噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
街の水が、辻の噴水だけになって、三日が過ぎた。
浴場は閉めたまま、私邸の引き込みも締めたきりだ。人々は朝な夕なに桶を提げ、辻へ列をなす。その列を、俺は毎朝、見に行くことにしていた。水の乱れより、列の乱れのほうが、先に
二番目に大きな辻では、
「そこ、割り込むんじゃないよ! 桶は一人ひとつだ。二つ提げてるそこのあんた、片方は隣の婆さんのだろう。だったら、婆さんを連れといで!」
声が、よく通る。朝の冷えた空気を、まっすぐ割って届く。名を、サルウィアといった。地震で竈が真っ二つに裂け、パンが焼けなくなって、商売あがったりになった女だ。夫を早くに亡くし、女ひとりで店を切り盛りしてきたという。その女が今、水汲みの列で、誰よりも役に立っている。仕事を失った手が、別の場所で、ちゃんと動いている。俺は、そういう手が嫌いではない。
「助かる」俺が声をかけると、彼女は腰に両手を当てて振り返った。日に灼けた頬に、粉の白さが、うっすら残っている。
「あんたが、噂の水道屋かい? だったら早いとこ、うちの竈の火より先に、この列をどうにかしとくれよ」
「善処します」
その日の昼、私邸に水を引く旦那衆が、連れ立って工房へ押しかけてきた。五人、いや六人。市の名士ばかりだ。うちの引き込みを、真っ先に開けろ、と口々に言う。参事会に顔が利くのは自分たちだ、と暗に匂わせながら。
俺は、卓に市の絵図を広げてみせた。井戸の位置、給水塔の高さ、管の細り具合。指で、水の流れる順を、上から下へ、なぞってやる。
「順番は、面子では決まりません。高さと、水の量で決まります。辻の噴水がいちばん低く、いちばん多くの喉が、そこに並ぶ。ですから、辻が先です。旦那方の池は、あと五日、待てます。人の喉は、待てません」
旦那衆は、鼻白んで顔を見合わせた。ひとりが、それでは示しがつかん、と食い下がる。俺は絵図を巻きながら、静かに付け足した。
「示しなら、つきますとも。旦那方が、いちばん最後に水を受けたと、街が知れば。……いちばん我慢した家が、いちばん敬われる。ローマってのは、そういう街でしょう?」
面子の街の、面子の使いどころだ。旦那衆は、苦い顔のまま、ぞろぞろと引き下がっていく。恨みは、買わない程度に。配水の順番は、銭ではなく、街の在り方で決める。それが、水を分ける者の
夜、工房に戻り、先代ウェッティウスの遺した帳面を、灯りの下で開いた。管の走り、弁の癖、修理の日付。几帳面な、少し右へ傾いだ字が、律儀に並んでいる。その真面目な文字の列の、ただ一箇所にだけ、走り書きが混じっていた。
――山手ノ井戸、二月ニ濁ル。
俺は、しばらくその一行から、目を離せずにいた。灯芯の炎が、ちりちりと小さく鳴っている。
先代も、見ていたのだ。何を見ていたのかまでは、わからない。ただ、山の手の井戸が、毎年きまって二月に濁ること。それを気に留めて、わざわざ書き残していたこと。老技師の目もまた、地面の下の何かを、名前もわからぬまま、感じ取っていたのかもしれない。四十年、水だけを見てきた男の勘だ。侮れない。
白紙の頁を繰り、俺は鉄筆を執った。市内の井戸、八本。その水位を、一本ずつ、丁寧に書き出していく。山手に三本、町方に五本。水の色。鼻を近づけて嗅いだ、匂い。それから、この三日で数えた、地面の揺れの回数を、五つひと組の縦の刻みで、脇に記す。
これは、維持管理の記録だ。ただの、水道番の帳面。それ以上の、何ものでもない。
――そういうことに、しておく。
鉄筆の先が、ろうを引いた板に、最初の一行を刻んだ。指先に、ろうの、かすかな抵抗が伝わってくる。この帳面が、いつか何に化けるのか、まだ誰も知らない。俺のほかは、この街の、誰ひとりとして。知らないでいてくれるほうが、いい。知られた瞬間に、俺はただの狂人になるのだから。
工房の窓から、二番目の辻が見える。日が落ちても、桶を提げた列は、なかなか途切れない。水を待つ人の背中は、みな同じ角度に丸まっている。渇いた街の、静かな辛抱の形だ。俺は、その背中の連なりを、しばらく眺めていた。この列を、十七年ののちには、まるきり別の方角へ――東の門の外へ、丸ごと歩かせなければならない。今はまだ、誰にも言えない。ただ、水を切らさないことで、信用を一枚ずつ、床下に貯めていく。逃げ道は、その信用の上にしか、敷けないからだ。