――いや。今夜は、恵みだけでいい。
冬の初め、山の小屋の棚に、新しい綴りが加わる。
泉の嵩、温み、草の枯れ、獣の道。畑で書き溜めた書き付けを、一冊に綴じ直したものだ。表紙に、鉄筆で、太く一語。
――
水帳の綴りの隣に、それは、素知らぬ顔で並んでいる。ただの、見回りの控えとして。俺とこの棚しか、その一語の重さを知らない。
年の暮れ、小屋の掃除に登ったケレルが、棚の前で、ふと手を止める。
「親方。この綴り、なんで『MONS』って表紙なんです? 水の帳面でしょう?」
来たな、と思った。この生真面目な目は、いつか必ず、そこに気づく。俺は、炉の火に薪を一本足して、それから、静かに答える。
「おまえが年次の写しに、自分の名前で署名した日に、話す」
「……署名、ですか?」ケレルの喉が、こくりと動いた。「なら、明日にでも」
「早まるな。写しの署名ってのは、書いた中身の間違いごと、責めを負うって判だ。……もう少し、間違いを重ねてからでいい」
ケレルは、不服そうに、それでも黙って、綴りを棚に戻す。炉の火が、表紙の一語を、ちらちらと照らしている。
話す日を、俺は、自分から約束にした。約束にしなければ、俺は多分、いつまでも先延ばしにする。この重さを人に分けることが、俺にはまだ、少しだけ、怖いのだ。